■フェイズ56「現代9・日本の復活と躍進」

 この項では、日本について重点的に見ていきたい。

 1955年秋の第二次中華戦争勃発後の日本は、先の大戦での日本の状況を考慮して、多数の国が中華地域に派兵する中で、日本国内での後方支援以外での活動を国際社会から事実上禁じられていた。主権回復と共に軍の再編は進められたが、これは日本が独自で日本列島を防衛できるようにする為だけのものだった。
 しかし日本の地理条件、日本各地の高度な軍事施設は、この戦争では非常に有効だった。また中華地域の大軍を支える後方拠点、兵站拠点、兵站の供給先として日本列島の価値は計り知れなかった。同じ目的には満州、朝鮮半島も使えたが、どちらも高度な軍事施設と機械産業、そして高度な労働力そのものの欠如のため有効ではなかった。また満州は必要以上にソ連を刺激できないし、戦争が飛び火する可能性が高かったため、限定目的以上に使うことが政治上で難しかった。ソ連と国境を接するという点と現地政府の性質から、韓国を基地として利用することも難しかった。台湾についても同様だ。
 また日本以上に近代産業の揃っていた竜宮本土は、北アメリカ大陸からの中継点としてはともかく、中華大陸に対する兵站拠点としては少し遠かった。物資の供給先としても、日本の方が近い上に労働コストが安かった。
 かくして日本では、空前の戦争特需が発生した。
 ただしそれまで日本は、敗戦後から続く停滞に喘いでいた。

 日本は、先の大戦では機雷封鎖と通商破壊によって国家経済は破綻寸前にまで追いやられたが、一部の工場と首都東京の一部を除いてドイツのような無差別爆撃を受けることはなかった。唯一の陸戦が行われた台湾と油田のある北樺太の被害は大きかったが、戦争が終わればどちらも日本の主権が及ばない場所になっていた。
 日本本土は、社会資本面でほぼ完全に保持されたまま戦争に敗れ、産業拠点も開店休業ながらほぼ無傷だった。機雷により廃港とされた日本全土の港も、連合軍の命令もあって急ぎ旧日本海軍による命がけの掃海が行われて急速に稼働状態に戻されていった。おかげで日本海軍の掃海部隊は、沿岸掃海、海峡掃海では世界最高の技術と水準を有する事になったほどだった。
 また敗戦によって、植民地と本土外郭地の主権を全て失ったとはいえ、その全てにはアメリカ、竜宮が入ったので最低限の貿易による各地との流通網は維持されていた。敗戦の年の秋には、満州、朝鮮各地の港に積み上げられた大量の穀物が、GHQの命令と買い上げで日本に運び込まれたりもした。
 上記のようにして、当面の問題である食糧不足と飢饉に対する警戒も、流通の復活とアメリカ、竜宮からの援助によって回避することができた。都市が無差別爆撃などで破壊されなかったため、住民の居住空間など食べる以外も最低限は維持されたままだった。
 その中での大きな問題は、各地から復員してくる大量の動員解除後の元兵士達と、日本人の帰国による人口増加だった。だがそれも、満州からの帰国事業が意図的に遅らされたため、約100万人分の負担が軽減していた。
 しかし戦後の日本は、経済的混乱が避けられたなかった。
 原因は沢山ある。日本自身では、長い戦争で積み上げられた膨大な国家債務と、軍需に特化しすぎた産業構造が一番の原因だった。その上で連合国が、日本の間接統治の中で民主化政策を行ったのだが、彼らの行った経済政策の多くは無理矢理日本の産業構造を大きく変更し、アメリカに準じたものに組み替えるものだった。しかもGHQに紛れ込んだニューディーラーが、理想主義と社会主義に偏りすぎた政策の数々を行おうとして排除された事が、特に占領統治初期に日本経済を一層混乱させた。ニューディーラーがそのまま残って日本を弄り回すよりは遙かにマシだったが、やはり混乱は避けられなかった。
 それでも戦争が終わったことと、民主化による自由を得た事で日本人全体の雰囲気は上向き、復興と再建に向けて緩やかに進んでいくことになる。
 また日本に復員したり強制帰国を余儀なくされた大量の人口は、安価な労働力として活用できることを意味しており、新興国としてやっていかねばならない日本としては、長期的視野で見た場合の経済的損失よりも恩恵の方が多かった。

 占領統治から独立復帰後も、1930年代半ばから続く軍需と支那(中華)市場に頼った経済構造からの脱却と再編成は困難であり、また占領中のGHQによる統制が経済を混乱させた。だが、世界情勢、北東アジア情勢の悪化が、日本に良い風向きを与える。
 北東アジアでの共産主義の防波堤として、日本列島が軸となり始めたからだった。と言うよりも、もともと戦争前に日本が行っていた事をアメリカなどが踏襲したので、日本列島が重心になるのは自然な流れであった。そしてアメリカも、自らのために日本の復活、日本経済の再建に積極的とならざるをえず、軍需工場の解体などの行いを途中で止め、日本を国際貿易の枠組みに戻すことになった。
 ただし敗戦に伴う日本経済の混乱の結果、1ドル=90円の固定相場とするまでに「円」の価値下落を見ることになった。1930年代が1ドル=3〜4円だった事を考えると、どれほど日本経済が戦争と敗戦で打撃を受けたかが分かるだろう。
 それでも1949年に一応の経済安定を見たし、主権回復に伴う軍の再建と並行するように、経済の復興は順調に進んだ。極度のインフレで国民全てが貧乏になったおかげで、国が抱えた借金(戦費)は半ば紙くず同然に変えることもできた。それでも第一次世界大戦後のドイツのようなハイパーインフレにならなかったのだから、日本はアメリカや竜宮に一定の感謝をするべきだろう。ヨーロッパのように余裕のない国々ではなく、近隣の勝者がゆとりを持っていたからこそ、日本の戦後復興は極端な落ち込みを見せなかったのだ。
 それに主権回復によって国民全体の上向きの機運もでき、独立景気と呼ばれることもあったし、通常の経済の復興と拡大の成果によって1953年には1934年〜36年頃の経済水準にまで回復した。1934年〜36年頃というのは、戦前と言われる時代で最も経済が安定していた頃の事を指すので、戦前経済への復帰と言われる。しかし逆の見方をすれば、日本は約20年の時間を経済発展という面で失った事になる。この経済の浮き沈みが、別の面で日本での人口拡大という副産物を産むことになる。人口拡大が一度ピークに達して停滞する直前に敗戦による困窮でもう一度同じ事をしなければならなくなったため、日本人の増加は経済発展の中にあっても大きな上昇曲線を描いたのだ。
 だが、戦後の日本経済は、苦戦を強いられた。ドイツのような高い水準での好景気に向けての決定的要素に乏しく、好景気の切っ掛けとなるには起爆剤としての要素が乏しかった。
 アメリカ、竜宮を通じた国際貿易の中で相応の復興と発展は進んだが、西ドイツのような奇跡と言えるほどのものではなかった。しかも北東アジアに近い竜宮の存在が、日本経済の受け皿となると同時に、近代産業の需要拡大を阻んでもいた。それは竜宮が、ヨーロッパ先進国に近いほどの工業水準を持っていたからで、だからこそ日本との関連性も強まった。日本が一部期待した満州に対する需要でも、まずは竜宮などがその需要を持っていってしまい、敗者である日本が文句を言うことは完全なタブーだった。
 しかし中華戦争での戦争特需で全てが変化する。

 特需の発生は、1956年の夏頃に始まった。
 需要の中心は、主にアメリカ軍が求める軍事に関連する産業だぅたが、機械、鉄鋼、輸送などに最初に波及した次にサービス業など様々な関連産業に爆発的に連鎖していった。しかも戦後から続いていた経済改革や国際貿易の活発化への努力、主にアメリカから導入していた品質の向上、製品の均一化、生産管理、能率化など日本に欠けていた考え方の導入、そして新規工作機械の購入など新たな投資が結びつき、一気に日本全土に波及していった。日本に残された戦前の機械では到底生産が追いつかないし品質も満たせないため、アメリカや竜宮から大量の工作機械が導入され、工場群は心機一転言える勢いで息を吹き返していった。
 しかも戦争特需は以後3年近く続き、特需がもたらした大量の外貨が日本全土の産業を活性化させ、日本人の意気を一気に上向かせた。
 戦後も、そのままアメリカの生産業の海外依存の高まりを受けて、労働コスト、円=ドル交換レートの安さを利用して、長期的な景気拡大に突入していった。
 日本経済は、戦争の敗北から十年で、見事に復活から躍進に向けての飛躍を開始したのだった。
 「高度経済成長」と言われた1956年から1973年の間に、日本経済は実質において8倍近い成長を遂げることができた。これは名目、実質双方のGNP同様であり、1968年にはGNPが西ドイツを抜いてアメリカに次ぐ世界第二位に一気に躍り出た。総人口も1966年に一億人を越えた。
 日本の躍進と台頭は、1957年に1964年のオリンピック招致を東京に決めた事で決定的となった。これはアジアで初めてのオリンピックで(※地理上で、竜宮諸島はポリネシアに含まれる)、日本の発展と国威発揚には大きな効果があった。
 1964年の東京オリンピック開催、1970年の大阪万国博覧会の開催が日本躍進の一つのピークとなった。
 そして経済と国力の急速な拡大に伴い、国威の復活と拡大も進んだ。
 領土に関しても、アメリカからは主権回復した1949年に奄美大島などの南西諸島などがまず返還され、1968年には小笠原諸島なども返還された。竜宮が委任統治していた樺太島と千島列島南部に関しては、千島列島は主権回復年の1949年に返還されたが、日本の国防力の低さから樺太島の返還は1972年にまでずれ込んだ。これは樺太島が、極東共和国といういまだ政治的に微妙な国家の対岸に位置しているからで、戦後の日本は極力国防に金をかけない体制で国家運営を行っているからだった。
 ただし日本の軍事力復活も、経済と国力の拡大と共に順調に進んだ。

 日本の主権回復時、国防省を頂点とした陸海空の三軍が組織された。その後は周辺に仮想敵となる国と直接境界線を接していないため、軍の整備は必要最小限に止められていた。
 アメリカや周辺国が日本の軍事力復活を警戒していた事、日本政府の政治家のかなりが低軍備で良いと判断していた事、日本の中枢が小さい軍備を望んでいた事、日本人の一部に反軍的考えが強かった事も、日本軍の拡大を止める大きな要素となっていた。連合軍から大量の旧日本海軍艦艇の返還を受けていたが、財政的問題もあって殆どが活動状態になかった。モスボールされたまま退役した旧海軍の艦艇もあったほどだった。
 しかし中華地域で共産党が勢力を拡大すると、アメリカなどは手のひらを返したように日本軍の拡大を求めるようになった。
 日本軍は、第二次中華戦争になると順調に拡大するようになり、共産主義を掲げる中華人民共和国が中華大陸中央部を制覇すると、日本軍の復活は一層肯定的に見られるようになった。
 隣国の韓国は酷く反対したりもしたが、韓国と日本は1961年の韓国の軍事クーデターで国交が再び断絶していたため、日本ではむしろ韓国軍の事も考慮して軍備増強が進んだほどだった。滅亡寸前だった頃の中華民国は、過去のことを忘れたかのように日本軍の援助を求めたりもした。
 日本海軍を酷く警戒していたアメリカなど環太平洋の国々も、1960年代になると日本に自らの空母新造すら提案するほどになる。もっとも、まだ新造するほどの金のない日本は、戦後十年を以上を経ても保管状態とされていた空母《甲斐》《海鳳》《瑞鶴》の徹底した近代改装(※ジェット戦闘機運用可能)で戦力整備を行うことになり、それまで活動していた旧海軍時代の中型空母と順次交換していった。空母《甲斐》の見かけなどは、同時期のアメリカの大型空母《ハワイ》と大差ないほどだった。同空母は、その後も近代改装を繰り返し、艦尾延長、バルジ装着など飛行甲板の肥大化に対応するように改装され、最終的な満載排水量は9万トン近くにまで増大した。このため21世紀初頭の時点でも、日本海軍が保有した最大級の艦だった。
 ただし、いまだ各地に保管艦状態で係留されたままだった《大和級》戦艦3隻については、使うアテもないのでアメリカのようなより厳重な封印を施す状態への移行が図られた。退役や解体しなかったのは、日本人の中に経済成長で軍事予算に余裕が出るいつの日にか、巨大戦艦を復活させたいという思惑、いや願望があったからだ。第二次中華戦争のような事態が起きれば、必要となる場ができるかもしれないからというのは、表向きの口実に過ぎない。ただし、有用であるという面も事実であり、第二次中華戦争の頃、アメリカ軍が日本に戦艦のレンタルが出来ないかと話しを持ちかけていた時期があった。何しろアメリカの戦艦は、先の戦争で日本がほとんど沈めていた。
 そうした中で日本海軍が戦艦ではなく空母を重視したのは、中華地域での混乱に対してパワープロジェクションや実際の戦力投入が行いやすく、柔軟な運用が可能だったからだった。そして何より日本独自のシーレーン防衛のためには、空母は出来る限り整備しておくべき装備だった。最初の軍拡期に選ばれた3隻という数字も、常に1隻を洋上に配備しておける点から選ばれた数字だった。戦艦は、国民と諸外国双方への宣伝と見た目の力強さとしては申し分ないが、現実問題戦闘兵器として使うにはコストが悪すぎた。
 そうして、アメリカ、竜宮共に満州を軸とした北東アジアの防衛のために、高い柔軟性と展開能力を持った日本軍という存在に大きな比重を置くようになっていった。特にアメリカ軍は、満州、台湾の保持のために大量の陸軍、空軍を現地に駐留させ続けねばならず、平時の海軍は出来る限り日本もしくは竜宮に負担させる事で自らの負担軽減を計っていた。

 ただし1970年代までの北東アジア防衛の中心は、国連常任理事国でもある竜宮だった。1950年代から60年代の竜宮海軍は当時のイギリス海軍に匹敵する規模と戦力を有しており、この頃の日本海軍はまだ補助的な役割しか求められていなかった。このため大改装した空母も、最も大型の《甲斐》が当時最新鋭の「F4(ファントム)」戦闘機の運用能力を持った他は、やや旧式の軽攻撃機をある程度搭載するも、主力は多数の対潜哨戒機と対潜ヘリコプターだった。
 そして空母に代表されるように、戦後日本軍の中心は海軍に置かれた。陸軍は防衛陸軍と規定され、規模も予算も極めて限られていた。陸軍がある程度拡大するのは、近隣諸国の警戒の目が緩み、日本が満州、極東共和国の防衛を負担するようになってからの事になる。それまで陸軍は、防衛陸軍としてこれ以上ないぐらい制限された編成を取り、周辺国に非常に気を遣った。空軍も防衛軍としての性格が極めて強く、初期は東シナ海防衛に中心が置かれ、後に陸軍と同じく満州、極東共和国に駐留するようになる。 そして常に軍事予算の7割近くを消費し続けたのが海軍だった。
 戦後の日本軍は、海外遠征や出兵は憲法でも否定されていたが、東アジア条約機構の中での役割を果たさねばならず、当面はそれが海軍に求められた。空母を持ち続けたのもそのためだった。
 そして日本経済の発展と共に軍事予算も大幅に増額されていき、後にGDPの1.5%程度が日本での暗黙の防衛予算枠になっていく。先進国一般での対GDP比が2〜3%程度が平均なので、日本の国防費は最低ラインすら維持していなかった事になる。
 一見少ない数字なのだが、世界第二位の経済大国となって以後は、この数字でもそれなりに大きい数字だった。実際日本軍は、1980年代に入るとアメリカ、ソ連に次ぐ年間軍事予算を消費する軍隊となり、北東アジア防衛に積極的な役割を果たしていく事になる。
 この象徴が、またも空母だった。
 旧海軍艦艇を改装した空母の寿命は10年から15年程度なので、その次の空母を国産で建造する事になったのだが、この規模がアメリカの次に巨大な満載排水量6万トンクラスの大型空母となった。技術の多くはアメリカと竜宮から同盟国価格ながら有償で購入し、当初はアメリカ軍と同じ艦載機を搭載した。
 なお、ほぼ同じ型の空母を竜宮と共同設計で建造しており、空母が就役する1970年代の北東アジアの安全保障体制を非常に分かりやすく説明するキーワードとなった。
 しかも1970年代以後の日本海軍は、豊富な予算によって原子力潜水艦にも手を付けるにまで躍進する。
 それは北東アジア情勢の大きな変化であり、国際的枠組みを考え直さねばならない、物理的な象徴の一つであった。


●フェイズ57「現代10・冷戦時代最盛期の中の竜宮」