●フェイズ09「日本の初期の国際関係」

 大坂御所の海外政策は、17世紀半ばまではほとんどが貿易に関連するものだった。
 1602年に改めて朱印状が発行されるようになり、この朱印状の発行を独占することで貿易の一元化と、中央政府の収入増大、大名の収入減少を計ろうとした。特に海外産の生糸の取引を一手に握り、それらの権利を都市(京、大坂、堺、長崎)の大商人に与えることでつながりを深めた。
 一方で新規航路の開拓に対しては、許可制ながら各大名に独自の行動を許した。苦労を大名にさせて、うまみが出たら中央が取り上げようという意図であった。この政策は、蝦夷開発が本格的な始まりとなり、後に太平洋に広がるときに大きな役割を果たすことになる。

 当時の輸入品のほとんどは、当時の日本が特に必要としない絹などの贅沢品や砂糖などの珍品、海外でしか産出しない品がほとんどだった。一方で日本から輸出するべき品は、金属及び金属加工品を中心にしていたが豊かとは言えず、特に輸出向け加工製品の不足は今で言うところの貿易赤字を積み上げさせていた。それを補っていたのが、当時日本各地で豊富に産出されていた、金、銀、特に豊富な産出量があった銀だった。この頃の日本は、世界の三分の一近い産出量を誇っていた銀を一種の輸出品として、海外から大量の贅沢品や珍品を買い込んでいたと言えるだろう。加えて金の産出量も世界的に見て豊富であり、金、銀は各種銅貨と共に広く国内流通にも用いられた。
 そして金、銀という世界的に普遍的な価値を持つ物産を持つことから、世界各地との取引は円滑に行うことができた。スペインやネーデルランド(オランダ)がわざわざ日本に来たのは、豊富な金、銀があればこそだったのだ。何しろ彼らは、日本の隣にある朝鮮半島には見向きもしていないのだ。何が目的だったかは、明らかだろう。
 そして豊富な金銀を用いた貿易が中心となった日本の貿易は、生糸と絹、その加工品を中心にした贅沢品主体ということもあって、大名と大商人が中心となっていた。特に17世紀の最初の四半期においてその傾向が強く、この時期の日本からは大量の金、銀が流出した。
 そして膨大な金銀流出は、徐々に御府に脅威を持たせるようになり、対策が講じられていく大きな切っ掛けとなった。

 一方、東南アジアの赤道近くにまで自力で赴くようになると、必然的に船舶の建造技術、自力での航海技術が向上していった。使用される船には、1610年頃から外洋航海能力を飛躍的に高める竜骨が据えられるようになり、1620年代には帆もヨーロッパと同じ形を備えたものが増えた。高速発揮のために帆柱と帆そのものの数も増え、横風を捉えるための帆も一般的に用いられるようになり、船の中に複数の階層を設けて強度を増し、帆を素早く取り扱うための滑車や歯車の技術も急速に向上していった。帆船を作るための各種道具を作るための本格的な工場が堺の町に建設されたのは、1618年の事だった。
 船自体も、初期の積載量が1000石(140トン)程度の小さな船が主流だった。だが、ほぼ10年ごとに倍々規模で大きくなっていき、1630年代には排水量で1000トン程度の大型帆船(積載量1万石)を一般的に用いるようになっていた。太平洋を本気で押し渡りたければ、それだけの規模が必要だからだ。
 その頃には船の形も、ヨーロッパのイスパニア(スペイン)やポルトガル、ホランド(オランダ)、イングランドが用いるようなガレオン船にかなり近づいていた。
 加えて贅沢になり始めた日本人の胃袋を満たすための漁業開発が、船舶の建造技術を向上させると共に建造、船員双方の人材の底辺を育成し、さらには大量建造によって船の価格を大きく押し下げた。
 船の建造技術の多くは見聞きするというレベルでの模倣と、実地での修得がほとんどだったが、短期間で革新的なまでの技術向上があったことは間違いなかった。これはヨーロッパから来航するガレオン船という見本がなければ、まず不可能だっただろう。
 そして日本が東アジアの中にあるという地の利を生かして、1630年代頃からはマラッカ海峡より東の海での中継貿易で大きな利益を上げる船乗りや商人が増え、そうした人々の多くがそれまでの大商人ではなく中小の規模しかない人々であった。
 大坂御所や大老、中老が個別に出す朱印状は年々増加していったが、それ以上の数の船が海外に出て、海外だけで商売をする事も増えた。当時、国際流通がうまくいっていなかった東南アジア各地の間での効率的な中継貿易ができたからだ。
 そして海外で活動する日本人、海外に出ていく日本船の増加は、必然的に海外で暮らすもしくは滞在する日本人の数を爆発的に増加させていった。特に船の運航、港の管理運営、船もしくは日本人拠点の防衛のための傭兵の需要は大きく、西国の貧しい漁民、食い詰め浪人が中心となって続々と海外に出ていった。
 そして浪人(失業武士)が自ら海外に出ていく流れは、大坂御所にとって非常に都合の良い状況だった。失業した武装階級が国内にあふれると、治安の悪化が必然的に起きる。だが、1600年から1630年の間に浪人の約半数が海外に出ていったと言われており、国内治安の安定に大きな影響を与えた。
 しかも大坂御所は、浪人を効率的に海外に出すために、御所が雇う制度すら設けて積極的に浪人を傭兵や船員として海外に赴かせた。特に傭兵は大坂御所にとっては外貨獲得の手段ともなり、徐々に重要な財源となって継続的に行われるようになる。浪人の側も、たとえ形式でも御所が雇うと言うことは一種の仕官として見たため、一般の傭兵などよりもなり手は多かった。
 加えて、日本以外の場所に日本人の拠点ができたという話が日本中に広まると、つられて出ていく日本人の数も自然に増えた。主にビジネスチャンスが生まれるからだ。ただし当時は新たな農地が得られるという事はなかったので、農民の移住、いわゆる恒久的な移民にまでは発展しなかった。また南方では、マラリアなど南方特有の疫病があったため、定着した日本人が極端に増えることもなかった。むしろ南方は、日本人の「捨て場所」、「人口調整の場」として日本の支配層から見られた。ただし現地に強い武力を持った日本人が恒久的に居着くことは、必然的に先住者を追い立てることになった。また現地で生き延びた日本人達は現地の疫病への耐性が強くなり、現地の住人が少しずつ入れ替わっていく事につながっている。
 一方で物流の大規模化、遠隔化は、日本人の流れと日本に入ってくる物産を徐々に拡大し、17世紀中頃にはインドシナ半島のカンボジア地域から最初の穀物輸入も行われた。これが1648年の「天明の飢饉」に起きた事件で、日本と東アジア各地を往来する多くの船が、行きは食い詰めた日本人を乗せる最初の大規模移民となり、帰りの船に穀物を満載する事になった。
 また大量の船が就役した事は、日本国内の物流網にも大きな変化をもたらしていた。物産の少ない地域から多い地域への移動が大規模化、高速化したため、地方レベルでの飢饉や食料不足の緩和などで大きな効果を発揮するようになっていた。そして飢饉の減少もしくは規模縮小は、日本人の人口拡大を助長する大きな要素となっていた。17世紀の半ばまでに、日本人は南方に人を押し出すことで人口調整を行う形ができつつあったのだ。

 一方、日本人が海外に出ていく事で、その他の勢力、つまり諸外国との間で国際問題も起きるようになった。
 最初の問題は、朝鮮半島だった。
 豊臣秀吉が築いた政府の存在する当時の日本は、1592年の朝鮮出兵から朝鮮半島の李朝とは国交断絶状態にあった。断絶状態は17世紀に入っても続き、日本で豊臣政権が続いているためいっこうに国交が回復する気配はなかった。日本人としても、朝鮮人参以外欲しい物産が朝鮮半島にないため、朝鮮半島周辺部の商人から中継貿易の形で必要なものを手に入れ、朝鮮半島は半ば無視するようになる。
 連動して、朝鮮出兵で戦った大陸の明朝との交流も、中華産の絹を目的とした民間の密貿易はともかく、国同士の関係は事実上の断絶状態だった。しかも17世紀に入ってからの明朝は明らかに退勢に向かっており、日本との新たな外交関係を構築する余裕はなかった。その代わり、中華系商人との間での商取引は継続的に行われ、中華産の生糸、絹織物は後期和冦によって大量に日本に輸入された。この結果、中華系マフィアが日本人と利害関係を結ぶ形で大きな勢力を持つようになる事例も見られた。
 また中華大陸との貿易には、島津家が間接的な支配権を握った琉球王朝が利用された。琉球王朝が名目的に明朝の封冊(朝貢)体制に組み込まれている事を利用して絹を輸入した。また琉球自身からは、新たな商品作物である砂糖が大量に輸入された。中華地域はそうした日本人の動きを知っていたが、本音と建て前を使い分ける分別を持ち合わせていた。利益を逃すのは、タダの馬鹿だからだ。
 そして近隣以外の貿易相手、交流相手として、ヨーロッパ諸国が重要な位置を占めるようになっていた。

 17世紀前半は、イスパニア(スペイン)、ポルトガル、ネーデルランド(オランダ)、イングランドが東アジアにまで自ら足跡を記していた。これにカトリック系のキリスト教会が加わる。
 そして戦乱が収まって後に重要度を増していたのが、キリスト教に関する問題だった。1587年には早くも「伴天連追放令」が出されるなど、日本での浸透が支配階層である武士の間で問題視されていた。キリスト教がヨーロッパ諸国の侵略の先兵になりかねないのと、キリスト教の神(主)の前での万民平等を唱える教えが権力を持つ者にとって不都合だったからだ。
 しかし大坂御所は、貿易による利益、大商人のつながりの深さ、そして海外と関係を継続する事の重要性の認識などもあり、国交断絶や貿易の自粛など行う気はなかった。
 また初期の大坂御所には小西行長などの有力大名にもキリスト教徒がいたため、キリスト教のマイナス面の多くに対して見て見ぬ振りをしていた。しかし九州を中心にして信者が増えると、仏教など旧来の宗教との対立、教義に基づく行政との対立などが増えたため、一つの法度(法律)が発表されるに至る。
 それが1611年に出された「宗門法度」である。
 この宗門法度により、日本人は所属する宗教を申告しなければならなくなり、宗教組織も中央政府の許可が必要になった。しかも日本の行政権の範囲内であれば、日本人、外国人を問わず適用される事にもなった。そして拒めば、日本及び日本の勢力圏からの追放が待っていた。つまり事実上の戸籍制度であり、これで日本に存在する宗教は全て日本の行政の下に置かれることになった。ただしきちんと役所に申告すればキリスト教も認められる事になり、御所としては教会と信徒を切り離す政策も兼ねていた。
 加えて、聖職者が政治に深く関わった場合、武器を持った場合、人道に反する行い(殺人、強姦、強盗、人身(奴隷)売買)をした場合、聖職者への特権や宗教による教義に関わりなく最高死罪と決められた。そして人に教えを与える者には、俗世に関わることなく自らにも厳しくなければならないと説明された。この事は日本各地のキリスト教宣教師からローマ教会などヨーロッパにも広く伝えられ、一時期非常に物議を醸しだした。
 なおこの宗教規制は、キリスト教だけでなく急進的もしくは反権力的な仏教各派に対する統制でもあり、キリスト教だけでなく寺社勢力も従順な方向性をいっそう強めることになった。加えて、積極的な宗教活動は日本域内では禁止されたに等しくなったため、以後キリスト教の布教は大きな減退に見舞われた。
 同時に、キリスト教そのものと日本人キリスト教徒に対する不用意な弾圧や抑圧は、大坂御所の命令によってゆるめられる事になった。加えて大坂御所は、プロテスタント(新教)を信仰するネーデルランド、国教会という特殊なプロテスタントを信仰するイングランドとのつき合いを深め、両国から様々な西洋の文物を輸入した。また両国には、日本での貿易を優遇すると同時にそれぞれの宗派の聖職者を招くことを許した。少し後には、「日本プロテスタント教会」も設立されることになる。これは、既存のカトリック各派と競そわせることで、日本人キリスト教徒内での団結を阻止しようという意図からだった。
 大坂御所の思惑は的に当たり、1620年代中頃には日本国内でもキリスト教徒同士が対立するようになり、一部では信徒と司教、司祭の溝も出来た。そして国内の安定度が増した事、宗教と文明の利器が切り離された事、西洋の文物がある程度物珍しくなくなった事などから、日本人キリスト教徒の増加は鈍るようになった。そればかりか、神でも仏でもデウスでも自分達を救ってくれる度合いが変わらないと分かると、キリスト教を止める者もかなりの数が出るようになる。
 宗門法度には、日本人よりも外国人宣教師などが異議を唱えたが、日本の国法の面を全面に押し出すことで、強引なやり方を行ったものは容赦なく裁いた。その過程で、人道に悖る行為を行った外国人も裁かれ、それを衆目の前に晒す事で日本人にキリスト教に対する幻滅をもたらす副産物ももたらせた。特に九州で横行していたヨーロッパ人による人身売買の暴露は、非常に大きな影響を及ぼした。
 キリスト教に連動した一揆も他の一揆と同程度の頻度と規模になり、時間が経つにつれて沢山ある宗教の一つという程度に落ち着いていった。

 一方、商業、宗教以外での諸外国との関わりとして、当然武力を用いた関係も発生した。
 これは、大坂御所が自ら行った傭兵派遣だけではなかった。
 最も多くなったのは海賊行為に関してであり、日本人海賊を取り締まることはもちろん、中華系海賊を始めとした全ての海賊の取り締まりが、大坂御所の持つ軍事組織によって徐々に行われるようになった。特に1630年代から財政にゆとりがでて装備も充実してくると、大坂御所による航路の安全確保と海賊討伐が日常化していくようになる。
 そして航路の安定に伴い物流、人の流れも増えて、海外に出ていく日本人の数はさらに増えていった。
 そうした中で初の海外問題が、台湾島を巡る問題だった。当時日本側が小琉球と呼んでいた場所は、ネーデルランド(オランダ)がフォルモサ島と呼んでおり、1624年にゼーランディアという砦を築いていた。しかし同時期に日本人が限定的に住むようになっており、東南アジアとの往来のための中継点としても利用するようになっていた。日本人による最初の台湾移民は1620年と言われ、宗門法度以後も他宗教や民衆からあまり好まれていなかった日本人キリスト教徒の一団が入植したものだった。
 そして必然と偶然から現地ネーデルランド勢力と現地日本人との間で戦闘が発生し、日本人商人が雇い込んだ傭兵を使って攻撃した。これに怒ったネーデルランド側(※正確には東インド会社)は、武装商船や傭兵を使って現地日本勢力や台湾近在の日本船を攻撃。これに反応した日本側も反撃に転じて、ここで大坂御所が武力介入し、事件は戦闘から紛争もしくは戦争へと発展した。
 しかしこの時期は、日本にとって都合の良い時期だった。
 1618年から1648年にかけて、ヨーロッパではドイツ地域を中心にして大規模な戦乱が続いていた。「ドイツ三十年戦争」だ。ヨーロッパのほとんどの国がこの戦争に関わったため、ネーデルランドの北東アジアでの勢力も小さくなっていた。しかもネーデルランドとイングランドとの関係は戦争に関係なく悪く、ネーデルランドはイスパニア(スペイン)と敵対していたりもしたので、東アジアでもネーデルランドと敵対した日本は他国からの協力や連携を仰ぎやすかった。
 しかし優秀な船を持つネーデルランド(=東インド会社)は、日本を敵として認識すると容赦なく攻撃を開始し、日本との貿易も途絶した。自らの勢力圏からも日本商人を閉め出した。日本の貿易網も、一時的に混乱に陥った。東南アジア各地で、かなりの犠牲と損害も出るようになる。日本人町が襲撃された例もあった。
 そして日本沿岸にまでネーデルランドの武装商船が出没して、貿易港の長崎、平戸、博多などが脅威を受けるようになると、大坂御所も本腰を入れるようになる。
 他国から技術を導入した新型の戦闘艦艇(ガレオン船)の建造が活発化し、砲台を建設するなど沿岸防衛が強化され、日本の勢力圏各地に多数の兵力が派遣されるようになった。船以外の武器も大幅に増強され、武士が持つに相応しいとされる高性能銃が初めて開発されたのもこの頃になる。
 しかも日本の勢力圏は、当時日本人町があった港町の過半に及んでおり、新たに数万人の浪人が臨時雇いで雇用される形で派遣された。大坂御所にとっては、半ばやっかい払いの側面ももっていた出兵だった。
 そして日本とも戦わなくてはならなくなったネーデルランドだが、船と武器はヨーロッパ随一と言えるほど優秀でも陸では日本軍に苦戦を強いられた。日本兵は異常なほどマスケット銃の装備率が高く、既に大砲も日常的に運用する重武装集団だったからだ。しかも数が多く規律や軍制も整っており、ネーデルランドが動員した現地人による軍隊では太刀打ちできなかった。船同士の戦闘でも、接舷切り込みになったらネーデルランド側が敗北することの方が多かった。しかも何度か船が日本側に拿捕されたため、日本船も新しい船が出てくるたびに能力を向上させていた。
 そして頭に乗った日本は、17世紀中頃になるとネーデルランドの権益を攻撃、占領していった。台湾島(フォルモサ島)はもとより、ジャワ、モルッカを中心にしたスンダ地域(インドネシア地域)のほとんどからもネーデルランドは追い出された。しかもスンダから叩き出された頃がヨーロッパでの戦争の最盛期であり、当時のネーデルランドに奪回に出るだけの余力がなかった。ネーデルランドの東インド会社は挽回に躍起になったが、統率のとれた数万の軍隊が相手ではどうにもならなかった。この頃には、東南アジアでの制海権すら失いつつあった。
 その後も東南アジアでの日本とネーデルランドの争いは続いたが、イスパニアが日本側に付きネーデルランドの邪魔をした事から、ついに日本がスンダ地域を守り通すことになった。
 しかしこの頃の日本は、さらに別の場所でも戦っており、日本が東南アジアをそれほど重視していた訳ではなかった。

 日本が戦っていた別の場所とは、中華大陸だった。
 中華大陸では17世紀に入ってから、明朝が明確な衰退期に入り、それに呼応するかのごとく北方騎馬民族の一つである女真族が一大勢力へと成長しつつあった。
 女真族はその後勢力を急速に拡大して、清朝を起こすに至る。
 しかも明朝は1644年に大規模な内乱が起きて、呆気なく首都北京が内乱勢力に占領されて崩壊。そして滅亡の縁に立たされた明朝では、明朝に属していた海軍提督の一人である周鶴之が日本に援軍要請を出した。援軍要請を受けたのは大坂御所ではなく薩摩侯(島津侯)だったが、報告を受けた御所はこの事を重く見て出兵を決意する。
 表面的には明朝救援だったが、本当の目的は生糸、絹織物、綿布などの輸入を続ける事と、国内になおあふれる浪人対策だった。そしてどうせ出兵するならと、略奪的な貿易もしくは略奪そのものも行うことを決めていた。
 そして出兵の後押しをしていたのが、日本中の大商人達だった。いつの世でも、掠奪を伴う侵略戦争に大商人はつきものだった。そして海外貿易と対外戦争で膨れあがっていた大商人達の欲望は底なしだった。戦費のかなりも、大商人達が率先して差し出していた。
 出兵に際して日本軍は、琉球や台湾を拠点として長江流域を中心にして各地に兵士を派遣し、大陸北部沿岸で海賊活動を行った。また、南京近くの大規模な陸上戦闘では、清朝の騎馬部隊を圧倒的な火力で粉砕して破るという戦闘を行ったりもして、一時期日本軍に支援された形の明朝の残党が勢いを取り戻した事もあった。しかし清朝軍は非常に強く、現地日本軍が補給に困った事もあって全体としての戦闘は劣勢を強いられた。日本軍が破れたことも、一度や二度ではなかった。そして戦線が膠着すると、日本軍は乗せられるだけの「戦利品」を乗せて大陸を脱出する傍らで、清朝との間に和平条約を結び無血で大陸から撤退していった。
 この撤退は1647年の事で、撤退に際して大量の金品や工芸品を略奪すると共に、大陸の絹の製法を職人ごと日本に連れ帰っている。他にも、陶磁器、綿布の技術など、日本人が知らない技術の多くが、職人ごと日本列島に渡った。また一方で、大陸に取り残された日本兵の数は5万人を越えると言われており、その後多くが台湾などにほぼ自力で引き上げるも、その後多くの日本兵が盗賊や匪賊になったり、明朝側で戦うことになる。これらの一部は、鉄人兵団として清朝軍から恐れられた。

 そして日本の大坂御所は、大陸から撤退させた兵力を東南アジア方面に再配備する事でウェストファリア条約で正式な独立を獲得したネーデルランドを牽制し、自らが得た新たな権益の保持を行った。
 その後1652年に、ネーデルランドはイングランドとの戦争(=「英蘭戦争」)を始めたため東南アジアどころでなくなり、四半世紀の間に三度行われたイングランドとの戦争の間に、東南アジアでの日本の権益を認めた上で日本との国交と貿易を回復させた。帆船を用いた交通路を使う時代では、インド洋では風と海流の関係からジャワ島辺りの拠点が必要な場合があったからだ。
 一方中華地域での戦争は、内乱や対外戦争の形でその後も続いたが、清朝との取り決めもあって以後日本が関わることはなかった。むしろその後は清朝との間に何度か条約を結び、清朝と日本の大坂御所の許可を受けた貿易船だけが特別に長江流域の「租界」と呼ばれる場所に寄港する事を許されるようになった。
 なおこの「租界」の場所は上海と呼ばれる寒村だったが、日本人は単に租界と呼ぶことが多く、徐々にその場所に立派な日本人町を築いていく事になる。


フェイズ10「海外膨張」