■フェイズ12「絶頂期の日本」

 大坂御所主導の形で北アメリカ大陸西海岸への大規模な移民が十数年続けられたが、1730年に劇的な変化が訪れる。
 加州櫻芽の町の郊外を流れる小さな川で、砂金が発見されたのだ。それは大坂御所が待ちに待っていた、新たなそして巨大な金鉱の発見であり、加州で金が出るという噂は瞬く間に日本社会全体に広がっていった。
 金の噂は、近隣のノヴァ・イスパニア、日本近在の中華、東南アジア地域、ネーデルランド人、さらには新大陸の東岸に住むヨーロッパ植民地人、インド、インドに来るイングランド人、最終的にはヨーロッパ全土にまで広まった。カリブ海をほぼ追い出されつつあったヨーロッパ系の海賊達にも、世界の果てで見つかった黄金の噂は及んだ。とはいえ、日本人もしくは東アジア、太平洋の外に噂が出るまでにはある程度の時間がかかり、かなりの期間ヨーロピアンが知らないうちに事態は推移していく。

 砂金の出る場所に群がったのは、最初は現地の人々だった。ほとんどが日本人移民で、若干数の近在の先住民が加わった。そして次に、続々と日本本土から船で日本人達が押し掛けた。初年度は発見時期が遅かったこともあって5000人程度だったが、翌年には3万人に増え、さらに翌々年の1733年には爆発的に増大する。1733年に「享保の飢饉」が西日本を中心にして発生したのが原因だった。
 多くの人々は、東の果ての新大陸に行けばいくらでも食べ物があり、大金持ちになれるという噂にしがみついて、財産をはたいて船に乗り込み過酷な航海に身をゆだねた。
 船賃をまともに払えない者も多いため、まるで貨物のような扱いで船に乗ったため船旅中の犠牲者も多かったが、今までよりも一層たくさんの人々が新大陸へと足を踏み入れる。一説には1年間に5万人を越えたと言われ、飢饉が収まった翌年も3万人以上の人々が黄金を求めて新大陸に渡った。
 もっとも日本列島での飢饉自体は、大坂御所が行っていた様々な施策(甘藷など救荒作物の栽培など)と大規模化・高速化していた物流網のおかげもあって中規模でとどまり、黄金を求めた人々の欲望こそが新大陸の人口拡大を助長し続けた。
 加州でのゴールドラッシュ自体は、最初の6年間程度で安価に見つけられる黄金を掘り尽くしたためほぼ沈静化した。だがそれまでに、約30万人の日本人が北アメリカ大陸西海岸中心部にあふれた。それまでの日本人人口が現地での人口増加を含めてもようやく10万人に達した程度だったので、変化の大きさが分かるだろう。無論黄金だけを求めた人々が流れ込んだのではなく、黄金を堀りに来る人々に対する各種商売のために赴いた人も多く、また純粋な農業移民もいた。
 この頃一番頭の良い移民は、日本で財産をはたいて船に乗り、黄金探しで要領よく初期投資用の資金を得て、それを元手に広大な土地と農耕機材、家畜を持つ農業経営者となる事だった。また、黄金を探しに来た人々相手の各種商売で成功した人も多かった。採掘者は着の身着のままが多いため、衣食住のうち食の提供だけで一財産築ける場合もあった。賭博場や遊郭を経営した場合、僅か数年で大富豪になった場合もあった。

 なお最初のゴールドラッシュ(約5年間)で見つかった黄金の総量は、小判(クーバン)でおよそ2500万枚分、重さにして360トンと推定されている(※ヨーロッパ標準で見た場合、金貨(3.53g)約1億枚、銀貨約16億枚分。つまり16億ターレル相当)。日本で有名な佐渡金山の総採掘量が80トン程度(※鉱石は1500万トン。うち金78トン、銀2300トン)なのだからその規模の大きさが分かるだろう。しかも資金をかけた大規模採掘によってさらなる金の採掘が見込まれており、様々な新規技術の開発によって、その後一世紀の間にさらに約1000トン(毎年平均10トン)の黄金が日本人の手にもたらされる事になる。
 加えて言えば、その後日本人達は来たアメリカ大陸の自国領内(主に大岩山脈一帯)を隈無く探し回り、以後半世紀の間にさらなる金鉱を何カ所も発見しその都度お祭り騒ぎと移民人口の拡大を繰り返すことになる。

 日本人が加州で見つけた膨大な黄金のことを詳しくヨーロッパ社会が知る頃には、黄金(+金鉱)のほとんどは大坂御所の勘定奉行の管轄下に置かれるか、大坂御所と結託した大大名、大商人の管理下に置かれていた。このため日本人社会以外で無尽蔵の黄金が急激に流れ出すという事もなく、世界規模での黄金の価値下落は日本が貿易などで金を放出するたびに起きるようになり、急激な変化はまず日本に訪れる。
 当時爆発的に発展していた日本経済の中に黄金は飲み込まれ、まずは日本人の中での流通でほとんどの黄金が消化された。ただし、この加州でのゴールドラッシュを境にして、日本人の中で小判など各種金貨(貨幣)が一般的に流通するようになった事は重要な変化だった。また貨幣の大量流通と貨幣価値の変化は、日本の金融社会に大きな変化をもたらすようになる。持てる者に大量の金余りが起き、投資、銀行、貨幣流通に関するシステムが加速度的に発展していった。大坂で世界初の金の先物取引市場までが成立した。
 世界は日本が出す金の量に注目し、特に大坂御所勘定奉行の動きと、大坂の金相場変動に神経をとがらせるようになった。そして結局一番の変化は、ヨーロッパを始めとして世界中が、大金を手にした日本と関係を深め、分け前にあずかりたいというものだった。世界はまだそれほど狭くはなく、北東アジア、北太平洋とはヨーロピアンにとっても最も遠い場所だった。
 一方で、ある意味当然と言うべきか、武力で日本人の富を奪えないかと考える者もいた。だが、船1隻を持つ程度の海賊では、大坂御所が一世紀かけて整備と充実に力を入れていた豊臣水軍には太刀打ちできなかった。何しろ日本は、半世紀ほど前まで世界最高の技術力を持っていたネーデルランドとも争っていたのだから、既に自力で有する技術力はヨーロッパの他の勢力に対して十分対向できた。しかも豊富な財政に裏付けられた巨大な海軍を保有しており、この時の黄金発見でさらに規模と装備双方を充実させていた。一度に10隻以上の戦列艦が建造されたりしている。中には金箔で覆った豪勢なガレオン戦列艦も現れ、日本の勢いを見せつけた。日本の富を狙った海賊から船と航路を守るための努力も相応に行われていたため、とてもではないが日本もしくは日本勢力圏を攻撃できなかった。
 また日本人がアジア世界に「輸出」し続けていた「日本人傭兵」、現代での通称「サムライ・サーヴァント」は、ひとたび日本の危機になると数万の日本軍として大坂御府に雇われ、日本人利権を守るべく立ちふさがった。そしてサーヴァント達は、大坂御所との契約を重視した。同じ日本人の権益を守るという事もあるが、大坂御府は日本権益防衛では通常より遙かに多い給与を出したり、仕官や領地を与えるなど行って日本人傭兵達の戦意を煽っていたからだ。大活躍した侍大将が大名に取り立てられ、新大陸に広大な領地を得たこともあった。しかも何故か日本の傭兵達は、ヨーロッパで知られるような傭兵よりも「真面目」な事が多く士気も高い場合が多かった。
 また基本的に、日本人の数が多かった。単純な人口で言えば西ヨーロッパ諸国の半分程度の大人口を抱えており、その経済力が常に活発に活動しているという状況は、ある意味世界最大級の人口を擁する清朝よりも敵とするには分が悪い相手だった。
 そしてやはり、当時のヨーロッパ諸国のほとんどにとって、日本と日本が勢力圏としている場所は遠すぎた。
 イスパニア、ネーデルランドは、既に東アジア、太平洋では物わかりの良い商人になっていた。日本から「安い」黄金を得ることが、彼らの国家戦略に必要だったからだ。
 インドへの進出を本格化しつつあったブリテンは、新大陸東岸とインド進出に忙しくて、まだ東アジアや日本どころではなかった。フランスなど他の列強では、北米大陸東岸かカリブ海進出が精一杯だった。
 この頃のヨーロッパ社会での日本とは、珍しい陶磁器などの工芸品や刀剣類そして黄金を媒介として連想される異邦人の国でしかなかった。海外のヨーロピアンはたまに日本人傭兵や日本商船を思い浮かべたが、それは当時のヨーロッパ社会でも小数派であった。世界はまだまだ広かったのだ。
 そこに新たに、日本は本当に「黄金の国」だったという認識が加わる事になる。

 かくして日本人達は、棚ぼたで手に入れた当時としては莫大という表現すら不足する黄金の上に18世紀の繁栄を築く事になる。
 豊臣秀吉以来の絢爛豪華な文化がさらに熟覧し、富みにつられて流れ込んできたヨーロッパ、中華、イスラム圏、インドなど世界中の文物を自分たちの好みに合わせて取り込み、日本一国で一つの文化圏を形成するほどの巨大で多用な文化を創り上げる。金にあかして近隣の海外から木材や石材を輸入され、巨大建造物が幾つも建設された。首都大坂の繁栄は、最盛期のバグダッド、ローマを凌ぐの言われた。近代以前の日本人が、巨大な石造建造物、焼き煉瓦を多用した巨大建造物を造ったのは、恐らくこの時期だけだろう。
 しかも世界各地の植民地は、台湾島、スンダ地域、パプア島、東パプア諸島、濠州、新海諸島、大洋州、さらにはユーラシア大陸北東部の北海州、そしてアラスカからカリフォルニアに至る北アメリカ大陸西岸一帯を勢力圏とするようになっていた。フィリピンでの影響力も年々増しており、イスパニア領でありながら半ば日本の勢力圏のような有様だった。何しろ日本語が普通に通じる場所となっていたし、日本人はマニラ以外にも普通に進出していた。
 他にも、広南、シャム、マレー半島の各地に日本人の拠点も有しており、当時の東南アジアはほぼ日本の勢力圏だった。
 この典型的な例がスンダ地域で、ジャワではヒンズー教を信仰するバンテン王国を強く支援して、イスラム系国家のマタラム王国を滅ぼし、バンテン王国に地域からイスラム教を排除させていた。さらには、カリマンタン島、マレー半島でも、現地ヒンズー教勢力を、使ってイスラム教の影響力低下を行っていた。日本がイスラムを排除したのは、一つには17世紀まだ活発だったイスラム商人を排除するためだった。イスラムとは宗教と商業がイコールである場合が多かったからだ。他には、ヨーロッパが現地勢力を利用して日本の利権を侵そうとしても、日本が敵対したイスラム教勢力を利用させないためでもあった。ヒンズーを利用するため、インド各地の藩王国と連携したこともあった。
 ただしイスラムを国教とするインドのムガール帝国との関係は悪化してしまい、当時既に退勢にあったムガール帝国と大坂御所の関係は非常に希薄なものとなっていく。ムガール帝国の衰退の一因にも、日本との関係悪化による連携不備があったとされるほどだ。

 なお、加州でのゴールドラッシュも落ち着いた1740年頃、海外に居住もしくは滞在する日本人の数は、既に日本列島に住む住民の一割に相当したと見られている。日本列島からの日本人移民の数は累計で150万人程度だが、既に現地に根付き、場所によっては開拓の進展によって大きく人口が増加していたからだ。また原住民との混血による拡大も無視できない要素となっている。日本列島以外に住む日本人の数は、18世紀の1世紀間は年率3%のペースで増えており、特に肥沃な穀倉地帯を得た北米の加州では爆発的に人口が増えていった。年率3%という数字を単純に計算すると、10年だと134%、四半世紀でおおよそ二倍、半世紀で430%、80年で10倍、100年で20倍近い数字になる。つまり100年で100万人が2000万人になるということだった。実際の上昇曲線は、移民が加わるのでなお大きな上昇曲線を描いていた。
 日本列島内でも、人が余れば海外に放り出せば良いという考え方が、加州ゴールドラッシュの頃から一般的となりつつあった。このため人為的な出産制限が緩み、再び早婚、多産へと傾いた。
 また流通網の拡大と充実に伴い日本中に食べ物が均等に行き渡り、日本近隣からも砂糖以外の穀物や食料品が輸入されるようになったため、人口の人為的調整(=間引きなど)の考え方がさらに緩み、人口の拡大と流出が緩やかに続いていった。

 また一方では、日本人一人あたりのカロリー摂取量が、戦国時代後半に比べて20%近く向上していた。
 増加カロリーの大きな部分は、南方から続々ともたらされる砂糖と、船舶建造技術の向上の発達に伴う漁獲高の拡大によるものだった。砂糖による味付け、魚の干物か塩漬けは18世紀半ばには日本中で定番の食べ物となっていた。魚肥、ナウル島のリンの輸入が、食料生産力を大きく増大させてもいた。
 他にも、国内での二期作、二毛作の発展、サツマイモ、ジャガイモの登場などによる炭水化物摂取量の増加もこれを後押ししていた。加えて、豚、鶏を中心にした食肉習慣、牛や馬の乳を飲む習慣が海外に出た日本人の影響で日本列島でも広まった事も、カロリー摂取量増加に貢献した。蝦夷など日本の北部地域を中心にして、牛乳を飲む習慣が日本で広まったのはヨーロッパよりも少し早かった。これは、日本酒醸造で行われていた経験から発見された低温殺菌技術が牛乳に応用された結果で、日本ではヨーグルト、チーズ、バターなどの加工品よりも牛乳が直接飲まれる事が多かった。
 当然ながら日本人の体格の向上が見られ、日本人の平均身長は17世紀半ばから1世紀ほどの間に5cm以上向上している。特に肉食が増えた濠州、北海州の日本人は、一世紀ほどの間に10cm以上も体格が向上していた。これは弥生時代以後下がり続けていた日本人の平均身長の歴史にとって画期的な変化だった。
 そして155cmが160cmになったと言ってもそれほど大きな変化と感じられないかもしれないが、世界全般で見てもこの時代に体格が向上した事は大きな変化であった。しかもこれ以後も緩やかな体格の向上は続いたため、日本人=小さいという海外の文献は時代を経るごとに減っていく事になる。それでもゲルマン系白人のような巨体にはならなかったが、19世紀にはアジアで最も大柄な人種の一つが日本人になっていた。濠州、北海州の日本人は、アジア系の細身の体格はともかく、身長だけならラテン系民族ほどとなっていた。
 そして日本人の体格の向上こそが、日本が繁栄を謳歌していた何よりの証だと言えるだろう。
 ただしその繁栄は、やはり大きな格差を伴うものだった。

 移民の増加で日本列島内の貧民は減ったし、庶民にもある程度豊かな衣食住がもたらされた。だがそれは、一部の大名や大商人が得た富に比べれば小さなものだった。
 衣食住はもちろん、富と権勢を示すための建造物はさらに壮麗を極めた。しかもこの時期から耐火建築としての西洋建築、つまり煉瓦や石を多用した建造物が増え、さらには地震対策として丈夫な柱や梁を入れることで多少の高層化も進んだ。地震のない地域、寒冷な地域では、いっそう日本的ではない構造の日本風建築物は増えた。
 それまで巨大建造物と言えば、一部の大名の城郭と寺社ぐらいだったが、大大名の建造物はさらに大きく豪奢となり、日本中の富を集めた商人達の住居は、並の大名程度では太刀打ち出来ないほど壮麗となった。郊外に大邸宅を持つのが豊かさのステイタスとなったのも、18世紀の繁栄の中の事であった。大商人の中には、百万両商人と揶揄して呼ばれるほどの商売を行う者が複数現れ、彼らはこの時代での爆発的な発展の中で近代資本家として萌芽していくことになる。
 衣食住の衣食でも、世界中の衣服を取り入れて他との差を付けてみたり、牛の肉を食べる習慣を持ったのも大商人が最初だった。指輪や首飾りなどそれまで日本的でなかった宝飾で着飾ったのも、大大名よりも大商人達の方が早かった。
 こうした大商人の「奢り」に一部武士から反発が出たが、大商人と大商人のライフスタイルを見本としている都市中流階層を重要な支持基盤としている大坂御所としては、商人達に手を出すことはできなかった。精々が、賄賂や癒着などで行き過ぎた人物を、時折見せしめに罰してみせるぐらいだった。
 そして大商人に代表されるように、繁栄の絶頂の中で社会の腐敗と緩みが進んでいた。

 18世紀頃、日本社会において問題視されていたのが、身分格差の希薄化だった。身分、つまり大きくは武士とそれ以外という枠組みは豊臣政権初期に作られ、封建社会を持つ日本においては無くてはならないものだった。士衆分離という考え方が、一番分かりやすい身分基準になるだろう。
 武士は特権階級であり、生産的労働に従事せずに今で言う官僚、軍人としての役割を果たすことで特権を享受し、またヨーロピアンの言うとこの「高貴なる者の義務」に従って名誉と義務を担う存在とされていた。例外は日本人傭兵だが、これに属するのは主に仕える主人のいない武士つまり浪人であり、戦う職業に従事するという事で最低限の名誉は維持されていた。
 しかしたびたび莫大な黄金が海外からもたらされた事で、日本人社会では貨幣経済が大きく発展し、武士の収入源にして商品作物である米の価値が下落した。これに対して大坂御所や商工業振興などで富を得た大名は、武士への給与を米から貨幣に切り替えることで問題を回避したが、農村に埋没していた後進的な大名、武士は瞬く間に没落していった。そして没落した武士のかなりが、事実上の屯田兵となって海外移民に率先して行かざるを得なくなる。
 しかし海外植民地では、大坂御所や大大名の威光の届かない場所で、実力こそが全てで権威は何の役にも立たなかった。そうしないと生きていけないからだ。海外に出た武士の中でも、能力・実力のあった者、運のいい者、努力した者、要領のよかった者は昔の在郷領主のようになれた。だがそうでない者も多いし、武士だという誇りのために失敗する者の方が割合的に多かった。海外に出た武士の成功者は、地域によって格差はあるがだいたい6割程度で、他の移民の成功者よりも低かった。
 加えて、海外で成功したのは知識、技術、商才、胆力など様々な能力に秀でた者であり、生まれや血統は地縁・血縁関係の利用以外ではほとんど関係なかった。元から財産や家来(部下)を持っている者の成功者は比較的多かったが、大坂御所の治世の中で在郷領主でなくなっていた武士の多くは、自らの領地がどこかも知らないという事も多く、そうした成功者にはあまり含まれなかった。村と村民を実質的に率いていた名主(※村長や豪農)の方が、よほど成功を収めた。また彼らは、かつての武士のように自らの力で自分たちを守る組織を作り上げ、豪族と呼ばれていた頃の武士に近かった。武士の多くは、海外では政府が雇った形の日本人傭兵とは違う雇い浪人として護衛を生業にする者が結局多くなり、それはすぐにも盗賊になる可能性を秘めている存在だった。
 そして雇い浪人にせよ盗賊にせよ社会から尊敬される存在ではないため、武士達は自らの地位を自らの行いによって下げていった。無論例外の方が圧倒的多数だったのだが、少数の脱落者の方が社会的に目立った。噂は海外から日本人の航路を伝って日本列島に流れ、日本国内でも武士の地位が日本人の民衆達の間で下落していった。
 しかも日本国内の武士達は官僚化、文民化が進んでいたため、多くの者が変化に弱く権力にこびやすい存在に落ちていた。そして長期間続いた官僚社会特有の悪弊、つまり精神面での腐敗と賄賂の横行が民衆の支持をさらに無くさせた。
 しかも武士の中でも、主に大坂御所のもとで水軍や海外警備を担ってきた武士達(日本人傭兵含む)が、腐敗堕落した武士を軽蔑する傾向を強めていた。ただ彼らは武力に走りすぎていると社会的に見られる傾向が強く、彼らが武士でとして維持していた責任感や義務感が悪循環になったり空回りする事も多かった。
 そうした中でのやや例外なのが経済的に安定もしくは成功した武士たちで、懐に余裕があるため精神的にゆとりがあって政治や商売の中で現実も見ているため、責任階級として最も有望視されていた。
 そして武士の問題は、大名間の問題でもあった。
 経済、軍事、格差など様々な問題が絡み合って、大老、中老の12家の大大名間の反目が徐々に表面化するようになっていたのだ。しかも対立は、大坂御所つまり中央政府に傾く側と、地方重視を唱える側にも別れつつあった。この上でさらに植民地で成功した者が加わり、事態は複雑化していた。
 だが日本社会全体が経済的に繁栄しているため表面上の対立は少なく、澱みと歪みを抱えつつも日本の表面的繁栄は続いた。ヨーロッパ列強も、まだまだ自分たちの中での争いに忙しく、アジア・環太平洋地域で無軌道な膨張を続ける金満国家のことをほとんど省みることはなかった。
 しかし破局は呆気なく訪れる事となる。


フェイズ13「日本の混乱」