●フェイズ16「革命戦争」

 光格2年(1790年)、新政府は3年先に天皇の行幸を宣言する。実質的な遷都宣言であり、行幸先に指定された都市は博多となった。
 博多が選ばれたのは、国際貿易港であり東アジア世界に最も近い大都市だというのが理由だった。しかし多くの人々は、毛利一族が自らに有利にするために行った政治工作の結果だと考えた。
 順当に行けば、中央政府としての設備が一通り全てが揃っている大坂が選ばれる筈であり、また東国勢の所領内のどこかが選ばれるのが、多数派という点では順当な線である筈だった。また国防の事を考えて、内陸の盆地にある都市のどこかが選ばれるという説も有力視されていた。このため都は京のままだという説も強かった。
 しかし選ばれたのは博多であり、多くの人を失望させることになる。
 そして今までと同じように武士だけが政治の実権の握る時代が続くのだという人々の失望は、今までなら半ば泣き寝入りになるところだったが、時代がそれを否定していた。
 既に大商人や都市住民、富農、さらには海外移民した人々は、自分たちの方が新たな時代の主役だと考えていた。特に農村にしか基盤を持たず保守的な考えを捨てられない武士など、既に必要ないものだという考えも強まっていた。その武士の中でも、下級武士、海外の武士、日本人傭兵は、知識や技術を持つ自分たちこそが、今まで血統だけで上に立っていた上級武士や大名に代わる存在だと強く意識していた。
 そして豊かになった人々は、主に海外では武力を持っていた。海外移民した人々は、貧富に関わらず自衛のために武器を持つのが一般的だった。この点既に旧大坂御所や武士の側からの統制はなきに等しく、しかも戦争に必要な莫大な費用と物資を調達できるのは大商人達であった。
 しかも新政府が出来た事で、民衆には新たな力が幾つも誕生していた。その中でも、武力を発揮できる庶民の軍隊が天皇の兵として作られた事は、まさに時代を象徴していた。
 一方の武士達は、自分たちの勢力が急速に衰えることに大きな危機感を抱いており、今一度緩んだ「たが」を締め直すべきではないかと考えていた。加えて支配階層であるはずの武士よりも町人の方が物質的に豊かだという現実は、一部の者のプライドからすれば許し難い事だった。無論そうでない者、事実を受け入れる者、時代変化を感じ取っている者も多数いたが、生まれた時から特権を持つが故に視野が狭くなる者の方が多数派だった。しかも武士の間でも、持てる者と持たない者、西国と東国、毛利一族と東国勢の反目が存在していた。加えて、今まで武士の底辺に置かれていた日本人傭兵達は、国軍への自主的参加を行うことと、国軍の中での意識改革によって、既に民衆の側の代表者ですらあった。かつての傭兵達は、嫌われ蔑まされる者から、期待され名誉すら持つ国軍の兵士と急速に変化しつつあった。そして彼らも、当然とばかりに特権を抱えたままの武士階級と対立した。
 つまり新政府は、いまだ前途多難だったと言えるだろう。
 それでも再び戦いを起こしてまで何かをしようという者は現れず、暫定首都となった京での暗闘、政治闘争、権力争いでそれぞれの溝を深める毎日を送ることになる。
 そして政府の制度が徐々に整うにつれ、天皇の兵士である庶民の軍隊が形をなして行くにつれて、一部武士の焦りは強まった。
 そして起きるべくして、次の争いが始まる。

 事件は、1793年6月に北海州(東シベリア)の北斗川(レナ川)東岸の日本領でロシアとの小競り合いが起きた事が発端となった。
 もともと、ロシア帝国の女帝エカチョリーナ2世は、日本との関係は当面交易の拡大だけでよいと考えていた。
 しかし日本での政変は一つの機会であり、進出の準備を進めるように命令を発していた。西ヨーロッパがフランス革命で混乱しているのも、この際チャンスと捉えるべきだと考えていた。
 日本が有する北海州(東シベリア)を蹂躙し、アジア、太平洋への出口を獲得するのが目的だった。これが成功すれば、スウェーデンを破ってバルト海に出たのと同じように、ロシアにもう一つの展望が開ける筈だった。
 ロシアは、コサックを中心とした兵力をシベリア奥地に少しばかり増強して、まずは領土侵犯と小競り合いを繰り返すことで既成事実を積み上げ、3年をかけて北海州をかすめ取るための政治的な戦闘を仕掛けた。
 これに対して現地の上杉侯配下の武士達を始めとする北海州総督府(元北海奉行)は、今までの経緯から中途半端な行動は自らの致命傷になると考えて断固たる迎撃を実施。さらには日本本土の上杉本家や新政府に対して、増援と物資援助を強く要請した。また夏の北斗川に軍艦を入れるぐらいの強い態度が必要だとの独自の書簡も新政府に送った。ロシア人の田舎泥棒的態度には、断固たる態度が必要だとしたのだ。
 この要請を受けた新政府は、ただちに北海州への軍備増強を決定。この時、派遣する軍隊を、現地の屯田兵や放牧民に加えて本土の御親兵とする事を決めた。
 御親兵を派遣することで日本新政府の意志を伝えるのが第一の目的であり、また御親兵の中に北海州での戦闘経験のある元日本人傭兵の部隊を多数含めることで、戦闘が発生した場合に備えるという目的が示された。
 これに対して北海州利権防衛を最重要とする上杉侯、前田侯は、積極的な賛成を示した。武士と民衆の対立は、既に海外に広く進出している武士達にとっては愚かしい問題だった。その証拠に、同じ信越勢だった真田侯、奥州の伊達侯など海外に多くの利権を持つ諸侯を中心にして多くが賛成した。
 また武士の保守派は、町人や農民を含んだ軍隊が外国軍との戦闘に勝てるわけがないとたかをくくっていたので、こちらも反対ではなく積極的な賛意を示し、ここに師団規模の御親兵が北海州に派遣されることになった。そして実際送り込まれた御親兵は、北の厳しい環境に翻弄され、多くの日本人達に「まあ、そんなものだろう」という感想を抱かせた。
 しかし数は力であり、それなりに準備をしていた事が、この時日本と言うより、御親兵に幸運をもたらした。
 無論その幸運とは、現地日本軍を侮ったロシア軍が日本軍に戦闘を仕掛け、そして現地日本軍が勝利した事だ。
 北海州での戦闘は主に小競り合いばかりだったが、一度連隊規模での戦闘が発生した。この戦闘では、ロシアのコサック騎兵を元日本人傭兵の騎兵隊が押さえている間に最新武器装備の歩兵部隊がロシア軍を火力で圧倒し、戦闘に勝利を飾ることができた。ロシア側は火事場泥棒以上の行為を行うつもりがなかったが故の勝利とも言えたが、フランス革命同様の外国からの干渉の可能性を考えていた日本人達は勝利に喝采を送った。
 その後の小競り合いでもほとんどが日本側の勝利に終わり、その勝利の様は新政府が多数派遣した今で言う従軍記者達によって日本本土に伝えられ、民衆は日本軍の勝利に酔い、新政府が正しい事を再確認するに至った。

 御親兵に対する民衆の喝采に対して、保守派の武士達は大きな焦りに包まれた。自分たちの存在価値が否定された事へのショックは殊の外大きく、暗い感情は民衆への怒りと嫉妬、そして焦りと恐れへと転化した。
 そして焦りを大きくした武士達は、遷都の前倒しを画策した。天皇と京、大坂の都市住民を切り離すのが目的だ。博多も商業都市で都市住民の声は強かったが、毛利王国の中にあるため武士の側に優位だった。
 これに対して民衆が反発。また東国武士を中心にした武士階級も反発を示した。そして、民衆が山陽道から大坂を通過しようとする街道を封鎖した事に対して、毛利兵が実力行使を実施。最初は音便に通ろうとしたのだが、民衆側の暴言に武士達が激高。銃撃を加え、多数の死傷者が出た。
 その後も毛利兵は京へと進んだが、古くからの要衝の天王山は封鎖されていた。そこには、錦の御旗を立てた民衆を中心にした御親兵が立ちふさがっていた。ここで進めば「朝敵」となるため強引な事もできず、毛利兵は引き返さざるを得なかった。
 しかしこの事件で遷都は延期。武士達の政治力によって事件は有耶無耶にされたが、さらに武士と民衆の間の溝はさらに深まった。
 そしてそうした中、議会で提案されたのが増税だった。
 1780年代は飢饉と戦乱で国が荒れたので、増税によって国庫に金を入れ、それを効率的に使って復興事業を行おうというものだった。議論としてはまともで反対は無かったが、どこに増税するかが問題となった。
 民の暮らしが荒れたのだから、民から税を取るのでは本末転倒だった。このため持てる者から取るという方向になったが、それはそれで問題だった。中規模以上の商人から取るのか、豊かな地主農民階級からさらに取るのか、そして武士から取るのか。この議論になかなか結論が出なかったので、折衷案的に保有する資産につき一定額の税を徴収するという案が出た。今で言う一種の固定資産税であり、提示された素案も秀才達が作り上げただけに非常に優れていた。税の基準が主に土地のため、税を逃れる事も難しいというものだった。
 しかしこれに武士達が反発した。商人の財産の基本は土地ではない上に日本の外に資産を一時的に持ち出せばいいが、武士の資産の多くは土地や建物であり、武士階級を標的とした増税だというのが彼らの主張だった。
 すでに各諸侯の領土は、名目上国やそれぞれの地域のものとされていたので、武士達に認められた資産は随分減っている事になるのだが、それでも広大な城塞、屋敷などは税から得る収入が無ければ維持できないもので、そこから税を取るとなると苦しいのは当然でもあった。収入に対して不均衡な資産を持つが故の状況なのだが、武士の多くはそれを当然の権利だと考えていた。これに対して、既に新しい政府を開いた人々の考えは違っていたのだが、それは反発を以て迎えられた。
 そして対案として武士達が出したのが、植民地に対する増税だった。今まで面倒「見てやった」のだから、そろそろ恩返しをしても構わないだろうというのが、日本から出たことのない武士達の弁だった。
 しかしそれは、植民地の人々にとっては何の理由にもならないことは、少しでも考えれば分かることだった。彼らは日本に住めないから外に出ていったのに、なお金をむしり取るような事をすれば反発が出るのは必至だった。そのことを政府内の民衆出身者は何度も訴えたが、ほとんどの武士には受け入れられなかった。
 ここで民衆側は、一つの考えを思いつく。
 アメリカ独立とフランス革命の流れを日本に作り出し、頭の固い連中を本格的に一掃できないものだろうかというものだ。
 ここで民衆側代表は、植民地の自治権拡大と交換条件での増税案を逆に提案。武士側の対応を見定めることにした。そして案の定というべきか、植民地に今以上の権限を与える必要はなく、植民地は本国に奉仕するべきだと反発した。

 かくして武士階級を悪党に仕立て上げる流れによって植民地への増税が布告され、当然とばかりに一斉に反発が起きた。特に一番の負担を強いられる新日本での反発が強かった。
 これに対して日本本土の武士達は、植民地の行いは許し難いと激怒。先に活躍した天皇の軍ではなく、自分たちの武威を示すべく勇躍日本領各地へと軍を派遣した。そして物理的に反発する力のない植民地の多くで反発は無理矢理沈静化したのだが、最も巨大な植民地である新日本はそうはならなかった。
 1790年代中頃の新日本には、既に約500万人の人々が暮らしていた。この数字は日本人達に従う数であり、これ以外にも20万人以上の先住民(赤人=インディアン=アメリカン・ネイティブ)が住んでいるものと考えられていた。
 人口の多くは加州北部の平原に多く、ここに約400万人が広大な農耕地帯を作り上げていた。一方北部の霧森地域とその奥にある広大な雪音盆地に約50万人、加州南部の聖森に約50万人が住んでいた。
 また、メヒコ経由でメヒコ湾側にわたってミシシッピ川を遡上した人々がミシシッピ川西岸各所に新たな農業コロニーを築きつつあり、既に10万人以上の人が居住していた。ミシシッピへの進出に従って、太平洋岸からの街道も徐々に整備されつつあり、インディアンと縄張り分けをして、文物などでの妥協を図りつつ日本人の浸透が進んでいた。内陸の街道を進んでミシシッピ川に向かう開拓民も年々増えていた。太平洋岸で簡単に開拓できる平地が減っていたからだ。そして人が多くなるに従い、ミシシッピ川河口部に日本人の港湾都市も建設された。他にもスペリオル湖の北西岸、ハドソン湾北西部にも港を構えて、大陸奥地で採れた毛皮をヨーロピアンに売りさばく窓口としていた。
 しかもそれぞれの場所には日本の役人もちゃんと赴任しており、軍隊が巡回の形で訪問しているので、ヨーロピアンが不当に文句を言い立てることも難しかった。
 ミシシッピ川の権利を巡っては小さないざこざも起きていたが、基本的にこの頃は日本人の方が多く、しかも役人以外も屯田兵的な武装を有している場合が多いので、白人の側から問題を広げることはなかった。争えば、自分たちが負けてしまうからだ。
 なお、この頃のアメリカ合衆国は、1789年に第1回連邦議会が開催され、ジョージ・ワシントンが初代大統領に就任したばかりの頃だった。主にイングランドを策源地とする白人の総人口も300万人に届かず、そのほとんどが東部沿岸のいわゆる「独立13州」に住んでいた。五大湖沿岸やミシシッピ川の何カ所かに拠点や開拓村が作られてはいたが、アメリカ独立時にブリテンから割譲した内陸部は、この頃まだ先住民指定保留地でしかなかった。しかも以後国自体が爆発的な発展を見せると言っても、独立した頃はブリテンの植民地政策のために工場一つろくになく、国力も非常に小さかった。
 このため新大陸での勢力図は、日本人に大きく有利だった。
 日本人は太平洋岸から既に内陸部に入り、邪魔をした先住民を排除するだけの力を持ち始めていたからだ。実際、太平洋から大きく南米大陸を迂回してカリブ、メヒコ湾と入ってきた日本軍船が、この頃のミシシッピ川の主(ぬし)だった。
 そして混乱しつつもミシシッピ川にまで軍艦を持ち込める日本に対して、新日本は反発した事になる。
 しかし新大陸の日本人移民達は、ゴールド・ラッシュで蓄えた富により自分たちの土地に様々なものを既に作り上げており、既に反射炉による製鉄や大規模造船といったものまで揃えていた。日本の豊臣政権の統治が大商人中心で統制が取れていなかった事と、新大陸から沸いて出た莫大な黄金の威力だった。この時点では、アメリカ合衆国に対して新日本の方が、人口で約二倍、経済力は5倍以上あった。
 だからこそ増税の対象となったとも言えたのだが、新日本の人は逆に要求を突きつけることで自らの態度の表明とした。要求の内容は、簡単に言えば、外交以外の自治権の獲得である。また、徴税と軍事については中央行政に関わる部分はそのまま委ねるが、地域税、地方軍については現地に委ねるよう要求した。増税するのだから、その程度は認めないと納得ができないとしたのだ。
 この自治拡大要求は、日本の改革論者の予測すら上回るものであり、日本本土の政府そのものが反対することになる。


フェイズ17「革命成就と北米戦争」