■フェイズ55「現代8・中華民国滅亡」

 第二次中華戦争は、他国の介入が行われても、すぐにも泥沼化の様相を見せていた。
 1956年夏の頃から、アメリカ軍などが多国籍軍(以後、反共軍)として国民党側に立って参戦すると、秋には主に北部の鉄道、橋梁などを爆撃で破壊し始めた。また港湾の破壊、海上封鎖も実施し、川船も沈めて回るようになった。
 少なくとも当面は大量の地上軍を投入できないアメリカ軍としては、最も効率的な戦争手段として相手の移動力を奪い、さらには補給能力、流通能力を奪おうとした。これがヨーロッパでの戦いで立証されていた戦略だった。
 しかも主戦場は温帯の農耕地帯であり、平野も多く森や林が比較的少ない地域が多いので、爆撃も比較的容易い地域だと考えられた。ただし、工業施設などの目立つ目標が酷く少ないため、取りあえず分かりやすい交通網の破壊から始めたのだった。

 この時アメリカは、戦後の中華地域のことをあまり考えていなかった。赤化を押しとどめることそのものが目的であったが、最終的には国民党による中華統一は不可能だろうと判断していたためだ。つまり中華地域への軍事介入は、共産主義が外に膨張する時間を遅らせるための予防戦争だったのだ。そして予防に最も効果的なのは「消毒」であり、消毒の手段こそが爆撃だったと言えるだろう。非常に恐ろしい選択だったが、悪魔的な合理性の賜物でもあった。そして周辺国は、誰も文句を言うことはなかった。共産主義、漢民族のどちらが広がるのも、誰もが嫌っていたからだ。
 なお爆撃機の出撃拠点として、政治的理由から当初は中華地域周辺部は可能な限り外されていた。戦火が飛び火する可能性を警戒していたからだ。
 満州、台湾、さらには朝鮮半島からも爆撃機が出撃する事はなかった。航続距離の長い重爆撃機は、もっぱら既に施設の整っていた日本本土の西部地域や、竜宮から強引に借り上げた琉球本島から出撃していった。海に隔てられた日本列島や琉球なら、戦争が飛び火する可能性が低いと判断されていたからだ。航続距離の短い小型機は、中華民国領内にも設けられた基地を当初は使用した。沖合には、急ぎ現役復帰してきた、アメリカ、竜宮、イギリスの空母が多数たむろするようにもなった。空母の多くは、第二次世界大戦末期に就役したか戦争に間に合わなかった艦艇で、近代改装が施されていたものが優先的に派遣されていた。どの空母もジェット戦闘機を搭載しており、ソ連に対するデモンストレーションの場であると同時に半ば兵器の実験場となっていた。
 また日本は、戦争には様々な理由があって加わらなかったが、軍備再建がアメリカ、竜宮の協力により進められた。記念艦状態の大型空母3隻が海軍工廠のドックに入り、装いを新たにするべく大改装が実施された。アメリカなどが中華の大地を荒っぽく耕すため、日本には可能な限り自分で立って歩いてもらわなくてはいけなかったからだった。ただ、日本海軍の空母《甲斐》が現役復帰と言う名の事実上の初の就役によって、日本は一時的に世界最大の空母を保有する結果になり、一事物議を醸し出すことになった。見た目は改装後の《ミッドウェー級》空母にそっくりだったが、原子力空母《エンタープライズ》就役までの数年間、世界最大の空母として君臨せざるを得なくなっていた。
 また反共十字軍は、ソ連に対してもかなりの気を遣った行動を取り、いまだ未知の兵器である核兵器の使用については、当初は考えられていなかった。かつての日本のように、カードを全て切って後が無くなることを警戒していたとも言えるだろう。
 ただしアイゼンハワー大統領率いるアメリカは、共産主義に対して妥協する気は一切無かった。アメリカでの動員が進んで兵力が揃うようになると、共産党軍に対する攻撃は苛烈となった。容赦なくナパームのような面制圧の兵器が大量に使用され、また最新兵器が惜しげもなく投入された。アメリカの戦費は鰻登りとなったが、最も安定した時期にあったアメリカにとっては、それほどの苦労もなく戦争を行うことができた。むしろアメリカは、中華での戦いを新兵器の実験場と、全ての人類に対してのアメリカ軍によるデモンストレーションの場と肯定的に捉えていたほどだった。
 赤いロシア人との競争だと考えれば、中華地域を一方的に叩く事は安上がりな宣伝だとすら当初は考えられていた。

 そしてアメリカ政府が楽観した通り、アメリカ軍以下の西側諸国連合軍の戦力は圧倒的だった。本格的に戦闘加入すると、沿岸部を中心にして一気に共産党軍を撃滅した。日常的に怪しげな地域ごと絨毯爆撃を実施するため、流石の人民解放軍も逃げ場がなかった。弾を撃つのも惜しんだ日本軍とは、次元が違う敵だった。
 しかもアメリカ軍は初期の失敗から、1人の人民解放軍兵士を見つけたらその辺り一帯ごと破壊することを通常ミッションに組み込むようになっていた。
 それでも国民党の敗勢が止まらないため、内陸部を中心にして人民解放軍の勢力が増大してくると、アメリカ政府は遂にいまだ未知の兵器だった原子爆弾の実戦使用にも踏み切る。そうしなければ、戦線が支えられない状況に陥っていたからだ。
 使用された核兵器は爆発威力50キロトンの小威力の戦略級原子爆弾数発で(※4発とされるが諸説あり)、一撃で共産党の補給拠点と地域司令部を殲滅し、戦線を一時的に安定させる効果を発揮した。落としたのは、亜音速を出すことの出来る新世代のジェット機型戦略爆撃機で、ロシア人に見せるため使ったという向きの方が強かった。空軍力のない人民軍相手ならば、極論B-29でも十分だったからだ。
 ようするにアメリカは、一度人間の上に核兵器を落としてみたかったのだ。
 使用した時は、アメリカ軍を始めほとんどの者が単なる「大きな爆弾」程度にしか考えなかった核兵器だったし、アメリカ軍はむしろ「手加減した」と考えていたほどだった。本気を出せば、100キロトン以上の核爆弾をもっと沢山使用しているからだ。実際、グァム島に待機しているB-47などは、開発されたばかりのメガトン級の水素爆弾を準備すらしていた。
 だが核兵器の使用こそが、アメリカにとっての最初の向かい風となった。
 共産党が破壊された場所、被爆者の写真や証拠を、ソ連を通じて世界に公表したからだ。
 そして核兵器の破壊力が確認されたのと同時に残虐性も分かったことで、アメリカ世論を始め西側世論の多くが核兵器の使用に対してナーバスとなった。単に都市を一撃で破壊するばかりでなく、人体に想像を絶するような障害を与えるような兵器を使用することを、安易に肯定することは出来なくなった。
 しかも単に残虐というだけでなく、ソ連が中華共産党に供与してアメリカでテロ的に使われる可能性が議論される事で、尚更核兵器は使えなくなっていった。要するに、核兵器が自分たちに使われることを市民達は恐れたのだ。

 以後核兵器が使用されることはなくなり、通常爆撃の強化と地上軍の大量投入によって共産党軍への攻撃が行われるようになった。そして地上部隊の大量投入が、次なる向かい風となった。
 世界最強のアメリカ軍は、沿岸部を中心に国民党軍のてこ入れを行い、沿岸部の都市からは人民解放軍の姿は消えた。紫禁城にも、青天白日旗と星条旗がはためいた。同時にアメリカは、大量の食料や物資を持ち込み、民心安定を図ろうとした。
 これに対して人民解放軍は、ゲリラ的攻撃を中心にした散発的戦闘しかしかけなかった。形としては、かつての日本軍に対する戦い方と少し似ているかもしれない。また国民党軍は、アメリカから委託された物資の配給で日常的に横流しや横領、ピンハネを行ったため、民意が国民党に向くことは殆どなかった。
 そしてアメリカ軍が、自らが破壊した鉄道を修理しつつ奥地へと進撃したが、奥地に続く補給線は常に破壊の脅威に脅かされ、道路では地雷などでの破壊工作が日常化した。そして通常の戦闘では傷一つつかなったアメリカ兵も、そうした日々の消耗で少なくない数が死傷した。
 そして決定的成果が得られない上に、地上部隊投入から半年もすると、最前線から中華民国の実状が見えてくる。
 一言で言えば、民心が国民党から完全に離れていた。
 このためアメリカが豊富な物資とドルを上海などの拠点から中華の大地に注ぎ込んでも、民衆は我先に物資とドルを奪うだけで、国民党を支援することもアメリカを支持することもなかった。民衆がアメリカに頼むことは、自分たちの国外脱出についてだけだった。北京、上海を始めとするアメリカの臨時領事館は、連日満員御礼状態だった。
 表面上の戦況は、反共軍の援軍と膨大な兵器、軍需物資の支援を受けた国民党軍が優勢となったが、既に国民党支配領域の殆どの農村部での支持が失われていた。アメリカの兵器が横流しや軍部隊ごと寝返って人民解放軍の手に渡り、アメリカの武器でアメリカ兵が多数死傷すると、アメリカ世論が大きく揺らぐ。
 そしてアメリカが国民党を支援し続ける事は、満州でのアメリカの支持すら失う可能性が出てくると考えられるまでになった。
 実際満州でも水面下の共産党の浸透が行われていたのだが、こちらは継続して堅実な行政が行われ戦災がないため大多数の者は共産党を悪と考えていたのだが、アメリカが焦りを強めさせるほど国民党は民衆からの支持を無くしていた。国民党幹部の一部は、アメリカ人の罵声に聞く耳を持たずに早々と国外逃亡を図る始末だった。
 少なくとも中華中央部で、自分たちに正義がない事は明らかだった。国民党は、近代的視野で見た場合は、蒋介石という独裁者を中心にした強権的で頑迷な全体主義政権でしかなかった。それ以前の問題として、近代的国家として見ること自体が間違っているほど古くさく、泥臭い政体でしかなかった。揶揄的に話を聞いたヨーロッパ人が、中世ヨーロッパ世界の事を話しているのかと勘違いしたほどだった。
 アメリカ軍など反共軍への民衆の支持もほんとどなく、取りあえず虐殺や搾取などをしないだけマシな存在という程度にしか見られなかった。もしくは、中華世界から脱出させてくれるかもしれない相手、ぐらいにしか見られなかった。扱いは、日中戦争中の日本軍以下だった。この事は、日中戦争の実体も知っていた竜宮軍が一番肌で感じる事であり、主導権を握るアメリカ軍に対して地上部隊の撤退と国境封鎖を再三再四申し出ていた。
 アメリカ軍も徐々に地上部隊の撤退が正しいことを理解するようになったが、海空軍の支援だけで国民党が勝てる見込みはなかった。国民党軍の部隊再編成は急ぎ行われていたが、基本的に兵士のやる気が低いため、共産党軍に対して有利に立てるとは考えられなかった。
 しかも共産党軍は、正面では人民解放軍が国民党軍を集中して攻撃し、国民党支配領域に浸透しているゲリラは、後方で待機、休養しているような反共軍を奇襲的に攻撃した。また農民のサボタージュなども積極的に指導しており、爆撃を受けない代わりにサボタージュとゲリラによって国民党支配領域内での交通網の混乱が日常的なものとなっていた。
 戦闘は完全に泥沼化し、反共軍も泥沼の中に全身を突っ込んだ状態だった。反共軍の爆撃も、半ばやけくそ気味で手当たり次第破壊するようになっていたほどだ。そうした状態を、ようやく第二次世界大戦で受けた戦災の復興が叶いつつあったソ連は遠くから笑って見つめ、そしてソ連が実行した一つの成果が中華情勢を次なる段階へと進めることになる。
 ソ連の手による、世界初のロケット打ち上げだ。

 1957年10月4日、ソ連は人類初の人工衛星である「スプートニク1号」の打ち上げに成功した。しかもソ連は、1957年8月21日にこれも世界初となる大陸間弾道ミサイル(ICBM)である「R-7(8K71)」を打ち上げた。これは「SS-6 Sapwood」としてNATO(北大西洋条約機構)に認知される弾道ミサイルだった。
 この事実が主にソ連から正式に公表されると、アメリカ世論は騒然となった。アメリカが共産主義の拡大阻止のために地上でのたうち回っている間に、敵の盟主であるソビエト連邦ロシアが直接アメリカ本土を攻撃できる手段を手に入れてしまったと受け止められたからだ。しかもソ連は、既に原子爆弾ばかりか新型でより強力な水素爆弾まで開発に成功しているとあっては尚更だった。
 実際ソ連の弾道弾(ロケット)は打ち上げに非常に手間の掛かるものであり、兵器としての実用性は低かった。また当時のアメリカ軍は、1000機以上の戦略爆撃機を保有しており、世界のどこでも爆撃することが可能だった。現時点でも、格攻撃用に準備するには余剰と判断された一部の眷属達が、中華の大地を我が物顔にほじくり返していた。
 また核兵器備蓄量でも圧倒的な差を付けていたので、アイゼンハワー大統領を始めアメリカ政府首脳部は全く問題視していなかった。戦前の日本と同じく、中華情勢をどうするかの方が彼らにとっては頭痛の種だった。
 しかしアメリカ国民は、中華情勢よりもソ連の弾道弾をはるかに重視し、祖国に自分たちも同じものを、相手が諦めるほど圧倒的に保有するべきだとした。
 そしてロケット打ち上げ、弾道弾の大量配備には莫大な予算が必要であり、中華地域で出口の見えない戦争などしている場合ではなかった。
 そして国民を黙らせるためと、科学技術面での競争に後れを取ったという国家の威信に関わる汚名をそそぐため、アメリカは中華情勢よりもロケット開発に予算と人材を投入する事を決める。

 この後アメリカ軍は、準動員状態にまで持ち込んでいた自国軍の中華地域からの段階的撤退を発表。一方では共産党支配領域での爆撃を強化し、共産党に交渉のテーブルに付くことを提案する。国民党は不利な戦闘が一時的にでも終わるなら何でもいいという状態であり、意見を聞くまでもなかった。うるさいのは蒋介石ただ一人でしかなかった。
 しかし中華共産党は、アメリカ軍を追い出す千載一遇のチャンスであるため、爆撃に耐えることを選んだ。
 そしてアメリカは、1958年になると露骨な動きに出る。
 中華北部の都市と目に付く軍事拠点とインフラをあらかた破壊し尽くしたので、これを以て所定の目的を達成したと発表したのだ。後は中華民国の国内問題であり、他国の軍隊は順次撤退することが決められた。実際共産党支配地域の経済と流通網は無茶苦茶と表現する以上の状況であり、近代的な文物はほとんど何も残っていなかった。先の大戦でドイツに対して行った事を何倍にも拡大して行ったのだから、当然と言えば当然の結果だった。爆弾投下量は、100万トンを優に越えると言われた。実際の数字は、今も明らかになっていない。
 ただし人民解放軍は、前近代的なままの農村部に拠点を置いているので、致命的打撃を受けるには至らなかった。各地も農村部での自給自足が基本なので、近代的な文物を破壊しても最低限のものは人海戦術で復旧できる旧来のインフラなので、とりあえずの運営が可能だった。この当時の中華地域は、鉄道など近代的文物が無くても何とかなる文明レベルにまで後退していたことが逆に幸いした形だった。
 アメリカ中枢部もそうした事はある程度知っていたが、全て無視して事態の解決を図った。持ってきた兵器の多くを国民党軍に渡すと、アメリカ兵はどんどん引き上げていった。反共十字軍に従事していた兵達は、アメリカ兵より早く居なくなった。
 その間人民解放軍も「死んだふり」をしてほんとど何もせず、浸透工作と軍や組織の再編成に力を入れた。一方の国民党及び国民党軍は、諸外国が逃げるように撤退していくにつれて士気を低下させ、蒋介石の絶叫だけが空しく響いた。

 そして1958年の秋に、再びパリでの話し合いが一応の決着を見ると、世界中の誰もが中華情勢よりも米ソの宇宙開発競争、ロケット開発競争に興味を向けるようになった。
 誰の上にでも強力な爆弾が降ってくる事の方が、「アジアの辺境」での戦いよりも遙かに重要だった。
 また米軍の撤退が簡単に進んだ背景には、ソ連の考え方と中華共産党の考え方が違うことを知ったからでもあった。ソ連が、中華全土が赤くなった方が中華地域といがみ合うと分かれば、むしろ国民党はアメリカにとって用済みですらあった。
 そうした考え方はアメリカの外交に露骨に現れ、二度目の停戦会議において遂に中華人民共和国が国際承認された事で、中華民国並びに国民党の命脈が決まったも同然だった。
 二つの中華の争いはその後若干の休戦期間を挟んで1959年に再び開始されたが、もはや西側諸国は表面上以上で国民党を支援しなくなったし、その国民党には正面から抵抗するだけの力は残っていなかった。荒廃しきった中華の大地では、蒋介石はもはや疫病神の代名詞でしかなかった。その蒋介石を支援する諸外国の軍隊の姿も既になく、それどころか国民党の支配領域には冒険的ジャーナリスト以外、一人の外国人もいなくなっていた。
 かくして1960年4月、中華民国は地図の上から消滅した。
 蒋介石は最後の拠点となった海南島で徹底抗戦を訴えたが、最早誰もその声をまともに聞く者はいなかった。
 蒋介石は中華民国そのものの亡命先として、依然として委任統治領扱いだった満州、台湾の譲渡をアメリカに要求したが、アメリカの返事は結論として「No」だった。
 その事は、1965年の満州合衆国、台湾共和国の独立という形で改めて表現された。また1962年には、東トルキスタンが共産主義国家として自立する事で、アメリカとソ連二つの超大国の中華地域でのパワーゲームが一段落したことを世界に印象づけた。

 なお1946年から約15年間の戦乱によって、中華地域は酷く荒廃した。世界的に見ても最も人口密度の高い地域で、主に国民党による殲滅戦や焦土戦術が繰り返された事から荒廃は特に酷く、主にアメリカ軍により爆撃によって北部(華北)は文明レベルでの壊滅的打撃を受けた。
 このことは中華経済に致命的な打撃となって現れただけでなく、人的資源にも大きな打撃となった。
 1930年代に満州を含めて5億人近かった総人口は、中華人民共和国が1962年に行った最初の統計で、3億人近くにまで減少するという、第二次世界大戦での全ての死者数を大きく上回る結果をもたらしたのだった。満州を差し引いた場合の人口減少でも、自然増加を差し引きすると1億5000万人近くに達する。国民党の戦術と、アメリカ軍によるインフラの徹底した破壊、そして戦乱と破壊に伴う飢饉、疫病がこの惨禍をもたらしたのだ。
 なお中華人民共和国は、当面は主義(イデオロギー)の関係でソ連との関係を重視するも、東トルキスタン問題や政治方針、主義、民族性など様々な違いから、赤いロシア人との関係は徐々に冷めていくことになる。
 一方の国民党は、金のある者、コネのある者はある程度脱出できたが、多くが共産党と民衆の復讐の餌食となった。その数は優に100万人を越えると考えられており、とにかく国民を食べさせるために行われた農地改革の中で粛正されていった地主を加えると、1000万人単位の者が直接的な粛正で犠牲になったと考えられている。当然ながら敗北に伴い国外脱出する者は後を絶たず、地続きのベトナム、すぐ向こうの台湾にボロ船で主に脱出を目指した。
 しかし建国間もないベトナム陸軍は、基本的に国境を封鎖して、武器を向けてまでして入れることはなかった。ベトナム人の多くは、日本敗北後の中華民国の委任統治時の記憶を強く持っていたからだ。それにベトナムでは、歴史的に漢民族を嫌っている風土も強く影響していた。ベトナムが多少なりとも受け入れたのは、隣接する地域に住んでいる漢族以外の少数民族だけだった。
 台湾を委任統治するアメリカ軍は、積極的な妨害こそしなかったが、敢えて助けることもなかった。また台湾の住人達が流れ着いた者をどうするかについては、ほぼ無関心を決め込んでいた。しかも台湾に逃げ出した時期が丁度嵐の多い時期だったため、多くの溺死体が各地の海岸に打ち上げられたと言われている。
 亡命者の中には蒋介石も含まれ、結局彼は中南米の中立国へと落ち延びて、さらに数十年間の憤怒と失意の後にこの世を去ることになった。
 そうして中華中央部は統一された。
 そして新たな状況の出現が、北東アジアに強い影響力を発揮する事になった。その中心となったのが、日本列島だった。



●フェイズ56「現代9・日本の復活と躍進」