■フェイズ64「現代17・中華の安定と漸進」

 1971年に始まった「文化大革命」以後、中華地域中央部は20世紀最後の混乱期に突入した。
 1945年4億8000万、1960年3億2000万、1964年4億3000万、
1967年3億9000万、1971年4億6000万、1975年4億2000万、1989年5億4000万、2010年7億6000万。
 この数字は、1945年から2010年まで中華人民共和国の人口推移を現した統計数字の概算を抜粋したものである。周辺部が分離したことでの減少もあったり、数字は推定であり1000万単位での誤差もある。だがこれは、人民中華政府の公表値ではなく、第一級の研究家や外交関係者の調査と意見を複合的に判断した推定値のためだ。また混乱期の推定死者数との誤差があるが、これは人口減少期でも一定の出生率が維持されているためとなる。
 そして一目見て分かるとおり、通常の人口増減ではあり得ない数字の変動、乱高下が短期間の間に起きていることが分かる。まるで先物市場の相場を見るようだ。そしてこの数字が示すように、第二次世界大戦後からの半世紀は混乱の半世紀となった。

 1953年までの減少は、中華人民共和国成立に至るまでの中華民国との大規模な内戦により発生した。ここに人民中華の責任は比較的小さく、主に殲滅戦争を実施して亡んでいった中華民国とアメリカの無差別爆撃、そして周辺部の分離に原因があった。また、1964年からと1974年からの人口減少は、それぞれ大躍進、文化大革命による粛正と飢饉がもたらした。1976年までの人口増加率は、毛沢東の指導による強力な多産政策がもたらした。どれもこれも、通常の国家運営ではあり得ない事件ばかりである。粛正劇のたびに総人口の一割以上が死亡するなど、通常の国家ではなかなかない。特に人民中華が世界最大級の人口を擁する国家であることを考えると、異常という他ない。しかも人口減少時期も相応の出産数があると考えると、無為に死亡した人口数は最大億の単位に達する。
 また中華人民強国成立以後も、周辺国との摩擦、紛争、武力衝突は絶えず、主に人民中華側の内政に従って周辺国国境での紛争が頻発した。満州合衆国との自然境界線となっている万里の長城付近では、双方数十万の大軍が睨み合っている。ベトナム国境の山岳地帯にも、双方が大軍を積み上げていた。文革以後は、ソ連の衛星国となったモンゴル、東トルキスタンとの間でも、軍を並べあうようになる。主権問題についても、常に清朝時代の領域が自分たちの正統な国土だとして外交上は譲らず、国境を接するのに相互承認していない国も存在したままだった。

 しかし、老害をまき散らした毛沢東が死にトウ小平(トウ=登+こざとへん)が実質的な権力を握ると、強固な一党独裁体制を維持しながらも、ようやくまともな国家運営が始まる。
 ここまで国家や統治体制が崩壊せずにたどり着けたことがある意味奇跡であり、例え統治体制が独裁的・強権的であれ、国家体制を維持してきたことは評価に値するだろう。
 一方で大規模な戦争、粛正、飢饉の中にあっても人口増加が続いたのは、基本的に人民中華世界そのものが近世レベルの途上国の状態を維持していたからだ。また同時に、中華地域中央部が肥沃な温帯地域の平野部に多くが属している事を物語っている。前近代の文明状態でも、最大で5億人近い人口包容力を持っているからだ。逆を言えば、内乱による近代文明の破壊による混乱こそが、未曾有の飢饉による人口の大幅な減少をもたらしたと言えるだろう。人口飽和状態に入った社会では、経済変動・戦争による荒廃への抵抗力を無くしており、簡単に大量死に繋がるからだ。中華戦争での大規模な人口減少の理由の一端も、近世レベルでの農業社会での人口飽和にある。
 そして先に上げた数字の増減には、中華地域以外の全ての人が慄然となったのだが、自分たちの歴史を知る中華地域の人々は意外に平静だった。内乱によって人口が半減して、その後に新たな王朝が誕生することは、中華の歴史上では一般的に行われている事であり、驚くに値しないからだ。だが清朝と中華民国、中華人民共和国では、歴史上で今までにないほど人口が増大していたため、数字そのものも大幅に増大している。この事が、数字上での悲劇を一層大きく見せているのだ。
 しかし、独裁者が去った後の人民中華は、市場経済の導入、西側技術の導入、外資の受け入れによって、大きな変貌を始める。だが、順調だったわけではない。むしろ躓いてばかりだった。

 1970年代半ばにソ連と決別して西側諸国と和解し、市場経済の導入によって国内産業の建て直しと大きな変革を行おうとした。
 また一方では、西側との和解によって外資を導入すると共に、日本、竜宮に対して第二次世界大戦(+日中戦争(支那事変))などに対する賠償を放棄すると宣言する傍らで、事実上の賠償金である借款や政府開発援助(ODA)を求めようとした。とにかく、この頃の人民中華には近代的なものが何も無かったからだ。
 鉄道をひこうにも、線路の原材料を作るためのまともな大規模製鉄所はなかった。軽工業すらまともに存在しない上に伝統産業すら破壊されていたので、被服にすら事欠く有様だった。大戦前に日本が開発しアメリカが育てている満州や台湾があれば話しは少しは違っただろうが、どちらも人民中華の手にはなかった。それどころか、二つの国は国連にも加盟する独立国であり、人民中華を酷く警戒・敵視して国境を閉ざしていた。その上1970年代になると、日本、竜宮を始めとする国々の外資が二つの国に大規模に進出を始めた。そしてそれぞれの国の努力もあって、人民中華よりも先に後進国から新興国へと躍進しようとしていた。満州合衆国などは、中華戦争中の混乱での中華中央部からの大量の流民もあり、1970年代には総人口が一億人を越えた。GNPも、1980年代には新興国の上位に出て「紅土の奇跡」とも呼ばれた。台湾も小国ながら発展し、シンガポール、香港と並んで東アジアの新興国となった。
 そうした周辺部の変化に対する焦りもあって、人民中華は日本と竜宮から「歴史カード」を使って金を巻き上げようとしたのだが、うまくはいかなかった。北東アジアの国々は、まずは満州合衆国、台湾共和国の相互承認が先だとして譲らず、万里の長城付近では依然として両者の軍隊が睨み合っていた。
 そして満州、台湾に代表されるように、周辺国との間には国境問題、主権問題が山積したままのため、容易に周辺諸国との関係を進めることが難しかった。ソ連との決別によって、先に主権を認め合った形にされていたモンゴル、東トルキスタンについても、二度と漢民族の手には戻らないだろうと言われた。
 それでも人民中華は全ての問題を棚上げにし、アメリカもソ連への対向から同様の政策に出る事で関係は進んでいった。特に1979年以後その傾向は強まり、香港周辺の広東地方を中心にした経済特区には、主にアメリカとヨーロッパの外資がそれなりに進出するようになった。人民中華は、日本や竜宮企業の進出も望んだし両政府との関係も進めたかったが、北東アジア問題ではアメリカに代わり両国が前面に出るようになったため、どうしても一定以上の関係には至れなかった。その上両国は、満州、台湾、さらにはベトナムなど東南アジアへの進出を先に行っていたため、半ば更地となっていた人民中華領内に対する興味をほとんど持たなかった。中華側が切り札と見ていた「歴史カード」も、ほとんど効果はなくむしろ両国の反発を呼んだ。
 またアメリカにとっても、東アジアでソ連と主に向き合っているのは竜宮と満州であり、人民中華の軍事的価値はあまり高くはなかった。むしろ、交流後に内情を知ると、外交的価値を低くしたほどだった。

 1979年に変化が見られたのは、人民中華が核実験を成功させたためだった。1974年のインドに次ぐもので、世界で7番目の核保有国だった(米、ソ、英、竜、仏、印、中)。
 人民中華の核兵器の保有により、主に政治的に人民中華がソ連と敵対的な事への意味が増した。当時の人民中華の軍事力は、兵隊の数以外冗談程度の戦力価値しかなかったが、核を持つことで状況は一変。ソ連は人民中華への警戒を増さねばならなかった。事実、その年に予定していたと言われる、アフガニスタンへの軍事作戦が中止されたと言われる。実際は分からないが、東トルキスタン、モンゴルの駐留兵力が増強されたのは間違いない。ソ連本土内でも、シベリア、中央アジアの駐留兵力が増強された。ソ連の核兵器のターゲットも、かなりの数が西側諸国から人民中華に変更されたとも言われている。
 そして人民中華自身の外交変化もあって、近隣諸国との関係も一気に進んだ。
 満州、台湾を承認することはなかったが、全てを棚上げして万里の長城での大軍については相互削減交渉が成立。革命が起きたイランの代りを求めていたアメリカを一定割合で安堵させた。またこれにより、日本からの投資が西ヨーロッパ諸国並に増加していくようになった。竜宮との間にも、尖閣諸島は竜宮領とする国際条約に調印する事で、ようやく和解が成立した。それ以外で、竜宮側が譲歩する姿勢を全く示さなかったためで、人民中華外交上での屈辱と汚点とされる出来事ともされる。だが和解の代償として、竜宮も大幅な市場進出と援助を実施する事になった。

 一方では、人民中華が広く近隣諸国と交流を持つようになると、北東アジア、東南アジアそれぞれで国々が連合する向きを強めるようになった。内戦や粛正で国土が破壊されているとはいえ、中華の大地は半世紀もすれば復活することを近隣各国は遺伝子レベルで知っていたからだ。
 そして外に興味を向けた中華帝国とは、常に近隣諸国にとって好ましくない相手だった。人口に裏打ちされた国力を笠に着て進出されたら、たいていの国は太刀打ちできない。だからこそ、それぞれの国が連合していく向きを強めたと言えるだろう。また、中華国家とは基本的に大陸国家であるため、膨張傾向を持っている事を誰もが知っていた。現状では国力が低く同じ大陸国家のロシア(ソ連)といがみ合っているので問題は少ないが、誰もがいずれ来るべき時が来ると予測していた。
 そうした思惑があったため、近隣諸国は極めて安い労働力を利用するべく経済進出しつつも、次の時代に向けた準備も急ぐようになっていた。



●フェイズ65「現代18・新たな勢力図」