■フェイズ15「大日本国建国」

 1788年夏、日本列島での混乱は、後からやってきた毛利勢が豊臣家を滅ぼすことで豊臣御所の滅亡という一つの通過点を過ぎた。
 そして日本列島では飢饉もとりあえず収まりを見せ、多くの人々が中央行政と物流の円滑な再開を望み、日本の覇権を目指そうとした諸侯たちも、そうした民衆の声を無視することは出来なかった。
 しかし、次なる日本の支配者又は統治者が決まったのかといえば、そうではなかった。2年半の戦闘で滅びたのは、豊臣家と譜代の一部の大名家だけで、約200年ぶりに地方に割拠する形になった大大名のほとんどが残っていた。また武士以外の勢力が、政治の主導権を握ったわけでもなかった。
 しかも経済格差を最大の原因とした東西対立は残っており、本来ならば東国勢にとって毛利勢は、豊臣勢無き今最大の敵対勢力であった。しかしその毛利勢は、豊臣を滅ぼすことで政治的アドバンテージを得ており、豊臣勢と敵対していた東国勢の味方といえる位置にもいる事になる。
 そして京の都に入った東国勢と本丸だけが焼け落ちた大坂城に陣取る毛利勢が静かににらみ合う中で、両者の交渉が進んだ。毛利勢は、東国勢の新たな覇権を認めるが、自分たちを政治の枢機に参加させることを条件としていた。勢力圏(領地)の保証については、言うまでもないと言わんばかりだった。
 これに対して東国勢では様々な勢力が入り込んで、次なる日本の中央政府に向けての話し合いが進んでいた。話し合いには、東国勢、信越勢はもちろん、日本のほとんどの大商人と彼らの後援を受けた知識人や改革論者、京の都の公家達の姿もあった。
 そうして彼らの中で進められた話は、もう将軍も関白も必要ないというものだった。
 豊臣政権のように君主が実質的に権威君主で良いのなら、日本には帝(天皇、皇族)というこれ以上ない権威が存在し続けていたからだ。つまり、天皇の下で日本の有力者達が政(まつりごと)を行えば良いだろうと考えられた。
 そして日本の有力者が、既に武士だけではなくなっている事は明白だった。世界中に広がった植民地や勢力圏に対して、旧来の政府や政治形態では対応できないことも浮き彫りとなった。武士だけで政(まつりごと)がどうにかなる時代は、気が付いてみたら過ぎ去りつつあったのだ。
 そこで台頭した意見が、天皇の下に身分を問わない議員から成る議会と宰相(+官僚団)を設けて政治を行うという形態だった。議会は武士、公家、町人(市民)のうちそれぞれから選ばれた者が代表となり、さらにその議会の中から宰相を選び、議会で決まったこと、宰相が決めたことを天皇が裁可して権威を与える形こそが、これからの政治に相応しいと考えられた。今すぐは無理だが、国としての政治の方向性を明確に示すための総合的な法度(近代的憲法)の制定を行う事も次の課題として提示されていた。
 日本人達がそうした考えに至ったのは、日本が海外に対して広く門戸を開いていると同時に多くの海外領土を持ち、世界中から様々な情報を手に入れていたからだった。
 無論情報収集について積極的とは言えなかったが、北アメリカ大陸東部で王様も皇帝もいないアメリカ合衆国という民の国が出来たことは知っていた。ヨーロッパ世界が、時代を問わずに頻繁に戦争をしていることは、海外に耳を傾ける者にとってはもはや一般常識であった。ブリテンがインドを侵略している情報も、十分日本に伝えられていた。この短い間に、ヨーロッパの列強が日本の権益をかすめ取ろうと、虎視眈々と狙っていたことも知っていた。
 しかし革新的となる日本の新たな形を求める行動に対して、保守傾向の強い毛利勢は否定的だった。海外に多くの利権や領土を持つ南国勢はむしろ肯定的だったが、毛利勢同様に保守傾向の強い武士階級の者は日本中に存在していた。倒豊の原動力となった東国勢の武士の中にも、保守的な考え方の武士階級は大勢いた。しかし武士以外の人々の声を無視することは既に出来ない時代に入っていることも、多くの武士達は内心理解していた。同時に、強引なことをした場合の末路も容易に様相がついていた。
 結論はなかなか出ずに、結論が出ないままに年をまたいでしまうことになる。だがその中で、革新的な政府を目指すべきだという人々が出身地、出自、身分を問わずに集まるようになり、大きな流れを作り出す下地を作り出す時間ともなった。

 しかし、長々と議論をしている時間はなかった。
 中央政府が明確な形で倒されても、次の政府、新政府ができないという事に対して諸外国が動き始めたからだ。
 既にブリテンはマラッカ海峡の日本利権を伺っていたが、日本水軍の多数のガレオン戦列艦群と傭兵隊を前に、こちらはまだ実質的な行動には出ていなかった。この時行動に出たのは、やや意外な事に清朝だった。それにこの頃のヨーロッパ世界は、まだアメリカ独立戦争の余波が残っていた上に日本同様飢饉で苦しんでいたため、リアクション能力が低かった。故に一番最初に動いたのが清朝となった。
 当時清朝の皇帝だった乾隆帝は、自らの華麗な経歴にさらなる一行を添えるべく、「中華世界」であるべき台湾島への侵攻と併合を画策したのだ。また、建国頃の日本の干渉に対する報復を果たす意図も十分にあった。あわよくば、ユーラシア北東部や日本に対する本格的な侵攻も構想していたとも言われる。
 しかし1789年春に行われた台湾海峡での戦闘そのものは、清朝の惨敗で終わった。
 現地を守護していた日本水軍のガレオン戦列艦群に、現地日本軍に対して10倍近い規模もある清朝の大艦隊(大船団)が散々にうち破られ、台湾に寸土も触れることなく乾隆帝の野望は海の藻屑と消えた。
 日本人がヨーロッパ文明を模倣し続けて作り上げた日本風のガレオン戦列艦は、東アジア世界では圧倒的に強かった。練度の高い乗組員の操るガレオンもフリゲートもスループ、スクーナーの全てが、技術的発展が康煕帝以後大きく停滞していた清朝軍を寄せ付けなかった。清朝海軍の船もジャンク船ながら大砲を多数装備するにはしていたが、個艦性能の差、艦隊運動、練度、士気の面で比較にもならなかった。しかも艦隊の多くが、急遽集められた河川用の船舶だったため、前衛の戦闘艦が突破されてしまうと、あとは戦闘ではなく蹂躙状態だった。
 しかも日本水軍は、防衛戦の一環として清朝沿岸部各地を攻撃もしくは海賊行為を行って清朝の持つ軍艦、商船を問わず片っ端から奪い、破壊してまわり、高速で移動でき圧倒的火力を持つ外洋帆船を持つ優位を活かし猛威を振るった。時には海兵を上陸させて、港の破壊や掠奪、放火も行った。さらに日本水軍は、海外の各地から兵力を半ば独自に集めると、日本専用の貿易港である上海の租界へと進軍して、当時少数の部隊で包囲していただけの現地清朝軍を牽制した。それだけしておかなければ、今後安心出来なかったからだ。
 そしてこの段階で、清朝は日本との和平交渉を行おうとしたのだが、当時の日本には中央政府は存在しなかった。
 しかし既に国家財政が逼迫していた清朝に長期戦を行う気はなく、仕方なく現地日本軍司令官との間で和平条約を結び、勝利した日本側も中央政府がないという負い目のため賠償を得ることもできず、旧に復すという形で手打ちとされることになった。
 この戦闘の結果清朝は、彼らの記録では倭軍に勝利したことにされたが、自らの海軍力の整備、高度技術導入に関して海外からの技術導入を進めるようになった。以後清朝では、前工業化段階での近代化が緩やかに加速していくことになる。ただし戦争と近代化の予算のため、清朝の財政はさらに大きく傾く結果にもなった。
 一方では、日本に対する鎖国傾向を強めたのが清朝における変化だったが、日本側に与えた影響は主に政治面で大きかった。

 日本人達は、既に戦国時代のように内輪もめばかりしている時代では無いことが実感されたからだった。諸外国と渡り合うために一日も早く中央政府を作らねばならず、それは強力で革新的なものでなければならなかった。でなければ、清朝よりも狡猾でどん欲なヨーロッパ諸国に、日常的に付け入られることになるのだ。
 そこで、時の天皇である光格天皇(1771年〜1840年、在位1780年1月から)の命令によって、日本中の大名と公家、さらには推薦によって選ばれた大商人、植民地での有力者までが京の都に集まることになった。

 1782年の火災による焼失後に再建されたばかりの京の御所に、日本を代表する人々が参集した中で、「王政復古の大号令」が行われた。
 新たな日本の政府は、発表された「御誓文」では関白も征夷大将軍も設けることはなく、帝(天皇)自らが国家の主権者となることが記されていた。そして天皇を中心としつつも日本中から選ばれた議員による議会が政治を行い、天皇の名代となる総裁(=宰相)と大臣、その下の官(官僚団)が行政を担い、天皇は議会と政府に権威を与える存在として日本人全ての上に君臨することとされた。また議会は二院制で、もう片方の議会は士族院として大名を中心とした勅撰議員によって構成され、既得権益の保護も盛り込まれる形となっていた。
 他にも、御親兵(近衛兵=国民一般から編成された軍隊=国家所属の常備軍)、中央政府による軍隊(特に海軍)の管理、中央政府独占による貨幣鋳造、中央政府による外交の一本化、天皇の元での新たな官僚団の編成と選抜のための制度の制定が記されていた。また、20年以内を目処に時代に対応した欽定憲法を制定し、立憲君主国家となることを目標に掲げることも同時に示された。一方では諸侯の権限は多くがそのまま残され、諸侯は国軍に属するという形式を経て、引き続き自分たちの軍事力すら有し続けていた。
 新たな国名は「大日本国」とされ、特に王国や皇国、帝国という名称は冠せられなかった。現代に入るまでの東アジア世界では、「大」の一文字は皇帝(=西欧的意味での国王=国家君主)を主権者とする独立国家であることを示している。
 首都は暫定的に京に置かれるが、新しい日本の首都に相応しい場所に遷都を実施する事もその時示唆された。
 また権威君主として復活した天皇は権威を高めるために一元一世とされ、天皇の名を元号に用いることとされ、1789年が「光格」元年となった。必然的に生前での禅譲は制度の上でもできなくなり、皇太子などを立てて後継者を選ぶのみとなった。
 なお光格天皇は天明の大飢饉の際(1782年)に、僅か11才で大坂御所に領民救済を申し入れた賢君として既に名声を得ていた。また博学多才の学問熱心で知られており、儒教からヨーロッパからもたらされた啓蒙思想にまで及ぶ豊富な知識を持つ事は、新たな時代を切り開く君主には非常に相応しいと言われている。
 なお、まだ若い光格天皇の下で新政府の主導権を握ったのは、戦闘に勝利した東国勢、毛利勢の大名や上級武士達とはならなかった。
 日本中から全ての権力者、有力者が集められたが、革新的な考えや制度を持つ新政府を動かすためには、優秀な人材が大量に必要だった。無論力を伴った権力が必要不可欠ではあったが、力だけで物事が動く時代ではなかったからだ。
 このため全ての権力者、有力者が推薦した人材、急ぎ行われた選抜制度(試験)を経た人材がすぐにも登用され、新政府の実務を行うことになった。この中には政権運営のノウハウを持つ旧大坂御所の武士官僚達が多数含まれており、また京、大坂など最も都市が発達している地域であるが故に多数の町人(庶民)が加わり、地方の大大名達がもくろんだ政権奪取とは違った形が最初から現れてしまう。大大名達の多くは、今まで同様に自分たちの合議により物事が進むと思っていたのだ。
 しかし名目上の有力者達は、急速に台頭した身分の低い武士や武士以外の者達に出し抜かれていた。

 新たな日本政府は、まずは自らの体制作りを急いだ。
 天皇を中心にした新政府を作り議会を開設すると言っても、どれも一朝一夕にできることではなかった。
 そうした中で参考にされたのが、ヨーロッパ社会で発展していた政治制度だった。権威君主を作り上げるための啓蒙思想はもちろん、議会制度もそうだった。他にも行政、司法、立法を分立させて権力を構成する事、成文憲法を作る事、民衆(国民)による常備軍などなど様々な制度が参考にされた。また参考にするべく、海外に派遣団が出されたり書籍が輸入された。
 「御誓文」で示された内容の多くも、当時ヨーロッパ最先端の考え方が広く取り入れられていた。しかし日本が新たな国を作ったその年、ヨーロッパは以後20年近く続く混乱期に入る。
 1789年に「フランス革命」が発生したのだ。これ以後「ウィーン会議」が定まる1815年まで、ヨーロッパ世界はフランスとナポレオンを中心にして混乱と戦乱の時代に入り、その間日本やアジア・太平洋には大きく干渉をする余力をなくしてしまう。
 なお、天明の飢饉以後の日本に対してヨーロッパ諸国からの干渉がなかったのは、アメリカ独立戦争の余波に揺れていたからと、日本同様にヨーロッパ世界も地球規模の気温低下に伴う不作と飢饉に悩まされていたからだった。フランス革命の原因の一つも、この頃の不作が大きく関わっていた。
 故に日本は、自分たちの事に係り切りになれたと言えるだろう。

 革新的な政府を作ることを掲げて興った大日本国だったが、旧来の勢力特に大名の勢力を全て奪うことはできなかった。
 新政府の中心には、それぞれの地方から出てきた若く優秀な人材が身分を問わず集まっていたが、理屈と理想だけで政治は動かなかった。
 新政府は大名の領地は全て新国家に返還させたかったが、発足時に得られた日本国内の領土は豊臣勢が有していた近畿から東海地方にかけての日本のおおよそ三割程度に過ぎなかった。しかし海外領土の半分以上は新政府の直轄地とされ、人口が多く大諸侯の勢力の強い、濠州、新海州、そして新日本領の加州などでは、約束通りに一部で自治が認められることになった。また旧大坂御所の直轄都市、直轄鉱山など全ての利権は引き継いでいたし、開発が本格化していた南蝦夷島、北蝦夷島も直轄領に組み込んだので、領土、人口共に日本の半分近くが新政府領になった事になる。
 また数年の戦乱でも大きな混乱が見られたことで、大商人達は新政府支持を表明しており、大都市に本拠を構える大商人や裕福な町人から徴収される税金は、既に日本国内の7割にも達していた。
 そして大名に比べて優位に立つ新政府は、新たな税制の施行に伴って在地領主でない名目領主の場合の税制強化を実施。同時に、各大名家、各武士が持つ借金と相殺の形で所領を国に「返還」すれば、所領に似合う年金を毎年国が保証する制度を設ける。無論後者は、在地領主に対してだった。
 二つの制度は、武士に対して大きな効果を発揮し、中央では全ての武士が国から給与をもらう形になり、各大名家でも一部を除いて同じ動きが出た。また既に借金で首の回らない武士の突き上げを受けた大名、もしくは借金財政の大名家を放り出した領主などによって、次々に領土返還が起きた。

 しかし強力な統一政府を目指す新政府に対して、地方の大大名達の多くは反発した。急速な政策の撤廃や改善、実施遅延を求める共同声明を出した。それでも足りないと考える一部保守派は、新政府の存在そのものを疎むようになり、新旧勢力の対立が急速に進んだ。
 しかも武士達にとって気に入らないのは、天皇直轄の軍隊が武士以外の者によって編成されつつあることだった。しかもこの中には、武士の中でも下位に置かれて虐げられていた下級武士も数多く含まれていた。加えて禄(領地もしくは給与)の少ない下級武士にとっては、国が軍での位(=階級)に応じて支払う給与の方が遙かに魅力的だったのだ。これは新政府の官僚になる場合も同様で、多数の町人、農民がそれまでの大坂御所など比較にならないぐらいの規模で選抜(試験)を受ける中に、多数の下級武士が含まれた。また、日本人傭兵の全ては、当人の志願によって全て日本政府が日本の正規兵として雇用することを約束し、7割以上がこれに応じることになる。発足時点で15万人に達した「日本陸軍」の基幹も、実質的には日本人傭兵とその組織が母体になった。これも時代の転換が可能とした大きな変化だった。
 そうして、新政府と地方諸侯、武士と庶民、武士の上下間のそれぞれで軋轢と対立が発生し、それを利用しつつ新政府は急速に勢力を膨れあがらせていた。
 


フェイズ16「革命戦争」