■フェイズ14「大坂時代終焉」

 「相模川の合戦」により、日本での新たな戦乱が始まった。
 それは日本列島内では約180年ぶりの事であり、日本人全体で見ても130年以上していない大規模な戦闘の始まりでもあった。
 そして皮肉な事に、戦争の始まった翌年には飢饉もある程度沈静化し、日本列島には何もできないまま事実上崩壊した中央政府と、地方割拠が顕著化した形での戦乱だけが残された。

 1787年春になると各地で小競り合いが行われたが、戦場は主に海上になっていた。海が物流の大動脈であるため、相手の国力を削るには制海権を奪うか脅かすことが最短距離だったからだ。
 しかし旧大坂御所に属していた水軍の主力(=各種ガレオン戦列艦30隻程度を主力とする)は東南アジアを中心にして海外に展開しており、国内に存在する艦艇も主に旧大坂御所の直轄都市の拠点に存在していた。そして水軍は主に外国勢力と海賊に備えたものであり、国内での混乱には否定的だった。このため豊臣勢が水軍を動かそうとしても、そのほとんどが関白の命令以外で動くことはできないと否定した。一部荷担した者も、人質を取られたり弱みを握られた場合がほとんどだった。
 また他にも大大名の多くは独自の水軍も有しており、毛利侯のように複数の戦列艦を有する大名もいた。しかし大大名にとっても戦列艦は虎の子であり、おいそれと動かせる戦力ではなかったし、彼らの海上戦力の多くは権益保護のために海外に展開していた。だいいち、大型艦を動かすには金がかかったため、一層動かすには慎重さを要した。
 このため日本近海での戦闘では、中小の船舶が敵側の交通網を攻撃し、双方の中小の艦艇の間で戦闘が行われた。この中で海賊、私掠船が大いに活用されることになった。
 しかし海外から日本に向かう航路には、「日本水軍」と自ら名を変えた旧大坂御所の水軍が警備についており、不用意に攻撃した艦船は国籍、人種を問わず容赦なく破壊、撃沈された。しかも大商人達と都市住民が日本水軍の実質的なスポンサーに付いているため、日本水軍の活動が停滞することはなかった。そうしていつしか、日本水軍は丸ごと傭兵のような地位へと一時的に身を落とすも特権階級ではなく日本人全ての軍隊となり、海外と日本の貿易港を結ぶ航路は大都市同様の中立地帯となった。
 実に奇妙な状況だったが、日本人内での地方同士の争いと、大商人がスポンサーとなった状況をこれ以上ないぐらい表した状態とも言えるだろう。またこの時期の日本人達が、まだ戦争に対して本気になっていなかったとも言えたかもしれない。
 そして本気でなかった証であるかのように、最初の大規模戦闘以後しばらく戦闘は発生しなかった。
 無論各陣営ごとに理由はある。
 豊臣勢は大敗して積極的な動きが出来ず、東国勢は飢饉の後始末と食糧補給を中心とする兵站不足からまだ侵攻する余力がなかった。毛利勢は、本当に戦乱が起きるとは考えていなかった節が強く、最も戦争準備が遅れていた。信越勢と南国勢は、海外に多くの勢力を持っているため、正直日本国内での戦争はしたくないため、海上以外の動きは常に消極的だった。
 そのような状況のため、豊臣勢は濃尾平野まで下がった状態から動かず、東海地方の多くが勝利した東国になびいた以外の動きはあまり見られなかった。また敗北した豊臣勢が毛利勢、南国勢に接近したが自らの主導権や政権再構築にこだわるため、話がまとまる気配はなかった。
 そうして1787年は暮れていき、各陣営はそれぞれの都合の戦争準備を行いつつ年を越した。

 1788年に春になると、各地の軍勢が活発な活動を開始した。
 豊臣勢では、北陸の前田を動かして上杉侯に圧力をかけて自陣営に加えようとしたが、前田侯は豊臣勢の言葉に対して結局動くことはなかった。それどころか、北海州での関係もあるためむしろ上杉侯との関係を深め、旧大坂御所の尻拭いをさせられていると激怒した時の上杉侯も徹底抗戦の構えを見せた事から、関係進展を見せることが出来なかった。
 毛利勢はその巨体をようやく起こしたが、その巨体と豊臣の権勢が落ちたことによる傲慢から、南国勢と主に海上での小競り合いが頻発し、両者の陸での境界線となる九州中央部では、数万の軍勢同士がにらみ合う状態になっていた。大規模な戦闘に発展していないのは、どちらもできれば日本中央部で決定的状況が訪れてから動きたかったからだ。
 そして西日本の各勢力が望んだかのように、日本中央の情勢が動き始める。
 東国勢は昨年秋の収穫でようやく息を吹き返したところで、本来ならまだ遠征は避けたかった。しかし豊臣勢は未だ混乱が続いおり、今動く事が重要だと考えられた。
 この考えには伊達侯が最も積極的であり、また密約によって信越勢というより上杉侯から大量の援助を受けた事で、東国勢は遠征可能となった。
 そうして4万の軍勢を編成した東国勢は、東国勢に好意的な真田侯が信州を抑えているという事を安心材料として、全軍を東海道に進めた。この結果東海地方の諸侯は実質的に全て東国勢に組みすることになり、戦闘もないまま遠江と三河の国境まで進むことができた。
 しかし濃尾平野中心部の名古屋には、体制を立て直した豊臣勢が多数の増援を受け取ることで約6万の軍勢を集結させていた。このため東国勢も、慎重に進みつつ自らに与した岡崎城に入って両者の対陣となった。
 しかし名古屋は人口1万人以上の大都市であるため「惣約」に従い戦闘が禁じられており、豊臣側は自分たちが決めたことでもあるので戦闘をする気があるのなら打って出るしかなかった。城塞に籠もったり町を人質にすれば自らの中央政府としての正当性を失うばかりか、民衆からの支持も失う可能性が極めて高かったからだ。一度大敗した豊臣勢に、選べる選択肢は少なかった。
 そして豊臣勢の出撃に際して東国勢も呼応。かくして「濃尾合戦」が行われが、またも豊臣勢の大敗で終わった。
 勝敗の決め手は、先の戦闘で活躍した重騎兵軍団の有無よりも、豊臣勢の士気の低さが原因していた。逃亡した兵士の数が過半数を超え、戦死者が先の戦闘に比べて著しく少ない事からもそれは明らかだった。
 しかし総崩れの中の混乱で、政権の中心にして全軍の総指揮官だった石田侯を失うという大失点を侵し、統制のとれなくなった豊臣勢は、そのまま濃尾平野を西に潰走して関ヶ原前面の大垣城にまで後退してしまう。
 一方の東国勢は名古屋、岐阜へと入り、所定の目的を呆気なく達成することになった。

 そしてここで東国勢に一つの野望が持ち上がる。
 連続して圧勝した事で、一気に次の日本の覇権が見えてきたのだ。しかも勝利を得たことで、少なくとも東国勢の武士達は心理的に優位に立ち、戦争原因である格差についても多少は寛容になっていた。
 加えて、信越勢の上杉、真田は、今までよりも東国勢に積極的な協力姿勢を示していた。そしてこの頃の上杉は北海州を事実上牛耳っており、真田も加州で最も強い影響力を持つ存在だった。加州には伊達を始め奥州諸侯も多く進出していたが、真田は半ば偶然からゴールドラッシュのあった加州の櫻芽あたりに多数の領土を有しており、当然ながら莫大な財を主に海外を中心にこの頃も持っていた。櫻芽をやや内陸に進んだ場所にある新上田庄は、真田の第二の故郷とすら言われるようになっていたほど発展しており、黄金で財をなした人々の日本風豪邸が建ち並んでいた。
 北海州の利権を持つ上杉も、主に毛皮産業、乾物産業、林業で莫大な富を築いており、非常に裕福な諸侯であった。そうした後ろ盾を得られることは東国勢にとって意味のあることであり、海外に基盤の多くを持つ信越勢にとっても東国が主導権を握る事に一定の価値を認めていた。何より信越勢は日本国内で混乱が長続きする事には否定的であり、新しい勝ち馬である東国勢への肩入れを決めたと言えるだろう。
 しかも北海州と新日本を預かった形の信越勢は、二つの植民地地域が「新政権」に望むことを東国勢に伝えてきた。内容は、現地での「民衆議会」の開設と「地方自治」の付与であった。新たな統治者のもとで民の意見をくみ入れることのできる議会を設けて政治を行い、地方自治権を拡大してそれぞれの地方にも内政用の地方議会設立を認めるのならば、植民地は引き続き日本列島に存在する中央政府を支持するというものだった。
 この要求に、どちらかといえば考え方が古く保守的な東国勢の武士達は難色を示した。だが、協力を得るために了承を伝え、これにより関ヶ原以東の日本人社会全てが東国勢のもとで一応の結束を見せることになる。そして仮の本拠となった名古屋には、各方面から多くの人々が集まっていった。

 一方続けて大敗した豊臣勢は、たまらず毛利勢に援助を求めた。南国勢にも接触したが南国勢は海外での基盤が多いため、古びれた上に実力も失った政府である豊臣勢にあまり期待していなかった。とはいえ日本の覇権を求めるほどの積極性もその力もまだなく、むしろ戦禍を避けて海外に資産や人材を流している状況だった。実際南国からの濠州移民が、天明の飢饉の中で大規模に行われていた。
 そうして日本を半分に割った対立へと傾きつつあったのだが、豊臣勢は圧倒的に不利だった。主導権は毛利勢に奪われ、自分たちの陣営内でも北陸の前田侯はほぼ最初から事実上の日和見に傾いていた。しかも要である石田侯は、当主と主力部隊を失って混乱していた。
 そこを東国勢に突かれ、かつての勝利の地である関ヶ原に布陣する豊臣勢の残存部隊は簡単に壊乱。そのまま近江の石田領からも後退して瀬田の大橋までずるずると引き下がることになった。
 東国勢は、少しつつくだけの積もりが、苦もなく石田領を占領下に置いた。大阪時代の石田一族は佐和山の裾野に広がる彦根を本拠とするも、そこでの籠城をすることもなく降伏開城を選択。石田家は助命と最低限の財産の補償を交換条件に大名家としては取りつぶしとされ、一族のうち主家筋の男子全てが遠方配流か僧門入り、又は高野山への幽閉とされた。石田家の最後の選択は、戦国時代のように一族郎党が籠城の末に戦って滅びるという風潮が廃れている証であった。
 そして天下に王手をかけたかに見えた東国勢だったが、日本古来の形式を重んじて瀬田の大橋で京の朝廷からの使いを待っている間に大きな変化が待っていた。

 豊臣勢の要請を受ける形で領内で大軍を編成した毛利勢は、一路山陽街道を進んで大坂まで半日の距離の尼崎まで進出した。多少装備や編成が古くさいながらも5万もの大軍であり、東国勢に対向するには十分な戦力だった。しかも有力な水軍も海路大阪湾に至っており(※というよりも、軍主力は海上機動で一気に播磨(姫路)に到着していた)、海外から戻さない限り海軍力の少ない東国勢としては非常に慎重を期す事態になった。
 そして豊臣勢が多少安心したところを、毛利勢が予想外の動きを取った。
 彼らは、日本の混乱の元凶は豊臣家とその取り巻きにあるとして、不意打ち状態で一気に大坂城に攻め込んだのだ。
 攻撃は電撃的で、主に帆船群からの艦砲射撃を用いて城の外縁部を破壊し、市街地の少ない場所から軍勢を入れて一気に城を攻め落としてしまった。豊臣勢はまったく油断していたために為す術が無く、また大坂城内や大坂近辺に大軍を配置していなかった事もあって、まともな抵抗をすることも出来なかった。
 しかも豊臣勢は、やってきた毛利勢を最初は援軍と考えて城門を開いていたため、まともな抵抗や籠城をする暇もなく場内に毛利勢に入られ、天下無双を謳われた大坂城はその機能を全く発揮することなく僅か四半日で戦うことなく落城した。
 この間、戦闘のための移動開始から僅か3日の出来事であり、全く誰も対応が出来なかった。
 そして、辛うじて本丸に立てこもった豊臣一族の手により焼き払われた天守閣及び本丸の燃えさかる炎が、豊臣の天下と大坂時代双方の終焉を飾る事になる。


フェイズ15「大日本国建国」