■フェイズ61「現代14・ソ連の市場経済化」

 東西冷戦構造は、共産主義と資本主義、一党独裁と民主主義の競い合いだった。また、アメリカとロシアという巨大な国家による、純粋な勢力圏争いでもあった。しかし、全てが二色で塗り分けられるわけでもなく、人民中華と西側諸国の一定の妥協は国際的な転機となった。

 文革を何とか凌いだ人民中華は、西側諸国の大使館が北京に戻った頃、近代国家としての産業や社会基盤がほとんど無くなっていた。まるで19世紀後半程度の有様で、近代的な工場と呼べるものはソ連から供与された僅かな例外の生き残りを除けば、皆無と言えた。社会資本も、鉄道を中心にして壊滅的なままだった。電気についても、僅かな水力発電所すらまともに稼働できる状態になかった。このため人民中華のことを「闇の国」と揶揄する事もあった。
 このため人民中華政府が市場開放を実施すると言われても、西側諸国の食指はほとんど動かなかった。香港に近い広東地方の一角に経済特区が設けられ用地が人海戦術d整備されたが、取りあえず合弁企業を興した上で小規模な実験がごく僅かに始められたに止まった。
 しかもこの頃の西側資本は、安価な製品の製造場所として、人民中華よりも近在の、満州、台湾、韓国、さらにはベトナムなどに注目しており、一党独裁が崩れたわけでもない人民中華に対する関心は低かった。
 この事はソ連にとっては取りあえず安堵すべき材料であり、西側が人民中華に肩入れを強める前に対策を講じるべきだというのがソ連側の本音だった。
 そうした中で、ソ連の一部で計画が進められたのが、「第二次ネップ」とも言われた市場経済の導入だった。
 そしてちょうどこの頃、アメリカは自国経済の低迷と西ヨーロッパ、東北アジア地域の経済的躍進が重なったため、経済の傾きは急速だった。少なくとも表面的に現れている数字は、アメリカの急速な相対的縮小を物語っていた。これはソ連にとって朗報であり、現在進行形として大きく溝を開けられた実質的な経済格差を縮める好機と考えられた。
 そしてソ連での市場経済導入の一つの機会と考えられたのが、モスクワオリンピックだった。
 モスクワオリンピックでモスクワに世界中の国々が集まった事で国威が向上し、多くの西側マスメディアを入れた事により大きな宣伝を行うことができた。
 そしてこの時の宣伝と連動したのが、ソ連共産主義陣営での限定的な市場経済の導入であった。

 そもそも共産主義、社会主義を掲げる国では、市場経済は存在していなかった。少なくとも、表面上は存在してはいけないものだった。
 しかし1970年代に入ったソ連及び共産主義陣営は、様々な内的問題を抱えるようになっていた。いや、表面化するようになっていた、と言うべきだろう。特に社会主義経済を原因とする経済の停滞は、徐々に深刻さを増していた。加えて、軍事費、宇宙開発費、他国への援助費、国民生活の保障、同盟国価格での輸出、これら全てが国庫への大きな負担となっていた。その上軍事費については人民中華との辺境での睨み合いでさらに増額しており、とてもではないが長期間耐えられるものではないと予測された。
 そこでアメリカとの歩み寄りが画策されたが、これはアメリカの側も財政の悪化という似た事を考えていたため順調に進んだ。この時は単なるデタントではなく、新たな時代の幕開けだと盛んに宣伝され、軍拡が行き過ぎた核兵器及び通常兵器の軍縮の話も進んでいった。
 そしてもう一つ、共産主義陣営に大きな変化があった。それが市場経済の導入だった。
 しかし一度に話が進んだわけではないし、突然始まったものでもなかった。その発端は、皮肉と言うべきかソ連が建国初期に切り離した極東共和国だった。

 第二次世界大戦後の極東共和国は、自らの選択によって西側陣営へと属するようになったが、完全に西側陣営に属したわけではなかった。
 政治や経済を自由主義と資本主義とするが、国際政治面、軍事面では、東西両陣営の緩衝地帯として機能した。おかげで東西両陣営は極東での軍備を意図的に減らすことができ、特に通常兵器の面での対立減少に大いに役立った。ソ連としては太平洋、東アジア方面への影響力が大幅に低下したが、竜宮、日本という二つの海軍国に押さえつけられている現状を考えれば、合理的には受け入れやすい状況だった。無理をして見栄を張っても、出費ばかりかさむ事が明らかだからだ。それならば満州でそれなりに睨み合い、いつでも極東共和国を占領できると「思わせておく」事の方が遙かに安上がりで、戦略的にも意味があると考えられた。多くを投資しているアメリカが、常に過剰な軍備への投資や実体を無視した援助を行うからだ。
 また極東共和国は西側であって西側でなく、勢力圏的には依然としてソ連であるため、両者の勢力が入り交じった場所となった。状況としてはソ連を挟んで反対側にあるフィンランドに近い。「東側のフィンランド」とも言われたほどだった。そして極東共和国では、アメリカ経済とソ連経済が交流を行い、シベリア鉄道を通じて西側製品がソ連本土へと流れ込んでいた。また、限定的ではあったが、ソ連国内での「余剰品」が西側諸国へと輸出された。
 この影響は東側陣営全域にも及び、東欧での各種混乱の原因の一つとも言われた。しかし他の共産主義国ばかりかソ連本土からも離れすぎている場所のため、ソ連にとってはコントロールがしやすく都合の良い場所であった。
 そこで米ソデタントが進んだ1970年代、極東共和国国境からバイカル湖に至るシベリア鉄道地域が、試験的に経済特区に指定される。
 経済特区では市場経済が試験的に導入され、外資も厳重な審査を受けた後だが進出することができるようになった。現地に住むソ連国民の間でも、定められた以上の物品については各個に売買することが許されるようになった。
 当初は諸外国も警戒したが、極東共和国を介する形で、徐々に北東アジア諸国がソ連から「漏れてくる」商品を積極的に買い始めた。また逆に、自分たちの製品を輸出するようになった。ココム規制など西側が設けた厳しい制限はあったが、交流と貿易は確実に拡大した。不正品の輸出で逮捕者が出ることもあり、日本では不正品の大量密輸問題によって内閣が倒壊した事もあった。
 最初に大きな効果があったのは、1973年の「オイルショック」においてだった。東側でというよりソ連で世乗している石油が大量に輸出されたため、ソ連は大量の外貨を得て、世界規模での原油価格の高騰が抑えられるという現象が起きた。この事は西側にとっても大きな利点があったため、以後ソ連と西側諸国との取引は増えていく事になる。アメリカなどは、自国が浪費する石油によるドル流出と、ソ連が得る外貨を天秤に掛けてジレンマに苦しむも、結局ソ連との経済関係を進める事になる。その方がアメリカにとって、当面ではあれ利益となったからだ。
 この流れがモスクワオリンピックで一気に拡大し、経済特区も黒海沿岸のソチ地区、レニングラードのフィンランド国境近辺(カレリア地域)に拡大された。農作物の個人的売買も、ソ連全土に適用されるようになった。そして1984年には、厳密にはソビエト連邦ではないバルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアにも、限定的ながら市場経済が導入されることになった。

 そして1985年、書記長にミハエル・ゴルバチョフが就任した翌年、東側陣営全体に対して、所定の条件さえ満たせば市場経済を導入してもよい制度が施行される。
 ただし、共産党を中心とした体制が変えられることはなく、むしろ体制維持は熱心に行われた。共産主義体制が模範的であるほど、東側陣営ではソ連からの援助が増え、市場経済に対する締め付けも緩まった。
 要するに行き詰まった経済と国民生活を緩やかな市場経済の導入によって解決をはかり、民衆の不満を逸らすことで体制を引き締め直すのが目的だったのだ。
 しかし西側陣営はそうは考えなかった。
 また目の前での対立を強いられていた西ヨーロッパ、北東アジア諸国では、対立だけの時代でなくなった事は大きな前進だと考えられた。
 特に民族分断されているドイツは、経済特区に指定された東ベルリンを突破口として、西ドイツ資本と製品を流し込むことで自らの影響力の拡大や、最終的な民族再統合に向けて動き出していた。
 一方の北東アジアは、自らの経済力に自信を付けるようになり、その経済力でシベリア地域と深く連動する事で、ソ連との対立を緩和すると共に共通の利害を作ることで戦争の危険性を下げる方向に流れていた。
 この背景には、西ヨーロッパに比べて北東アジアでのソ連の脅威が低いことがあった。ソ連海軍は極東共和国駐留という名目でオホーツク海に若干存在する以外でほとんどなく、たまに原子力潜水艦が北極海(瑠姫海峡)を抜けて強引に北太平洋やオホーツク海に入ってくる程度だった。しかも極寒の東部シベリアがソ連軍の展開場所となるので、過酷な自然環境のためソ連側が常時置いておける軍隊が極めて限られていた。無論国境線には双方の国境警備隊が配備されていたが、大部隊が向き合っているのは満州国境の一部に限られているのが実状だった。このため核兵器以外で北東アジアがソ連の脅威を現実的に感じることは比較的少なく、それが心理的な垣根を低くして経済強力へと繋がったと見るべきだろう。
 満州国境が例外的に大軍を積み上げあっていたが、シベリア鉄道というアキレス腱をソ連が抱え続けている以上、局所的な脅威でしかないと考えられていた。

 しかも東アジア地域では、北東アジアと東南アジアの接近が進み、一つの大きな流れを作り出していた。
 そが現実となったのが、1985年の「東アジア自由貿易協定」の締結である。
 同協定は域内での関税撤廃と渡航自由を定めたもので、北東アジアと東南アジアのほとんど全ての国が参加していた。軍国主義や独裁、それに伴う反日、反竜関係が続いていた韓国も1980年の民主化以後は、近隣諸国との協調路線を歩むようになっていた。
 しかも竜宮、日本以外の国でも、経済的に大きく発展する国が数多く見られるようになり、地域全体が上向いていた。
 満州合衆国、台湾共和国、英領香港、シンガポール共和国、そしてベトナム共和国が新興国の雄で、ソ連と北東アジアのつながりを利用して、極東共和国の発展も進んでいた。他の東アジア諸国も、周辺国の発展に引っ張られる形で発展しており、「ECに追いつき追い越せ」が半ばスローガンとなっていた。
 しかもソ連の市場経済導入と解放政策に伴い冷戦構造の見直しが叫ばれるようになり、連動してアメリカからの自立という意見も目立ち始めた。
 軍事面でも、竜宮が戦略核を持っているのである程度の自立は可能とされ、先進国の日本、竜宮を中心にした地域全体のGNPも20世紀中には世界全体の四分の一に達すると予測されていたので、十分に一つの勢力圏を形成できると考えられた。
 しかし反発もあった。
 最も反発したのは、それまで北東アジアに強い影響力を持っていたアメリカで、東アジアはあくまでアメリカとの協力関係を重視すべきだとした。
 それに東アジア各国の間でも、アメリカとの外交関係、経済関係が重要という認識は強かった。特にアメリカ経済とのつながりが深く北米大陸に大きな領土を持つ竜宮は、アメリカとの関係維持には積極的だった。中核となる日本も貿易面、資源面など様々な面からアメリカとの関係維持は大前提だと考えていた。
 また、西側との関係を改善してソ連に対向しようとしいた人民中華も、ソ連と北東アジア諸国が関係を深めることを非難した。とはいえ、満州や台湾は人民中華が国家承認すらしていないため、流石の人民中華も対処が難しかった。しかも双方の国は自らの経済発展によって先に国力を大幅に増大させており、人民中華は自らの国際環境を原因とするジレンマに悩まされる事になる。
 そうした状況を踏まえて、竜宮を中心にして東アジア、北米、オセアニアを加えた環太平洋経済圏への道筋が示されるようになった。
 そしてここで注目を集めるようになったのが、竜宮本土だった。



●フェイズ62「現代15・トラフィックス・竜宮」