■フェイズ65「現代18・新たな勢力図」

 ソビエト連邦を始めとした東側陣営での市場経済の段階的導入、ヨーロッパ共同体の拡大と発展、東アジア経済圏の形成と東アジアの躍進、アメリカの停滞と覇権の低下、中華の安定とソ連との決別。そして東西両陣営合意の上での軍縮。上記したこの6つが、1980年代から90年代の始めにあった歴史的な大きな事件になる。
 そして全てに共通して言えることは、世界規模で経済のつながりが一層深まったという事になる。
 むろん全てが変化したわけではない。
 中東ではイスラエルと他の中東諸国のにらみ合いが続いていたし、アフリカは独立しても相変わらず欧米諸国から搾取され、中南米諸国の多くが財政難に喘いでいた。アジアでは中華近隣情勢が大きく変化したが、根本的な変化には至っていない。むしろ緊張は増していた。
 何よりソビエト連邦ロシアによる軍事的脅威が消えたわけではなく、アメリカを中心にして西ヨーロッパ、北東アジアがソ連と軍事的に向き合い続けていた。
 しかしソ連と中華双方が対立しつつも市場経済を導入し、イデオロギーの壁を越えて世界中に西側資本が流れるようになった。資本というものが、水と同じように高いところから低いところへと流れたのだ。
 その象徴的な変化、革新が、1990年から数年間の間に相次いで現れてくる。

 1990年、ソ連を中心とした社旗主義国の経済機構である「COMECON(経済相互援助会議=COMmunist ECONomic communityの意)」が再編成され、ECに少し似た組織に再編成された。とはいえ市場経済化はまだ限定的であり、あくまでソ連を中心とした組織である点に変わりはなかった。何しろ地下資源のほとんどはソ連が持っているからだ。
 また市場経済導入が一気に民主化をもたらすという雰囲気が東ヨーロッパ諸国に一時広がりを見せたが、ソ連は模範的な市場経済の導入と従来の体制維持を行った国を優遇することで、当面の覇権を維持しようとした。
 そしてソ連の財政が西側の予想よりも傾いていなかった事、折からの燃料資源高騰とソ連の市場開放に伴うソ連へのオイルダラーの流入でソ連の覇権が経済面でも強化された事、この二つの要因がソ連の傾きを止め、東側諸国のソ連からの離反、民主化を押しとどめた。また皮肉にも、米ソ双方で進んだ軍縮がソ連財政を多少なりとも健全化したことも、今まで無理をして軍拡競争をしていたソ連にはアメリカ以上にプラスに働いた。
 しかし、今までのような対立をしないとする選択を東側陣営が決めた効果は大きかった。
 比較的軍事的脅威が小さかった北東アジア諸国を中心とした外資が東側陣営に流れ始め、アフリカの一部やインドのようにソ連と関係の深かった国にも西側資本が進出の流れが強まった。軍事的に正面から対立している西ヨーロッパ諸国も、強い対立や緊張状態よりも一定の共存関係を望む方向性に舵を切った。
 アメリカは世界をリードする超大国としてソ連と対峙しなければならないが、他の国にとってソ連が違うゲームを行うと言っているのだから、それに乗るのが常道であった。
 これで市場進出した国は、新たな生産拠点と市場を獲得する事になり、双方で経済の活況が見られた。

 そしてその超大国アメリカは、1960〜70年代の自らの国内変化で半ば絶対的だった覇権に陰りが見えた。国内での人種差別問題の一定の解決と、意図的なアメリカ製造業の再編成(壊滅)がこれに当たる。産業の再編は、金融と法務、情報通信、少し後には医療・医薬品産業に特化するための産みの苦しみだと言われるが、時期的に正しかったのか行いそのものが正しかったのかという議論は今も続いている。加えて、西ヨーロッパ、北東アジア諸国との貿易競争の結果、経済の傾きが目に見えるようになった。別に軍拡競争や戦争を行わなくても、経済とは傾く可能性を常に持っているという何よりの証拠だった。
 この象徴が、アメリカの債務国への転落であり、先進国がニューヨークのプラザホテルに集まった時行われた取り決めであった。
 一般的に「プラザ合意」と呼ばれる会議において、ドルの為替レートが大きく変動する事になる。
 主なターゲットは経済的躍進が著しい日本と竜宮で、特に日本は五割も円の価値が低下して大きな経済的打撃を受けた。竜宮でも自国通貨リンカの対ドルレートが一度に8割近くに下落し、一時期かなりの苦境に立たされた。
 この時日本と竜宮は、アメリカに対して大きな恨みを持つことになり、それが「OS戦争」にも火に油を注ぐことになった。
 また日本と竜宮は、北東アジア諸国との連携の強化、主にシベリアへの市場進出へと傾倒する事で経済的苦境を脱しようとした。人民中華への市場進出も、借款やODAとの等価交換という形で一定割合強化された。特にこれまでドルへの依存が強かった日本の動きは、極端なほどとなった。さらには、ドルへの極端な依存を弱める代わりに、自らの経済と東側経済を密接につなげることによる新たな国家戦略と潜在的な安全保障を構築しようとした。
 しかし日本と竜宮は、債務国に転落したアメリカの国債を買うことはほとんど躊躇わなかった。強いドルの維持は、自国通貨の価値上昇を抑える事にもなるし、アメリカの債務を持っているということが外交カードに使えるからだった。無論、そんなに簡単に事態は運ばなかったが、アメリカと日本、竜宮の経済関係が新しい道へと進んだのは間違いなかった。
 一方のアメリカでは、日本と竜宮の動きについて、竜宮はともかく日本がこれまで通りアメリカの言いなりにならない事を肌で実感させられる期間となったと言われる。
 しかもアメリカにとっての自らの衛星国だった満州合衆国、台湾共和国も、アメリカ離れを徐々に加速して近隣の日本、竜宮に同調する向きを強め、さらには北東アジア圏、東アジア圏としての活動を強めた。アメリカがソ連に対向するために、中華に必要以上に接近しすぎた事が原因していた。中華周辺国は、アメリカは所詮アジアの国ではないと見限り始めたのだ。
 そして全ては一時的な事かもしれないし、むしろ一時的な可能性の方が高かったが、アメリカとしては自らの転換期にある事も重なって看過できる問題ではなかった。
 当然アメリカは反撃なり制裁なりを含めた巻き返しを計ろうとするが、これも1988年の竜宮に対するスーパー301条発動による混乱と、ソ連に対抗する宇宙開発で竜宮と日本が中心とする宇宙開発組織のEASEA(イーセア)が主導権を握っている状況では、今までのように多くを言うことができなかった。
 しかも、アメリカが次なる基幹産業と位置づけた情報通新分野での竜宮、日本との対立と、両国の躍進は目立った。
 イーセアは、アメリカとは違う独自の衛星測位システム「スカイ・ネット」を1980年代後半から熱心に整備し始め、竜宮、日本がアメリカとは違う立場、アメリカに依存しない立場をこれによって示すなど、アメリカの覇権後退が宇宙開発の面で一層際立つことになった。軍事面でも、竜宮と日本は大量の偵察衛星を自前で運用するようになっていた。
 そして次世代通信技術の根幹であるコンピュータを媒介とした電子通信網の「WWW(ワールドワイドウェブ)」、もしくは「インターネット」が1991年に登場して1993年に無料解放が登場すると、北東アジアとの競争は一層強まっていく。
 これは1980年代から起こっていた「OS戦争」と連動することで熾烈さを増して、結果として20世紀末までにアメリカ側の事実上の敗北という形で幕を閉じる。
 これもアメリカ(経済)の退勢と斜陽を世界中に印象づけることになった。
 そして1980年代中頃からのアメリカの勢力減退に比例するように発展していたのが、西ヨーロッパ、東側陣営、そして北東アジアだった。

 西ヨーロッパでは、世界情勢の変化を受けて1993年に「欧州連合(EU)」が成立して、いち早く新たなステージへと突入した。
 東側陣営の市場経済導入に伴う冷戦構造の変化にいち早く対応したもので、またEC時代の下積みがこの時の組織結成へと繋がっていた。
 初期加盟国は西ヨーロッパを中心にした12カ国で、1995年にはさらに3カ国が加わった一大勢力を形成する。
 EU全体で東側陣営単独に匹敵する勢力であり、経済力ではアメリカ単体に次ぐ規模に膨れあがった。
 そしてこの勢力の主に経済力、文化力を武器として東ヨーロッパへの浸透を図るようになり、軍事力だけに頼らないスーパーパワーの維持を目指していたソ連率いる東側陣営の大きな脅威となると同時に、アメリカとは違う道を歩む点において大いに注目、そして利用すべき存在となった。またEUも軍事面以外では、アメリカともある程度一線を隔てるようになる向きを強めた。
 EU発足の発端の一つとなった東側での市場経済の導入と、大幅な軍縮により経済の建て直しに挑んでいたソビエト連邦は、1990年代中頃になるまでに陣営を含めた一応の建て直しと再編成を完了した。経済面では、地下資源輸出と加工製品の輸入という形でアメリカ以外との関係を強めるようになった。特に北東アジア諸国とは軍事対立が比較的小さく、歴史的な領土問題、民族問題も少ないため、中華地域の安定化という共通目的があるため協力関係が進んだ。
 東側の変化を西側は、東側陣営を民主化するための絶好の機会と考え、一部では冷戦構造の終わりという言葉も飛び交った。しかしソ連は軍縮してもなお強大であり、宇宙開発でも一定のリードを維持したままだった。
 アメリカとの軍拡などで停滞もしくは傾いていた経済は、原料資源の輸出で大きく持ち直し、国内経済は西側製品が溢れることで民心はむしろ安定に向かった。しかもソ連政府が大量に得た外貨を国庫に入れて、その後に民衆に還元する従来の方式は維持したため、市場経済導入後も極端な成金や富豪は誕生せず、国民へのほぼこれまで通りの安価な衣食住の提供を続けることができた。
 鉱工業やインフラを始めとする老朽化した国内の施設も、西側から機械を輸入し、西側企業、西側資本を入れて刷新する事で大きく持ち直した。農業生産についても一時は輸入せねばならないほどに傾いていたものが、個人所有と市場経済の導入、さらには西側資本、技術の導入によってかなり持ち直した。
 この中で活用されたのが、東アジア資本だった。特に日本資本はイデオロギーや東西対立に対して一番鈍感であり、政府も長期的国家戦略に欠け、その上戦後ロシア人と国境を接しなくなった事も重なって、ソ連にとって安全度が高かったからだ。このため日本ではソ連特需が長期に渡って発生して、円の大幅下落による経済の沈下を防ぐばかりか、大きく躍進することになった。
 そして相対的規模の大きな日本が経済面での中心となった北東アジアでは、ヨーロッパに追いつき追い越せのかけ声のもとで、経済の統合と地域全体の一体感の醸成が進んだ。
 竜宮は、より高位の環太平洋全域での連携を唱えたが、一時的にアメリカへの対抗心が高まっていた日本はあまり聞かず、他の北東アジア諸国も感情的な反米という感情から日本に同調する向きが強まっていた。これは満州や台湾も例外ではなく、むしろアメリカの長い支配を受けていた反動から、アメリカに対するマイナス感情は日本よりもずっと高かった。日本の場合は、アメリカとの長年の交流もあって個人レベル、文化レベルでの反発には至る気配すらなかったからだ。
 そして竜宮も、まずは情報通信の国家間競争に打ち勝つためには、まずは北東アジアでの団結を優先する事を決意し、行動を開始する。


●フェイズ66「現代19・新冷戦時代」