■フェイズ17「革命成就と北米戦争」

 革命によって新たな時代が開かれた筈の日本だが、まだ混乱は続いていた。
 日本国内での武士と民衆それぞれの反発、武士内部での対立、新大陸の日本本土に対する反発が主な原因だった。この時日本人の全てにとって幸いだったのは、日本で新たな時代が始まった1789年7月に「フランス革命」が起きた事だった。このためヨーロッパのほとんどの国が、遙か彼方の日本のことに構っている場合ではなくなっていた。
 しかも日本が次の混乱へと入ろうとしている1795年には、フランスでは新たに総裁政府が成立し本格的な共和制国家への一歩を踏み出していた。
 一方では、1795年1月にフランスが隣国のネーデルランドを属国化すると、すぐにもブリテンが動き始めていた。
 ネーデルランド領の南アフリカのケープ、インド洋のセイロンがブリテン軍により占領され、ネーデルランド商館を狙うという名目で、日本領のスンダ地域にもやって来た。しかし、マラッカ、ジャワには日本の軍船が多数駐留しているため、ブリテン側は外交交渉としてネーデルランド人の引き渡しを要求。日本側も、外交手続きに乗っ取って受け入れるという形に落ち着いていた。
 また新大陸では、アメリカ合衆国が日本に対してミシシッピ川河口部の通行権をかなり強引に獲得して、新日本に対向した開発に乗り出し始めていた(※ニューオーリンズ一帯のミシシッピ川河口部は、1783年に日本がブリテンから購入していた)。

 そうした世界中での変化と外圧は、日本人にさらなる強固な新国家を作るべきだという強迫観念を植え付けつつあった。
 そうした中で、日本政府は新日本の要求を却下し、増税の実施だけを求める決定を行う。
 これに対して新日本各地では、アメリカに倣えという声と、武力の差を見据えた長期的な視点を持つべきだという意見が対立した。しかし日本列島から命じられた理不尽に対する反発の方が上回った。また、現地に根ざす武士階級の多くが民衆側に合流し、現地に駐留していた軍の一部までが新日本側に寝返った事も、独立に向けた動きを加速させた。現地の武士が寝返ったのは、彼らも増税対象となる為だったのと、既に多くの者が日本本土を棄てて新たな故郷を新日本と定めていたからだった。新大陸の武士は、日本本土の武士とは別の階級、価値観を持っていた事を、日本本土の人々が理解しなかったが故の結果とも言えるだろう。
 しかもアメリカ合衆国が、先の戦争で使った新大陸中の武器を新日本の独立勢力に渡していた。アメリカとしては、相手が有色人種だったとしても、とにかく旧大陸勢の力下にあるよりも独立している方が、何かと都合が良かったからだ。
 一方では、中南米を何とか支配下に置いているスペインが、自らの新大陸領の統治を気にして、新日本の独立に反対していた。
 いっぽう日本列島だが、独立阻止のための軍の編成に入ったが、一筋縄ではいかなかった。民の軍となった日本軍の民衆兵が、新日本への派兵に反対していたからだ。これは国軍としてはあってはならないことだったが、もともと命じたのが武士達だったと捉えられていたため、新日本の独立騒動は武士対民衆の戦いだと感覚的に考えられていたが故の状況だった。
 しかし日本本土の兵も民衆も、政府に対して反旗を翻すまでには至らず、政府は武士を中心に編成した部隊を整えると、順次新大陸に派兵していった。
 これが「大和独立戦争」の号砲となる。

 1796年夏、武士による兵士を満載した日本艦隊は、新大陸太平洋岸到着の2日前に、新日本側についた艦隊の襲撃を受けた。
 そして日本艦隊が、洋上での襲撃を予測していなかった事、長旅で疲れていた事、兵員と装備を満載して動きが鈍っていた事、東太平洋の海と風に対する経験の差など様々な要因のため、数で大きく劣勢だった新日本艦隊は勝利を飾り、日本艦隊は大打撃を受け半数近い数しか加州の新大坂にたどり着けなかった。この時拿捕された船も多数に上った。乗っていた船員のかなりも、そのまま新日本側に合流していった。
 そしてこの襲撃を機に、新日本各地で日本の政府施設、軍への襲撃または恭順のための行動が行われた。「大和独立戦争」の勃発である。
 同時に、櫻芽市において新日本の独立が宣言され、それまで新日本と呼ばれていた地域を「大和共和国」とした。
 その後旧新日本の太平洋岸各地で日本軍と大和軍が戦闘を行ったが、現地での蛮行が祟った日本軍からは、現地徴兵した兵士の離反、人足(労務者)のサボタージュが相次いだ。しかも日本本土から新大陸までは最短でも二ヶ月もかかる上に、日本本土では武士と民衆が対立して思うように軍を派遣できなかった。
 一方の大和軍は、市民からの志願兵の増加、アメリカなどからの武器流入、日本軍離反兵の合流などのお陰で、戦況を有利に運んだ。戦費についても、日本政府が新大陸に持っていて金鉱、銀鉱の全てを差し押さえ、これを名目上の担保として自らの紙幣を発行して応対した。新たな貨幣は「円」と定められ、暫定的な金本位制による紙幣が大量に刷られた。

 そして1798年春、日本政府が戦費調達のために国内で増税をしようとしたのだが、今度は日本国内で民衆が一斉に反発。これに我慢の限界に達した武士が暴発して民衆に武器を使い、民衆と武士の間での内乱へと突入してしまう。
 日本国内での戦争は、主に都市人口の多い近畿から関東にかけてと、毛利王国のある中国、四国、九州北部が相対することになった。しかし幾つかの勢力に分かれることもなく、今度は改革と革新に賛成する人々と保守派の戦いであり、日本の中を二分した内戦となった。だが、明確に領土や勢力圏を分けた戦いは少なく、日本各地で武士と民衆が対立するという構図だった。このため多くの血が流れる事になる。地域によっては、大きな損害が出たりもした。
 それでも大坂御所が定めた「惣約」は今回もほぼ守られ、天皇のいる京、臨時政庁のある大坂などの都市は非武装都市とされた。
 しかし小競り合いから大規模な争乱まで各地で展開されたため、戦乱は日本列島中に波及した。それどころか、蝦夷、台湾、北海州の一部にも及び、先の戦争で中立を貫いていた各地の日本軍も多くが混乱に巻き込まれた。
 逆に、日本での混乱が広がると、新大陸情勢は一気に落ち着くようになった。新日本近辺から動けなかった日本本土の勢力の多くが排除もしくは降伏し、急速に戦乱は自然終息していったからだ。そして新日本(大和)が静かになると、日本本土の混乱を嫌った人々が新大陸へと多く流れることになる。

 日本列島での混乱は、光格天皇が再び求心力となりその下で民衆、武士双方の改革派が沈静化と統合に努めたため、西暦1803年(光格15年)に日本政府は再編成されるに至る。
 国号はヨーロッパ風に「日本帝国」とされ、引き続き欽定憲法、二院制議会、首相公選、三権分立を基本とした完全な立憲君主国を目指すものとした。また、この時に日本でも大和と同様に、黄金を基本とした紙幣(=「両」)への転換を図ることで経済の安定を実施し、日本人社会はこの戦乱を機に一気に豊富な黄金と紙幣による貨幣制度を作り上げることになる。
 そして日本列島での革命と政変は、あしかけ20年近くかけて行われた事になり、この時の変化と革新のおかげで世界規模での波乱の時代が乗り切れたと言えるだろう。ただし革命期、特に最後の混乱で武士の権威が大きく落ちてしまい、また民衆からの支持のかなりも失った。このため、日本では責任階層の再編成を行わねばならず、かなりの苦労が伴われた。
 一方、1796年に独立宣言した大和共和国は、1805年に新日本政府との間に和解と講和条約が成立し、正式に独立を認められることになった。大和共和国は完全な民主共和制国家で、首相は総統(=英語訳はプレジデント)という名の国家元首とされ、その下に三権分立した内閣、議会、司法が整えられた。憲法については、フランスの人権宣言、アメリカ憲法が一番の参考とされ、世界で三番目の民主共和制国家となった。大和共和国はアメリカが真っ先に独立を認めており、1805年にはフランスのナポレオンも独立を認めていた。
 また大和共和国では帰属を決めるための国民投票が実施され、これにより古くから日本人が進出していたアラスカ地域は日本に残留することになった。そして他の地域は全て大和共和国へと正式に加入した。

 そして日本人による戦争には、アメリカ以外の国はほとんど介入しなかった。アメリカの介入も、若干の武器援助や国家承認ぐらいでしかなかった。ブリテンが日本の植民地を一時占領した事もあったが、新国家が成立すると渋々返還した。それどころか、フランスでナポレオンが皇帝に就くと、日本には対仏大同盟加入を求めてきた。もっとも、日本が同盟に加わる前に同盟自体が瓦解したため、この時は日本は傍観者として過ごすことになる。
 しかしすぐ後に、フランスが大陸封鎖令を行うと、ブリテンが日本、大和双方との貿易維持と友好関係の構築を求めてくる。そして新国家成立から間もない日本は、ブリテンとの間に最初の外交関係を結ぶ。しかしこの時のブリテンとの関係は、日本にとってこれまでと特に変化がないものだった。もともと日本とヨーロッパの貿易相手は、この頃殆どブリテンとロシアだけになっており、この二国は大陸封鎖令の対象国か違反国だった。ただし、大陸封鎖令が有効な間は、ブリテンから多数の加工製品が流れ込む事になり、これが日本に自らも産業の革新が必要なことを強く認識させることになっていた。
 また一方で、フランスとスペインが同盟関係にあるため、ブリテンから日本にスペインの拠点を虱潰しにして欲しいとの要請を受ける。この時日本は、現時点では国の体制作りに集中したかったが、国内の大商人から新日本(大和)を失った補填が欲しいという懇願もあり、ブリテンの要請を受ける。
 この後、フィリピン、グァム島を占領下におき、中南米地域をどうするかという議論になる。ここで大和共和国との間に交渉を持つが、大和側は不快感を表明して拠点を貸さない通達を行った。このため日本軍が中南米に侵攻することもなかった。
 しかしブリテンとしてはこれで十分であり、アジアの治安維持を日本に任せる形でヨーロッパ正面に努力を傾注していく。
 一方、大和共和国だが、ナポレオン戦争中は中立を維持した。フランスからは協力要請があったが、国内統治の不安を理由に謝絶していた。戦争中はもっぱら国内開発と、ブリテンへの輸出のみを行う。
 しかし1812年に「アメリカ=ブリテン戦争(〜14)」が起きたため、対応を迫られることになった。
 大和共和国は、基本的にブリテンとの交易を維持していた。フランスとはもともと関係がほとんどなかったので、考慮する必要すらなかった。フランス側も、大和の事をほぼ無視していた。一方アメリカはフランスと貿易を行なっていたため、大陸封鎖令に対向したブリテンの貿易停止は、フランスへの輸出とブリテンからの輸入双方において大打撃だった。一部商品は、当時アメリカよりも加工産業が発展していた大和から、密輸という形で輸入されたほどだった。
 そして他にもブリテンへの恨みを募らせたアメリカは、ブリテンがナポレオン戦争で身動きできないと見て、短期戦を前提とした侵略戦争を仕掛けた。

 この時ブリテンは、確かにカナダに置いている軍隊はごく限られていた。このためブリテンは、大和共和国に対して対アメリカ宣戦布告を求めてくる。一方のアメリカからは、最低でも局外中立、できるなら共にブリテンと戦って欲しいという要請が寄せられた。
 そして大和では、国益としてブリテン側での参戦という意見が大勢を占めた。独立の時にアメリカに助けられたのだからという感情的意見も多かったが、アメリカの目標が西部の領土拡張にあるのは、今まで見続けているだけで十分以上に理解できたからだ。独立時の援助も、利用したと思えばよいという意見の方が、アメリカ人をよく見ていたミシシッピ西岸を中心に多かった。またミシシッピ川では、既にアメリカ人との間に軋轢や小競り合い程度の衝突も発生していた。しかも原因の多くは、白人優越主義によるアメリカ人側に原因があり、大和の日本人は反アメリカ感情の方が強かった。
 このため大和共和国は、ブリテンとの事実上の同盟関係を重視するという建前のもとでアメリカに宣戦布告する。
 これで戦争は「北米戦争」へと名を変える。
 この頃、アメリカ合衆国の総人口は約840万人で、大和共和国は約1200万人に達していた。ただし大和共和国は、人口が太平洋岸とミシシッピ川西岸に分裂し、国の重心が二カ所に分かれた状態になっていた。しかしブリテンの仲介で日本との間にも関係が結ばれると、兵士を満載した海軍の全力をブリテンの協力の下でメキシコ湾に回航し、開戦から二ヶ月で5万の軍をミシシッピ川河口部に集めた。またこの頃ミシシッピ川西岸一帯の平原の人口は300万人に達しており、現地で民兵を総動員すれば30万人以上が動員可能だった。そのための武器弾薬も、艦隊と共にやって来ていた。このため、アメリカのミシシッピ東部、五大湖西部だけに対してなら十分優位な状況だった。
 そしてヨーロッパから手が離せないブリテンにかわり、大和軍とアメリカ軍が各地で戦闘した。しかし南部にほとんどまともな兵力を置いていなかったアメリカ軍は、突如出現した大和艦隊と正規軍の前に敗退し、要地が大和軍の占領下に置かれる。
 五大湖、ミシシッピ川東岸の各都市がまともな戦闘が起きないまま次々に攻略された。アメリカ領内のインディアンにも武器と軍事顧問が加わったため、南部のインディアンに対してもアメリカ軍は苦戦を強いられた。しかしブリテンの要請により、南部とブリテンを結ぶ綿花貿易網は可能な限り維持された。これは、アメリカ国内の分裂を図る行動にもなった。

 この連敗に対して、アメリカ合衆国は戦争を楽観的に見過ぎていたと言えるだろう。大和に対する感情的人種偏見はともかく、少なくとも大和が全面的に敵対してくることを予測していなかった。故に、ブリテン領のカナダを簡単に確保して、その後ブリテンと停戦交渉を行う皮算用を立てていたと見られる。実際、開戦頃のアメリカ陸軍の正規兵は1万名ほどしかいなかった。当然ながら、士官、将校の数も少なかった。国民の20人に1人以上いるとされる民兵(ニミッツマン)も、兵士として使ってみると役に立つかは微妙だった。これに対して大和軍は、独立戦争を戦ったばかりで装備も士気もそして練度も高かった。しかも独立からしばらくは、対日本外交として軍備充実に力を入れていたので、正規軍だけで8万、総動員した場合の民兵の数は100万を数えていた。しかも正規軍のうち1万は、ミシシッピ西岸地区の各地に開戦前から駐留していた。
 海軍も充実しており、日本から得た戦利品やブリテンなどから購入したものを含め、さらには太平洋岸では自力建造も行い、かなりの戦力を有していた。新大陸で唯一戦列艦を持っていたのは、当時大和だけだった。
 しかも当時の大和は、総統、軍司令官など独立戦争を戦った鷹派(好戦派)が多く、政府自身が戦争慣れしていた。
 またブリテンからの要請もあって、初期の頃からアメリカの南北の温度差を利用した戦争を行う。占領地の拡大はもっぱらミシシッピ川上流部や五大湖地域で行い、南部ではメンフィスなどの要地を幾つか確保したに過ぎなかった。またブリテンが戦場にやって来るまで大西洋側での作戦行動は行わず、無理のない戦争を行った。
 地上戦では、訓練されず統制も取れない軽武装しただけのアメリカ軍民兵はまともな戦力にはならず、大和軍は各地で連戦連勝した。そして東洋から海を渡ってきた「常勝軍」にアメリカ民兵の士気は落ちてしまい、アメリカは中央の指導力不足、前線での兵力不足、士気の低下、など様々な悪条件が重なり亡国の危機と言われた。自らの力量を知らないまま、安易に自ら戦争を開始した報いと言えるだろう。
 しかしそこはアメリカ人であり、劣勢の中で徐々に体制を立て直していった。そしてまずはいまだ身動きできないブリテンを戦争から脱落させるべく、北東部の民兵を集めてカナダへの侵攻を実施する。しかしこれは、アメリカ側の不手際の重なりで敢えなく失敗に終わる。遠征能力に大きく欠ける民兵による侵攻作戦に、そもそも無理があったのだ。
 南部でも、アンドリュー・ジャクソン将軍がチェロキー族を含む雑多な戦力で攻勢に転じるが、防戦するクリーク族には大和軍から与えられた装備と日本人傭兵団、軍事顧問が加わっており、アメリカ軍は苦戦を強いられた。しかもジャクソン将軍を含む多数の指揮官が日本人のライフル狙撃兵により射殺され、以後攻勢どころか組織的な防戦すら難しくなっていた。南部州の中には、州単位で大和と休戦協定を結ぶ動きが出たほどだった。
 そして1814年、ナポレオン戦争を片づけたブリテンが、2万5000の大軍と戦列艦多数を含む大艦隊を用いて新大陸の増援を実施すると情勢は大きく動いた。

 それまで大和海軍は、大西洋では私掠船と一部偵察艦艇しか活動させていなかったが、ブリテン軍の増援到着と共にメヒコ湾から主力艦隊に陸兵を乗せて出撃させる。
 ブリテン、大和連合軍の攻撃により、首都ワシントンD.C.と近在のボルチモアは陥落。1800年に完成したばかりの大統領府は、占領軍によって爆砕の憂き目を見た。ボルチモアのマックヘンリー要塞は、当時私掠船の根拠地だったため激しい攻撃が行われ、海と陸双方からの攻撃によりやっとの事で陥落した。この結果、アメリカは臨時首都をフィラデルフィアに移して抗戦を続けるも、アメリカの退勢は明らかだった。
 そうしてアメリカが決定的に不利になったので、双方が講和に向けての話し合いを始める。大和とブリテンも、戦費の面で長期戦を避けたかったし、別にアメリカを滅ぼす積もりもなかったからだ。
 しかし講和会議の場所がベルギーとされたため、数週間のタイムラグが新大陸で幾つかの戦闘が継続したりもした。その中での最大の事件は、ニューイングランドと言われていた地域で最も北にあるメーン州、バーモント州、ニューハンプシャー州の三つの州が、合衆国を離れてカナダに加わることを発表した事だった。この事件はアメリカに大きな衝撃を与えるも、アメリカも防衛力の不足などから割譲やむを得ずと見ていたので、むしろアメリカの名誉を救う結果にもなった。ただし、独立13州の一つだったニューハンプシャー州の脱落は、アメリカ人にとって大きすぎる衝撃だったと言われている。
 「ガン条約」とされた講和会議で、アメリカは敗戦国となった。しかもブリテンは、ナポレオン戦争との関わりを持たせるような雰囲気を作ることにも成功したので、その後アメリカの保守主義をより大きくし、ヨーロッパの対アメリカ外交を冷淡なものとする事にもなった。
 なおアメリカは、ワシントンを始め各地の占領地を返還してもらう代償として、多くの賠償を引き渡すことになる。ただしアメリカには金も資産もないので、多くは領土の割譲となった。
 ブリテンには、北東部の北緯43度以北の土地の割譲、五大湖水運の独占権の承認を行った。大和に対しては、占領下にあったシカゴ以北の五大湖西岸全ての割譲が行われた。また大和の参戦に対する報償として、ブリテンはカナダ北部のスペリオル湖からハドソン湾にかけた地域(オールバニー川以西)の譲渡を行った。この結果国境線が整理されたため防衛負担は軽減したが、失った領土はかなりに上った事はアメリカ国民に自信を失わせることになったと言われる。
 なお、手ひどい敗戦を被ったアメリカだったが、悪いことばかりではなかった。ブリテンとの貿易途絶によって経済的な自立が促され、アメリカ国内で多くの産業、工業が発展した。そして経済的な独立を果たしたという意味で「第二次独立戦争」とも呼ばれている。
 一方では、アメリカ人の間にブリテンと大和に対する恨みが募った。特に独立を援助「してやった」有色人種に対する恨みは深く、その後も深く両国の関係に大きな影を差すことになる。
 またこの時の戦争による自国の力不足が実感されたため、1823年に「モンロー宣言」が出されることにつながっている。


フェイズ18「ウィーン体制下の日本人社会」