■フェイズ57「現代10・冷戦時代最盛期の中の竜宮」

  1957年の竜宮連合王国成立と1960年の中華人民共和国誕生、前後した日本経済の躍進は、北東アジア情勢に大きな変化をもたらした。一方では、世界情勢にも大きな変化が見られた。
 1956年の第二次中東戦争によるイギリス、フランスの没落加速、1958年の「ヨーロッパ経済共同体(EEC)」発足による西ヨーロッパの団結、1960年の「アフリカの年」と呼ばれる植民地からの独立である。
 そしてこの中での二つの大きな潮流が、「東西冷戦構造」というイデオロギー(思想)の違いが原因とされる対立構造の激化と、第三世界と呼ばれる新たな国家群の誕生であった。
 そして一つの分岐点となったのが、1962年10月に発生した「キューバ危機」だった。
 しかし以後のアメリカは、若干の停滞期に入る。経済、国力共に依然として圧倒的で好調だったのだが、1963年に起きた牧師マーティン・ルーサー・キングの演説による「私には夢がある」でクローズアップされる黒人(有色人種)差別問題と大統領ケネディ大統領暗殺による暗部の露出が、アメリカの繁栄に影をもたらした。
 そしてアメリカは、黒人を始めとする有色人種差別問題を解消し、尚かつ国内の人材活用を計るための根本的な変化を行うべく、制度、習慣、国民の意識などの改革のため、経済、国庫の面で大きな負担を強いられる事になった。その一方では、大衆の前での大統領の暗殺という驚天動地の事件によって、アメリカ国民の意識が心理面で下向きなものとなっていった。経済、軍事、外交、どれも順調な筈なのだが、もはや1950年代のような黄金時代が過ぎ去った事を、アメリカ国民の多くは何となく肌で実感するようになっていたのだろう。
 一方のソビエト連邦は、1964年にブレジネフ書記長が就任したのだが、彼の時代は停滞の時代と呼ばれることもあるように、目立った行動がほとんどなかった。最も派手な行動が、先代書記長のフルシチョフの失脚だったと言われたほどだった。
 そしてこれは、ソ連経済つまり社会主義経済、社会主義社会の悪弊がもたらした害悪の結果だった。ソ連自身もアメリカの間にそれぞれ挟まった西ヨーロッパと北東アジアの発展を見る事で、それを実感するようになっていく時間だったと言われている。
 また一方では、アフリカを中心に多数の国がヨーロッパ諸国から独立を果たしたが、国の数に頼んだ場合以外ではまだまだ力は限られていた。
 そうした中で注目されるようになったのが、やはり西ヨーロッパと北東アジアの発展と国家連合化に向けた動きだろう。そしてヨーロッパは四半世紀前までは強大な力を誇っていたので、注目されるべきは北東アジアといえるだろう。
 1960年代の北東アジアで最も活動的だったのは、日本と竜宮だった。日本は、先にも挙げたように経済の躍進によって、世界第二位の経済力を持つ国家として急速に浮上しつつあった。国威も大きく上向いていた。一方の竜宮は、1957年の国家再編成を経て行われた国策の変更もあって、総体としての経済面以外では日本より一歩先を進む形での経済、技術発展が見られていた。
 しかし竜宮が行うべきは、連合国主要戦勝国、国連常任理事国としての地位を維持することだった。そうした中で注目されたのが、最も効率的な戦略兵器である核兵器だった。

 核兵器は、原子爆弾(原子核分裂爆弾)という形で1945年にアメリカが初めて開発し、1949年にソビエト連邦が、1952年にイギリスが続いた。1953年には、アメリカの手によってより強力な水素爆弾が開発された。実戦使用も第二次中華戦争中の1956年に何度か行われて、破壊力の大きさ、影響力の大きさ、そして非人道性は既に実証済みだった。
 そして核兵器とは、一旦開発できてしまえば、戦略的要素から見た場合は「安上がりな兵器」になる要素を持っていると考えられた。そして世界戦略的な影響力が1962年のキューバ危機で示されると、竜宮国内でも核兵器の開発と保有は完全に肯定的に見られるようになっていた。連合国家成立以後の国威の向上を求める竜宮国民にとって、竜宮が大国としての地位を得る事は非常に重要な案件だった。
 竜宮王国での核兵器保有に向けての動きが本格化したのは、連合王国に国号を変更してからとなった。
 しかし軍部や政治家達は、ずっと以前から核兵器に注目していた。開発の準備段階も、1950年代に入った時点で既に本格化していた。開発の基礎は第二次世界大戦中にまで遡り、国家分裂頃には軍事政権で研究と開発が長足の進歩を遂げていた。竜宮各地の大学や研究所などでは盛んに研究や開発が行われ、大戦中にシンクロトロンなども独自に開発されていた。大戦中の国家統合後も研究と開発は続けられ、終戦後はドイツ、日本での進駐の際に技術を奪うことも行われた。世界中から科学者、技術者を集めることも熱心に行われている。
 また竜宮の新竜領内には一定規模のウラン鉱山も発見されており、他国から輸入しなくても材料の自力での獲得が可能であった。
 物理学、工業技術、資金、様々な面でアメリカ、ソ連、イギリスに比べて劣る点は多かったが、本来ならもう少し早く開発できる筈だった。
 しかし戦後は、国家としての戦略性の欠如から研究費、開発費の低迷が続き、一挙に解消されたのが連合王国成立後の事だった。
 そして基礎面での開発を既に終えていたのでその後は早く、フランスよりも少しだけ早い1961年の夏に最初の核実験に成功した。竜宮は、世界で四番目の核兵器保有国となったのだ。
 またこの前後には、アメリカとソ連が世界中の核拡散を警戒した行動を行ったため、竜宮とアメリカの関係はかなり緊張を強いられるようになった。当然ながら、ソ連との関係も悪化した。
 一方では、竜宮と同じような立ち位置にいたド・ゴール大統領による第五共和制下あったフランスとの関係が進み、竜宮とフランスはド・ゴール政権の間は強い協力関係を結ぶことになる。
 ただし1962年10月にキューバ危機があったため、既に準備が進んでいた水爆実験は政治的要素で延期され、1963年の秋に行われることになる。そして最初の実験は各国に通達され、新竜王国のトナカイすら住まない名もない辺境で水爆実験が実行された。

 一方核兵器の運搬手段だが、竜宮は第二次世界大戦の時点でアメリカから大量の重爆撃機を購入もしくは貸与を受け、自力でも大型航空機を作る能力を何とか持っていた。しかも竜宮は、広い国土を円滑に結ぶという目的のために、長距離航空機の開発は熱心だった。大戦前にドイツから多数購入した飛行船も、主にユダヤ人から非難を受けつつ1950年代まで改良を施しつつ運用された。ヘリウムを浮力とする後継機(船)も建造され続けており、ある面での竜宮を象徴する乗り物となっていた。また、当時の飛行船のうち1隻が竜宮王立博物館に、さらに他2隻がアメリカ、イギリスの博物館に売却保存されている。
 ただし核兵器の運搬手段は、長足の進歩を遂げた大型爆撃機とされ、国産の機体が多額の予算を投じて建造された。しかも空軍が予算及び発言権を得るために戦略爆撃機の開発に熱心であり、国民からの支持もあって国力を越えるほどの予算が航空宇宙関連予算に投入されることになった。でなければ、竜宮程度の国家規模で戦略爆撃機を自力開発する事は難しかっただろう。イギリスがその好例といえる。
 このため1960年に登場したジェット戦略爆撃機《鋭天》は、冷戦時代の大艦巨砲主義や予算の無駄遣いの象徴と言われる事も多い。亜音速で成層圏を飛んで地球を一周でき、そのうえ爆弾積載量はアメリカのB-52を抜いて世界一という巨体は、国家規模を考えればあまりにも不釣り合いだった。「空中戦艦」という誇大妄想的なあだ名で呼ばれたことでも、その度合いが分かるだろう。製造数も、当初竜宮空軍は300機程度の整備を目指したが、結局予算削減などを受けてあしかけ15年間で補充や訓練機、派生機を含めても総数126機に止まっている。派生技術を使った大型旅客機《鵬翼》の方が、世界的には余程名が知られているほどだった。
 しかしプロトタイプの飛行から半世紀以上経過した21世紀初頭でも、いまだ改良しつつ運用されていることを思えば、十分な戦略的価値と費用対効果を果たしたと言えるだろう。
 《鋭天》配備は、主にアラスカなど人口密度の低い辺境に行われた。国際関係でもアメリカとの軍事的連携を取り戻し、北東アジア諸国とも連携してソ連を東側包囲する重要な位置に立つことが出来るようになった。
 竜宮が戦略的核兵器を持つことによる効果をアメリカ、ソ連も無視する事はできず、竜宮の国際政治上での戦略的価値は非常に高いものとなった。
 ただし竜宮は、主に軍事費の問題から米ソのように大量の核兵器を保有するわけではなく、その数と戦力は常に限定的とされた。この点でもフランスやイギリスに近いと言えるだろう。このため一部の軍事評論家の間では、竜宮の核兵器保有について政治の道具にしすぎて軍事的には非常に危険だなどという批判もあった。実際の核戦争になった場合の危険性に対する指摘も多くあったが、結局のところは限定された核兵器の存在は、竜宮を大国、国連常任理事国として地位を守るため大きな役割を果たすことになる。軍事としての懸念よりも、政治としての効果が勝ったと言うべきだろうか。
 核兵器の主な運搬手段も、1970年代後半には戦略原子力戦略潜水艦に移行し、発射装置も潜水艦発射型長距離弾道弾が主流となった。アメリカから技術を導入して、攻撃型と呼ばれる戦術型の原子力潜水艦も整備されるようになった。これらの兵器はイギリスやフランスと似ていたが、空母の保有と共に竜宮にとって非常に重要な戦略的価値を持つようになる。
 その後さらに長距離巡航ミサイルも加わり、本国の小さい竜宮の国状と国家予算規模に応じた核兵器の整備に力が入れられ続けることになる。
 しかし竜宮が大国としての地位を維持するためには、先端軍事力だけでは不足が目立つようになっていった。そうした中で1960年代に入ると、新たな国策が示されるようになる。

 国家再編後の竜宮の新たな国策は、「科学技術立国」だった。
 もともと竜宮は、1840年代から産業革命が始まり、第二次産業革命も1890年代に無理なく行われた。欧米諸国の圧迫の中でも発展の努力は続けられ、20世紀の前半期の全般に渡って欧米先進国に匹敵する唯一の先進工業国の一角を占めていた。
 しかし二度目の世界大戦では国家分裂の影響で半ばつまづき、戦災と戦費の克服と戦後不況からの脱却にも大きな努力が必要だった。そして西ヨーロッパよりも経済復興が遅かった理由の一つが、孤立した地理的環境にあった。
 本国が北太平洋の真ん中にポツンと存在している事は、他国と連動した経済発展が極めて行いにくい事を意味していた。しかも比較的近い北東アジア地域は、世界大戦による破壊とその後続いた戦乱によって経済的価値が大きく下がっていた。領土的に最も広い北米大陸北西部地域も、巨大なアメリカから見るとアメリカの当時の中心地達である東部、五大湖沿岸からは、ヨーロッパよりも感覚的には遠いぐらいだった。当時はまだカリフォルニアがそれほど発展していなかったし、カナダ中央部の開発も限定的だったため、連動することは難しかった。車で行けるのがせめてもの救い、という程度だった。
 しかし1960年代に入ると、追い風は竜宮に向いてくるようになる。
 世界大戦での日本の敗北と再編成、そして冷戦構造と中華地域の混乱と分裂によって、北東アジア地域には多数の独立国家が誕生したからだった。しかも日本以外は近代産業に欠けている面が多く、またソ連や中華地域からの軍事的圧力と脅威に苦しんでいた。しかも日本の再軍備も、敗戦の後遺症から武器開発の面を中心にして低調だった。特に武器輸出は、自ら選んだ自粛という驚くべき政治状況によってほとんど行われていなかった。
 これは東アジアに巨大な兵器需要が存在する事を意味しており、近在の竜宮にとっては大きな経済効果をもたらすことになる。同時に、一定の軍事力を持つ竜宮自身の国家的価値も向上し、核兵器の保有も重なって東アジアの盟主としての政治的地位を確保するまでに至る。
 しかし竜宮自身は、人口規模の点などから本当の大国と呼ぶには不足する面も大きく、世界大戦から四半世紀ほどは帰化を前提とした移民を、主に新竜王国を中心に積極的に受け入れていた。一方では、ブルネイ地域の独立はマイナス面よりもプラス面の方が多かった。国防負担が大きく軽減した事と、石油や天然ガスがあるとはいえ、ブルネイ全体の低い経済力は竜宮全体の国力を圧迫していたからだった。古くからの日系移民により多少開発されようとも、森の人が住む世界屈指の大密林を誇る巨大な島は、20世紀的な発展を行うには相応しい場所ではなかった。
 そして竜宮自身が、今後も自らの発展を継続し大国としての地位を維持するために選んだ国策が「科学技術立国」だった。
 科学技術開発、教育分野に多数の資金と人材を投入し、優遇制度を設けて外資を呼び込み、厚遇することにより世界中から科学者や技術者を呼ぶ政策が熱心に行われるようになった。大学への研究費も大幅に増額され、富裕層や企業では学術機関への寄付が一般的なものとなった。国内には税制面などを施した特区も設けられた。
 竜宮の政策は、冷戦構造の中でアメリカからも表面的には好意的に受け止められ、アメリカとは可能な限り競合しない分野での発展や研究が熱心に行われた。
 また1960年代に入ると、アメリカ自身が生産業の海外移転を進めた流れに最初に乗ることができた。竜宮では新竜地域という地の利もあったため、アメリカ近在の主に高価値商品の生産拠点として大きな発展が見られるようになった。西ヨーロッパでも西ドイツを中心にしてアメリカの生産を担うようになったが、この場合地の利が竜宮に味方した。新竜王国からなら、鉄道(大陸横断鉄道)でアメリカ全土に製品を供給できたからだ。また日本でもアメリカへの輸出が大きく伸びたが、製品の違いによって1970年代後半に入るまで竜宮と競い合うことは少なかった。
 そして以後のアメリカが、金融と法務関係(主に弁護士)に知的リソースを特化していく中で、科学技術、理化学などの分野が竜宮では大きく発展するようになる。このため、アメリカから主に新竜王国に移民や留学するアメリカ人が増えたりもした。
 しかし竜宮が重視した産業の中には、アメリカが重視している産業分野の情報通信産業と航空宇宙産業があり、この面ではアメリカと利害対立が何度も見られた。
 アメリカは脅しとも言える事を何度も行うが、冷戦構造という特殊な対立構造によってアメリカも竜宮に対して必要以上に強く出ることができず、竜宮での技術発展は一定レベルで維持され続けた。しかも竜宮は、フランスなどと同様にソ連の脅威、中華地域の混乱を理由にしてアメリカを逆に脅し、様々な技術や譲歩を得ていた。

 なお竜宮が、情報通信産業と航空宇宙産業を重視した理由は、国土開発と国防が理由だった。
 国土は、北太平洋の小さな島々である本国と他の地域が酷く離れていた。このため国家としての連携が弱いため、18世紀の頃から克服に力が入れられていた。
 1949年には太平洋に海底ケーブルが敷設され、無着陸で北東太平洋を横断できる航続距離を持つ飛行船が1950年代まで飛び続けていた。1950年代には、無着陸で竜宮本土と新竜王国を結ぶ大型機も多数就役した。「国内航路」を行き交う船もますます増えた。
 そして技術の進歩と共に、衛星軌道上に通信のための中継器を置く事と、より大型で効率的な航空輸送手段獲得が目指された。それぞれアメリカから得ることも出来たが、国家の根幹と国防に関わることだけに自力での開発と保有に力が入れられた。竜宮で航空機開発が進んだのには、国内交通路の整備という大きな社会資本投資という側面があったためだ。アメリカは飛行機と高速道路(自動車)を重視したが、竜宮の場合は船舶と航空機を重視した。
 そして衛星通信の推進によって宇宙ロケット開発が進んだが、ロケットは核兵器の遠距離運搬手段としても使えるので非常に力が入れられた。しかも冷戦の中にあって、アメリカも竜宮がICBMを持つことを否定することができず、半ば竜宮に言われるがままに技術援助すら行わなくてはならなかった。
 また一方で、竜宮は自身の国力の不足と限界を熟知していたため、宇宙開発では他国との連携を強めるようになった。またいずれ誰かに実質的主導権を握られるにしても、自ら最初に動くことの優位を知っていた。そして1960年代の時点の竜宮は、国連常任理事国にして戦勝五大国としての魔力を維持していた。
 竜宮から最初にパートナーとして選ばれたのは、急速に国力を拡大しつつある日本だった。1950年代後半から日本は高度経済成長によって急速に経済力を増しており、日本自身も自力での宇宙開発を目指すようになっていた。しかし宇宙開発には多額の予算が必要であり、日本には不足する技術も多かったため、竜宮の提案に乗ることになる。
 こうして、1965年に「東亜宇宙開発機構」が設立された。初期は竜宮と日本のみの組織だったが、その後北東アジア諸国を中心にして周辺各国が加わり、欧州宇宙機構を凌ぐ大きな宇宙開発組織へと成長していく事になる。こうした組織が東アジアで成立できたのは、竜宮と日本という二つの大国が並んでいた要素が見逃せないだろう。例えばどちらか一国だけが中心となっていたら、組織が成立していた可能性はかなり低かった可能性が高い。
 そしてこの時の竜日の協力関係を発端として北東アジア諸国の話し合いが進むようになり、「ヨーロッパ共同体(EC)」に刺激を受けた組織へと繋がっていく事になる。


●フェイズ58「現代11・東アジアの混乱と団結」