■フェイズ07「政権混乱」

 豊臣政権は、武士を中心とした日本型の封建制度が始まってからの日本史上において、少し変わった統一政府だった。
 支配層が武士であるにも関わらず統治者は帝(天皇)の代理人である関白(もしくは太政大臣)であり、武家の統領(統治者、支配者)と認識されている征夷大将軍ではなかったからだ。この事は、たとえ調停の官位で関白の方が征夷大将軍より上位であるという体裁は関係ない。
 また事実上の農民から日本の覇者となった豊臣秀吉は、日本を統一してからわずか10年ほどで没してしまう。このため彼は自らの政権を固めることはあまりできず、しかも努力も怠った上に重要度の低い外征を行うなど無駄な動きが多かった。加えて晩年は、老齢に伴い彼自身の能力が大きく衰えた。
 しかも豊臣秀吉は、有力な後継者が存在しないまま没してしまい、有能な宰相と呼ぶべきナンバー2にも事欠いていた。このため、必然的に混乱が引き起こされた。しかも当時のナンバー2であった徳川家康は非常に有能な上に強い野心を持っていたため、その混乱は急速に拡大して関ヶ原の合戦でピークを迎えた。
 しかし徳川家康は当時としては老齢だったためか権力奪取を急ぎすぎた傾向があり、短期間で動乱を起こすも豊臣政権側の有力諸侯連合によってうち倒された。準備にもう数年費やしていれば、もっと徳川家康に有利になったと研究する後世の歴史家は多い。
 そして短期間の戦乱により、当時の豊臣政権中枢に積極的に反発的だった諸侯の過半が姿を消す事で、豊臣政権に落ち着きが取り戻されると考えられた。
 実際、豊臣家を中心としつつも、大大名による合議制の政府としての色合いをより強める新たな体制が作られた。また同時に、文治派と呼ばれる官僚型武士による行政支配も強まった。
 つまりは有力者が政治を決め、有能な者が実務を行うという図式が強まった事になる。
 しかし豊臣家とその取り巻きとなった人々は、自分たちが絶対者にして中央政府の運営者であると考えて行動して政権に混乱をもたらし、同時に日本中の権力者からの反発と軽蔑を積み重ねていく行動を繰り返した。
 とはいえ、すぐに反発が行動に出ることもなかった。
 徳川家康亡き後、豊臣政権の中に反発を形に出来るほどの力を持った諸侯は存在しなかった。せいぜいが、政権の中での発言権を拡大しようと言う程度のものでしかなかった。再び戦国時代に戻そうという気概を持つ者もほぼ皆無で、いたとしても民意が既に安定を求めている以上、混乱を自ら引き起こして支持を失うことを避ける者しかいなかった。最後の戦国大名と言われた伊達政宗が例外と言われるが、彼は日本の中枢から遠い上に愚直な忠臣として知られる上杉に押さえ付けられているため、動くに動けなかった。
 そうして小さな権力闘争と豊臣家とそれ以外の大名の溝が少しずつ深まりつつも、豊臣政権はそれなりの政権運営が続けられた。これはひとえに奉行衆とその配下の文治派、いわゆる官僚型武士達の働きによるものであった。また当時の日本が経済の活況と人口拡大期にあった事も、政情不安をもたらさない要因として強く作用していた。時代はいまだ、絢爛豪華を旨とする安土桃山時代のただ中にあった。
 その後も問題を抱えつつも、豊臣政権は主に有力大名達の手により何とか運営されていった。
 その中での変化は、関白の交代を発端として起こった。

 豊臣秀頼は、1607年に元服した時点で既に右大臣の位を朝廷から授かっていた。むろん何の功績も挙げていない。豊臣家の権力と財力で地位を得たに過ぎない。その後も、何の実績も挙げていないにも関わらず急速に階位を上げ、慶長16年(1608年)に関白の位を授かる事になった。まさに豊臣家と豊臣政権の力の賜物であった。
 そして当然の事だが、それまで関白だった豊臣秀秋は関白の位を返上する事になり、豊臣家に属する大名の一人に格下げられていた。実際、関ヶ原の合戦後の約束通りに、豊臣秀頼元服の1607年中に秀秋は関白職から辞している。ただしそこからが少し問題で、秀秋は姓を「羽柴」に戻されることになった。しかも、豊臣家内の事として足早に進められた。加えて秀頼の後見人という立ち位置からも事実上外され、当人に特に人望があるでも政治に優れているでもないので、ただの大名の一人とされてしまう。しかも、関白料として与えられていた知行(領地)も豊臣家に返還させられるため、彼の血統についてくる領地も半減した。
 こうした仕打ちとも言える明らかな降格処分は、多くが淀殿の周辺に位置する一派(以後「淀殿派」とする)が関わっていた。彼らは政治のつもりで行動していたが、権力を利用した情実人事以外の何ものでもなかった。
 これに対して、秀秋の件は流石に他者に対して示しが付かないので、奉行衆や大老衆が動いた。そうして、安国寺恵瓊が老齢を理由に中老を退くのに合わるという体裁により、羽柴秀秋がその中老の座に入ることにされた。
 しかしこれは異例なことで、大老、中老はほぼ領土の広さで世襲される向きが既に作られつつあり、秀頼元服の時には伊達政宗が新たに中老入りを果たしていた。
 奉行の方も、上に立つ者は諸侯の中から有能な者が合議や推薦によって選ばれ、下で働く者は身分をある程度無視して能力で選ぶ向きが強まっていた。身分制度がまだ完全に固まっていないこの時点で、町民や農民に名字帯刀を許して登用する事も盛んに行われている。
 そしてそうした豊臣政権が固まりつつある中での豊臣秀頼の関白就任は、本来なら喜ぶべき事だった。既に毛利宗家から姫も迎え入れて、翌年には最初の子供(男児)が誕生するという喜ばしい報告もあった。
 しかし関白から中老に「格下げ」された羽柴秀秋は、自らの不遇を周囲に愚痴として広く伝えてしまうことで混乱が広がった。特に政治的な動きを伴ったものではなかったが、今まで関白だった者の発言としては不用意なものだった。しかも豊臣政権は、過去に豊臣秀次という事例を持っていた。
 秀秋の事は、依然として大きな政治的影響力を持っていた淀殿派に伝わり、淀殿派は自分たちが政治的に非難されたのだと解釈して、羽柴秀秋に対する風当たりを強めた。さらなる秀秋の愚痴が伝わると、ついには処罰すべきだとした。淀殿自身は書をしたためて秀秋を多少たしなめたに過ぎないのだが、淀殿派の実質最高位にあった大野治長らが中心になって、故意に問題を大きくしていった。
 羽柴秀秋という豊臣家内の問題を政権自体の政治的問題にすり替えることで、政治を欲しいままにしている有力大名達から、自分たちに政治の実権を取り戻すのが目的だった。
 これに豊臣家の家老から奉行となった片桐且元が反発した。彼は、豊臣家が政権のオーナーとして政治の後ろに位置している事こそが、様々な面で相応しいと考えての行動だった。それは石田三成ら、豊臣家に忠誠心厚い政権を担当している者たち共通の考え方でもあった。それを代表して、奉行になってまだ浅い片桐且元が代表となって声を出した形になる。
 しかし現状を客観的に理解できていない淀殿派の人々は、今まで積もり積もっていた混乱の火種を一気に燃え上がらせるような行動に出て、有力諸侯との間に大きな溝を作り出してしまう。
 そうして大坂城を中心にして、豊臣政権内で政治闘争、権力闘争としては低レベルな争いが始まった。誰が悪い、誰が悪事を企んでいる、というような密告、非難、中傷が飛び交うなど、稚拙な足の引っ張り合いが頻発した。
 しかし大きな所領を持つ大老、中老の力を落とすには、謀反人と決めつけて攻め滅ぼすか減封でもしないとほぼ意味がないのだが、それが出来るほどの実力者は淀殿派にいなかった。特に相手が100万クラスの大封を持つ大老となると、豊臣家の者が発言しても効果は薄かった。しかも多くの家臣を抱えている大老の方が人材という点では有利な面もあり、華美に溺れ現実を直視せず、人材面でも大いに問題のある淀殿派では対向が難しかった。加えて大大名達は、淀殿派に対しては連合することが多く、淀殿派ではどうにも出来ないのが現状だった。
 そこで淀殿派の攻撃の矛先は、やや力の弱い奉行衆に向けられたが、政権運営を担っている者への不用意な攻撃は自らの足下を崩す行為に等しく、政権ばかりか豊臣の基盤すら揺るがす事態となった。
 これを石田三成を始めとする豊臣家への忠誠心が強い大名達が懸命に治めようとしたのだが、事が半ば感情から出た上に積もり積もったものが原因なので、容易に収まる気配を見せなかった。
 そうしているうちに、事態は大老、中老衆と豊臣家の政治的対立へと急速に発展していた。
 原因の多くは、大坂城内で不用意な発言と行動を繰り返した淀殿派に原因があるのだが、そのことに淀殿派がほとんど気づいていないため、問題が解決するよりも悪化するばかりとなったのだった。
 そして権力を「持っている者」と「持たせてもらっている者」の対立は、修復不可能な関係へと進みつつあった。

 いつしか淀殿派に反発的な諸侯は、豊臣秀頼、豊臣家への謀反の気配ありとされるようになり、それは10年ほど前に通ってきた道と似通っていた。違っていたのは、淀殿派が豊臣家を利用している点と、豊臣家そのものを本気で支えようと考える人々がひどく少なくなっている点だった。淀殿派につく諸侯も「寄らば大樹〜」という面が強いか、もしくは地方で大老などの大大名と折り合いが悪いかだった。
 そうした中で、淀殿派からやり玉に挙げられたのが、最も外様とされる伊達政宗と、羽柴秀秋との関係が深いと考えられていた毛利一門だった。特に毛利宗家はかつて秀秋が養子だった事と、秀頼に姫を輿入れさせた事によるさならる権勢拡大を警戒されていた。他にも、関ヶ原の合戦で東西に分かれた者、消極的な動きしかしなかった者も非難される側にされた。
 そして誰もが関白となった豊臣秀頼を政治利用する事になり、まるで関ヶ原の合戦前の混乱と似た状況へと陥りつつあった。
 しかし今度は、非難するのが大坂城の淀殿を中心とする人々であり、非難されたのは日本中に散らばる大大名達だった。つまりは、豊臣家が日本中に存在する大諸侯を恐れたが故の混乱だったと考えるのが最も妥当なのかも知れない。たとえ淀殿派が感情的で場当たり的な対応をしたのだとしても、根底には自分たちの力が絶対的ではないという要素が存在した筈である。
 そしてやり玉にあげられた非難された側としては、自分たちに落ち度はないので、豊臣家と豊臣秀頼の取り巻きに対する怒りと失望は大きかった。

 武士社会での中央政府の役割とは、突き詰めてしまえば常に名誉(面子、体面)を重視しなければならない武士階級にとっての調停機関や裁判所のようなものであり、その役割を果たそうとしない中央政府に存在価値はなかった。自らの権力や権勢だけに執着するだけの存在は、害悪でしかなかった。過去の鎌倉、室町幕府も、役割を果たさなくなって滅び去っていったのだ。
 豊臣政権では、関ヶ原の合戦以後、大老、中老の合議による政治は比較的うまくいっており、これら10家の所領を合わせれば約800万石にもなる。これは当時の日本の約45%に相当し、連合体制さえ崩さなければ十分に日本を統治できるだけの力を持っている事にもなる。しかも奉行となった小西行長が、この頃は大封を持つ事から中老入りを目指した政治工作を熱心に行っていた。
 彼は、肥後一国の太守となると同時に豊臣海軍の充実に力を注いでいた。故に奉行の一人となったのであり、本来なら石田三成同様にもっと高い地位にあるのが相応しく、豊臣家そのものよりも政権を運営する大諸侯との関係が深くなっていた。
 そして今回、豊臣恩顧にして豊臣秀頼に忠誠心の厚い人々にとって問題だったのは、豊臣秀頼を政治的に利用しているのが淀殿派だったという事だろう。しかも淀殿派は、豊臣秀頼を支配者としては望まず、自分たちが権力を行使するための手段や道具としてしか欲していなかった。母である淀殿自身は母性愛からくる過保護なだけかもしれないが、その取り巻きの権力者で心の底から豊臣秀頼の事を本当に考えている者はほとんど存在しなかった。
 そうした事は豊臣恩顧の武将達にとっては、非常に許し難い事でもあった。

 事態は、思いの外呆気ない解決を迎える。
 豊臣秀頼は、関白就任のために京の都の御所に上る事になった。
 普通の官位ならともかく、流石に関白の位を受けるのに自ら出向かないと言うのは体裁が悪かった。そして秀頼の関白就任は、豊臣家の権勢を示すまたとない機会と考えられ、秀頼の上洛が決まった。
 豊臣秀頼の上洛には、七手組と言われる豊臣家の直臣団と石田三成、宇喜多秀家など豊臣秀頼への忠誠心厚い大名の兵士約5万名があたり、壮麗な行列を組むことになった。
 秀頼自身は、馬ではなく公家のように豪奢な輿に乗ったが、それでも沿道を埋め尽くした人々に、久しぶりに豊臣家の威信を見せることができた。
 豊臣秀頼の関白就任式とその道中では、一部で心配された徳川遺臣による暗殺などもなく、何事もなく行事を終えることができた。
 そして変化はその後に始まった。
 豊臣秀頼が関白に就任すると、公式の場での彼は日本で天皇を除いて最も権威を持つ人物であり、その側に誰かが座るということが一切できなくなった。普段近寄れる人間の数も制限された。母親の淀殿といえども近くにいることも出来なくなり、ましてや政務の場に同席することは、日本の権威上否定されてしまう。大坂城にいた女性の多くも、秀頼の側から排除された。
 そうした間隙を突いた大老や奉行達により、それまで豊臣秀頼の側にいた人々のかなりが、取り決めによって秀頼との距離を置かされるようになった。これは公の場以外でもほぼ同義であり、淀殿派の人々は事実上秀頼に近寄れなくなった。当然だが、淀殿派が事前に秀頼に色々言い含めることもできなくなり、逆に実際に政務を執り行う大老や奉行と豊臣秀頼の間での会話が増えた。
 淀殿派は何かにつけて巻き返しを計ろうとしたが、関白となった豊臣秀頼に対しては彼らが今まで豊臣家内でさんざん利用してきた権威や形式が邪魔をした。朝廷の官位で見れば、大老達は大納言などの高い官位を有するのに比べて、淀殿派のほとんどが取るに足らない者ばかりだったからだ。
 そして雑音が遠ざかったことにより、豊臣秀頼自身が公の場で発言することが増えるようになった。
 発言の場での豊臣秀頼は、武士としてよりも公家としての素養を中心にして教育を受けていた事と、過保護な生い立ちから来る鷹揚さ、そして絶対者として育てられたが故の誰に対しても物怖じしない態度が良性に働いて、多くの場面で公平さを見せた。
 そして大老、中老の集まり(※「老議」と呼ばれるようになっていた)で、様々な重鎮達の意見を聞くことを好み、徐々に、一方向になりがちなかつての寵臣達を自ら遠ざけるようになった。新しい知識や環境、そして状況を楽しんでいたのだろうとすら言われている。
 母親の淀殿に対しても、親として大切にはしても政務の面では自分の意見を通す向きを強めるようになった。
 豊臣秀頼のこれらの変化は、自らが関白になったという自覚からくるものだと周囲からは見られ、おおむね好意的だった。豊臣秀頼は名君ではなかったが、暗愚でも暗君でもなく、及第点の二代目として十分な能力と態度を備えていた。

 そうして豊臣秀頼の関白就任から十年の月日が流れた。
 すでに大老、老中、奉行に、関ヶ原の合戦頃の人物はほとんどいなくなり、大老、老中のほとんどが次世代に代わり、奉行も新しく登用された有能な人物が切り盛りするようになっていた。
 この頃最も権威の高い大老は宇喜多秀家と伊達政宗で、特に伊達政宗は優れた手腕と奥州での他家のお家騒動などでの改易、減封などで他家が失った領土を様々な報償という形で加え90万石に迫るようになり、大老入りを果たしていた。豊臣一族との姻戚関係すら結び、一時は最も権勢が強まったほどだった。
 豊臣政権を実質的に切り盛りしていた石田三成は、60代に入ると流石に老いが迫り、この頃には近江のほぼ一国を有する70万石近い大封を持つ石田家としの資格で中老入りを果たしていた。これに少し前に中老入りしていた小西家を加えると、合わせ十二人の大老、中老全てを足した領土はほぼ日本の半分に及び、彼らの一族こそが事実上日本を治める存在になっていた。
 そして彼ら十二家(=人)によって構成された「老議」こそが、事実上の日本の最高権威となっていた。(十二家:大老:毛利、上杉、前田、宇喜多、島津、伊達、中老:羽柴、真田、長宗我部、佐竹、小西、石田)
 こうした体制は本来なら政治の不安定を呼び込む可能性が高いのだが、特定の政権内で権力を握った者達は、今更覇権を望むよりも政権内での栄達と影響力拡大以上は望まず、さらには自らが政権を担っているという責任感で行動した。
 また民衆に対しては、天皇の代理である関白が日本を治めている形になっているので、圧倒的国力を持つ「老議」が武士達の重石として機能している限り特に問題とは考えられなかった。対立が見えても、中老同士、大老同士の話し合いや駆け引き、合議によってたいていの問題は解決されていた。政務に関しても、奉行達がつつがなく仕事をこなしているので、むしろ組織の充実に従って政府としての機能は向上していた。
 要するに、征夷大将軍や絶対者を戴かないまま、天皇の代理である権威君主の関白が中心となって、実質の力を持つ武士達が政治を行うという体裁が出来ていたのだ。そして関白家である豊臣家自身も権威面での象徴としての役割を自ら強め、武家というよりは武士の中の公家、もしくはその逆の公家の中の武士のような位置づけに置かれるようになっていた。
 そしてその豊臣家自身の補強も実施され、羽柴秀秋、結城信秀など、一度は豊臣秀吉と養子縁組をした大名の家格が大きく向上していた。また幸いと言うべきか豊臣秀頼は子沢山であり、正室(正妻)以外にも多くの妾の子供がいたので、世継ぎや血縁外交には事欠かない状況だった。そしてそうした秀頼の子供達には、名目上でかつての秀吉の養子達が後見人となり、さらにその後ろに老議中枢にいる大大名が付く形ができていた。
 つまり豊臣政権は、大大名達がある程度勝手に出来る政府に変化していたと言えるだろう。いずれ権力争いから次なる戦乱へと突入するかもしれなかったが、この時点では誰もが相応に満足していた。

 なお、淀殿を始めとする秀頼の周りの取り巻きは、この頃一気に勢力を減らしていた。それは1615年に、淀殿が今で言う更年期障害で大きく体調を崩したため、まるで元気がなくなったのが原因していた。
 そして淀殿という秀頼に寄り添う中枢が傾いたので、一気に大大名達が周りのうるさい小物達の力を奪っていったのだった。
 しかし政権を担っていた関ヶ原世代も、姿を消していくようになった。第一線を退いても強い影響力を持っていた石田三成も、四半世紀にわたる激務のせいか、1626年に呆気なく世を去った。死に際も、職務中の恐らくは脳溢血を起こしての急死であった。



フェイズ08「大坂時代到来」