●フェイズ08「大坂時代到来」

 一般的に、戦国時代末期の織田信長が安土城を築いた1578年から、豊臣秀頼が関白に就任する1608年までの約30年間が「安土桃山時代」と呼ばれる。安土とは織田信長の築いた安土城で、桃山とは豊臣秀吉が晩年を過ごした伏見城を表す。伏見城は1600年夏に一度落城して焼け落ちたが、1608年に再建工事が始まって1614年には一層豪華絢爛に再建され、以後豊臣家の離宮として使われている。
 そして豊臣秀頼は関白になったのだが、その後も豊臣家は関白家であって征夷大将軍にはならなかった。つまりこれまでの幕府のように武家の頭領ではないし、幕府そのものも開かなかった。関白とは天皇の代理人であり、武士だけでなく日本人全てに対する代理の支配権を持つ朝廷の官職になる。
 このため主に大阪城内に置かれた豊臣政権の中枢は、室町幕府での花の御所をなぞらえるように「大坂御所」と呼ばれた。政府そのものを指すときは、単に「大坂」や関白の政庁という意味を込めて「御府」と呼ぶようになった。また後世の人々は、これ以後続いた豊臣政権による時代を「大坂時代」と呼ぶようになる。
 なお、安土桃山から大阪時代の建造物の特徴も、大阪御所が強く影響した。これは豊臣家が、朝廷の家臣としての立場を強調するあため、律令制度以来定められていた公卿の高貴なシンボルカラーである「黒」を強調したためだ。豊臣家とその系譜の居城のみが黒色が許され、他の大名の居城や一般家屋の壁色は黒色以外、主に白色が命じられる事で違いが作られた。
 なお、初期の城塞の壁面の黒色は、木材の壁を黒く塗ったものが主流だった。だが1610年代ぐらいからは、耐火性を強めるという名目で黒い壁瓦(和製タイル)を壁一面に塗り込むようになる。壁瓦は初期は瓦屋根と似た構造だったが、その後陶器になって黒光りするようになり、城の煌びやかさを増す要素とされた。
 こうして、城を見ればそこが豊臣の城か他の大名の城か一目瞭然となる情景が日本各地に広がったのだ。そして黒に黄金(金箔)をあしらう「豊臣色」は、二つの時代において権力の象徴として見られた。

 1630年代に入って存命な戦国大名は、それこそ伊達政宗、宇喜多秀家ぐらいになっていた。そして1631年に伊達政宗が老齢を理由に大老の座を次世代に譲ると、いまだ壮健だった宇喜多秀家が大老首座へと就いた。宇喜多秀家はこの当時としては非常に長命な人物で、満83才、1655年まで存命だった。首座に就いてからも14年間その位にあり、準豊臣一族ということもあって階位も右大臣にまでなった。このため晩年と没後の宇喜多秀家は「右府様」と呼ばれる。そして晩年まで健常だったため、後の豊臣政権に大きな影響力を残すことになった。しかも宇喜多秀家は、豊臣秀吉と豊臣家に対する忠誠心が非常に厚く、彼の態度と行動こそが豊臣家と豊臣政権双方に安定をもたらしたと言っても過言ではないだろう。
 そして最も長命だった宇喜多秀家は、最後の戦国大名と言われると同時に戦国時代を看取り、語り継ぐ人物ともなった。
 そして彼が存命だった関ヶ原の合戦以後約半世紀の間に、豊臣政権は事実上の権威君主としての関白を核として、大大名達が合議で政治を行う、かなり変わった封建政府として安定を迎るまでになっていた。
 既に関白の座も秀頼から秀頼嫡子の秀輝に代わり、豊臣家自体が各大大名と血縁関係を結んだ政権のオーナーとしての地域に位置する事を自ら是とするようになっていた。

 なお、豊臣政権が続いている間に、政治制度の整備はさらに進んでいた。
 「老議」と通称されていた大老、中老の集まりはさらに呼び方が変化して「議会」と呼ばれるようになり、他の多くの大名が参加する形に改められ、一定数の参加によって一年を通じて定期的に開かれるようになっていた。場合によっては多くの大名や関係者が集まるため、17世紀中頃には大寺院の伽藍のような大きな広間を持つ施設も新たに建設された。これが日本で最初の議堂または議事堂と呼ばれる建物となった。
 議会の中枢を担う大老、中老の数はほぼ6人ずつで固定され、大大名の影響力は特に彼らの領土近隣の地方で強まった。また固定の12人に加えて、常に数名の大名や専門家が名声や見識、当時の権勢など要因は様々ながら議会に加わり、政権の安定に貢献した。
 議会の基本的な役割は、主に政府全体の方向性や方針を決めることと、大名・武士の司法を取り仕切る事にあった。つまりは、封建制度の中での司法と立法を担っていた事になる。
 これに対して奉行は、行政全般を担っていた。そして役割ごとの細分化と専門化が進んで、それぞれ勘定(財務)、兵部(国防)、宗門(宗教)、普請(土木)、衆部(民政・内務)、町奉行(大都市行政)など様々な専門分野ごとに設置されるようになり、長として立つ者も家柄などよりも能力面がより重視されるようになっていた。そして多くの業務を担うため施設は拡大の一途を辿り、大坂城の総構えの一部に大規模な官庁街を形成し、地震対策を施した大規模な建造物が幾つも建設されていく事になる。基本的に地震の多い日本で高層建築は避けられるのだが、平屋やせいぜいが二階程度の建物では、密度の点で不便が大きかったためだ。そして高層建築の増加はその後一般にも広がり、耐震建築、耐火建築技術が大きく前進する切っ掛けにもなった。
 一方中央以外では、博多、江戸に置かれた地方の監視組織(西国奉行、東国奉行)、京の朝廷に対する組織などが整備された。中でも革新的だったのは、新たに海外貿易と日本人の海外での動きを統制監視する「異国奉行」が置かれた事だった。
 平行して、役職に対して報酬を与える制度も徐々に整備され、家と個人が切り離されるようにもなった。報酬も領地を名目とせずに、金銭によって与える傾向が強められた。
 そしてより多くの優秀者を集めるために、武士以外からの登用も実質的に広く進められ、そうしたものは名字、帯刀という特権授与を経て武士へと取り立てられた。逆に、武士の官僚化、文官化が進んだために、没落する武士、取りつぶされる武士の家の数も、常に一定以上存在するようにもなった。しかしそれが不安定につながることはなく、むしろ調整と安定に寄与した。これはヨーロッパでの在地領主から、東アジア的な官僚階級へと傾倒したわけでもなかった。
 一方では内政の安定のために、日本全国で250家ほどある大名家(所領1万石=人口1万人)の行政区分を作る必要に迫られた。このため、一国ごとの守護職となっていた「〜守」を名誉職ではなくそれぞれ支配する地域の大名ごとに与えることになり、呼び方も「〜侯」と改められた。多少余談だが、これは豊臣家が関白であるからできた朝廷改革の一つともなる。
 そして一大名家が一国を支配しない場合は、その国の中で最も領土の大きな家に与えられ、複数の国を有する場合は居城を構える国の名もしくは家の名を名乗ることになった。しかし国の数に対して大名の数が少ないため、さらに小さい地名がそれぞれ名乗ることになった。このため、大名家のうち全体の約2割が「〜侯」となり、残り約8割が新たな大名としての領主名を表す「〜伯」となった。他にも大名に達しない者は、豊臣家の蔵入り地を治める者は「代官」、それ以外の土豪は「〜子」と呼ばれた。これらの名称は、古代中華王朝の「爵位」を意識したのは間違いなく、豊臣政権が朝廷に連なる組織であることを強調するべく行ったと見られている。ただし、末尾に「爵」の言葉が付けられることはなかった。その代わりに、それらの名は地方行政単位の名ともなり、後ろに「領」と付けて呼び、人々に新しい時代の到来を身近に感じさせる一つの要素となった。

 そのように政権の整備と安定化に向けた動きは上向きのまま進んでいたが、17世紀中頃の時点で問題が無かったわけではない。
 箇条書きにしてみよう。
 人口の急速な拡大と食料問題。人口拡大に対する資源(各種木材・木炭・薪)の浪費に伴う森林伐採(燃料不足と自然破壊)。関ヶ原の合戦以後急増した浪人対策。武士に対する統制の緩み。大大名の専横の増加。海外貿易の統制。大商人の台頭。近隣各国との国交と貿易。国内の宗教問題。海外での軍事的脅威と衝突。そして1644年にあった、明国からの救援要請。
 以上のように、政権自体がもともと不安定な土台の上に存在するにも関わらず、豊臣政権には様々な問題が山積していた。それでもとにかく世の中が比較的安定していたのは、ひとえに平和であると言うことと平和の中での商業の拡大、そして人口拡大に伴う様々なプラス要素が影響していた。
 では、分野ごとになるべく時系列を追う形で順番に見ていこう。

 平和な社会が半世紀近く続くと頭をもたげてきたのが、人口増加問題だった。
 1585年頃に豊臣秀吉の権勢はほぼ確立され、1590年に天下は統一された。1600年の関ヶ原の合戦以後、日本での戦乱は以後ほぼ沈静化した。1602年頃までは小さな争いもあったが、それも沈静化して新しい体制が作り出された。
 そして平和の中で人口は順調に拡大し、17世紀半ばまでに2500万人以上に増えていた。17世紀初頭と比較すると140%に拡大している事になる。しかしこの数字は米の推定生産量をもとにしているので、副食である様々な雑穀(麦、稗、粟など)を主食として食べざるを得ない下層所得者の存在を考慮にいれなければいけない。常に米を食べることが難しい下層所得者の数は、最大で総人口の20%を占める。このため17世紀中頃の時点で、既に日本列島には3000万人近い人口が住んでいた可能性が十分に存在している。
 そして日本列島という山が多く利用できる平地の少ない土地では、3000万人という数字が食料生産から許容できる人口の限界に近い数字だった。この数字は、その後新作物にして救荒作物であるサツマイモ(スイートポテト)、ジャガイモ(ポテト)の普及、寒冷地での各種麦類の作付け、開墾、干拓の進展、農業技術の向上によって最大で2割ほど増加するが、それとて漸増に過ぎない。
 平和の中での優れた治世が産み出した野放図な人口の拡大は、既に17世紀後半には停滞期に入っていたのだ。
 そして土地に対する人口包容力の限界という要素は、政権を担う者にとっては悪夢の始まりでもあった。
 人口がこれ以上増えれば森林資源の減少が進み、今で言う自然破壊と資源枯渇が過度に進むことを意味しており、長期的な繁栄が不可能なことを表している。また小さな土地にしがみついている貧困層は、小さな飢饉が来ただけで生存の危機に瀕する。そして飢饉が大規模に発生した場合、それは簡単に現政権を破壊するエネルギーになりかねなかった。
 これを避ける方法は、徹底した人口調整、人口管理を行うのが、これまで誕生した各地の文明社会で最も適用されている例になる。それとは正反対なのが、どこか新天地に大量に移民する事だ。ただし移民するといっても、基本的に人が住める場所には既に先住者がいるので、ほとんどの場合は先住者を何らかの方法で駆逐しない限り、新しい土地を得ることはできない。
 そしてこの当時の大坂御所は、少なくとも移民という面での海外膨張政策という発想そのものがほとんど無かったため、国内での自然発生的な人口調整に乗る形での資源調整を採用した。この場合の資源とは、森林資源になる。

 一般的に、雨量が多く気候が温暖でその上山(急斜面)の多い日本では、森林資源は半ば無尽蔵で再生可能な資源だと思われがちだ。だが、森林はこの時代のあらゆる生産活動、文明活動に必要な最重要資源のため、一定以上の消費が行われた場合は簡単に再生不可能に陥りやすかった。そして再生するまでに半世紀以上の時間がかかるのが常なので、一度破壊されると破滅の坂道を転がり落ちる例が世界中で見ることができる。イースター島や明朝以後の中華地域北部の例が有名だろう。中近東のレバノン地方のレバノン杉も、例として挙げても良いだろう。
 この頃の日本でも、人口増大に伴う木材、燃料、肥料(緑肥)、家畜飼料など様々な面で森林資源の乱用が進んでいた。特に平和になった日本中で大規模な木造建築により消費され、それ以上に日本中の城下町、住宅建設のために多数の木材が消費されていた。人が増えたので燃料資源(薪、木炭)としても多用され、人々の生活をより豊かにする手工業の発達も森林震源消費に拍車をかけていた。
 これに中央政府が気づいたのが17世紀中頃であり、この頃の大坂御所は消費の統制を全国規模で実施することで中短期的な時間を稼いでいる間に、長期的政策となる植林、営林事業を日本全土で実施していった。それでも森林資源が足りなくなったので、蝦夷開発、さらにはオホーツク海、日本海沿岸地域への進出と開発が徐々に進んでいくようになる。御所がジャングルが生い茂る南の島々に本格的に興味を向けたのも、重要資源である木材供給地にならないかと考えたからだった。
 また燃料だけでなく、増大する人口、民衆の贅沢指向に対しては、農業、漁業の振興と技術向上で何とか対応され、大きな不満が出ることもなく一人あたりの生活も向上させる事ができた。
 戦国時代に比べて一人あたりのカロリー摂取量は若干増えているので、17世紀後半の実際の食料生産力は戦国時代後半の二倍近いと考えられている。
 それでもさらに半世紀、一世紀後にさらなる人口問題と食糧問題に関連する問題が出てくることは分かっていたが、この時点では巧く切り抜けたと言えるだろう。この頃は、まだ「間引き」などの計画出産もほとんど行われていなかったので、尚更高く評価しなければならない。
 
 そして人口問題と並んで当時のもう一つの内政問題である、国内にあふれる浪人(失業武士)対策は、海外政策と連動していた。これについては、事象で取り上げたい。


フェイズ09「日本の初期の国際関係」