■フェイズ02「関ヶ原の合戦(1)」

 決戦場に至る最後の戦術機動でも、徳川家康の思い通りにはいかなかった。
 東軍は西軍を分断した形で布陣するつもりだったのだが、東軍諸将特によりにもよって自らが率いる軍勢の動き(戦略機動)が予想外に鈍く、後から動き始めた筈の石田三成率いる西軍主力に関ヶ原の要所を占められてしまった。
 つまり西軍は主力部隊全てが、東軍を半包囲した上に京の前面で立ちふさがるように布陣する事になった。
 しかし既に双方が動いているため、東軍は逃げ出す以外に関ヶ原から抜けることは難しく、既に野戦築城された要地を西軍が占めているため、東軍の側から対陣を行って増援を待つという行動もむずかしかった。無論逃げるのは論外だ。自軍の士気が崩れ軍勢が霧散する恐れが非常に高かった。
 しかも今度は後方となる南宮山の西軍は、一部が内応しているだけで小早川秀包や安国寺恵瓊など好戦派の武将もいるので、全てが戦わずして東軍に寝返る可能性は低かった。しかも西軍優勢とあっては尚更だった。しかも抑えとして多くの戦力を南宮山方面に裂かねばならず、事前の想定でもかなりの大軍を後方に配置せざるを得なかった。
 豊臣秀吉が作り出した平穏の中で多少忘れられつつあるとはいえ、戦国時代において機を見て動くのは武将の鉄則だった。弱い方に味方するのは、余程の馬鹿か軍記物に名前を残すほどの忠義者だけの筈だった。そして東軍が取りうる戦法は、石田三成など西軍中核人物の打倒以外になかった。
 西軍を野戦に誘い出した筈の東軍は、自らの策と半ば偶然により自ら窮地に陥ってしまったのだった。

 夜が明け霧が晴れてみると、驚愕の事実が東軍を待ちかまえていた。
 松尾山の野戦陣地とその周辺部に、これまで濃尾平野で見かけなかった幟が多数上がっていたのだ。
 松尾山の山頂に毛利元康らの幟が翻り、麓には筑紫広門、立花宗茂らの幟が乱立していた。この軍勢は、大津城を攻めていた1万5000の西軍だった。9月14の開城後に急速な戦術機動を行うことで、この日の深夜に関ヶ原西部へと入り、そこで知らせを受けて急ぎ松尾山へと布陣したものだった。途中が石田領であるため、この地域での西軍の戦術機動は非常に早く行えた。
 しかも大垣の西軍主力の移動と自軍の移動などと重なっていたため、東軍はこれを察知することができなかった。
 加えて、9月13日に田辺城を開城させた西軍約1万5000の大軍も若狭方面から急ぎ関ヶ原を目指しつつあり、すでに道半ばにあることがおぼろげながら判明していた。

 関ヶ原での戦闘は、9月16日の午前7時頃に開始された。
 盆地状の関ヶ原一帯は霧が立ちこめやすいが、この日は前日の15日ほど深い霧は発生しなかった。このため予想された時間での戦闘開始となった。
 この時西軍は、西側の戦闘正面が約3万6000で、松尾山から東山道にかけては約1万5000が布陣していた。さらに南宮山方面には約4万8000もの大軍が包囲網の一翼を担っていた。合わせて9万9000人の大軍である。しかも部隊の多くは山裾の野戦築城した陣地に布陣し、さらに敵を包囲体制に置くという圧倒的有利な体勢にあった。
 軍記物語などで、朝日が昇り朝霧が晴れた時点で石田三成が「勝った」とつぶやくシーンが多く登場するのはこのためだ。
 石田三成と大谷吉継、島左近合作によるアート・オブ・ウォー完成の瞬間だったのだ。
 これに対して東軍は、豊臣恩顧の大名を中心とした前衛が2陣に分かれて約4万5000、徳川家康本軍の主力が約2万人、東方警戒の後衛部隊が徳川家康本軍の分隊約1万人を含め約2万4000で、合わせて8万9000人と西軍の方が最初から優勢だった。
 しかし東軍は前衛に多くの兵力を配置し、しかも戦闘力の高い部隊が多いため、まったく不利という訳でもなかった。包囲される前に敵主力の守りを突破してしまえば、勝てる可能性は十分に存在する筈だった。
 だが西軍主力部隊だけでも、東軍を半ば包囲した状態な上に野戦築城した高地を占めて布陣しているため、陣形としては西軍が著しく有利な状況にあった。純粋に軍事面から事象を捉えた場合、盆地の真ん中にいるだけの東軍に勝てる要素はなかった。勝機があるとすれば、家康本陣の桃配山に野戦築城して籠もって秀忠軍の到着まで持久戦を行う方法があると言われるが、これも疑問が多い。西軍にも時間が経てば到着する諸将や部隊はかなりの数がいる上に、西軍としては南宮山方面の大部隊を用いて包囲の蓋を閉じてしまえば、たとえ大軍の増援が現れても簡単に敵を分断できる状態であった。
 そしてこの時の西軍は、時間差を付けた後手の一撃の形での包囲攻撃を予定していたため、北方と東方に兵力を分散させた形になり、主要戦力では東軍がが有利だった。一戦での勝利を求めるあまり、西軍はややアート・オブ・ウォーに傾いていると言えるだろう。
 そして東軍は、前衛部隊で一気に西軍の主力部隊を撃破するパワー・プレイを実践する心づもりであり、他は相手にしないような選択を行っていた。というよりも、元々が石田三成憎しの感情だけで集まっている武将が多いため、石田三成など西軍の主要な武将以外は見ていなかった。また死地にある東軍の方が、心理的、陣地的に追いつめられているだけに士気の面でむしろ有利といえた。

 戦闘は、東軍の井伊直政による西軍陣地に対する形だけの突撃によって開始された。
 そして、東軍前衛が一斉に西軍の主力部隊に突撃する形での戦闘が展開される。しかし東軍は感情的となった武将が多く、石田三成を中心に西軍の中心人物の軍勢に集中する傾向が強く、かなり無秩序な戦闘が行われた。
 そして戦闘開始から約2時間が経過した午前9時頃までは、西軍約3万6000に対して東軍4万5000程度が激しくぶつかり合う戦いとなった。数において勝る東軍は、戦力をうまく集中させれば短時間で西軍主力を撃破できる可能性もあった。
 しかしここで、感情と言う要素が東軍に暗雲をもたらした。
 前衛の多くを担っている豊臣恩顧の大名達は、石田三成を中心とした文治派に対する悪感情から戦列に参加している者が殆どだったため、霧が晴れてすぐに自分たちの視界内に入った西軍の一番左側に位置していた石田三成に殺到した。6000ほどの軍勢しか率いていない石田勢に、数倍の軍勢が殺到するという無秩序さだった。しかも士気の高い石田勢は、入念に野戦築城を施した陣地の中にいるため容易に崩れなかった。
 翻って東軍左翼は、前衛の三分の一程度しかいなくなっていた。西軍というより、石田三成と大谷吉継の思惑通りの戦闘展開だった。しかも西軍本隊と右翼部隊の継ぎ目には、軍師である大谷吉継自身が布陣するという念の入りようで、西軍で最初に包囲の輪を閉じる部隊は、戦闘を間近に見ているため戦闘参加を待ちわびていた。

 つまり東軍は、包囲殲滅してくれと言わんばかりの戦闘を行った事になる。本来ならば、半包囲されているのだから敵中央に戦力を集中してを食い破って、その後左右どちらかに旋回して敵戦力を分断しなければならないからだ。特に、展開する兵力に対して狭い戦場で、敵の起点でしかない最左翼に戦力を集中するのはまずかった。横あいから敵右翼部隊の攻撃を受ける可能性が高いからだ。
 戦闘の様子は両者首脳部も確認しており、徳川家康は内心の気持ちを抑えつつ、自ら率いる主力部隊をやや北寄りに移動させ、後方に残していた有馬豊氏、山内一豊も街道沿いに前進させて西軍の後詰めに備えさせた。この時点でも南宮山の西軍大部隊が動いていない事は、東軍にとってはさい先の良い状況に思えた。
 しかし、野戦を得意とする徳川家康らしからぬ徹底さを欠いたものであり、後世強く批判されるところとなる。
 いっそ西軍右翼に早めに戦闘をしかけ、戦場全体での膠着状態に追い込んで戦闘自体をドローに持ち込むべきだったとも言われている。そうすれば、決定的勝利はどちらの手にも転がり込まないと言われているからだ。
 そして長期戦ならば、徳川家康の方が相対的に有利だったという説が多い。何しろ、増援としてやってくる事が確実な部隊は、東軍の方が数が多く戦力も高かったからだ。

 東軍の攻撃に対して西軍は、戦闘初期は野戦陣地に拠って包囲攻撃の前の耐える守りの戦いを重視したため、戦況全体を西軍有利に展開した。しかも元から薄かった東軍左翼は、宇喜多勢を中心とする西軍の大部隊に自ら突撃することで、自ら短時間で消耗していた。
 そして午前9時半頃になると、宇喜多勢ら西軍中央右翼の大名達が、東軍左翼の福島政則、藤堂高虎、京極高知、寺沢広高らを圧倒し始めた。東軍の疲労が重なったのが大きな原因だった。特に自らの三倍近い数の宇喜多勢を相手にしている福島勢は、いかに主将の戦意が高く軍勢自体の戦闘力が高くても、その劣勢は覆いがたかった。しかも最初に数の多い側が防戦に徹したとあっては、福島勢の戦い方は無謀ですらあった。
 案の定福島勢は宇喜多勢の一時的な逆襲によって大きな後退を強いられ、疲労によりその後の逆襲も中途半端なものでしかなかった。他の戦場でも、東軍諸将が西軍陣地を攻めあぐねていた。
 それを見た家康本軍は、自軍の士気高揚のために最前線近くまでの前進を行い、戦意を高揚させた東軍の攻撃も激しくなる。
 しかしこれは西軍にとってもチャンスだった。一時の勢いから、疲労で戦闘力が低下する瞬間を狙って総攻撃を開始すれば、敵の勢いが一気に衰える可能性が高いからだ。
 そして戦闘開始から約3時間が経過した午前10時、総がかり(総攻撃)好機到来と判断した石田三成は、狼煙を上げる。

 狼煙を見て、待機を命じられていた西軍の各部隊は、一気に戦意を高揚させた。
 松尾山とその周辺部では勝ち鬨のような雄叫びが起こり、南宮山方面からも、遠雷のようなこだまが響いてきた。これは小早川勢とその近在の安国寺勢、長束勢、長宗我部勢らが上げ鬨の声だった。そしてここで徳川家康の誤算が一気に噴出する。
 南宮山で日和見するはずだった武将達が、西軍として動き始めたのだ。
 小早川勢だけで1万5000、これに積極的な諸将を合わせて2万ほど。中には内応はしていないが消極的だった長宗我部勢も、戦場の勢いにつられて動き出してしまった。合わせて3万人近い大軍勢であり、それが一気に後衛の池田輝政、浅野幸長合わせて1万1000ほどが布陣する陣地に殺到。東軍の後衛には、さらに徳川本軍から派遣されていた1万があったが、有馬、山内の軍勢はすでに関ヶ原中央に移っているため、この時点で東軍の不利だった。
 しかも西軍の後方には、毛利秀秋、吉川広家の軍勢、合わせて1万8000が南宮山山中に布陣しており、それらが一気に下れば関ヶ原東部の戦いは一気に決すると見られていた。

 一方、関ヶ原西部の主力同士の戦いだが、一気に西軍有利に動いていた。
 石田三成の陣地から立ち上る狼煙を見た松尾山の毛利元康らの軍勢(※便宜上「大津勢」とする)が山が鳴るほどの鬨の声を上げると、間髪を置かずに一斉に山を下り始めた。そして坂道を下った勢いのままに、一気に東軍左翼の福島勢、藤堂勢、京極勢などそれぞれ狙いを定めると襲いかかった。西国大名の武闘派大名の一人である毛利元康は、総掛かり(総攻撃)の瞬間を今か今かと待ちかまえていたと言われている。この時軍記物では、決まって「狼煙はまだか、まだ上がらぬか」という毛利元康の問いかけが姿を出すほどだ。
 連動して、東軍に内応していた筈の松尾山近辺の立花宗茂ら中小の大名達は先鋒となって東軍への攻撃を開始した。
 同時に、大谷勢、宇喜多勢も一気に逆襲に転じ、それぞれ後方に温存していた無傷の部隊を投入する事で一気に戦況を有利にしていった。そして西軍の勢いのある挟み撃ちにあった東軍左翼は一気に崩れ、東軍の一番左翼にいた藤堂勢、京極勢はわずか30分ほどで壊乱状態になった。最初に突撃した立花宗茂勢などは、京極高知の首級を挙げ軍勢を壊乱させてしまう。局所的な戦力差がもたらした、戦況の変化だった。
 そして連鎖的に福島勢も崩壊して、福島正則は激闘の中で将兵を鼓舞する怒声を上げつつ憤死したと、後世伝わる劇的な最後を遂げる。

 午前11時頃、東軍左翼の主な残敵を蹴散らした西軍右翼部隊は、宇喜多勢から一番右翼の筑紫勢まで合わせて3万7000ほどが関ヶ原の伊勢街道沿いに流れる寺谷川の西岸で、次の突撃のために陣形を再編成した。同時に、東軍左翼の一時的崩壊は、徳川家康本陣及び主力部隊に対する突撃路が開けた瞬間ともなった。
 ほぼ同時に、石田勢、小西勢も逆劇に転じ、野戦築城された陣地から後方に温存していた予備部隊を先頭として逆襲を開始し、動揺の見えた東軍左翼を明らかに押し始めた。そして他戦線での西軍優位による東軍の動揺も手伝って、東軍をあきらかに押し始めていた。ここで総指揮を取っていた石田三成は、大坂城から持ち出した大砲を連続して発射し、敵のさらなる動揺を誘った。この大砲は、攻勢時の衝撃を大きくするため、あえて防戦の間は使われなかったものだった。

 東軍は、大きな混乱へと陥りつつあった。
 福島勢6000をはじめ、午前11時までに1万人以上の軍勢が四散していた。一部が家康本隊などに逃げのびていたが、残りは討ち取られるか敵軍のいない方角に逃げ散っており、ほとんど軍の体裁をなしていなかった。特に福島正則、京極高知の戦死は東軍にとって大きな痛手で、同時に心理的衝撃も大きかった。
 生き残った藤堂高虎にしても、軍勢のほとんどは壊乱して僅か数百名にまで激減して家康本陣に合流している。
 また徳川家康本隊の2万人の軍勢は、士気向上と督戦のために初期の本陣の桃配山から開けた場所に前進していた。このため午前11時頃は、側面が西軍右翼にさらされた状態となったため、あわてて軍の配置を行っていた。徳川家康本隊は、後詰めとしての役割を十分果たせないまま全力で戦闘に当たらなければならなくなっていた。
 しかも家康本隊の前には、本多忠勝と後方から前進してきた山内一豊と有馬豊氏を合わせても3500に届かないわずかな兵力しかいなかった。そのうち本多忠勝は、前進していたものがあわてて戻ってきた形だったため、戦国最強と謳われた本来の実力を発揮し辛い状態にあった。
 しかも東軍主力部隊全体が、北国街道方面に集中していたため、自ら狭い地域に入り込んでいる形になっていた。
 軍勢全体の数ならばほぼ互角といえたのだが、勢い、士気、陣形、地の利などを考慮すれば、西軍の圧倒的優位にあった。


フェイズ03「関ヶ原の合戦(2)」