●第二部「大坂時代」

■フェイズ06「新たな構造」

 1600年6月から10月にかけて日本中を舞台にした行われた戦乱は、呆気なく終息した。
 関ヶ原の合戦に関わる一連の論功、加増、減封、改易、移転などが完全に終了したのは、約一年が経過した1602年の秋のことだった。
 この一年間は、結果としては西軍の勝利を確定するための期間となり、東軍に与した武将はそのほとんどが改易か減封されることになった。彼らは、戦国のならいに従い、賭けに負けたと表現できるだろう。しかし今回は、戦国時代始まって以来の規模であり、そして恐らく最後になるであろうの大規模な変更期間となった。

 西軍に没収された領地の合計は、徳川家の所領246万石を最大のものとして約600万石にも及んだ。当時の日本の推定人口が1800万人程度(=石高)と言われているから、日本の三分の一が新たに西軍の手にもたらされた事になる。特に東海甲信、そして関東はほとんど全ての地図が塗り変わる事になり、各地方でも大大名が次々に誕生した。
 この中で大きく領土を伸ばしたのは、豊臣家及び豊臣秀頼ではなかった。結局最後の方で金を出す以外でほとんど何もしなかった豊臣家は、権威としてはともかく実質としての権勢は大きく低下せざるを得なかった。いかに当主が幼いとはいえ、戦乱で何もしなかったのでは武家として問題が多いと考えられた。そうした戦国特有の考えや様式を理解できないほど、所詮成り上がりに過ぎない豊臣家とその取り巻きは驕り高ぶっていたのだ。豊臣秀吉が出世するまでにいた人々であるなら、たとえ這ってでも戦場に出ていたことだろう。
 また一方では、戦いで活躍した者に恩賞を与えるのが筋なので、その点でも豊臣家は家臣達に分け与えなくてはならなかった。その程度の事は豊臣家もわきまえていた。そしてこれを指導したのが、石田三成を筆頭とする西軍で中心となった武将達であった。
 そして軍功に基づいて報償が決まっていたのだが、一番手柄は事実上の徳川主力部隊を長期間足止めして決戦場に間に合わせなかった真田昌幸とするのが、古来からの兵法であった。
 また、最初に西軍を立ち上げた石田三成らの功績も当然高くなる。石田三成と共に最初に立ったものも、準じなければならない。他では上杉景勝が、東軍を誘引し続けさらには敵の戦力を分散させたたという意味で高い報償を与えるのが筋であった。結果として敵の主将徳川家康を討った長宗我部盛親の恩賞も高くなければいけない。無論大軍を出して、一族が各所で活躍した毛利一族についての報償も無視できない。

 結果、豊臣家は没収した領地のうち約1割の60万石を加えて、蔵入り地を約320万石へと加増させた。しかし豊臣姓に戻した毛利秀秋の領地としてそのほとんどが当てられた形だから、実質的な加増はほとんどなかった。また秀秋の関白就任には、淀殿の異常なほど反対して長期間もめるなど、その後の禍根となる問題が幾つも噴出する事になった。ただし、豊臣恩顧の大名のうち武断派はほぼ一掃されたが、文治派の奉行はほとんどが大きく領土を増やしたので、事実上の譜代という面での領土にあまり変化はなかった。
 戦後奉行に返り咲いた石田三成は、近江一国70万石以上をまるまる抱える大大名になった。増田盛長、長束正家、小西行長らも、いずれもが従来の所領の一国をまるまる抱えるほどの大名に出世し、以後大きな権勢も握るようになった。
 そして元五奉行達だが、徳川が消えた事で大きく隆盛したのが、毛利輝元、上杉景勝、そして準豊臣一族とすら言える宇喜多秀家だった。特に宇喜多は、関ヶ原での奮闘を評価された形で、一気に倍以上の加増を受けて100万石大名に出世し、関東南部(武蔵、相模、伊豆)を新たに領国とした。宇喜多の国替えは、東国に睨みを利かせるという目的もあった。
 毛利、上杉も新たに隣国の一国を加えて150万石クラスに拡大し、毛利は小早川など一門全てを含めると豊臣領に匹敵する大勢力へとさらに拡大していた。また新たに大老として島津家が加わり、日向一国を得たことで島津家の勢力も順当に拡大した。前田家については、西軍側についた前田利政を当主とすることで所領を何とか安堵するにとどまった。
 また一番の軍功とされた真田昌幸は、西軍との戦前の約束では信濃、甲斐、上野の三国を約束されていたが、流石に法外な報償と判断されて信濃一国で抑えられ、その代わりに準譜代扱いとされた上に中老に一気に取り立てられることになった。東軍に与した一族も、昌幸、幸村(信繁)父子の活躍に免じて許すどころか、若干の加増すら行われた。
 他にも、徳川家康を直接討った長宗我部盛親は、伊予一国を加増されて四国の半分以上を抱える太守となり、こちらも中老に抜擢された。それ以外には、完全に常陸の太守となった佐竹義宣が新たに中老に就いた。
 そして石田三成と共に西軍の中核として働いた安国寺恵瓊には、新たに関東の上総半国が与えられ、同じく大谷吉継(大谷家)は越前一国を得た。
 他にも軍功のあった者、そうでもなかった者も、それなりの加増を受けて相応に満足した。何しろ敵から取り上げた領土はうなるほどあったので、誰もがそれなりの報償を受けることができた。

 一方で、徳川家の一族郎党はそのほとんどが改易され、ごくわずかの者が減封で命脈を保つことができた。戦闘を生き残った重臣に至っては、そのほとんどが切腹か遠島流配、最も軽くて高野山への幽閉だった。当主でなくても一族の中枢に近い者は、その殆どが仏門へと強制的に入らされた。
 当然と言うべきか、命脈を保てた中に徳川直系の姿はなく、戦国時代後半に活躍した徳川家はほぼ完全に滅亡した。そうした中で、唯一命脈を保ったのが結城姓を名乗っていた結城秀康だった。結城秀康は、減封の形ながら徳川の血を残すことが許された。これは秀康個人の豊臣家との関係が重く見られたからで、石田三成も彼の助命と恩赦に働いたと言われている。
 また関ヶ原の合戦中に破れた武将の中には、西軍の勝利で復活を遂げた者もあった。その代表が織田信長の孫の織田秀信で、一旦は仏門に入り改易とされたものが、一転引き続き岐阜を領する事になった。しかしそうした幸運な者はそう多くはなく、この戦いが戦国時代と同様に厳しいものである事を思い知らせた。
 最も厳しい洗礼を受けたのが、いわゆる豊臣恩顧の武断派大名で、東軍についた武将はそのほとんどが改易された。当人達の感情論をほとんど評価せず、恩を仇で返したとされてしまったのだ。
 減封で生き残れたのは黒田長政と加藤清正ぐらいで、彼らですら半分以上の減封を受けた上に領国を変更していた。
 黒田長政は、父如水の戦闘後半での動きのおかげで、加藤清正は、徳川方に組みして小西領に攻め込むも関ヶ原の報告を受けるとすぐに矛を収め、いち早く大坂に使者を送って改めて秀頼への臣従を誓ったからだとされた。
 関ヶ原以前の大大名であまり変化が無かったのは、前田家(利政)と伊達家(政宗)ぐらいで、戦国時代を生き抜いた多くの大名が、この戦いを境に姿を消すことになる。

 そして新たな知行が確定するのと平行して、豊臣政権の新たな役回りも固まった。
 関白兼豊臣秀頼の後見人として豊臣秀秋が名目上の首座に着き、その下に大老、中老、奉行衆がおかれた。
 大老には、毛利輝元、上杉景勝、前田利政、宇喜多秀家、島津義久の5人が選ばれ、中老には佐竹義宣、真田昌幸、小早川秀包、長宗我部盛親、安国寺恵瓊の5人が選ばれた。
 奉行衆は、首座という新たな役職に石田三成が就いて、実質的な宰相的な地位に収まった。他、増田長盛、長束正家、前田玄以の従来の布陣に加えて、新たに小西行長が奉行入りした。また石田三成の家臣だった島左近が独立した大名に取り立てられて、さらには奉行へも抜擢されている。最後の件に関しては、誰一人異存を唱える者はなかったと言われる。
 大きな役割を果たした大谷吉継は、病のために隠居せざるをえなかった。だがそれでも、完全に病で動けなくなるまで石田三成らへの助言と補佐を行った。
 またそれぞれの役職の役割は、大老、中老が関白並びに豊臣家を補佐し、さらには日本中の大名を統制し、奉行が政(まつりごと)を計画・実行する形がより強められた。つまり大老、中老は権威や大名の統制を担い、奉行が様々な行政を担う形になり、いっそう石田三成の影響力が強まる事になった。
 ただし石田三成はあくまで豊臣家の家臣であり、支配者ではなかった。独善的なところは多々見られたが、独裁者でもなく、むしろ民衆に対する姿勢は他の大名よりも遙かに優れていた。行政能力そのものについては、たとえ石田三成をひどく嫌う者であっても文句の付けようがなかった。彼は近世日本史上最高級のテクノクラートだった。
 なお石田三成は、豊臣秀吉没後の混乱から関ヶ原の合戦を経て人間的に丸くなっているという評価が高く、また石田三成を嫌う者がほぼ一掃された事も重なって、以前ほど悪評は立たなくなっていた。むしろ独裁者なき豊臣政権の運営者としての手腕を評価されるようになり、悪評は陰を潜めた。ただし記録として残された文献を頼りにした後世の評価であるため、彼が歴史上の勝者であった事をある程度差し引いて評価すべきかもしれない。

 かくして新たな体制のもと、豊臣秀頼を名目上の中心にした豊臣政権は安定するかに見えた。実際、豊臣家の蔵入り地もさらに増え、政権に反抗的な大名のほとんどが一掃されたため、当面豊臣家に刃向かう者はいそうになかった。特に強大な力を持っていた徳川家康、徳川家、その一門が消えた事は大きかった。
 しかし豊臣秀吉亡き後の豊臣政権は、1607年の豊臣秀頼の元服もしくはその後に行われるであろう関白就任までは安定を欠くことが予測された。豊臣秀秋が関白となった上で秀頼の後見人にもなったが、豊臣秀秋自身がまだ若い上に見識が豊かとも言えず、武人としてはともかく政治家としては凡庸な人物でしかなかった。
 また秀頼の実母の淀殿がとかく政(まつりごと)に口を出し、さらには淀殿に取り入ったり気に入られた人々が、一つの派閥を形成して政治を混乱させた。彼ら(彼女ら)には、豊臣家と豊臣政権が実質的に違う組織であることが理解できていなかった。それは、公家達よりもひどい錯覚だったかもしれない。
 そうした混乱に直面した豊臣政権の権力者達が考えたのが、これまでの武家政権である鎌倉幕府、室町幕府の良い点、都合の部分を新時代に対応する形で組み合わせることであった。
 豊臣家を権威君主に押しやって御輿にしていまい、自分たちの中から優れた者、力のある者が順番に政(まつりごと)を行う体制を作るのが、彼らが思い至った新しい政府だった。
 こうした考えには、どのみち豊臣家では血統の問題から征夷大将軍つまり武家の頭領になることができず、関白以上にはなれないという特有の問題が根底に存在した。
 豊臣家が武家の統領になれない以上、天下に号令を発するべきでなく、関白であるのだから、今までの公家と同様に権威面で政治に安定をもたらす存在であれば良いという考え方だ。
 この考えは、豊臣秀頼や豊臣家に対する忠誠心の高い低いはあまり関係なく支持されていた。
 合理的に政権運営したいという面はもちろんだが、戦勝後の大坂城中枢の専横がそれほどひどくなっていたという理由も大きな要素であった。
 そして権威君主と有力諸侯の溝は、短期間で混乱へと至る事になる。



フェイズ07「政権混乱」