■フェイズ10「海外膨張」

 17世紀半ば以後、日本人は東南アジアを我が物顔に行き来するようになっていた。広大なスンダ(インドネシア)地域は大坂御所直轄領となり、台湾島は直轄領ながら自由地とされてあらゆる身分の移民が認められるようになった。もっとも、疫病などもあって台湾島での日本人の入植は初期においてはあまり成功せず、むしろ気候が似ている琉球王朝からの移民が大きな勢力を築いていく事になる。
 また大きく勢力を減退させたイスパニア、明朝から清朝への交代中で混乱する中華地域に代わり、フィリピンで一番幅を利かせているのも日本人になっていた。ドイツ三十年戦争の戦費に苦しむイスパニアは、戦費調達のために日本にいくらかの権益すら売り渡していた。中にはイスパニア貴族の位を買った者もいたほどだった。
 マラッカ海峡もネーデルランドとの争いの結果大坂御所の直轄にされ、東南アジアはほぼ日本の勢力圏、商業圏へと姿を変えていた。そしてマラッカとマレー半島の先にあるシンガポール島(シンガプーラ島)とジャワ島のジャカトラが、日本とヨーロッパ諸国との間の実質的な交易拠点となった。
 なお東南アジアには、シャム、カンボジア、大越、広南など主に半島部に多数の国はあったし、ジャワ島にもマタラム王国があった。だが、武力、技術力、航海技術など多くの面で日本が圧倒的に優位であり、特に物流面では圧倒しているため競争相手足り得ていなかった。
 ヨーロッパ商人も多くが東アジアでは元気をなくしており、本国の混乱も気にしない中華系商人と並んでイスラム商人やインド商人の方が、日本の競争相手としては手強いぐらいだった。そして日本人の進出も、マラッカ海峡を抜けてインド洋にまで到達するようになっていた。
 そしてもう一つ進出した場所が、南洋州(オセアニア)だった。

 日本人が最初にオセアニア地域を知ったのは、ヨーロッパ商人との取引上だったと言われている。ネーデルランド人が、南の果てに幻の新大陸を見つけたという話が発端だった。
 その後ネーデルランドとの争いが起きると、パプア島西端部を軍事利用のため占領するなどして、オセアニア地域に関わりを持ち始めた。
 そしてネーデルランドとの争いの終盤に、ネーデルランド出身の探検家タスマンが南の果ての地域を探検して未知の大陸を含む多くの発見を行ったという情報を手に入れる。
 この情報を手に入れた大坂御所は、敵の拠点の探索と殲滅のためにかなりの規模の探索艦隊を編成して赤道を越えさせた。
 日本の南洋探索艦隊は二手に分かれて進み、一方がスンダ地域からパプア島の南の海に入り、新大陸の北端に到達した。その後海岸沿いに南下そして西進して、再びインド洋へと出た。こちらの航海では、新しい巨大な陸地の発見こそあったが、現地はジャングルか湿地、もしくは砂漠しかない不毛の土地ばかりであり、有益な場所や敵の拠点は存在しないと判断された。亜熱帯、砂漠の動物や腹に袋を持った奇妙な動物がいるばかりで、ネーデルランド人の姿などどこにもなかった。とりあえず、真水や生鮮食品(狩りの獲物)が手に入りそうな場所のいくつかに標識を立てる程度のことしか行われなかった。
 もう一方は、濃緑のジャングルで埋め尽くされたパプア島の北岸を進んで、まずはその先の島々に至った。その間各地の先住民と物々交換などで交流と情報を手に入れつつ主に南西に進んで、フィジー、サモア、トンガなどの島々と現地に作られた国家を発見する。そして現地の王国、部族との間に物々交換で交易を行って真水や新鮮な食料などの物資を補給するとさらに南下して、ついに新海諸島(オランダ名=ニューゼーランド)を発見した。
 タスマンは、新海諸島が一つの島でオーストラリア大陸の一部であると信じていたとも言われるが、日本の探索艦隊は沿岸を隈無く調査することで、現地が独立した島の連なりであり、天測などから日本列島と似た規模の大きな諸島である事まで発見している。そして上陸してある程度内陸も調査した探索艦隊は、現地を新海州、新海諸島と名付けた。
 また新海諸島では、非常に戦闘的な先住民(マオリ族)との最初の接触が行われ、現地での戦闘で1000人単位の一部族を攻め滅ぼす事件もあった。また比較的長く滞在したため、旧大陸の疫病を最初に持ち込む事にもなり、新海諸島に住む先住民のほとんどに、最初の大規模なパンデミックを引き起こすことになった。
 そして戦闘を行ったことと、比較的温暖だったことから、探検隊は石の標識を各地に設置して現地が日本の領土であることを宣言する。これはネーデルランドへの対抗措置であり、それほど深く考えられた行動ではなかった。領有宣言をしたところで、当時は現地に滞在する日本人もないというものだった。

 その後新海諸島から今度は東南東を目指し、大きな陸地に至る。これが謎の新大陸であり、ヨーロピアン名称の後のオーストラリア大陸だった。風に流され想定より北側に到達したのは、巨大な珊瑚礁が途切れた辺りの大陸の南東部で、非常に温暖で過ごしやすい場所だった。
 その後探査艦隊は長大な環礁の存在する南端あたりで滞在して内陸への探検隊を編成し、ネーデルランドの痕跡を探そうとした。温暖で水も手に入れやすい場所ならば、必ず敵(ネーデルランド)の拠点もしくは滞在した痕跡があると考えられたからだ。
 しかし先住民との接触はあったが、特に文明的なものと出会うことはなかった。先住民との物々交換などで案内を立ててまでして根気強く1年以上の長期にわたり新大陸の南東部を探索してみたが、結局ネーデルランド人は見つからなかった。この探索の中で、「阿蘭陀幽霊」という妖怪までが、日本人の間で誕生したほどだった(※日本人は、「フライング・ダッチマン」の話しは長らく知らなかった)。
 しかし、長期に滞在したことによって、適地に恒久的な拠点が築かれることになる。ネーデルランドへの牽制のためだったが、探索の中で別の目的が見つかったという要素の方が大きかった。
 砂金が見つかったのだ。
 そして先住民との交流で分かったことは、先住民は金属加工の術を全く知らず、金や銀の価値を少しも分かっていなかった。つまりこの広大な大地の地下には、手つかずの金や銀が眠っていることを示していた。そして日本国内での産金量が落ちつつあるという現状を考えれば、新大陸は日本人が是非とも押えておかねばならないと考えられた。
 この考えは探索艦隊の独断であったが、帰国後に大坂御所も大いに賛成し、「発見」した探索艦隊に多大な報償を与えると同時に、すぐにも次なる探索艦隊、砂金採掘のための準備を開始する。加えて、アジアに来ている諸外国に対して、赤道の南にある新大陸と新諸島は日本人のものであるという宣言も行われた。文句を言ってきた国、主にオランダに対しては大砲を以て返答とした。
 新大陸の名前もこの時正式に「大濠州大陸」と定められ、地域全体の名称も「大洋州(英語名=オセアニア)」とされた。なお「大濠州」とは、上陸地点近くから南に向かって伸び続ける巨大環礁(=大環礁)とその間の海を大きな濠に見立てたことから来ており、深い意味があったものではない。

 かくして、日本の第一回目のゴールドラッシュが始まる。
 ゴールドラッシュは1647年に始まり、まずは日本中の山師達が選鉱鍋を背負って多数押し掛けた。そして翌年に日本列島を中規模の飢饉「天明の飢饉」が起きたことで、日本人の出国、国外脱出に拍車がかかり、そのまま成功と幻想を求めた人々が濠州大陸へと殺到した。しかも大坂御所は、有望な金鉱を見つけた者にはそれに似合う莫大な報償を約束したため、金よりも報償につられた人々がさらに海を渡っていった。
 そしてその後十年近く日本人達はがむしゃらに新大陸を探し回り、主に南東部の2カ所で大規模な金を発見する。片方はほぼ砂金だけのため、短期間で大量に採掘するも数年で探し尽くしてしまうが、もう片方は金鉱でありその後すぐに大坂御所の直轄地とされて金鉱開発が継続的に行われるようになる。そこには日本人も多く住み始めたし、定期航路も開かれた。
 そして1660年頃に金を巡る騒動は落ち着きを見せるが、この間に濠州大陸に渡った日本人の数は10万人にも及ぶとされる。全てが金を求めた者ではなく、金を見つけた人々に対する商売目的の者も多く、最初に開発された場所やそれ以外の適地には港湾都市(宮治市と黄金海岸)も整備され、さらに東海岸中央部内陸は温暖で雨量もあり、場所によってはそれなりに農業に適していることが分かったため、その後農業移民も伸びていくようになる。
 ただしオーストラリア大陸全般に渡って、雨量の面で農業にはあまり相応しくない土地が多い上に、それ以上に日本とは比べものにならないぐらい土地の肥沃度合いが非常に低いことが、10年ほど耕作を行ってから徐々に分かってくるようになった。雨量や見た目の森林などから農業に適していると思って開拓と耕作を始めても、10年もしくは20年ほどで土地の養分が枯渇したため放棄される場所が頻発した。たった数年で駄目になった耕地も少なくなかった。日本とは、根本的に土の滋養分とその回復力が違う土地だったのだ。
 しかも濠州そのものが、10年単位で長期的に気候が大きく変動することも徐々に分かり、開発、開拓には苦労が伴われた。
 それでも人に対して土地が有り余っているので、場所を変えながらの農業は続けられた。だがそのうち、世界各地から導入された家畜の飼育による食糧確保が一般的となってしまう。初期の頃は「飛鹿」いわゆるカンガルーを蛋白源として狩っていたが、移民が増えると乱獲が進んでしまう。しかし日本から持ち込まれた家畜は、犬、猫、馬、牛、鶏ぐらいで、食用に出来るのは基本的に鶏だけだった。また日本から持ち込まれて野生化したのは家雀だけで、幾つかの種類の動物は持ち込まれるも定着しなかった。
 このため毛皮も活用できる羊、日本産ではない牛と馬が輸入して持ち込まれ、農業に不向きな土地でも牧畜によって生計を立てられる農業モデルが作られていった。おかげで濠州の日本人はカロリー摂取量が大幅に増え、他の地域の日本人に比べていち早く大柄となっていった。
 それでも18世紀に入る頃には農業移民も停滞するようになり、後に一部の地域で魚肥などの肥料を使った農業が盛んに行われる事で、ある程度の安定を見るようになる。

 一方、濠州大陸での幻想と一部成功は、日本人にいらぬ夢を見させることになる。
 金属を扱うことを知らない先住民しか住まない土地には金が眠っていて、農業が行える土地が余っている可能性がある、ということである。
 そして欲望こそが、人を駆り立てる最大の要素であった。しかも日本列島は既に開発し尽くされており、人あまりや人為的な人口調整までもが起き始めていた。
 かくして、濠州でのゴールドラッシュが落ち着きを見せる17世紀も残り四半世紀になった頃、日本人は船で行ける限りの場所へと積極的に出かけるようになった。御所も、援助や支援を出して探検を助け、場合によっては御所自らが船を出した。
 そうした中でまず注目されたのが、比較的近くにあるオホーツク海沿岸だった。
 現地では気温の低さから馴鹿放牧以外の農業は難しいが、既に木材開発で人が進出し始めているため行くのも容易く、そして金が眠っている可能性があったからだ。そして案の定、ある程度の砂金は比較的たやすく見つかり、それを起爆剤として北方探索と進出が一気に進んだ。中には有望な金鉱も見つかり、食料と暖房用の燃料としての石炭を持ち込み、一定数の日本人が住み着くようになる。
 しかし現地には既にロシア人が進出を開始しており、アムール川流域は人口が希薄ながら清朝の領域とされていた。だが欲望に目がくらんだ日本人達は、ロシア人を押しのけるようにして進出を行い、圧倒的な数の違いもあって少数のロシア人を排除していった。そしてその中でロシア人や先住民の使う道具を取りれて内陸への進出も開始して、日本人が「北海州」と名付けた東シベリア地域を四半世紀で席巻してしまう。この中での一番の文化的変化は、石造りの外壁と木製の内壁を持つ二層構造の住居を一般的に使うようになった点だ。もともと日本人の家は一層構造で暖炉どころか竈もなく、このため寒い地域での居住に不向きだった。これが大きく改善されたのは、日本人の北方進出に拍車をかけることになる。
 しかも日本人は、現地で捕れる動物の毛皮がヨーロピアンに高価で売れると知ると、狩猟業も活発に行うようになった。そして浅瀬に住むラッコを追う形で北の海を東に押し渡り、ついに新大陸北西端に至る。ただしあまりにも過酷な自然環境のため、一部の狩猟関係者が進んでいった以外は数は少なかった。
 それよりも日本人に注目されたのが、スペイン人がアルタ・ノヴァ・イスパニアと名付けていた地域だった。

 17世紀終末期から18世紀初頭にかけて、濠州大陸とその近辺の探索と開発、さらには入植は初期の興奮が冷めていた。しかし日本人全体の中での大量の金の流通拡大と東南アジア地域での経済覇権のおかげで、当時の日本人社会全体が依然として膨張気運を維持していた。加えて日本列島内の人口飽和はいよいよ危険値にさしかかりつつあり、大坂御所としては「棄民」ではなく本格的な「移民」の場所がそろろそ欲しくなっている時期にさしかかっていた。「棄民」による人口流出には、日本列島から流出する数の点で限界があったからだ。
 この頃既に日本人の活動範囲は太平洋の西半分を覆い尽くしており、船舶の大型化、高速化によって日本列島に流れ込む物産は異常な規模で拡大していた。国内流通などは、戦国時代と比べものにもならないほど拡大していた。そして「棄民」や流刑のための場所も十分にあり、あとは今以上日本列島内の人口が増えすぎないようにするための調整場所があれば申し分ないという状況だった。
 そしてそこに、おあつらえ向きの外交状況が発生する。
 1701年の「イスパニア継承戦争」でイスパニアが決定的に衰退してしまい、日本に太平洋地域の警備や交易路維持の肩代わりの交換条件として、ノヴァ・イスパニア北方のアルタ・ノヴァ・イスパニアを譲るという話が持ちかけられたのだ。そこはまともな探査も行われていないためイスパニアの領土とは言えなかったが、知っている限りの情報を渡すとも言っており、断片的に得られた情報では農業に適した場所も存在する可能性が十分に存在した。
 この話に大坂御所は乗ることにして、ほとんど初めて日本から見て東の果てにある新大陸北方に探査船団を派遣した。それまでもイスパニアのアカプルコやパナマ地峡に貿易船が行くことはあったが、新大陸北部は当時の文明世界と言われていた地域にとって、全くの未開地域だった。新大陸北方の東海岸には既にヨーロピアンが多数進出していたが、あまりにも広大な新大陸を前にしては北西部に進むことは不可能に近かった。そこは、探検隊すら行ったことのない未知の場所だった。
 そうした場所に1705年、最初の日本船団が到着する。
 到着した場所は北緯50度辺りの温暖とも寒冷とも言い難い場所で、数日間探索後に発見された大きな湾の奥地にまで進んでみたが、農業はかろうじて可能だが日本の農作物の栽培に相応しい場所と判断されなかった。当初から、牧畜に向いているだろうと判断された。そこは日本で言えば蝦夷に近い気候だと見られた。当然と言うべきか、先住民の姿以外には人の姿もなかった。とりあえず船団責任者の名から「幕羽」という名称がつけられ、標識だけ立てつつ南下を続けることになった。

 その後探査船団は陸づたいに南下を続け、次なる大きな湾口に入る。そこもまだイスパニア人の姿や痕跡はなかった。しかし最初に長期間立ち寄った場所に比べて温暖であり、陸上の植生を見る限り日本的な農業ができる可能性が確認された。
 そこで探査船団は現地に基地と滞在員を置くことを決め、湾口の最も狭い場所にある半島部の先端あたりに拠点を建設した。現地は「新大坂」と名付けられ、以後新大陸開発の拠点となっていく事になる。
 さらに南下を続けた探査船団は、ようやく現地イスパニアの役人と出会うことが出来た。そこはイスパニアがサンディエゴと名付けている場所であり、ノヴァ・イスパニアの最も北に位置する場所だった。
 その場所は日本人に引き渡される予定の場所であり、イスパニア側の条件ではメキシコ湾に注ぐリオグランデ川と北緯33度より北の土地全てが日本に譲られる場所であった。ただしミシシッピ川流域は既にフランスが領有宣言しているので、そちらについてイスパニアは関知しないとされた。北の果てにあるハドソン湾についても同様で、それより西側のみの権利を主張するのが無難だろうというアドバイスを、日本人達も事前に得ていた。
 イスパニアに示された地域は、北アメリカ大陸のおおよそ半分近くにも及んでおり、とても日本人が意識できる広さではなかった。とはいえ土地の多くは北の不毛の大地か山脈か砂漠ばかりで、利用価値のある土地は少なそうだった。とりあえず拠点を設けた辺りが当面最も利用価値が高そうなので、そこを中心に拠点を広げ農地などを開発することになった。それに、ちょうど日本人捕鯨船が東太平洋にも進出し始めていたので、拠点を設けるにはちょうど良い機会でもあった。
 諸外国には、イスパニアに言われた通りの地域の領有権をとりあえず主張すると同時に、各地に探検隊の派遣や標識設置のための部隊が派遣されることになった。
 そして多額の謝礼と引き替えにイスパニア人の協力を得てメキシコ湾に出ると、二つの大河(ミシシッピ川、リオグランデ川)の探索を行い、自らの領域の調査を行った。そこで方々に標識を立てて回る作業を行ったりして、ミシシッピ川では初めてフランス人と出会うことにもなった。最初フランス人は驚いたが、イスパニア人もしくはイスパニア語を話せる日本人介して交流を行えたので特に問題も発生しなかった。また前後して、他の地域にも武装した一定の規模の探索隊の派遣も実施し、鉱山(金鉱)を求める山師、猟師、行商人などのおかげもあって、フランスとの間にミシシッピ川を境とする条約を結ぶことに成功する。
 この時、日本人が五大湖まで至って活発な調査活動を行ったため、スペリオル湖の北西岸の権利も得ることができた。またこの時日本人達は、北海州での経験を生かして北上を行いハドソン湾にも到達していた。そしてこの時ちょうど、ブリテン(※1707年よりイングランドからブリテンに変更)とフランスが新大陸北部でも戦争をしており、領土係争に巻き込まれることになった。日本人がハドソン湾に至ったのは1710年頃で、既にブリテンがこの地域の事実上の権利を有していた。
 このため日本の代表は、ブリテンとも交渉しなければならなかった。
 しかし東の果てという思わぬところからやって来た日本人にブリテン側は面くらい、フランスはブリテンに渡すぐらいならと考えて日本の肩を持った。結果、ブリテン、フランス共に進出していない地域については日本の領域とすることが定まり、ハドソン湾西部、ネルソン川以北の土地全てが日本領と定められた。
 日本の新大陸でのおおよその領土が確定したのは、ヨーロッパでの約束事が交わされた1713年の事だった。
 ただしこの時点では、日本のことを必要以上に気にかけるヨーロッパ国家はどこにもなかった。イスパニアとしても実質的に自分たちのものでない場所を与えることで、太平洋航路の安全を高めることが出来たという以上に考えなかった。日本と条約を交わしたフランス、ブリテンも、いずれ相手から奪うつもりなので、この時点では管理能力が先住民より高い日本人に預けておくという以上の感情は無かったと言われている。欲しくなれば、戦争を吹っかけて一度に全てを奪えばよいという思惑が、日本人との間に条約を結ばせたのだ。
 なお日本人による最初の開発予定の地名については、イスパニア人はカリフォルニアと呼んでいたため、そのまま頭文字を取って「加州」と呼ばれることになった。新大陸自体は自分たちで新たに命名することはなく、聞き取った言葉そのままに「天里香(あめりか)」という当て字がされた。巨大な山脈については、大岩山脈という初期の頃に誰かが付けた名前が定着しつつあったので、それがそのまま使われた。その他の地名についても、原住民から聞いた言葉をそのまま名付けたり、日本風の大味な名前が付けられた。
 植民地としての自分たちの地域全体を示す地名には、たいていのヨーロピアンが自分たちの地名に「新しい」という意味を付けて呼んでいるので、日本人達も単に「新日本(あらにほん)」とし、ヨーロピアン達は自分たち風に土地を示す文字を追加して「アラニホニア(aranihonnia)」呼んだ。

 そして大坂御所は、さっそく日本列島からの移民を行う政策を始めたのだが、当初はあまりうまく行かなかった。たとえ自ら開拓すれば無限の農地を無料で与えると言われても、船で2〜3ヶ月もかかる航海が必要な上に、世界の果てとすら言えそうな場所に進んで移民したがる日本人はごく少数派だったからだ。多少なりとも出向いたのは、木材や水、生鮮食料、できれば酒と女が欲しい捕鯨船だった。捕鯨船のための拠点はすぐにも拡大し、周辺では簡単に育つイモを栽培する簡単な畑とイモから蒸留する酒が産み出された。家畜も持ち込まれ、イモともども船乗り達の貴重な食料補給拠点となった。しかし初期の拠点は精々200名程度が住むに過ぎず、原住民から拠点を守るための御所の兵士や傭兵の方が多かった。
 そこで幕府は、上からの移民を考えつく。
 濠州ではゴールドラッシュが人の移動を促したし、移民した者のかなりは東南アジアに一旦移っていた日本人も多かった。移民したり航海した人々による噂も、さらなる移民を誘うようになっていた。それに引き替え得たばかりの加州には、今のところ土地以外に何も見つかっていなかった。こうした人と物の動きを利用しようとしたのだ。
 そして大名達には、新日本で新たに開拓した場所を全て領地として与えるという法度を発表した。加えて、船や現地で必要な資材のいくらかも大坂御所が用意することを伝えた。
 そしてこれに答えたのが、日本でも貧しいとされる地域が多く、主に信州と奥州の諸侯の幾人かが、領内での人口問題と未然の飢饉対策の解決のために手を挙げる。その中には、伊達侯、真田侯という有力者の姿もあり、1710年頃から本格的な開発がスタートする。しかし奥州や信州での移民の動きには、日本国内での変化が強く影響していた。


フェイズ11「膨張期の日本国内」