■フェイズ59「現代12・混沌の中華」

 20世紀を後半に入っても、中華地域は常に混乱に満ちあふれていた。

 1960年に中華人民共和国(以後:人民中華)が中華中央部を統一したが、彼らの求める中華世界の回復にはほど遠い状況が続いていた。世界は既に彼らの中華世界だけでははくなっていたからだ。
 満州、内蒙古の主要部、東トルキスタン(ウイグル)、台湾島は、国際連合(UN)の委任統治領を経て、アメリカ、ソビエト連邦の思惑によって勝手に独立していた。当然とばかりに独立後もそれぞれの国が軍隊を置いたため、人民中華が武力で「再統合」する事も叶わなかった。チベットにすら、ソ連、イギリス(インド)が文句を言ったため、なかなか強い態度に出ることが難しかった。相手の様子を見るために満州に対して起こした小規模な武力衝突ですら、アメリカなどの環太平洋の国々が大艦隊を動かして牽制した。仮に本格的な侵略戦争でも始めたら、北京に水爆を落とし兼ねなかった。
 当面の国土は、明朝時代に名目上チベット(+青海)を足した程度な上に、周りは敵ばかりだった。これからの宿敵であるアメリカやロシア人(ソ連)ばかりか、日本、竜宮、ベトナム、インド、全てが共産主義化した中華を酷く敵視していた。
 一方国内だが、度重なる内戦により自らの治める大地も大きく疲弊していた。最盛時5億人を数えていた人口は、中華民国が亡んだ時には満州などが切り離された事もあり3億人近くにまで減少していた。単純に計算して、4人に1人が死んだ計算になる。その上国富、産業、社会基盤、流通網、ありとあらゆるものが破壊されており、特に主戦場となった地域は壊滅的打撃を受けていた。この有様をヨーロピアン達は、ドイツ三十年戦争を十倍の規模にした破壊だと表現した。歴史上の中華王朝の革命期ではよくある事で、半世紀もあれば復帰できる損失なのだが、今回は世界が中華だけでなく地球規模に広がっていたため早急な回復が必要だった。
 世界中には敵がひしめいており、実質的な味方が誰一人居なかったからだ。
 一応は同じ共産主義国という立場でソビエト連邦とは友好関係を結んでいたが、ロシア人は中華にとっては潜在的な第一の敵の一つだった。実際、人民中華の建国時からロシア人は色々と干渉してきており、これに対する人民中華側の反発が1960年の時点で早くも相互不信に発展していた。清朝時代からの「漢族のもの」であるシンチャン(東トルキスタン)がその良い例だった。
 しかも北東アジア諸国は、反ソ連、反共産主義で団結しており、人民中華はソ連に次いで第二位の仮想敵とされていた。万里の長城も台湾海峡も、強大な軍隊によって厳重に封鎖されていた。
 この動きは1965年の満州、台湾独立によってむしろ強まり、北東アジアの盟主である竜宮、日本との関係は、イデオロギーの違いのため最初から断絶し、敵対状態だった。
 一方の東南アジア諸国との関係も、現地での共産主義化がことごとく失敗に終わった事もあって、国境を接するベトナムを中心として強い敵対状態にあった。ベトナムは、アメリカとの関係を深めて莫大な軍事支援を受けている有様だった。
 しかし中華民国を滅ぼした事で、一つだけ成果が見られた。それは自分たちの独立が国際的にも認められ、1962年には晴れて国連にも加盟できた事だった。そして国連加盟に前後して世界中の国々も人民中華と国交を開き、大使館を置き合った。ただ人民中華が、満州、台湾の独立を認めていないため、アメリカや北東アジア諸国と早期に国交を結ぶことは叶わなかった。また東トルキスタン問題があるため、共産主義の盟主であるソ連との関係も、微妙と言わざるを得なかった。
 つまりは、独立を認められようとも四面楚歌という言葉が相応しい状況だった。

 そうした文字通り四面楚歌の中で、既に十分に老人と言える年齢だった毛沢東(※1893年生まれで独立時点で67才)は、一つの決断、そして大いなる過ちを犯してしまう。
 同じ道はかつてソ連も通ってきた道であり、ある意味共産主義国家にとっては避けて通れない道だったかもしれないが、国家に与えた打撃は計り知れなかった。
 その同じ道とは、農業の集団化、社会主義化を目指した行いだった。しかも人民中華は、「大躍進政策」と名付けられた近代産業振興計画も同時に計画実行に移し、彼らの机上の計画では一気に工業化と農業の効率化が達成されるはずだった。
 しかもやっている事は、かつてのソ連よりも頓珍漢で的はずれな事ばかりだった。
 農民に農地を耕させずに伝統的方法で個々の家で原始的な製鉄を行わせたり、指導者の言葉を曲解してスズメを『害鳥』として徹底的に駆除したり、「人民公社」の名付けられた組織への農業の集団化に対する農民の不満を反らせるために、自ら大規模な対外紛争を起こしてみたりした。
 計画は1964年に開始され、1965年に独立したばかりの満州合衆国国境で激しい越境無き戦闘、通称「長城砲撃戦」が一ヶ月程度展開された。満州に対して戦闘を仕掛けた理由は二つ。一つは「内戦」という形を自分たちの中で作り上げて、いつの日には満州を併合する筋道を残しておく事。もう一つは、敵を作る事で国民の不満を逸らすためだ。日本が作りアメリカが育てた満州合衆国という国は、人民中華にとっておあつらえ向きの敵だった。
 国内政策のため、しばらく敵が居てくれた方が何かと都合が良いので、人民中華の側からアメリカ、北東アジア諸国との国交を拒む傾向にあったほどだった。

 その間世界は、人民中華の不気味な動きを外から見守る以上の事はしなかった。突如攻撃を受けた満州合衆国も、アメリカ軍や北東アジア諸国軍と共に人民解放軍を境界線の向こう側への反撃の砲火を浴びせる以上の事は行わなかった。
 しかも人民解放軍は砲撃相手を厳選し、満州合衆国軍に限定した砲撃しか行わなかった。ただし反撃する西側諸国は、妥協を許さない報復攻撃の実施を行う。軍事力の越境こそ行わなかったが、ほぼ全国境線において激しい報復砲撃を実施した。国境線上空では、空中戦も発生した。
 そして結果として起きた変化は、満州国境に駐留する軍隊が大幅に増強され、数年後に日本陸軍が再び満州に駐留するようになっただけだった。アメリカを始め西側諸国は、砲撃戦の意図を長い間見抜くことが出来なかった。
 一方のソ連は、人民中華が行おうとしている事に早い段階から薄々気付き、助言の一つも行ってみたのだが、むしろ人民中華から反発を強められただけに終わった。
 そしてソ連が危惧した通り、いやそれ以上の災厄が中華の大地に舞い降りることになった。死神が本当にいたとするなら、あまりの忙しさに彼らが過労死しただろうと言われるほどの災厄が到来した。
 農民がまともに土地を耕さず、少しばかりの穀物と共に害虫を駆除するスズメが激減したため、その年の農業生産は酷い落ち込みを見せた。しかも農民達が農業をせずに自宅の粗末で原始的な炉で作った鉄は、屑以下の価値しかないため何の役にも立たず、資源、時間、労力、全てにわたっての無駄でしかなかった。
 そして統合から僅か5年で、国を挙げての多産政策によって4億人以上(推定4億3000万)に回復していた人口は、人為的な未曾有の大飢饉により、再び大打撃を受けることになる。
 物資の集散が行われ配給以外の入手も容易い都市部は比較的マシだったが、情報、物流が決定的に遅れていた農村部では、戦乱でも天候不順でもないのに100年に一度以上の大飢饉に見舞われた。
 飢饉は翌年も続き、初年度で約4000万人、翌年にさらに1000万人が餓死したと言われた。比率にして約15%だ。
 多くの国民は、無能という言葉すら不足する政策によって無為に失われてしまったのだ。

 これで政府が倒れなかった事はいっそ誉めるべきだが、流石に指導者の毛沢東は失政の歴任を取って失脚を余儀なくされた。しかし完全に力を失った訳ではなく、その後も毛沢東は復権の機会を伺っていた。
 毛沢東の心理的背景には、「天意」を得て「皇帝」になるという中華的考えが根底にあったと言えるだろう。そして彼は一度覇権を手にしたので自らに「天意」があると考えており、再び自分の方向に風が吹く機会を待ち続ける日々を送る。そしてその機会は、比較的早く彼が晩年を迎える前にやってきた。
 1971年秋に始まった「文化大革命」だ(以後:文革)。
 イデオロギーが悪性に極限まで至ったこの時の混乱により、イデオロギーの権化と化した老齢だった毛沢東は、見事復権を遂げた。しかしそれは、他の権力者はもちろん、国民のほとんどにとっては害悪以外の何ものでもなかった。彼は自らの思い込みにより次々と悪政、暴政を実施し、絶対的権力者特有の老害をばらまいた。そして赤衛兵という若者を中心とした盲目的なイデオロギー集団を作り出し、国と郷土を破壊させることになる。
 毛沢東の悪政は1976年に周恩来が死去すると絶頂を迎え、その絶頂の中で国中の赤衛兵たちが号泣する中この世を去った。
 そして文化大革命と呼ばれるイデオロギー運動は、1972年に本格化してその後約5年間続いた。最盛期は72年から74年にかけてで、以後は誰もが毛沢東が死ぬのを待つ状況になった。活動が停止するほど停滞したのは、社会基盤が一時的に崩壊したため誰もがまともな活動を行うことが出来なくなったからだ。最盛時には、鉄道などのインフラも機能しなくなり、警察、消防といった国家の基本的な防衛機能もほとんど停止した。思想とは関わりのない科学者や医者も、知識を持っているというだけで粛正対象となった。
 中央政府があるのかないのか分からない状況だったという事を付け加えれば、文革という愚かな行為の一端が分かるだろう。またあまりにも破滅的な状況だったからこそ、革命という行動も起きなかったと見るべきかもしれない。

 文革中の人民中華国内では、毛沢東を盲信する子供の集団でしかない赤衛兵の猛威が荒れ狂い、知識人、資産家、知識階級、権力者、共産党員その全てが弾圧の対象となった。この中には多数の建国の功労者、有能な官僚、軍人も含まれており、多くの者が屈辱的な死やそうでなくても理不尽な投獄を余儀なくされた。
 そして事態を止める者のいない幼稚という以前のイデオロギーの暴風は、際限なく拡大していった。最盛期には全ての者が粛正の対象となり、ほんの少しの意見の違いから赤衛兵同士の争いにまで発展した。死者の数は判明していないが、全国民の2割に達するという説も存在する。
 この中で政治機能、行政機能は停止し、学校も大学院から小学校に至るまで強制的な閉鎖を余儀なくされた。全ての学校は2年間停止し、大きな負の遺産として残された。
 一方、国交を結んでいた諸外国だが、文革すぐにも主に西側諸国の大使館が赤衛兵の攻撃対象となり、人民政府が事実上統治能力を無くしたとして全ての国が大使館を引き払い、全ての邦人も国外脱出した。アメリカのように、空母で大使館員を迎えに行った国もあった。そして各国にある人民中華側の大使館も事実上昨日しなくなった。そして全ての国が国交断絶へと踏み切り、中盤以後の文革について各国は何が起きているのかを知る術すら無くしてしまう。
 また赤衛兵は、中華世界の回復も掲げたため、北京に近い満州合衆国国境にも押し掛け、周辺の人民解放軍を半ば無理矢理動員して、大規模な睨み合い状況も作り上げた。この時両者の境界線になっている万里の著城付近での戦闘が起きなかったのは、西側諸国の自重、人民解放軍の事実上のサボタージュのお陰であり、世界は赤衛兵が如何に危険かを認識する事にもなった。彼らは暗黙の中立地帯に勝手に大挙入り込み、地雷で自滅して慌てて逃げ散ることで、その存在が世界中に映像で知られることになった。

 文革の混乱が収まりきらないまま毛沢東が1976年9月に自然死で死去すると、一気に事態は進展した。
  文革時に、党中央政治局のメンバーとして権力を掌握した江青、張春橋、姚文元、王洪文、いわゆる「四人組」が逮捕された。
 それまでに赤衛兵も、都市から地方に追いやる事で活動を事実上封じてしまい、一事の熱狂から醒めた赤衛兵だった子供達は再開された学校に戻っていった。
 文革自身も1977年8月に終了宣言が出され、中華人民共和国は一応の落ち着きを取り戻すことになる。
 国家の新たな運営は、周恩来が命に代えて守ったと言われる 登小平(とう しょうへい、ダン・シャオピン)によって運営されるようになり、現実を見据えた路線での国家運営がようやく、まさにようやくという言葉が相応しい中で行われるようになっていく。
 しかし文革により失われたものは大きかった。それ以前に、建国に至るまでの長い内乱、大躍進政策、毛沢東による現実を無視した多産政策など、害悪は多かった。いや多すぎたと表現すべきだろう。
 国家が崩壊していないことが奇跡と言われ、文革の間中、満州合衆国をはじめ人民中華と国境を接する国は、事実上の動員体制を敷いて国境を閉ざし続けていたほどだった。周辺諸国は、人民中華が崩壊して膨大な数の流民、難民が自分たちの国に押し寄せると考えていたからだ。後世、文革中の周辺国が人民中華の国力衰退のスキを狙って侵略戦争を行おうとしていたとする説もあるが、事実は全く違っている。誰もが、人民中華が崩壊して、人の海が溢れることを恐れていたのだ。
 しかし人民中華は持ちこたえ、新たな体制のもとで未来に進んでいく事になる。だが、その道のりは極めて厳しかった。何しろ国内の産業は、二度の変革の中で再びほとんど壊滅していた。もともと重工業と呼べるものがほとんど無かったところに、アメリカ軍の爆撃よりも酷い事実上の産業破壊が行われたからだ。
 このため文革後の人民中華は、まずは各国との国交回復と国交正常化を急いだ。しかし近隣諸国との領土問題が、人民中華自身の首を絞める。

 人民中華は共産主義国でありソビエト連邦ロシアとの関係は必然的に深かった。しかし文革による激しいイデオロギー対立と、それまでの路線の違い、民族、国家の対立のため、文革以後ソ連との国交は断絶し、他の共産主義国との関係も絶たれた。1970年代前半からモンゴル、東トルキスタン国境にはソ連の大軍が駐留し、人民解放軍と睨み合う状況が常態化していた。
 この間隙を突く形で、1974年にアメリカのフォード大統領は、人民中華との間に初めて訪中して国交を樹立。敵の敵は味方の理論により、人民中華は軍事的にはソ連率いる東側陣営の敵となった。ヨーロッパを始めとする、最初から国交を結んでいた国々との関係も徐々に戻っていった。日本国の首相も、アメリカの行動を見て慌てるように訪中して国交を結んだ。
 しかし人民中華には、問題を単純化したいアメリカの思惑をよそに、近隣諸国との国境問題が多く横たわっていた。
 チベット地域は、文革中に支配権を拡大してほぼ完全に支配下に置いたが、これで新たにインド、パキスタンとの間に問題を抱えることになる。チベット自身でも内乱が起き、ダライ・ラマはインドへと亡命した。それ以前の問題として、人民中華は満州合衆国、台湾共和国を認めていなかった。アメリカ、日本との国交条約でも、問題にはあえて触れていなかった。
 そして竜宮との間にも国境問題を抱えていた。
 竜宮との間で問題となったのは、琉球王国の一部領土についてだった。琉球王国そのものについても、かつて朝貢関係を理由に主権を言い立てる事もあったが、この頃問題とされたのは尖閣諸島と呼ばれる小さな島々についてだった。
 この地域は両者の境界線近くにあり、それだけでも両者にとっては微妙な問題だった。そこに資源問題が絡み、問題を大きくしていた。1974年の時点で、竜宮の石油会社は既に現地での海底油田試掘を開始しており、周辺の海底には数十億バレルの石油が眠っていると判定されていた。このため人民中華は、微妙な地域の主権を言い立て、その事が理由となって竜宮と人民中華の国交樹立は大きく遅れていた。
 このため北東アジアの防衛ラインを整理したかったアメリカの思惑は外れ、ソ連のみを敵としたアメリカの全包囲外交は大きな失敗に直面する。
 結果アメリカは、大きな経済発展を実現した日本に人民中華とソ連という二つの敵を抱える満州の防衛負担を、ある程度担わさざるを得なくなる。そしてその事で人民中華は反発せざるを得ず、両者の関係は一定以上に進めることが難しかった。
 しかも人民中華の周辺関係を利用して、ソ連が竜宮などとの間に融和外交をしかけた。アメリカに対しても融和外交を実施した。ソ連側としては、西側陣営と人民中華、さらには西側陣営に多少なりとも不和をもたらすのが目的だった。しかし人民中華とアメリカの接近が、一時的なソ連との緊張緩和(デタント)ができたという見方も強く、ソ連の外交はあまりうまくはいかなかった。
 一方で、人民中華と西側の関係改善も一定以上に進むことはなく、人民中華はとにかく市場経済導入によって国家の建て直しを図り、国力を付ける政策を強めるようになる。
 とはいえ、この頃人民中華の近代産業はほとんど壊滅していた。総人口は4億人に回復するも、一人当たりGNPは最貧国状態だった。このため、西側の資本進出も低調で、竜宮や日本との関係改善に手間取った事から、事実上の賠償金を受け取ることも出来ないか出来ても遅れてしまい、誰にとって利益があったのかと言われる状況が長らく続く事になる。



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