■フェイズ66「現代19・新冷戦時代」

 1980年代からの東側の市場開放と米ソを中心とした革新的な軍縮によって、世界は新たな時代へと突入した。
 資本主義と社会主義、民主主義と共産主義によるイデオロギー対立の時代は取りあえず前者の資本主義と社会主義の対立構造が形の上ではほとんどなくなった。
 1990年代に入ると、東側陣営広くに市場経済が取り入れられ、政体の決定的違いと技術分野での遮断など、かなりの壁は存在したままだったが、東西両陣営の間で貿易と交流が活発化した。特に原料資源、食料品、古い技術を用いた民生品の貿易が爆発的に伸びた。
 そして東側陣営との交流を進めたのが、EUとして団結した西ヨーロッパ諸国と、北東アジア諸国だった。

 北東アジアでは、1980年代から満州、台湾の経済が大きく躍進していた。日本、竜宮との感情的対立から発展が遅れていた韓国も、1990年代に入ると周辺国に影響される形で発展路線が軌道に乗るようになった。ソ連と経済面での連動が強まった極東共和国も、1980年代から経済力の拡大が続いていた。そして北東アジアでの投資の流れが新興国に向いたため、市場開放した人民中華への投資、投資を発端とする発展はその分大きく遅れていた。
 つまり人民中華を例外とすると、竜宮、日本を除く北東アジアの全ての国が新興国として頭角を現した事になる。そして近隣の発展に押される形で、竜宮、日本経済も順調な伸びを見せていた。
 北東アジア6カ国を合わせた総人口は、1995年の時点で約3億6500万人でEUとほぼ同じで、アメリカ、ソ連単独を越えていた。旧竜宮領のブルネイ島の二カ国を加えると、人口はさらに1000万人ほど増える。
 域内のGDPは日本と竜宮がほとんどながら、アメリカの三分の二を越えていた。対EUだと8割を越える数字となる。これを世界比率で単純に見ると、全世界を100として、アメリカ32、EU26、北東アジア21、共産圏12、他9という数字になる。先進国と呼ばれる国が如何に世界中の富を集め、この過半数以上が西側欧米諸国に集まっているという図式に、世界の歪さを見ることができる。そういう視点から見た場合、北東アジアの躍進と隆盛は時代の変化を伝えるものだった。なぜならこの後、さらに新興国、燃料資源国の隆盛が順次続いていくからだ。
 だが1990年を挟んだ前後十年ほどは北東アジアの時代であり、軍事力でも竜宮が必要十分な質と量の核兵器を保有して、日本と竜宮が中型空母と原子力潜水艦、長距離巡航ミサイルを有しているため、EUに並ぶものがあった。宇宙開発でもソ連に次ぐ地位にあり、予算規模でもアメリカの7割、EUの約二倍の数字を示していた。
 そうした国力を背景にして、情報通信産業と先端工業に力を入れる事で国際競争力を付け、アメリカへの事実上の挑戦を行い始めたのがこの時代の北東アジアだった。

 そして北東アジアは、主に経済面で東南アジア諸国との関係も深めるようになり、それが形となったのが1985年の「東アジア自由貿易協定」だった。
 組織の形としては西ヨーロッパのEEUに近く、いくつかの面ではEUに似た面も既に取り入れられていた。
 しかし西ヨーロッパと違って各国の経済格差が大きいため、組織はどうしても北東アジア優位、さらには日本、竜宮優位の組織だった。当然各国の反発や不和も多く、また韓国が感情面だけで日本、竜宮との関係を一方的に悪くしているため、さらに組織の結束を遠くしていた。ただし、満州合衆国、台湾が経済的に大きく躍進し、特に日本に次ぐ大人口を持つ満州の躍進は、日本、竜宮とある程度対等に立つ国の誕生として、陣営内から好意的に見られるなどの変化も進んだ。

 そして経済面で二つの勢力を新たにライバルとしたアメリカは、世界規模での自由主義経済化を推し進めた。この場合はソ連の市場経済導入もその追い風となり、アメリカとソ連も徐々に経済関係を深めるようになった。
 これが形となったのが、1995年の「世界貿易機関(WTO)」設立だった。
 この組織を媒介することで、アメリカは西ヨーロッパと北東アジアの市場開放を強く求めるようになる。逆にアメリカの市場開放も求められたが、既に金融面での特化が進んでいたアメリカは自信をもってこれを受け入れ、西側に属する二つの勢力と相対した。
 そして何より、金融産業の自由化と世界規模化の潮流を自ら作り出し、世界中のお金が電子の世界の上を駆けめぐる体制を作り出すことで、再び「$」への求心力を取り戻そうとする。
 しかしソ連は、市場開放を進めるもルーブル為替は政府が管理して事実上固定したままだった。日本、竜宮を中心とする北東アジア諸国は、プラザ合意以後は自国通貨の強化と競争力向上に努めているため、ドルには以前ほどなびかなくなっていた。北東アジア地域全体でも基軸通貨としてのドル離れが進み、自国通貨と自国通貨と連動性を強めた近隣諸国の通貨との関係を深めた。特に日本のエンと竜宮のリンカは、それぞれの国が高いGDPを持つ先進国であるため、かなりの信用性と浸透性を発揮した。
 また北東アジア諸国のほとんどは、アメリカが中心となった「自由化」に対して懐疑的だった。ソ連との軍事的緊張の継続を理由として、情報通信の完全自由化と組織「カイゼン」以外は行わず、アメリカとの経済的対立が日常のものとなっていた。この背景には、北東アジア諸国の伝統的風土や制度が、アメリカの制度と合わない事からくるものため、両者が折り合うことはなかなかなかった。アメリカの一部では北東アジアのマイノリティーを利用することで突破口を開こうとしたが、北東アジアの国でマイノリティーが頭角を現すことが文化的に難しいため思うに任せなかった。一事は人民中華の利用も考えたが、人民中華は厳格な通貨統制を実施し続けて、アメリカに付け入るスキを与えなかった。
 ただし韓国ではアメリカ型経済が進み、韓国の通貨ウォンをドルとの連動性を強めるという行動(ドルペッグ)が取られた。この結果韓国にはドルを媒介として多くの外資と外貨が一時的に流れ込み、表面上は大きな経済発展へと繋がった。しかし竜宮や日本は、韓国の安易な選択に警鐘を鳴らし、また北東アジア地域での経済的連携を乱す事になると忠告を繰り返した。当然ながら、日本、竜宮とアメリカの経済面での関係はさらに悪化した。
 加えて、アメリカが北東アジア諸国内での関税自由化に対して、アメリカが関係もかなり勝手な自由化を求めた事で、北東アジア諸国とアメリカの関係悪化が進み、これも北東アジア諸国のドル離れを加速させた。
 さらに西ヨーロッパは、北東アジアよりも一歩進んで、域内での通貨統合に向かう事で、ドルに挑戦する気配を濃厚なものとした。しかも北東アジア諸国のようなアメリカとの深い対立を行うこともなく、日本などよりもずっと賢明に自らの地盤固めを行っていた。

 一方では、ドルの下落と西ヨーロッパ、北東アジアの経済的な結束の流れの中で、世界規模での金融市場は連携と拡大を広げていた。しかも情報通信技術の革新的な進歩がこれを大きく助長し、世界中の富裕層の資産、余剰資金がさらなる利益を求めて世界中を行き交うようになった。
 しかし簡単に情報が駆けめぐる社会では、極端から極端に流れる方向性が極めて強く、しかもどん欲に利益を求めるシステムにおいてそれは顕著だった。その上新たな金融システムを作っているのが、アメリカが集めた最高の頭脳集団とあっては尚更だった。この集団の事を、一般的にはヘッジファンドと呼ぶ。
 無論、新たな金の流れを利用する方法もあったが、利用される場合も多く、商業というよりは投資、投資というよりは投機、中でも賭博性の強い投機の側面を色濃く見せていた。
 そして賭博で一番の利益を得るのは、ほとんど全ての場合胴元であり、この場合の胴元とは一番の資産、余剰資金を持つ本当の金持ち達だった。

 最初に勝負に負けたのは、タイ王国と大韓民国だった。
 1997年に二国の経済は金融市場での勝負に敗北し、順次IMFの軍門に下っていった。IMF(国際金融基金)も、組織の表面上はともかく、アメリカが作り出したアメリカの金持ちのためのシステムだった。
 この時の経済的混乱は「アジア通貨危機」と呼ばれたが、単なる経済危機だけでなく東南アジア各国の政権を崩壊させていった。連動して、東アジアの経済的統合の流れも、大きく停滞させた。当然ながら、ヘッジファンドやIMFを始めとした反欧米感情を招いた。
 しかも世界経済全体の景気も大きく後退し、世界的なデフレも重なって資源余りが発生して、国際価格が大きく値崩れしてしまった。事を起こした欧米の投資家やヘッジファンドも大きな損失を出して活動を低迷させた。
 そして資源価格の下落で大打撃を受けたのが、東側陣営、分けてもソビエト連邦だった。

 ソ連は、市場経済導入後、外貨の主な獲得を兵器輸出と地下資源輸出に頼っていたソ連にとって、資源価格の大幅な下落や値崩れは既に死活問題となっていた。
 しかも世界的な経済的低迷で東側に流れていた西側資本と余剰資金は一斉に停滞し、東側全体が大きな不景気に突入した。しかもこの不景気につけ込んで、西側資本の一部が東欧を中心にして企業や利権の買い叩きを始める事で、ソ連のアメリカに対する不信感を大きく増大させる。
 そしてソ連は、自らの苦境脱出のために重要産業の国有化の流れを再開し、武器輸出を大幅に増やして対外緊張を増大させることになった。
 主な武器の輸出先は、既に安定にしつつある中華地域ではなく、混乱の多いアフリカ各地と、大きな顧客である一部の中東諸国だった。
 中東では依然として、西側というよりアメリカと強く繋がっているイスラエルとその対局にいる原理主義国家のイラン王国が、イラクやシリアなどと激しく対立していた。ただしイランも経済制裁に加えて資源価格下落の余波をもろに受けており、またアメリカが資本主義の弊害が表面化して政治的に不安定になっていた。
 しかし東側にとって一番の問題は、景気悪化による国内情勢の不安定化であった。
 市場経済導入後からこの時まで、比較的順調に市場経済が導入され、GDPも順調に伸びていた。1970年代に西側から言われていた社会主義的停滞もある程度解消され、それぞれの国内には富裕層や中産階級も形成されるよになっていた。しかし豊かになったのは、各国の共産党関係者が多かった。また、多数を占める中流以下の市民に対しての衣食住と社会保障の提供のためには、国庫の大量の資金がなくてはならなかった。
 これが一時的であれ大きく減少したので、ソ連政府は自国内では政治的な統制を強めざるを得ず、他の東側諸国への政治面での締め付けも強められた。当然ながら反発があり、特に東ヨーロッパ諸国とソ連邦内のいくつかの共和国で反発が強まった。
 そうした中、1980年代から民族問題で揺れていたユーゴスラビアでついに民族間、宗教間での戦闘が発生。国内も分裂状態に陥り、内戦状態となった。
 西側諸国の非難の中でソ連軍が大規模に軍事介入するが、もともと複雑な民族問題を抱えていたユーゴスラビア情勢は簡単には安定化せず、ソ連軍の介入は火に油を注ぐことになった。
 そしてソ連は、ユーゴ情勢が他国に飛び火することを恐れ、さらに他の国々への影響力拡大を行い相手からの反発を強めるという悪循環を繰り返すことになる。
 軍事費の支出も急激で、ソ連の国庫を締め上げた。
 この動きはアメリカ、西ヨーロッパ諸国との対立を再び高める事にもなり、軍事的緊張が再び高まった。
 そうした混乱の中から頭角を現したのがKGB出身の若手政治家のウラジミール・プーチンで、21世紀に入っても存続していたソ連は、新たな強い指導者のもとで体制と国力、そして軍事力での強化が図られるようになる。



●フェイズ67「現代20・21世紀突入」