■フェイズ03「関ヶ原の合戦(2)」

 9月16日午前11時頃、戦況は西軍優位に動いていた。
 午前7時から開始された戦闘は既に4時間に及んでおり、東西両軍とも疲労が重なっていた。しかし両軍共に全ての軍勢が最初から闘っているわけではなく、多くの予備兵力を抱えた状態で戦闘を開始していた。
 そしてそれを最初に使ったのは、敵を包囲下に置いていた西軍の方で、戦い方の工夫と地の利をうまく使うことで、戦況を大きく有利に転換した。
 しかし東軍にも手つかずの軍勢が主戦場だけで2万もあり、双方の兵力がほぼ拮抗した状態のため、西軍も決定打に欠けるのが実状だった。
 このまま戦闘を続けても、いずれ双方ともに息切れして、陣を下げざるを得ない状況が見えていた。
 戦闘ができるのは、後3〜4時間程度。それを過ぎてしまうと、人としての体力、気力双方の限界から戦闘自体がまともに出来なくなる恐れがあった。
 しかし関ヶ原の戦場は、一つではなかった。

 南宮山近辺に展開していた西軍は、石田三成が上げた狼煙を確認すると、一気に東軍の後方部隊に襲いかかった。南宮山山頂には、野戦陣地以上の簡易山城とでも呼ぶべき陣地と櫓などがあったため、関ヶ原から立ち上る狼煙はすぐに発見できた。
 最初に東軍後衛の池田輝政勢に襲いかかったのは、小早川秀包勢1万5600だった。これに、近くに布陣していた小川祐忠ら4人の武将と、西軍の中心人物達である安国寺恵瓊、長束正家も続いた。合わせて2万3000を越える大軍であり、小早川勢以外は浅野幸長勢を攻撃した。
 そして西軍が次々に戦闘参加するのを見た長宗我部盛親も、戦闘参加を決意する。もっとも既に戦場に西軍が溢れているため、彼は別の思案を行う。
 彼の目算では、東海道方面での西軍の優位は動かず、関ヶ原に入り込んだ東軍は退路を断たれる筈だった。しかし、西軍が関ヶ原進軍に使った西国街道(伊勢街道)は、場合によってはがら空きであり、まもなく後退を始めるであろう東軍の退路となる可能性がある筈だった。
 そこで長宗我部盛親は、彼の手勢6600名を西国街道に移動させると共に、西軍各武将に使いを送り、一種の二重包囲を画策する行動を開始する。
 もっとも、南宮山近辺の戦闘は、決定的とは言えなかった。
 東軍には、徳川家康本軍から派遣された1万の後詰めが街道の狭隘な場所に布陣しており、西軍もまだ毛利秀秋と吉川広家が動いていなかった。
 西軍では、吉川広家が東軍への内応のため、南宮山近辺の西軍が動き出しても、食事中だとして動かなかったためだ。しかしこれは、皮肉にも東軍後方の後詰めである徳川本軍1万を安易に動かせなくする効果も発揮し、東軍の後衛の2将は増援も得られるままに短時間のうちに2倍近い戦力にもみつぶされていく事になる。
 午前11時までには、戦意旺盛な三倍の戦力に攻撃された池田輝政の軍勢は完全に崩壊し、逃げのびることもかなわず池田輝政も討ち取られてしまった。大量の鉄砲を備えることで奮闘した元五奉行の浅野幸長も、初戦こそ雑多な兵力相手に活躍したが、池田勢の壊乱を見た将兵の士気低下を決定打として午前11時半頃には陣形が崩壊し始め、最終的に浅野幸長自身はわずかな主従と共に落ち延びていく事になる。
 そしてここでの戦場を決したのが、毛利秀秋の軍勢の動きだった。

 毛利秀秋は、徳川家康の調略によって懐柔され、東軍に内応すると見られていた。しかし西軍も毛利秀秋にかなり不信の念を抱いており、彼自身と毛利宗家に好条件を並べて対向した。
 そして西軍が並べた条件の一つが、毛利宗家の重臣達にとっては大きな魅力に満ちていた。
 毛利秀秋に対して、豊臣秀頼が成人するまで関白となり、秀頼の後見人とするというものだった。
 これだけなら毛利秀秋だけに対するアメなのだが、毛利宗家にとって重要だったのは毛利秀秋としてではなく、「豊臣」秀秋としての関白就任を西軍が約束している点だった。
 つまり西軍が勝てば、毛利宗家はやっとの事でやっかい払いができるのだ。毛利秀秋自身にとっても、自分の居場所でない毛利から元の鞘に戻れるので、非常に心が動いたとされている。
 このため毛利秀秋に付けられた実質的な毛利家重臣達は、宗家である毛利輝元の内意を受けて西軍のための動きをせっせと行っていた。吉川広家の言葉に対しても反発することが多く、毛利秀秋にも西軍の武将として、毛利の武将として活躍してくれと再三再四言い含めていた。無論徳川家康は、この重臣達にも調略を行っていたが、彼らにとっては毛利宗家の意向の方が重要だった。
 そして秀秋の重臣達は、石田三成の狼煙を見ると西軍として東軍の攻撃を主張。毛利秀秋をたき付けた小早川秀包や安国寺恵瓊などと共に、動かない吉川広家を激しくなじった。
 もっとも毛利秀秋自身はこの時点でも煮え切っておらず、毛利勢はすぐには動き出さなかった。
 しかし主戦場での西軍優位の報告と、目の前で行われている小早川秀包勢の圧倒的な戦闘を見て、西軍が勝つと考えるようになった。

 そして事ここに至って、ついに毛利秀秋の軍勢が動き始める。
 いまだに自軍の前の南宮山のすそ野で動かない吉川広家に対しては、これ以上動かなければ豊臣家、毛利宗家双方に対する反逆だと伝えることで、吉川勢も山を下らせることに成功する。
 もっとも吉川広家自身も、ここまで西軍が有利になれば東軍の敗北は動かず、東軍への内応は意味がないと考えての行動でもあったと言われている。
 そして動き始めた毛利勢の動きが、麓で戦闘中の東軍の戦意を萎えさせ西軍の戦意を高揚させた。しかもこの様子は、少し離れた関ヶ原中央で戦っている東西両軍にもいち早く知られる事になる。当然ながら、南宮山山麓と同じ情景がより規模を拡大して見られることになった。
 なお、毛利勢、吉川勢の積極的な動きは、東軍の予想を超えるものだった。いまだ健闘中の浅野勢を捨て置いて、その後方の徳川本隊から派遣された1万の兵力に襲いかかったからだ。

 そして激突してみて分かった事だが、徳川家康の本隊は予想に反して弱兵だった。
 この時徳川家康本軍を構成していたのは、10年前に新たに領地としていた関東で集められた武士ばかりで、雑兵達は古くからの徳川武士団や三河武士ではなかった。しかも徳川武士団自体も、約十年にわたりまともな戦闘を経験していない上に代替わりしている者が多いため、かつて勇猛を謳われた戦闘力は大きく低下していた。ある意味で、家康が徳川に力を蓄えようとした結果が裏目に出ていた。戦闘前の移動の時の不手際も、戦闘経験の不足を原因としていたと考えられている。
 これに対して毛利軍は、朝鮮での日本での戦いとは違う熾烈な戦いを経験している者が多数いたし、今し方近畿各地で戦闘をくぐり抜けてきたばかりで、実戦経験は十分に備えていた。
 そして主将の毛利秀秋、吉川広家共に、既に戦意は旺盛だった。西軍に与した以上、活躍しておかなければ、そして徳川家康を一気に滅しておかなければ自分たちの未来が存在しないからだ。
 しかしそれでも1万の軍勢であった。
 戦闘開始初期で二倍近い軍勢が、その後30分ほどしてから池田勢を破った小早川勢らも併せて襲いかかったが、それでも完全に相手を壊乱させるまでに午後0時頃までかかってしまう。しかし最終的に三倍以上の敵に攻撃された徳川本隊の分隊1万は、ズルズルと後退してついには戦力として完全に消滅するに至る。無論過半数以上は隊列を解いて戦場から離脱したのだが、少なくとも関ヶ原の戦場で役に立つ兵士は一人もいなくなってしまう。
 そしてそこから3万以上の大軍が街道を封鎖するように進軍を開始するが、主戦場に到着するのは先鋒でも午後1時頃の予定だった。
 つまりは、午後1時に徳川家康の命脈も尽きる筈であった。

 西軍の別働隊が南宮山での戦場で勝利して主戦場に至るまでの間も、関ヶ原の主戦場では激闘が続いていた。
 西軍が大きく戦場を転換して有利になったとはいえ兵力はほぼ拮抗しており、徳川本隊が全面的に戦闘参加した事もあって両軍は競り合っていた。しかも軍勢に対して狭い戦場で、互いに予備兵力を全て出し切った状態のため、引くに引けない状態になっていた。
 そしてこの時点からが本来なら徳川家の得意とする本当の野戦の筈だったが、事情は少しばかり違っていた。
 南宮山での戦闘と同様に、徳川本隊の戦闘力が誰もが予想していたよりも低かったからだ。
 しかも戦闘力という点で、朝鮮出兵と今回の戦乱の緒戦をくぐり抜けて戦慣れしていた西国大名の方がずっと有利だった。しかも率いているのは、九州武闘派最右翼にして戦国最強を謳われた立花宗茂など歴戦の武将が多くあり、東軍は半ば包囲された状態という要素も重なって、特に徳川本隊の兵力はすり減らされていった。加えて固まり過ぎていた徳川本隊は陣形を整える前に戦端を開き、自らの軍勢の中心部に大きな遊軍を作ってしまい、尚更前衛の戦力差は開いていた。本多忠勝が少数の精鋭部隊を率いて孤軍奮闘、力戦敢闘しようとも、大量の鉄砲を有する大軍を前にしてはどうにもならなかった。
 対する西軍は、当初から敵を半包囲下に置くという有利をそのまま活かして、家康直率の軍勢を少しずつだがすり減らしていった。半包囲という状況は、鉄砲を用いた大軍同士の戦いに非常に適していた。しかも東軍には、不利になればなるほど戦場を離脱する兵士、つまり脱走兵が続出した。
 そして午後0時を回った頃、東軍の間に不吉な噂が飛び交った。
 西軍がさらなる増援を投入予定しているというものだ。
 詳細は、若狭方面から丹後田辺城を攻めていた1万5000の軍勢が来るというものであり、石田三成が付近で最も堅固な松尾山陣地ではなく、わざわざ同方面に布陣した事そのものが、いち早く増援部隊を投入するためだという内容だった。
 実際は、混乱した西軍の部隊移動の結果に過ぎなかったのだが、状況を並べて推察するとそうした議論も十分成り立つように思えた。加えて、予期せぬ増援、内応予定の西軍の裏切り、苦戦、半包囲下での戦闘、などなど不利な状況の連続が東軍将兵の心を蝕んでいた。
 そして午後0時頃、南宮山で勝ち鬨の声が関ヶ原にまで響いてくる。物見の報告も、西軍の完全勝利を伝えた。「退路が断たれる」という心理が、尚更東軍の退勢を助長した。
 もはや限界だった。
 既に勝機はなく、完全な包囲とその後の殲滅を待つだけの状況で戦い続ける理由はなかった。
 徳川家康は本陣奥で激しく悔しがったとされるが、再起を図るためにも余力を残している間に撤退するより他なかった。
 そして南宮山からの西軍先鋒の幟が見え始めた午後0時半頃、東軍は苦難に満ちた撤退を開始する。


フェイズ03「決戦の結末」