■フェイズ11「膨張期の日本国内」

 17世紀半ば以後の膨張を続けていた日本の勢力圏だったが、日本国内は外の領域に比べると変化は少なかった。
 大坂御所では、豊臣家の役割と存在感はますます小さくなっていたが、豊臣家の一部の者以外あまり気にはしていなかった。既に大坂御所は、大大名を中心にした議会と奉行衆を中心にした武士官僚団が滞り無く運営していた。政府運営のための資金は、世界各地で得られた莫大な量の黄金と、主に都市部と海外で活躍する大商人からの上納金、さらには世界各地で活躍する日本人傭兵のおかげで非常に豊富だった。
 大坂御所は、豊かな財政の上にあぐらをかいていればよい状態であった。そうした放漫経営があればこそ、野放図ともいえる海外進出を行ったとも言えた。状況としては、1世紀ほど昔のスペインに近かった。
 海外からもたらされる物産も、日を追うごとに膨れあがっていた。台湾や琉球、呂宋、ジャワを中心にしたスンダ地域からもたらされる膨大な量の砂糖は、日本人の食生活を根底から変えるほどだった。一時期は、どんな食べ物にもたくさんの砂糖を入れることが流行し、日本人の味覚すら変化したと言われている。何しろそれまでの日本では、純粋な甘味は非常に希少な存在だったからだ。また東南アジアでの交流の活発化は、豚肉を食べる習慣を日本人の間に広めさせた。
 そして砂糖や豚肉に代表される海外からもたらされた高カロリー食品は、日本人のカロリー摂取量の向上をもたらすと同時に、日本人が活発に活動するためのエネルギーを与え、これがさらなる海外の膨張へとつながる原動力となっていた。
 また海外との交流拡大は、衣食住全ての面で日本人の生活に影響を与え、食生活では特に砂糖と世界各地、特にヨーロピアンの肉食習慣、中華地域のお茶が、日本文化に多大な影響を及ぼした。日本人が珈琲(コーヒー)を飲むようになったのも、17世紀末頃からになる。そしてお茶と珈琲、そして茶菓子として出される各種甘味は日本人の砂糖摂取量の増大に貢献し、文化面での変化すら促すことになる。ユーラシア大陸北東端での活動、インド交易の影響で、乳製品を日本人が口にし始めたのも、17世紀半ば以降の事だった。
 他にも北海州からもたらされる毛皮、インド産の安価な綿花(原綿)と綿布(キャラコ)、ヨーロッパやペルシャなどから輸入された羊毛製品は、日本の衣服に多大な影響を与えている。日本国内で日本人向けの洋服が、大坂の小さな呉服問屋で最初に販売されたのは、18世紀初頭の事だった。
 住居面での変化は、北方や乾燥した地方など主に海外で暮らのに日本型家屋が相応しくない場合が多いため、日本国内ではなく海外で主にヨーロッパ式の住居が取り入れられていった。特に地震のない濠州では、ヨーロッパの技術を導入した多層式建築が増えた。
 それ以外の細々な変化も枚挙にいとまないが、便利な物、新規な物を取り入れた以外では、日本人という存在が根本的に変わることはなかった。

 一方日本から輸出される物産も、徐々に豊富になった。
 中華地域から莫大な量が輸入されていた絹は、中華地域からの技術導入と独自改良により国産品が大幅に品質向上して生産量も増え、一部は主にヨーロッパ向けに輸出に回されるようになった。陶磁器も、朝鮮半島、中華地域からの技術導入によって革新的に技術が向上しており、また自らの改良もあって主力輸出商品の枠を埋めていた。副産物でタイルなども生産され、かなりが輸出に回された。他にも、主にヨーロッパ向けに漆器やお茶も輸出されており、今まで主力だった日本刀の輸出も工芸品としての精度を上げることで、依然としてヨーロッパでは珍重されていた。ヨーロッパ文化の影響で、ガラス製品の生産も盛んになっていた。
 無論武器輸出も大きな枠を占めていた。日本産の刀剣、銃器、大砲は、ヨーロッパでの戦乱期になると生産分のかなりがヨーロッパにまで輸出されていた。ヨーロッパ人以外にも、トルコなどが日本製の武器を買った。海外では、日本刀という存在(カタナ=KATANA)が日本を意識させる重要な製品としての地位を得るほどだった。
 刀剣以外の武器製造の技術も、技術の積み重ねにより冶金技術が少しずつ向上し、ヨーロッパからの相応の技術導入により新型兵器の製造も行われていた。特に日本人傭兵から新兵器の要請が多いことから、二重の意味での外貨獲得のために武器技術の向上は継続的に行われることになる。
 一方、中華地域に対しては、彼らが求める海産物の乾物、毛皮などが大量に輸出されるようになった。これに対して日本が中華地域から欲しい物産は、朝鮮人参や一部の漢方薬ぐらいで、日本の輸出超過が続いた。

 そして日本にとって重要だったのが、海外に多くの土地を得るようになった事だった。海外領のほとんどでは加工品を自力で作ることが難しいため、それらの地域に大量の民生品の需要が発生し、日本国内の手工業を爆発的に発展させていた。18世紀初頭の時点で、海外に住む日本人の数は東南アジアや濠州を中心にして既に100万人近くに達していた。それらの地域の先住民の数は一千万人の単位に及ぶのだから、当時の感覚からすれば需要はいくらでも存在した。日本人によるアメリカ開発も、山師や探検家よりも商品を売り歩く行商人が先陣を切ったと言われるほどだった。
 しかも半ば交換の形で現地からは食料品や原材料が日本にもたされていたため、日本国内では自然破壊や食糧不足をあまり気にする必要がなくなっていた。既に活発な木材輸入も行われるようになっていたほどだ。燃料資源として、国内で産出する石炭の利用ばかりか他からの輸入も始まっていた。そして発展に伴う照明油、潤滑油需要を満たすため、鯨油採取のための捕鯨産業が爆発的な発展を遂げていた。
 しかも手工業従事者の増加は日本国内での労働の多様性を高め、食料輸入の拡大もあって、農業生産者以外の就労者の多数誕生によって、日本の総人口を押し上げていった。
 17世紀半ばに停滞に突入していた日本の人口増加率は、その四半世紀後には再びある程度の上昇曲線に移行し、1720年代には3500万人以上の日本人が住んでいると考えられていた。
 またお米以外の納税品目の必要性の増大、国内で流通する金(貨幣)量の増大によって、租税制度が戦国時代までと同様に、再び貨幣によるものが増えていった。そして貨幣流通量の増大は経済の活性化を促し、全てが順調に拡大もしくは増大曲線を描いていた。
 繁栄の最右翼に属する両替商は、日本国内での金及び貨幣流通量の増加に伴い近代的な金融業、保険業への傾倒を強め、遠隔地同士の決済のための為替制度も整備された。また一方では、船舶の遭難、海賊被害などに対応するため初期的な保険業も勃興し、金融業の一翼を担うようになっていた。
 この時代、多くの日本人が永遠の繁栄の拡大を幻想していたとも言われ、安土桃山文化以来の豪華絢爛を旨とする華やかな文化が花開いていた。
 しかし問題が皆無だった訳ではない。

 18世紀初頭の段階での大きな問題は、日本本土での地方間及び都市と農村の格差拡大、主に海外での武士に対する統制の緩み、身分格差の希薄化であった。また都市住民の頂点に立つ大商人の台頭と巨大化、日本の国政を牛耳る大大名の専横の増加、そして大大名と大商人による実質的な海外貿易の統制と独占も問題だった。
 全ての問題の根元は、一度に大量の富が日本人の間になだれ込んだ事が原因していた。富が平等に広がるのではなく一部の人々や地域に集中したことが原因だった。さらに、富の偏在は格差を深め、不満を高め、身分ではなく富こそが自らの地位を象徴する存在へと変化させる効果を発揮していた。
 そして大坂御所と呼ばれていた日本の政府は、豊臣家を名目上の中心に据えるも、大大名と大商人が実質的な中心に位置していた。その上で天皇と朝廷という権威権力が存在しているのだから、この頃の日本の政治形態は世界的に見ても非常に珍しい形を持っていた。そしていくつもの権威を経た上で権力を握る者が複数いて合議制を取っている事は、必然的に不安定さを伴っていた。
 故に中央の権力者達は、大量の富を常に国内に流し込むことで民衆の支持を得て政権を安定させていた訳だが、どうしても富の偏在が発生した。
 しかも海外貿易と海外の鉱山から産出される金が富の源泉の大本を占めているため、様々な形で富の偏在が発生した。
 当時海外貿易の中心地は、大坂、堺、博多、長崎だった。他にも北方貿易の拠点として越後では新潟という町が巨大な干潟の干拓の過程で港として開かれ、大坂御所直轄地とされた蝦夷島の函館も徐々に発展していた。また新大陸に向かう新たな拠点として、江戸湾(江戸)の発展も進んでいた。
 しかし当時の貿易の主軸は東アジア方面と大洋州であり、地の利の面でどうしても先に挙げた西国の貿易都市が非常に有利な立場にあった。しかも日本経済の中心地は日本史が始まって以後ずっと近畿にあり、特に京=大坂は都市の人口規模と大商人の数で群を抜いていた。加えて言えば、京は帝(天皇)と朝廷の存在する「都」であり、大坂は現政権の存在する日本の実質的な首都だった。当然ながら富、人、情報の全てが集まる場所であり、中央政府が近いため効率の面でも非常に有利だった。一方九州の博多、長崎は地の利の面でいっそう有利であり、関門海峡から大坂湾にかけては日本国内の物流の大動脈だった。とうてい東国では太刀打ち出来なかった。
 そうした場所に拠点を構える商人、大名は着実に力を蓄えてさらに有利な立場に位置し、他の地域では太刀打ち出来なかった。それでも商人は拠点を有利な場所に移せばある程度対応出来たが、領地を持つ大名ではそうはいかなかった。
 このため大老、中老の間にも領地だけでははかれない格差が大きく広がり、西国大名が幅を利かせるようになっていた。特に、中国の毛利、九州の島津、小西、小早川、近畿の石田などが大きな力を持つようになった。そしてここに本来西国の中小の大名も加わってよいようなものだったが、貿易に関する権限を与えられている大名が大老、中老を中心にごく限られた大名のため、もしくは有力な貿易港を持たないため、富の偏在、情報の偏在、船舶保有量の偏在は極端な形で進んでいた。中国地方から北九州に広がる毛利一族(毛利侯、小早川侯、吉川侯、安国寺侯など所領は日本の6分の1近くになる)は、自らの領土を半ば公然と「毛利王国」とすら呼んでいたほどだった。また九州南端を有する島津侯は、琉球王朝に対する実質的な支配権を握り、さらには域内と琉球からの移民をあおることで海外での勢力を拡大していた。実際、東南アジア、濠州で最も強い影響力を持つ大名は島津侯となっていた。また活路を海外に目指さざるを得ない四国の長宗我部侯も、島津侯と並んで南方での勢力を着実に拡大していた。
 豊臣家に対して譜代意識の強い石田侯、小西侯は独自行動や独断は少なかったが、こちらはこちらで政権内での影響力は年々強まっていた。
 また中央で影響の強い大名と大商人がつながりを深め、政権と深くつながった大商人の権勢は、大大名にすら匹敵すると言われるほどとなった。しかも機転の利く大商人は、民衆からの人気を得ることで自らの支持基盤を強化したり、武士への実質的な賄賂を積み上げることで基盤を強化した。大名家と実質的な血縁関係を結ぶことも、半ば日常化しつつあった。
 さらには海外進出を強化する傍らで、開拓を進めたり多くの富を海外に置く事で、日本で住みにくくなった場合の脱出先すら確保する者もいた。大商人たちは、自らが色々と持ちすぎている事を実感していたのだ。
 そして限られた貿易都市と一部の大大名の城下町は繁栄を謳歌したが、主に東海地方を除く関ヶ原以東の東日本は経済的な劣位にあった。加えて一部の都市は非常に発展していたが、都市に住む中流以上の都市住民と農村、農村から都市に流れてきた貧民との格差は開くばかりだった。
 そして大坂御所は、農村、貧民の支持を得るよりも一部の富める者から支持を得ることを選ばざるを得なかった。政権の握っているのが一部の大名と大商人な上に、彼らが中心になって稼ぎ出した金が無ければ、政府自体が回らなくなっていたからだ。この時期、農村の価値は非常に低くなっていた。

 当然ながら農村、貧民、東国の大名、貧しい武士達の不満は高まった。
 そして東国大名の中心的存在であった関東の宇喜多侯が中心となって、起死回生の政策が実行された。
 それが東の果てにある新大陸への進出と開発、そして大規模な移民だった。北陸の前田侯、越後、会津を有する上杉侯は北方開発に傾倒したため既にある程度「持てる側」に立った上に、ロシア人、中華人への対応に追われて新たな政策に参加できなかったが、東国を領する宇喜多侯、伊達侯、真田侯、佐竹侯ら有力大名が中心となって大坂御所を動かし、イスパニアから権利を得た新大陸の開発を日本全体の政策として押し進めさせた。
 西国大名や大商人達も、東西格差の是正、貧民の逃亡先の確保、軍役終了後の日本人傭兵の隠居先、そして新たな商売先となる場所の開発に肯定的だった。日本国内でのバランスの維持と日本列島に富を注ぎ込み続けることこそが、政権維持に最も必要だったからだ。
 かくして大坂御所主導の形で、加州開発が本格化する。

 まずは航路と船の整備が熱心に行われ、日本列島側の拠点として江戸湾と黒潮に乗るのに便利な伊豆半島に港湾が整備された。そして武士や傭兵によりある程度武装した屯田兵型の入植団が編成され、まずは最も有望と思われる加州湾奥に広がる平野部での農業実験を行うことになった。そして数年間の実験で分かった事は、多少の灌漑を行えば十分農業が可能と言うことだった。特に櫻芽と名付けられた広大な平野部の奥まった地域の北方は、灌漑農業による水稲栽培に最適であり、そのための水源には事欠かず、土地も非常に肥沃なことが分かった。また平野の南部が綿花栽培に適しているという報告も寄せられた。
 しかも土地全体が肥沃で、大規模経営であればあるほど効果は高くなる事が分かった。実験部隊の調査報告では、加州平野全体で最大2000万石の各種穀物が収穫できる可能性が十分にあるとされ、日本中を狂喜乱舞させた。
 加えて数年後にもたらされた追加報告では、大陸中原のミシシッピ川南部でも十分稲作が可能な広大な平地が存在しており、開発できる土地が無限に存在するとされた。無論誇張も含んでいたし、現地に至るまでの道のりの大変さは報告書にほとんど記載されなかった。
 そして主に気温や気候、地形のために農業が難しく農民が貧しい事がほとんどの信州、奥州では、熱心な移民政策が実行に移された。最初は武士と自作農の次ぐべき遺産のない次男坊、三男坊によって、豊富な支援を与えた武装を持った青年入植団を編成した。次に、女性の移民が応募され、開かれ始めた村に嫁になるために移民した。この女性移民も、人が増えすぎ嫁ぐべき相手のいない日本では「いらない」人々だった。またそれと平行して、村を二つに割った移民団が大規模に編成され、墓や寺社すら日本から持ち出して移民していった。上位者が率先して模範を示すため、戦国時代から続く領主である武士が先頭に立つ場合も数多く見られた。そして現地開発の進展と政府主導の移民につられて、多くの農民が自主的に移民するようになった。一向宗や真言宗などの宗教勢力が居民団を組織する事もあり、移民を伴わない寺社勢力も日本人の数の増加と共に自然と増えていった。

 いっぽう、農業移民以外には、主に山師と言われる金鉱を始めとする鉱山を探す人々が、多数新大陸へと足を踏み入れた。また御所や大大名は、大量の罪人を流刑という形でさらなる僻地に強制移民させていった。特に流刑先としては、南のロサンジェルスの乾燥した場所と北方の霧の深い幕羽南西の内陸部に送られ、そこで過酷な開拓、開墾に従事する事になった。一定の土地を開拓、開墾すれば罪の重さに応じて放免とされ、そのまま現地で住むことが許されたので、比較的熱心に開拓が進められた。また一定の労働従事後に釈放された元罪人の一部は、さらなる新天地を求めていち早くミシシッピ川西岸に足を向ける者もあった。人のいるところに商人が出向いたことは言うまでもなく、新しく開かれた町や村には馬車を使った行商人が訪れるようになり、旅芸人の数も増えていった。
 そこはもう、日本列島とは少しばかり周辺の景色が違うだけの日本社会だった。

 北アメリカ大陸への移民の規模は最初は年間3000人程度だったが、徐々に規模が拡大されて10年後には年間1万人を越えた。中央政府と大名が一種の国家事業として押し進めた結果であるが、この時期の移民としては世界的に見ても大規模なものだったと言えるだろう。ただし新大陸に力が入れられたため、濠州など他の地域の移民は疎かになるといった影響も出ていた。
 また、日本人の移民には、先住民のことはほとんど考えられていなかった。自分たちに比べて数が少ない事、遅れた文明しか持たない事、日本人も持ち込んだ多数の疫病で日本人が知らない間に先住民の数が激減した事などが原因だった。それでも新大陸の他の地域に比べれば、駆逐ではなく同化も行っていたのでマシな状況であったと考えられており、政府組織による文明化、同化政策もそれなりに行われている。特に女性が不足する地域では、日本人男性と原住民の女性との間の混血が進んだ。この辺りは、アングロ系の白人よりは、ラテン系白人に少し似ていると言えるだろう。


フェイズ11「絶頂期の日本」