■フェイズ13「日本の混乱」

 1783年、関東平野奥地にある巨大火山の浅間山が噴火した。
 吹き出された膨大な火山灰は関東平野中に降り積もり、宇喜多侯の本拠地となっていた江戸の城下でも、一寸(約3cm)の火山灰が降り積もったと記録されている。
 そして巻き上がった粉塵と硫黄化合物は、北半球全域に気温低下などの悪影響を与えると共に、日本東部及び北部に大飢饉をもたらす事になった。
 1782年に始まった「天明の飢饉」の発生である。

 「天明の飢饉」が1782年に始まったのは、それまでに発生した世界の他の地域での火山の大噴火がもたらした、世界規模での一時的な気温低下が影響していた。浅間山の噴火は、それに拍車をかけることになったのだ。
 この大飢饉に際して、大坂御所の対応は後手後手に回った。
 主な理由は、自分たちが住む近畿、西国の被害が比較的小さかったからだった。つまり飢饉の原因の一つは、人災でもあったのだ。宇喜多侯を始め関東の諸侯は初期の頃から大規模な災害対策を唱え、自分たちで出来る範囲で動いてはいたが、100万石の大領主であってもできる事は限られていた。
 関東、東北、その他主に東にある貧しい地域の人々は、一揆、打ち壊しなど行う傍らで、財産をはたき一縷の希望を託して新大陸に向かう船へと乗り込んだ。移民者の規模はかつてのゴールドラッシュを越えるほどとなり、毎年10万人以上の人々が新日本の加州や濠州大陸などを目指した。
 大坂御所も流石に事態を重く見て、日本国内での物流の促進と東南アジアから穀物を輸入するなどの対策に出たが、行動が中途半端だった事と、貨幣経済の進展がかえって米など重要農作物の流通を鈍らせていたため事態は悪化した。東南アジアから経費をかけて届いた穀物も、最も足りない東国には流れず西国商人が倉の中に蓄え、先物取引などで暴利をむさぼる光景も半ば日常だった。それを統制すべき御所は、組織を構成する武士の多くが賄賂で金持ち達にコントロールされており、事態を解決する事ができなかった。大名と大商人の関係が最も悪い形で現れたのだ。
 しかも地球規模での気温低下は、翌年もその翌年も続いた。噴火の翌年の1783年の関東平野は、噴火した年のように一日中薄曇りになるというほどでないが、毎年東国を中心にして不作が続いた。そして、積り積もった不作の連続のため各地で備蓄食料が不足し、甘藷などの救荒作物では全く足りなくなり飢饉はより悪化した。1784年に日本列島を離れた人の数は、20万人を越えたと言われる。移民のための船の中は、まるで大西洋での奴隷運搬船のようだったとすら言われ、多くの者が過酷な船旅の中で命を落とした。当時の記録は、行くも地獄、残るも地獄と伝えている。繁栄の上に胡座をかいて、無定見に増えすぎた人口に対する一種の報いでもあった。
 この中で大坂御所の中途半端な中央政府と地方分権が悪い形で顕在化して、持てる地域と持たざる地域の格差は決定的な形で人々の前に露見されることになる。それは人々の不満の温床となり、日本国内でも持てる地域への貧民の流れが増えて、そこに居住する人々と流れた人々の対立が発生した。
 大名間の関係も極度に悪化し、頭の良い大名の中には海外に活路を求めて、日本国内のことに関しては我関せずで過ごす者もいた。
 大坂御所とそれを構成する武士官僚団は、腐敗した多くの同僚を横目で見ながら彼らなりに努力は重ねたが、もともと大坂御所は中央政府の力が強権を用いる分において不足していた。特に日本国内で権力が振るえない場合が多く、地方の大大名は自分たちの領土のことをまず第一に考える向きが強いため、中央政府の力は低下する一方だった。
 そして日本列島での混乱を大きくしていたのが、日本列島の居住人口が大きくなっていた事だった。1780年頃の総人口は約4000万人に達していたと見られていた。しかも、砂糖などの大量輸入による一人あたりカロリー摂取量の向上が、貧富の差、地域の差による食料の分配に影響を与えていた。既に海外植民地に活路を求めた海外移民した数は、過去約200年間の累計で300万人に達していたが、それでも国内では野放図な人口拡大により生存限界線の住民は全体の3割を占めていた。これらの人々が、混乱を元凶となっていたのだ。
 基盤の弱い繁栄の頂点が、滅亡の一歩手前と表裏関係にあると言えるだろう。

 日本列島での食料を巡る争いは、民衆による大規模な一揆、打ち壊しから発展する民衆暴動や、反乱を恐れた大名による地域ごとの食料の争奪戦になり、ついに持てる西国と持たざる東国による対立に発展した。武装した兵士が食料を奪うように買い上げる光景が見られ、すぐにもそれを阻止しようとする人々との間で争いとなった。そして混乱の拡大が流通網を機能不全に陥らせ、尚更湖乱を拡大した。
 その中で、近畿を中心にした大坂御所は調整能力の欠如をさらけ出して、大名、武士、民衆全ての階層からの信頼を無くして、戦国時代の発端となった室町幕府のような醜態をさらすことになった。
 既に1785年の段階で、日本各地で小競り合いといえる戦闘状態が頻発した。その中で地域ごと地方ごとで団結し、そして近隣の相手を憎む構図ができあがっていった。そして諸侯の一部は自らの軍備を本格的に準備すると後はエスカレートする一方で、すぐにも1000人単位の軍隊同士がにらみ合ったり小競り合いをするようになった。
 大坂御所のほとんど最後の役割は、事実上の常備軍を用いる混乱状態の鎮圧ではなく、新たな戦乱に際しての約束事の制定、つまり「惣約」と呼ばれる戦争協定を日本人全てに認めさせた事だった。
 「惣約」では、兵士のいない人口1万人以上の町(=都市)での戦闘及び略奪の禁止、一定の割合以上の現地徴発の禁止、海外勢力の干渉に対する協調行動、海外植民地での戦闘禁止などが記されていた。この条約は、ヨーロッパでのウェストファリア条約以後の条約や暗黙の了解などを取り入れたもので、条約自体は当時としてはかなりに優れたものといえる。また都市に富と人が集まりすぎているため、日本人達も多少はものを考えるようになっていたと言えるだろう。
 そしてそうした戦争協定を日本人のほぼ全てに認めさせたのが、大坂御所を介在とした大商人達による各大名、武士に対する圧力と、彼らが利用した「朝廷」の権威だった。
 日本では依然として、帝(天皇)と朝廷の権威に逆らえば「朝敵」とされて名誉を失う事を意味していた。しかも誰から攻撃されても文句の言えない政治上での重罪人に落とされてしまうという点は、多くの人々に約束事を守らせる大きな抑止力となった。行く当てのない浪人傭兵達ですら、朝敵になることは嫌がった。世界に広く出ていくようになっても、日本人の多くが「恥」を重視する社会規範を持ち続けていた。

 その後大坂御所は、タイミングの悪いことに時の関白豊臣義秀が死亡して自動的に関白位を失い、大大名を恐れた朝廷から新たな関白位を授かることもなく、権威面での政治的裏付けすら失ってしまう。そうした中で、権威意識の強い大坂御所を牛耳る大名や武士達に対して、東国、北国を中心にした地方大名達が本格的に反発。特に生き残るために動かねばならないため、その動きは急速であり、また過激だった。各所で流通の停滞や事実上の通行止め、そして小競り合いに発展していった。
 そして中央行政の喪失と流通の停滞は、より一層の食糧危機を一部の地方にもたらした。流通停滞に伴う食糧危機は大都市である大坂、京などにも及び、日本の中心部も大混乱に陥った。
 そしてそこに、とどめの一撃が加わる。
 1786年に起きた、関東、陸奥(奥州)の大水害だった。天明の飢饉の総仕上げと言われた天災は、箱根より東の食糧不足を決定的なものとして、それが一気に地域全体の民衆暴動へと発展した。
 この大水害に際して、宇喜多、伊達、佐竹といった東国、奥州の大名は自らの生き残りのために連合し、朝廷からの裏書きを得た上で豊臣政権からの一方的離脱を宣言。その上で中央ではなく大商人達を通じて食料の調達を計ると共に、食料と経済を「不当に」牛耳る大坂御所と西国大名に事実上敵対した。
 「天明・寛政の役」と呼ばれる大規模な戦乱の始まりだった。
 なお世界史上では、この頃の日本人による戦乱をまとめて「日本革命戦争」又は「日本市民戦争」と呼ぶ。1776年のアメリカ独立、1789年のフランス革命と時期を同じくしているのが大きな理由だ。

 戦乱は、瞬く間に広がっていった。
 主な理由は、心理面では二百年近く積もり積もっていた地方同士の反目と格差、富める者と貧しい者の格差が原因していた。物理面では、整備された交通網とガレオン船に代表される帆船の普及、大砲、鉄砲など破壊力の大きな武器の普及が原因していた。
 また東アジア、環太平洋一円に広がっていた大商人達の存在が、戦争をより円滑にしていた。既に日本列島だけが基盤ではなく、しかも各地に拠点を設けて富を生み出しているため、商人達は日本列島内での適度な戦闘を、むしろ停滞しつつあった日本人経済に対するカンフル剤や特需のチャンスと見ていた。加えて日本列島での戦乱は、他の地域への大量流出とそれに伴う需要、その後の人口増加に伴う経済拡大すら皮算用していた。高利貸し、回船問屋などは、大忙し状態だった。
 しかも近畿の大商人達の一部は、戦禍が及ぶ恐れのある政治の中心地である大坂、京から堺、神戸など周辺部や海外にまで拠点を移し、それらの町を事実上の自治都市として各方面に認めさせた。博多、長崎など他の直轄都市も、早くも現地の大商人による自治を宣言して、御所役人を追い払って近隣の大名との関係を深め、国内流通と海外貿易の独占へと走った。大大名の拠点となっている大都市、貿易都市の商人達は半ば大名と一蓮托生となっているためそれほど勝手な動きはなかったが、豊臣政権の中で異常なほど巨大化した商人達こそが戦争の行方を左右している事は間違いなかった。
 戦争行為自体があまりにも大規模で経費のかかる事業になっているため、大大名といえども戦国時代のように好き勝手にはできなくなっていたのだ。故に大名達は、一つの町を壊した程度で小揺るぎもしない商人達の言葉に従って、決められた枠内での戦争をしなければならなかった。

 なおこの頃日本の人口は、戦国時代末期の二倍以上に膨れあがっていた。毛利一族のように日本の約6分の1を領する場合、600万人以上の人口を抱えている事になる。当時のヨーロッパにある国家の平均人口より多いことを意味していた。他にも上杉侯、宇喜多侯で300万人以上、他の大老、中老も最低でも人口100万人を抱える規模を持っていた。何しろ大老、中老合わせて12侯だけで日本の半分以上を有することになるのだ。しかも彼らの持つ領内の多くに富の源泉である大都市、貿易都市が存在していた。それ以外の豊臣政権直轄都市もあったし、毛利家をやや上回る豊臣家も一諸侯と考えても巨大な家ではあったが、豊臣領は近畿を中心にするも日本各地に分散している上に管理しているのは官僚でしかない代官のため、在地領主である他の大大名に比べると不利だった。しかもそれまで中央政府を担っていたため、それを維持しようと汲々とした行動が増えて、自ら行動の選択肢を狭めていた。
 それでも豊臣家を中心にして近畿の大名達はそれなりに連合し、日本は大きく5つの勢力に分割することになる。北から順に、宇喜多、伊達を中心にした東国勢、上杉、真田を中心にした信越勢、近畿から濃尾平野にかけた豊臣勢、中国、北九州に広がる毛利勢、そして島津、小西、長宗我部を中心にした南国勢である。他に東南アジアを中心に旧大坂御所に属する大規模な海外駐留部隊がいたが、彼らは関白もしくは征夷大将軍にのみ従うという日本的な建前のもとで半ば中立状態となった。既に200万人が住む濠州、総人口500万へと一気に躍進した新日本州(主に北米西岸)、ユーラシア大陸北東部の北海州も事実上の中立状態になった。正直海外領土では、日本の地方レベルの組織で統治も統制できないし、また現地も中央政府などに支配されたくないと考えていた。特に濠州、新日本州では急速に自治や独立に対する雰囲気が醸成されつつあった。加えて、日本本土から大量の人口が移民してくることも期待していた。大きな人口を抱えること自体が、自分たちの力へとつながるからだ。

 日本本土での戦乱で最初の大きな戦闘は、1786年秋口に発生する。最初に大規模な軍勢を動かしたのは豊臣勢だった。
 豊臣勢は、自ら中央政府の正当性を掲げて、離反した東国勢の討伐軍を起こすことを日本中に命令した。しかし様々な理由を付けて地方の軍勢は集まらず、ほとんどの勢力が日和見した。各陣営が固定化したのもこのときであり、以後それぞれの勢力は勝手に動き出すことになる。当然ながら、豊臣家と大阪御所の権威は呆気なく崩れ去った。
 それでも豊臣勢は、近畿から東海にかけて大軍を集めることに成功し、急ぎ集められた約5万人の大軍が東へと向かった。彼らには、戦闘で勝利するしか活路がないため必死だった。
 これに対して東国勢は、専横を欲しいままにした上に自らの保身のために勝手に軍を起こした豊臣勢こそが日本の秩序を乱す存在だとして糾弾。各地に檄を飛ばした。これに困窮していた関東、奥州の多くの諸侯が賛同を示し、江戸を中心にして各地から軍勢が集まり始めた。この時伊達を中心にする東国勢は、会津を有する上杉との間に領国通過を認める約束を交わしたにとどまった。上杉、前田は、オロシャ(ロシア)の動向不穏を理由にして、自らが率先してロシアが伺う北海州(東シベリア)を抑える代わりに、基本的に中立を宣言したに等しい状態となった。実際、エカチョリーナ女帝のもとで膨張主義を取っていた当時のロシアは、日本の北海州を伺っていたので、上杉、前田の行動は日本中から容認されていた。何しろ北海州での旧大坂御所は、既に役立たずの存在となっていた。このため現地では上杉、前田が事実上全ての日本人勢力を糾合するようになり、上杉侯や前田侯は北海管領や北海将軍と揶揄されるようになる。

 話が逸れたが、最初の戦闘は相模の国で発生した。
 濃尾平野より東で大規模な戦闘に適した土地がほとんど無かったことと、東国勢が大軍集結に遅れて豊臣勢の箱根越えを許したためだった。そして東国勢の集結が遅れた原因こそが、当時東国を襲っていた水害と飢饉であった。もっとも、理不尽な状況に立たされ立った東国の人々の戦意は非常に高く、また自ら引き込んで戦うため籠城を選択することなく豊臣勢の大軍に対して相模川での野戦を強要する布陣を実施した。
 「相模川の合戦」は10月に行われ、豊臣勢5万、東国勢3万が参加した関ヶ原の合戦以来の大規模な戦闘となった(※日本人による大規模戦闘としては清朝との戦い以来、日本国内での戦闘は関ヶ原以来という事になる)。
 戦闘はマスケット銃兵(歩兵)を並べた大軍で平押しする豊臣勢に対して、新大陸から取り入れた西洋馬による大規模な重騎兵(胸甲騎兵)を編成し、地の利を活かした迂回突破攻撃を行った東国勢の圧倒的な勝利に終わった。
 戦闘自体は、同時期のヨーロッパ中央で頻発した戦闘に比べれば、軍制、戦術、兵器さらには戦闘様式に至るまでやや古くさいものだった。だが、そうであるが故に、当時のほぼ最先端の重騎兵部隊を編成していた東国勢の戦闘力は高かった。
 この当時日本の軍隊も、既にヨーロッパをある程度模倣して火打ち石(フリントロック)式の銃や銃に付ける銃剣、炸裂弾を放つ大砲も装備していた。防具も刀剣での戦闘を考慮したものからは既に脱し、かなり合理的なスタイルになっていた。接近戦を考慮した重装備の者でも、兜と胸甲が鎧のほぼ全てだった。
 部隊編成も銃兵(歩兵)、砲兵、騎兵、そして荷駄衆、黒鍬衆を加えて編成していた。ヨーロッパほど緻密な部隊編成にまでは至っていなかったが、戦国時代からある程度発展した軍隊編成と装備を持っていた。
 これは、関ヶ原の合戦以後もネーデルランドや清朝と戦ったことが強く影響していた。加えてアジア全般に日本人傭兵を派遣していた事が、ヨーロッパの先端技術、軍事知識を取り入れる大きな窓口になっていた。しかし日本の軍隊としては100年ほどは大規模な戦闘がないため、海賊との争いが日常だった水軍に比べて陸上戦力の発展は全ての面で遅れていた。世界各地に赴いていた傭兵の方も、主に雇い主だった有色人種国家が軒並み元気をなくしていたため、需要が少なくなって戦闘経験者の数が多いに減っているのが現状だった。
 この典型的な例として、火薬(人造硝石)の需要が国内で少なくなったため、新たに火薬を消費する産業として花火産業が日本中で発展している。

 話がやや逸れたが、戦闘は、豊臣勢の大敗で終わった。重騎兵部隊により包囲殲滅された豊臣軍左翼では多くの大名、指揮官が戦死し、崩れた左翼からさらに側面突撃してきた東国重騎兵の前に豊臣勢は総崩れとなった。5万のうち戦死者1万5000、捕虜1万、潰走した兵は負傷者、逃亡者を含めて約2万5000人とされている。
 一方の東国勢も、正面での派手な砲撃戦、銃撃戦を中心として1万近い損害を出しており、それ以上の追撃は難しかった。しかも東国勢は兵糧つまり補給面で問題を抱えている事と、既に秋が終わりつつある事も重なって、その年のうちに追撃することは出来なかった。
 しかしこの戦いにより豊臣家を中心としていた大坂御所の権威と力そのものは完全に日本社会で否定された事になり、以後日本列島では戦乱が続く事になる。


フェイズ14「大坂時代終焉」