■フェイズ58「現代11・東アジアの混乱と団結」

 竜宮からブルネイ王国、ブルネイ共和国が完全に自主独立した1972年、新たに「北東アジア条約機構(NEATO)」が設立された。
 この組織は、名称とは違い軍事的側面は比較的小さく抑えられていた。大きくは、戦略的国家間条約であり、主に北東アジア地域諸国間での経済を忠臣とする複合的な協力を行うための組織とされ、軍事面よりは重要資源の関税撤廃や共同使用などが初期の目的だった。形としては1958年に西ヨーロッパで成立した「ヨーロッパ経済共同体(EEC)」(後のヨーロッパ共同体(EC))を見本としており、最終的には域内での自由貿易と関税障壁の廃止を目指していた。条約機構という組織は、周辺国に対する便宜上の向きが強かった。
 音頭取りをしたのは、東アジアで最も経済的に発展していた竜宮と日本だったが、その道のりは平坦ではなかった。

 北東アジア地域での経済協力関係の模索は、日本が主権を回復した1950年代初頭に早くも始められていた。
 日本は戦争敗北の一因が地下資源にあると考え、また経済発展のためには地下資源の円滑な獲得と安定した市場の確保が最重要と認識されていた。
 そして幸いと言うべきか、竜宮王国は石油以外の重要地下資源が比較的豊富であり、満州もアメリカの委任統治領下にあるため、近在での地下資源の融通も比較的簡単だと考えられていた。要するに、軍事を用いずに戦前の状況へ回帰する事がまずは目指されたと言えるだろう。
 一方の竜宮も、近在の日本への地下資源輸出には積極的であり、さらに竜宮としては地下資源を突破口として、自国の工業製品の市場として北東アジア地域への進出を目論んでいた。1950年代は、まだ日本の工業力低迷が続いていたので、この時期は竜宮にとって大きなチャンスだった。
 しかしここで、第二次世界大戦の亡霊が邪魔をする。
 まず騒いだのが、日本近隣の国々だった。
 1950年代前半はまだ中華民国も健在だったのだが、この国の政府は日本と竜宮に対してマイナス感情ばかりを持っていた。竜宮は自らが得られる筈の国連常任理事国の座を奪った相手であり、日本は先の戦争での一番の敵だった。どちらも憎むべき相手だった。
 こうした感情的な問題から、日本と竜宮が連合して経済関係の強化を行うことに反対した。日竜枢軸の復興を目指すものだ、という屈辱的な言葉すら浴びせかけた。

 そして中華民国に極めて強く同調したのが、長らく李承晩(イ・スンマン)の独裁政権下にあった大韓民国だった。
 そして当時の大韓民国と、竜宮、日本の関係も最悪に近かった。
 大韓民国は1949年に完全独立したが、日本が敗北した時からアメリカが支持した李承晩による政府が作られた。
 しかし李承晩政権は、徹底した反日政策を実施した上に、いきなり膨張路線を取った。これは直接国境を隣接する敵となる国が存在しない事からきた我が儘であると、アメリカからも解釈された。また逆に、直接敵と接しない状況であるため、アメリカからの支援や援助も常に最小限となった。このため反米色も急速に強まり、かといって韓国がソ連に接近することは自殺行為であるばかりか、国内の共産主義者については徹底的に弾圧したので接近も論外だった。李承晩自身も、共産主義者を酷く嫌っていた。しかし日本を憎み抜いているという点では共産主義に対する以上とすら言われ、弾圧という点では国内の「親日派」と言われる人々に対しても徹底的に行われた。このため1953年まで内乱に近い混乱が続き、多くの国富が破壊されると共に、多くの人々がアメリカが統治する満州へと逃れた。
 世界大戦終了時2600万人だった域内人口は、一時満州や日本からの同族の帰国で3000万人以上に増えるも、十年後には2000万人を割るほどとなった。自然増加を含めて考えれば、3人に1人が朝鮮半島を後にした事になる。しかも日本からの帰国者約200万人のほとんども、素通りして満州へと逃れるように移動しているので、朝鮮半島を棄てた朝鮮民族の数はさらに増加する。戦前から満州に移住していた数百万人の同胞も、結局は一時的にしか帰国しなかった。
 そして親日派と呼ばれる人々は、日本統治下での官僚、軍人、資本家、富裕層、知識人が多かったため、韓国の国家運営は大きな支障を来すようになり、それが独裁色をさらに強めさせることになる。
 そして外交でも徹底した反日色を前面に押し出し、日本とはあからさまに対立した。

 一方の竜宮に対しても、韓国は敵意を見せた。
 これには、大きく三つの原因があった。
 一つ目は、GHQとして日本海の辺境の島々を竜宮が占領統治して、日本再独立後に順次ほとんどを日本政府に渡した事。
 二つ目は、日本の賠償の時に、朝鮮半島は戦勝国ではなく連合国によって開放、独立した地域(第三国)であるため国際法上で戦争賠償要求が出せないとしたうえで、それでも朝鮮仮政府が日本に対して「植民地統治」に対する国家賠償を求めるのならば、インドとイギリスの関係のように朝鮮半島内で明らかに日本資産と考えられるものを正統な対価で購入した後に、賠償請求を行うのが筋だと論陣を張ったことだった。そして国際慣例に従い、概ねその通りにされてしまった。
 そして三つ目は、ある種滑稽だった。
 大戦中に存在した竜宮の軍事政権は枢軸陣営に当たるので、竜宮にも朝鮮半島(韓国)に対する賠償責任があるとしたのだ。ただし三つ目は、連合国全てから極めて強い非難を浴びることになり、慌てて取り下げる事になる。フランスなどは、韓国を長らく敵視状態としたほどだった。
 ここまで韓国から竜宮が嫌われたのは、古くは元寇の頃にまで遡る感情的なしこりまでが原因しているとすら言われ、主要戦勝国である竜宮も遠慮なく韓国に非難の言葉を浴びせかけた。そして国際宣伝では、竜宮人の方が一枚上手だった。
 しかも日韓問題に竜宮が関わった事で日本側も強気の姿勢を強めるようになり、以後1965年までの韓国の外交姿勢は「北東アジアのガン」とすら言われるようになる。
 韓国の例は極端だったが、これは為政者の国家運営によって国家がいかに歪むかを示す例と言えるだろう。

 しかし竜宮と日本は、当時の北東アジアの主要主権国家からそっぽを向かれたため、北東アジア全体での経済協力関係はとん挫を余儀なくされた。仕方なく、まずは竜宮と日本の二国間での関係を進めることになった。
 とはいえ、初期の関係は竜宮が日本に地下資源を優先的に輸出するのと引き替えに、復興途上の日本が竜宮の市場となる関係に近かった。このため竜宮資本の進出を警戒した他の東アジア諸国及びヨーロッパ諸国の植民地地域との連携も進まず、日本の竜宮に対する反発も徐々に高まり、一時は空中分解するかに見えた。
 変化が見えるようになったのは、日本が高度経済成長を始め、中華地域中央部に共産主義国家が出来てからだった。
 共産主義の脅威が高まった事で、東アジアの国々の間で大国の庇護を求める向きが強まり、その国としてアメリカ以外に、竜宮と日本が注目された。
 しかも中華民国が滅亡した翌年の1961年に、韓国で軍事クーデターが起きて反米政権が成立し、その上で中華人民共和国に接近したことは、東アジアでの安全保障上での重大な脅威と認識されるようになった。そして当時はまだ経済的に遅れていた東アジア諸国にとっては、安定した政権維持のためには最低限で良いので安定した経済状況が不可欠であり、そのためには経済的に発展した国々との連携こそが必要だった。
 軍事関係の方は、アメリカが中心となった「東アジア条約機構(EATO)」が1949年からそれなりに機能してたし、主要国の位置にいる竜宮が1964年には水爆すら保有するようになったのだが、軍事力だけでは政権維持が難しいことはそれぞれの国が強く実感するところだったのだ。
 そして東京オリンピックの頃から真剣な話し合いが行われるようになり、1965年にアメリカの委任統治領だった満州合衆国、台湾共和国が独立すると一気に話は加速した。この年にはシンガポールもマレー連邦から独立し、韓国では軍事政権が打倒され、竜宮、日本の間で「東亜宇宙開発機構」が設立された事もあって、「東アジア共同体」に向けての機運が一気に高まった。
 また1967年の「ヨーロッパ共同体(EC)」成立は、西ヨーロッパに続けという言葉と共に東アジアでの団結を促した。
 しかし西ヨーロッパと違って、東アジア諸国の間には埋めることが不可能と思われるほどの経済格差が存在していた。
 このため後進国、途上国と言われる国々の間では先進国の経済支配という懸念が広がり、それがEC成立と同じ年に形となって現れる。それが「ASEAN(東南アジア連合)」である。この組織は、経済と軍事双方の諸国間関係を進めるための組織であり、インドネシアでのスカルノ退陣が大きな切っ掛けとなった。
 そしてASEAN成立により、自動的にEATOも解散した。
 この外交的背景には、当時の竜宮、日本での躍進的といえる経済発展に対してアメリカが動いた結果だと言われており、概ね事実だった。また、やはり先の世界大戦でのマイナス感情が、日本、竜宮(軍事政権)に対する警戒感となって現れたと見るべきだろう。しかしアメリカは、共産主義に対して妥協する気もないし、北東アジア諸国の関係を反故にする積もりもなかった。
 1970年には複数の国々との間に「北東アジア安全保障条約」を結び、北東アジアの殆どの国々との間に新たな軍事関係を結んだ。各地で直にソ連と向き合う北東アジアには、より強力な軍事関係が必要だったが故の措置とも言えるだろう。北東アジアと東南アジアでは、共産主義とソ連に対する脅威に温度差があったのも事実だったからだ。
 しかし竜宮と日本が目指していた経済連合の形成が後退したことも事実であり、二国は巻き返しを画策した。
 その契機とされたのが1970年に開催された「大阪万国博覧会」であり、東アジアで最初のエキスポ開催中に北東アジア諸国が集まって、何度も国際会議が行われることになった。
 そして樺太島が日本に返還され、竜宮からブルネイ王国、ブルネイ共和国が完全独立する1972年に、新たな国際機構の設立が決定された。
 それが「北東アジア条約機構(NEATO)」だった。
 初期加盟国は、日本国、竜宮連合王国、ブルネイ王国、ブルネイ共和国、満州合衆国、台湾共和国、極東共和国の7カ国となった。本来なら大韓民国も加わる予定だったのだが、連続した政変や軍事クーデターによって政治、経済双方で大きな混乱が起きたため、当面の参加を辞退していた。この裏には韓国の竜宮、日本に対するマイナス感情があったことは確実で、政権安定後の韓国はASEANに加盟してしまう。
 こうして東アジアは、共に自由主義陣営に属しながらも、二つの国際組織を持つことになった。形としては西ヨーロッパのECとEFTAの並立に近いとも言えるが、それぞれの地域の経済格差がこの時の分裂を呼び込んだと言えるだろう。
 なおNEATOにはオブザーバーとして、アメリカ合衆国とカナダが関わっていた。これは竜宮が北アメリカにも領土を有するからだった。ただし本部は万博の開催された日本の大阪に置かれ、間違いなく北東アジア地域の組織として運営されることになる。

 なおNEATOは、組織名はともかく軍事ではなく経済関係が重視された組織で、域内関税の撤廃、域外に対する共通関税、共通の農業政策、資源共有が目指された。
 この中で世界第二の経済力を持つようになった日本と、古くからの先進国にして資源国でもある竜宮が盟主的役割を果たした。満州合衆国も領土と人口という点で相応の規模があり農業が盛んで、さらにはソ連と最も強く向き合っているため、徐々に大きな役割を担うようになる。
 そうした中で、竜宮の価値が落ちることは無かった。
 本国と新竜では先端工業と地下資源輸出が盛んな上に、アラスカには当時世界最大級クラスの大油田がこの時期に稼働を開始したからだった。

 1960年代にアラスカの北極海に面する地域、北回廊(ホッカイロウ)に、埋蔵量120億バレル(1兆9080万キロリットル)、当初十年間は日産200万バレル(32万キロリットル=年産1億キロリットル以上)が可能という当時世界第三位の巨大油田が発見された。極寒の地での採掘のため採掘コストは1バレル5ドルだったが、国策として開発はすぐにも始まった。
 その後オイルショックによる価格高騰のおかげで十分採算がとれるようになって開発が爆発的に進み、自然災害と自然破壊を克服した開発が熱心に行われた。しかも後に設定された隣接する自然保護区の地下には、さらに原油が120億バレルと、天然ガスが35兆立方フィートが眠っていることも分かっている。自然保護との折り合いが付けば、竜宮は継続して世界有数の産油国になる事を意味していた。(※追加埋蔵量は近年大幅に下方修正された。)
 アラスカ油田開発では、竜宮だけでは技術や資本が不足するため、アメリカのオイルメジャーも開発に参加したが、竜日関係を重んじたため日本の帝国石油や多数の総合商社も開発に加わった国際プロジェクトとして油田開発が行われた。またこれまでブルネイ油田の権利を持っていた竜宮企業の王国石油も、この油田によって一躍世界のオイルメジャーへと躍り出ることにもなった。
 そしてこの油田の存在は、満州の大慶油田と共にNEATOの重要な資源戦略の位置としての役割を担い、同時にNEATOの国際発言力と自立性の向上をもたらす最重要の戦略拠点となった。
 そして他にも多くの地下資源を持つ事もあって竜宮の地位はさらに向上し、経済的にもさらなる発展と安定を見ることになり、冷戦時代の中での繁栄を築く事になる。

●フェイズ59「現代12・混沌の中華」