■フェイズ60「現代13・宇宙開発競争」

 宇宙開発の歴史は、20世紀に入って始まった。
 最初はサイエンスフィクション小説によって啓蒙され、1903年にはロシアのコンスタンチン・E・ツィオルコフスキーが、液体燃料型多段式ロケットや人工衛星、惑星への殖民など宇宙開発の基礎技術を提言した。そして1926年にアメリカで、ロバート・ゴダードが液体燃料ロケット打ち上げを成功させた。小さく華奢な玩具のようなロケットだったが、それが始まりだった。
 初の実用ロケットは軍事用で、1942年にナチス政権下のドイツが準中距離弾道弾という兵器の形で実現した。そしてドイツで培われたロケット技術は、ドイツに踏み込んだ戦勝国へと強姦同然に引き継がれた。この奪った国の中には、ヨーロッパに一定の兵力を派遣していた竜宮王国も含まれていた。
 しかし二度目の世界大戦後の宇宙開発競争の主なゲームプレイヤーは、それぞれの陣営を率いたソビエト連邦とアメリカ合衆国だった。
 宇宙開発競争は熱意の差からソビエト連邦優勢で進み、1957年10月4日に「スプートニク1号」という名を与えた初の人工衛星打ち上げに成功した。後塵を拝したアメリカは、慌てるように1958年1月31日に「エクスプローラー1号」によって初の人工衛星打ち上げに成功した。その後もソ連の優位は続き、1961年4月12日には、「ボストーク1号」によって有人宇宙飛行に成功した。「地球は青かった」という人類初の宇宙飛行士の言葉が、人類の歴史に刻み込まれることになった。
 その後も米ソによる宇宙開発競争は、人類の月面到達という目標に向かって、双方のイデオロギーの勢いの向くままに突き進んだ。
 しかし、他の大国と呼ばれる国々も、黙って見たわけではない。ヨーロッパでは、イギリスは失敗の連続と予算不足で挫折を余儀なくされたが、フランスが中心となって西ヨーロッパ諸国の多くが加わった宇宙開発が行われた。北東アジアでは、当時アジア唯一の先進国だった竜宮王国が宇宙開発の中心だった。

 竜宮王国の宇宙開発は、第二次世界大戦中に始まっていた。当時軍事政権下にあった竜宮本土では、同盟国のドイツがロケット兵器の開発に熱心だった影響を受け、1940年頃から本格的なロケット及びジェットエンジンの開発が始まった。この流れは軍事政権の呆気ない崩壊と国家の再統合で中断するかに見えたが、再統一後の竜宮は欧州に派遣した軍隊に、ドイツの先端技術を奪ってくることを水面下で命令していた。そして竜宮軍ヨーロッパ派遣軍は、アメリカ、イギリスに文句を言われない程度に、ドイツの様々な最新技術とその産物を竜宮へと持ち帰った。その中にはロケット技術、航空関連技術も数多く含まれていた。客人として竜宮に招かれたドイツの科学者や技術者もいた。
 そして戦後の竜宮では、主に軍事利用を目的としてロケット開発が進められる。これは軍事政権時代とはちがい、空軍ではなく陸軍が主に行っていた。ロケットも長距離砲の一種と見なしての開発とされたが、「鋭天」という巨人爆撃機を開発する空軍への対向だったことは間違いない。そして竜宮の場合は、本土が近い陸地が最低でも3000キロメートルも離れているので、当初の使用目的はソ連国境近辺への配備にあった。軍隊の配備が難しい永久凍土に、相手の拠点を破壊するための破壊力の大きな超長距離砲の一種として配備しようというのだ。
 そして、大型の爆撃機は大きな滑走路を備えた飛行場や格納庫が必要なのに対して、中小のロケットは大型の自動車両数両で構わないと言う利点があるので、空軍以外からは支持も受けやすく熱心に開発が行われた。つまりは、せいぜいが中距離での地対地兵器としてのロケット開発が進められれたのだった。
 このためドイツの「A-4(通称:V-2)」の再生と発射実験がかなりの熱心さで進められ、一時期はアメリカをリードするほど進んだ。しかし戦略兵器としての開発には至らず、また当時の竜宮の政治的低迷もあって国家的視野もなく、平時の陸軍予算の減少に伴ってロケット開発は予算も徐々に絞られるようになる。
 この状況に変化が出たのは、ソ連のロケット打ち上げと1958年の連合王国成立以後だった。
 新たな国家体制を作った際に、自らの国民的エネルギーを向ける先として宇宙開発が俄然注目されるようになったからだ。これは米ソの間で熾烈な宇宙開発が始まると加熱して、1960年には「竜宮宇宙開発局」が発足した。

 竜宮宇宙開発局が発足した当初のロケット開発は、「A-4」から大きくは出ていなかった。多少の大型化や、射程距離や到達高度がある程度伸びたぐらいでしかなかった。しかし兵器としての安定化には既に成功していたし、既に国と企業が航空機分野に一定規模の予算を投じていたため技術の裾野も広かった。
 そこに国家予算が大幅に増加されたので、一気に開発も進んだ。研究者や技術者も大幅に増員され、開発のための新たな拠点も軍事基地を召し上げる形で作られた。
 この時作られれた宇宙開発の拠点が、大戦中に重爆撃機の基地として使われていた竜宮諸島南部の竜雲島の空軍基地跡だった。
 基地跡を与えられた開発局は、自らのロケット打ち上げ基地とするため大規模な改造と整備を開始して、1962年に最初の宇宙基地となる「竜雲島宇宙基地」を開設するに至る。
 そして現地でのロケット打ち上げが始められ、高々度気象ロケットなどの実績造りを経て、1964年8月についに衛星軌道に人工物の投入に成功した。
 世界で三番目の快挙であり、失敗続きのイギリスを追い越し、1年近くもフランスの成功に先んじた快挙となった。
 これで竜宮の世論も一気に盛り上がり、英仏どころか米ソに追いつき追い越せの機運ができあがった。世界も、竜宮というダークホースが三等を取った事を一様に驚いた。
 そうしてさらに宇宙開発予算が増額されたのだが、その頃には宇宙開発には莫大な資金と技術、多数の研究者、技術者が必要になってきていた。人間を宇宙,空間に送り出そうとするならば、竜宮一国の予算規模では国防予算を削るか国を傾かせない限り叶いそうにもなかった。
 そこで竜宮は、近在の国々に目を向けるようになった。
 しかしアメリカは、最初から除外しなければならなかった。また英連邦であるカナダ、オーストラリアなども国家戦略上で除外せざるを得なかった。
 そして注目されたのが、高度経済成長中にあった日本だった。

 日本の宇宙開発は、日本独特の科学技術開発に従って、東京大学を中心にして1955年に細々と開始された。そして1957〜58年の国際地球観測年(IGY)が契機となって、気象観測を当面の目標として開発が進んだ。これまでは、全て東大と文部省が中心となり、あくまで学術目的、平和利用が一番の目標とされていた。
 しかし、1962年に科学技術庁内でロケット開発のための部局が作られると俄に流れが変化する。
 科学技術庁は、東大(東京大学)を中心としないため日本の技術開発の主流と言い難かった。だが、独自の人脈、アメリカとの協力関係などによって精力的にロケット開発を進め、関係を深めた相手の一つに竜宮があった。
 そして1964年に、「宇宙開発推進本部」が設置された頃に大きな変化を見られた。それまでの竜宮からの水面下からの接近が表面化され、一気に両政府の間で話が進められるようになったのだ。
 しかもこの年の8月に竜宮は世界で三番目のロケット打ち上げ国家となっていたので、その事も追い風となった。一方では、国家戦略上で他国との共同開発に対する懸念が両国の間で強く、特に竜宮は軍事利用を前面に押し出しているとして、日本の東大を中心とする東京大学宇宙航空研究所と文部省が猛烈に反対した。日本の社会主義団体、一部市民団体なども、竜宮を死の商人や宇宙に軍拡を行う悪魔だと悪し様に罵ったりした。
 しかし日本政府は、科学面、経済面での技術開発で協力できるとして科学技術庁、通産省が中心となって竜宮との協力関係を結ぶことを後押しした。
 そしてオリンピックの成功を受けて追い風に乗る日本は、1965年春に竜宮との間に国際組織である「東亜宇宙開発機構(East Asia Space Exploration Agency(EASEA))」を結成する。ただし日本の中での対立は残ってしまい、東京大学宇宙航空研究所はそのまま日本単独での宇宙開発を継続する事になった。このため日本では、宇宙開発予算の約3割を日本独自の別組織で使うという非効率な状態になる。

 一方、発足後のEASEA(イーセア)は、精力的な宇宙開発を推進した。また当面は、技術面で大きくリードした上に巨大な宇宙基地を保有する竜宮が主導権を握る事となった。しかし日本は、1968年にはGNPでアメリカに次いで世界第二位に躍進するなど経済的躍進が目立ち、国家予算も年々大幅増加を示していた。多数の予算が投じられた事で企業の活動も活発になり、竜宮企業との間では数多くの合弁や共同開発、出資提携などが行われた。関連する航空分野も例外ではなく、共同での航空宇宙開発も精力的に行われた。
 また、アメリカが主に国内問題によって停滞期に入ると、竜宮と日本が様々な面で支援したり肩代わりする代償として、アメリカからは多数の技術援助や有償・無償による提供が行われた。さらにアメリカは、1970年代に入ると明確に自らの国力、影響力に陰りが見えたため、西ヨーロッパよりも与しやすい北東アジア諸国との関係を強め、より一層竜宮と日本に支援や援助を増やした。
 ただしアメリカが国防、産業双方で重視する航空宇宙関連技術は常に限定的だったため、多くを自力開発せねばならなかった。
 しかし竜宮が特に航空宇宙開発に熱心だったため、対抗心と引きずられた形で日本も徐々に出資金を増額するようになった。参加する科学者、技術者、そして大学、企業の数も増加の一途を辿り、産業として側面も見せるようになっていった。
 しかも1972年の「北東アジア条約機構」設立を機会に、イーセアへの参加国も大幅に増えた。竜宮、日本以外はまだまだ力足りないが、商業利用という面で大きな道が開ける事になった。ロケット打ち上げ基地も、竜宮と日本のものを統合して、竜宮領内のハワイ王国、マウイ島に大規模な基地が建設された。虹の島は、天空の彼方へと虹をかけるようになったのだ。両国の工業地帯から遠いハワイ王国が選ばれたのは、緯度が低いという事とハワイ王国の産業振興という竜宮単体の目的を除くと、冷戦時代が影響していた。ハワイはソ連から最も遠い場所にあったからだ。
 そしてイデオロギーよりも商業利用に早くから活路を見いだし始めた竜宮と日本の宇宙開発だが、やはり冷戦というイデオロギーの流れには逆らうことができず、一つの大きな目標へと進んだ。
 人類を自力で宇宙空間に送り届けることだ。
 竜宮人と日本人の宇宙熱は、1969年7月20日のアメリカのアポロ11号による人類初の月面着陸で民意の点でさらに勢いが付いてしまい、イーセアも人を宇宙に送り届ける事を目標に掲げることになった。
 そして大規模な宇宙開発計画へとさらに進んでいくことになるが、日本はオイルショックにもめげずに経済力と国力の増大が続き、宇宙予算も次々に積み上げていった。竜宮も経済的にはまだまだ堅調だし、オイルショックのおかげでかえって産油国として頭角を現した事もあり、さらには先端産業開発こそが国策という事もあって宇宙に莫大な金を投じ続けた。
 この流れは、月競争で一つのピークが過ぎた米ソの流れに逆行するものだったが、米ソが次に行った低高度軌道の宇宙ステーション開発は、かえって竜日の宇宙開発にいらぬエネルギーを注ぎ込んでいた。月の有人探査はともかく、低高度軌道なら自分たちもゲームに参加できそうだからだ。
 そして1979年7月、イーセアは遂に人類を宇宙に送り届けることに成功した。
 ロケットシステムや打ち上げ能力はまだ米ソに劣るものだったしアメリカからの技術供与もあったが、同年アリアンロケットの初めての打ち上げに成功した欧州宇宙機関(ESA)には、完全に水を開ける成果だった。しかも竜宮、日本共にさらに宇宙に多くの金を投入するようになり、今度は宇宙基地開発と商業宇宙利用の二本立てという規模で宇宙開発を推進するようになった。
 竜日の流れは、1981年4月にアメリカがスペースシャトル「コロンビア号」打ち上げに成功しても衰えることはなく、むしろ大きく後退したアメリカへの対抗心を見せるようになっていた。既に自力での大型ロケット開発能力を獲得しており、一度の打ち上げ能力の規模も米ソに次ぐまでに拡大していた。
 そして自力で作り上げた大型ロケット開発と連動して、簡便で安価な無人シャトル計画も始動させ、大型ロケット自身も打ち上げ能力、打ち上げコスト、打ち上げサイクルの大幅な向上が目指された。
 これは1982年に「H-1型」ロケットとして初めて打ち上げられ、ヨーロッパのアリアンロケットを大きく上回る能力をイーセアは確保する事になった。
 これで基盤を確保したイーセアは、精力的に人を宇宙に送り込む実験を繰り返し、その傍らで大量の商業衛星を打ち上げるようになった。打ち上げの成功確率も、確実に向上した。そして1984年にアメリカのレーガン大統領が宇宙ステーション計画を発表すると、イーセアは全面的な参加を表明し、宇宙基地建設にも大きく関わることになった。
 しかし当時のアメリカは、ソ連との軍事対立のためさらに軍事費を増大させて、国内の経済的停滞も重なって宇宙開発予算の大幅な減少が予測できた。このためアメリカが言った10年以内に宇宙基地を作るという言葉に信頼を置くことができず、イーセアは同時に予備計画を水面下で進めることをアメリカに了承させていた。予備計画はイーセアが中心になるもので、イーセアはだけでも建設の七割が行える計画だった。
 しかもアメリカが中心になった計画が本格的に動き出す前に、スペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発事故が発生して、アメリカの宇宙計画自体が大きく後退することになった。対するソ連の宇宙計画は見た目には順調という以上で進んでいたため、ここで西側陣営はイーセアが臨時に宇宙開発計画の先頭に立つことになる。
 1987年に宇宙基地建設計画が始動して、1995年に最初の宇宙基地が完成するに至る。宇宙基地の名称は「国際宇宙基地(ISS)」で、アメリカの色合いが大きく下げられるものとなった。運搬も当時最も大型のH-3型ロケット(4連クラスター型ロケット)が多数使われ、基幹モジュールにもイーセア製のものが使われるなど、建造の六割をイーセアが行う事になった。アメリカが慌てて自らの予算を増額してスペースシャトルを再び運用するようになっても、イーセアの持つ主導権は動かなかった。革新的な宇宙船に多くのリソースを投入し過ぎていたアメリカに対して、低高度軌道での経済効率でイーセアが優位だったからだ。
 そして、アメリカが先頭を譲ってまで計画を推し進めた背景には、ソ連の不気味な変化とその後の躍進が影響していた。


●フェイズ61「現代14・ソ連の市場経済化」