■フェイズ22「19世紀後半の北米情勢」

 1862年にアメリカ合衆国が、北のアメリカ合衆国(U.S.A)と南のアメリカ連合国(南部連合(C.S.A))に分裂して以後、奇妙な対立状態のまま膠着していた。しかし平和や安定にはほど遠く、主に4つの国家(勢力)がそれぞれの足を引っ張り合っていた。
 ある意味、北アメリカ大陸もようやくユーラシア大陸並になったとも言えるだろう。

 北米大陸で最も広大な領土を有する大和共和国は、日本人を中心とした有色人種国家であるため、他の2国と1つの自治国から無条件に敬遠される事が多かった。侵略されたり蔑まされていないのは、最も広大な国土を持ち最も巨大な国力を有するからだった。当然と言うべきか、最も強大な軍隊を保有している点も重要だ。資源豊富な大和は、常に南北双方がスキを狙っていた。
 大和と最も関係が安定しているのはブリテン領のカナダ・ドミニオン(自治領カナダ)で、大和とカナダは大陸横断鉄道、五大湖=セントローレンス回廊で交通網が一つになっていた。これは、両者にとって利益があるからであり、共通の利益こそが結びつきを作るという典型例だった。そして大和は、カナダを介してブリテンとの深い関係も持っていた。
 たいてい「サザン(南部)」と言われるアメリカ連合国(C.S.A)は、綿花という輸出作物など貿易関係の点からブリテン、フランスとの良好な関係を結んでいた。だが、北のアメリカ合衆国、西の大和共和国とはそれぞれ別の理由で対立もしくは反発していた。このため北アメリカ大陸では政治的に孤立していた。
 自治領カナダは、ブリテンという庇護があるため保たれているような場所で、他の三国のように大規模な常備軍を持つことができないので、今以上に自治を拡大すらできないでいた。対外的にも、依然としてブリテンの植民地と見られていた。大和との良好な関係は、日に日にカナダの住人にとっては最大級の国家安全保障政策となりつつあった。
 そして一般的にアメリカと言われる事の多いアメリカ合衆国(U.S.A)だが、状況は南部以上に四面楚歌だった。
 カナダの後ろにいるブリテン、南部との関係は、歴史的経緯もあって仮想敵第1位、第2位だった。西の大和とは最低限の国交と貿易を行っているが、それはアメリカ国内で資源が不足しているからに過ぎなかった。大和もアメリカの仮想敵であることに変わりなかった。しかもアメリカは国内で奴隷を解放するといっても人種差別は非常に強いままであり、豊かな大和を常に妬み憎み、そして羨んですらいた。感情的に大和を最も憎んでいるのは、ほぼ間違いなくアメリカだった。
 北アメリカ大陸にある国家で一番安堵しているのは、おそらくメヒコ共和国だろう。南の国境全ては大和共和国であり、大和とは非白人国家として強く連携していたからだ。しかも大和は、東部国境へ努力を傾けるために南部国境で問題を抱えたくないため、メヒコとの友好関係とメヒコそのものの安定を重視していた。相互移民の条約すら交わしているほどだ。
 上記のような状況で、全ての国にとっての希望にして問題だったのが東西から押し寄せる移民だった。

 北アメリカ大陸は、16世紀以後ユーラシア大陸からの移民が国を作っていった歴史を持っている。しかし移民は東西から押し寄せ、その結果アメリカと大和という二つの共和制国家が相次いで成立した。
 そしてヨーロピアン達は、自分たちの政治を新大陸にも持ち込んでしまい、都合三つに分裂した状態で固定する。
 だが、国家の思惑などお構いなしに、旧大陸からあぶれた移民達が新大陸に押し寄せた。
 1830年代までの移民は、ほとんどがブリテン人と日本人だけだった。1840年代ぐらいから、アイルランド人、日系人、そしてドイツ人が加わる。1860年代からは漢族が加わったが、大和共和国は1880年に漢族の移民を厳しく制限してしまう。無軌道な貧民では同化政策に最も馴染まなかったからだと言われるが、国家の有様が変貌し始めた何よりの現れだった。
 そして南北戦争以後の移民は、大西洋からはドイツ系、アイルランド系、そしてスカンディナビア系が主軸となった。1880年代からは、ロシアで弾圧されたロシア系ユダヤ人の移民、イタリア系移民も急速に増えた。ブリテン系の移民も依然として続いていたが、数としては大きく低下している。一方太平洋からの移民は、日本人移民の半数が他の地域を目指すようになったため、実数において半減していた。
 1860年代、70年代の大西洋からの移民は総数約500万人だが、太平洋からの移民総数は約150万人に減っていた。うち20万人ほどが漢族となるから、新大陸に向かう日本人移民がいかに減ったかが分かるだろう。しかも日本人移民の三分の一ほどが、日本列島以外からの日系移民のため、純粋な日本人移民はブリテン島と同様に激減していた事になる。
 しかし、新大陸に大量の移民が流れ込んでいたことは間違いない。そして誰かが、移民を受け入れなければならなかった。
 当時の移民受け入れ港は、大西洋側がアメリカのニューヨーク、カナダのモントリオール、太平洋側が中部の新大阪、北部の幕羽だった。移民達はまずこれらの港に一時滞在した後に、多少ゆとりのある者は開拓農民を目指して奥地に入った。文字通り体一つの者は、移民した街を中心として主に沿岸大都市での各種下層労働者となっていった。そして、最も開拓できる土地を有しているのが大和共和国だった。しかも、これまで大和共和国に入り込んで農地を開いていたのは主に日本人で、日本人は米、できれば水稲のジャポニカ種が栽培できる土地を好んで切り開いたため、北部や雨量、水量の少ない地域はいまだ先住民(インディアン)が昔ながらの放牧をしている有様だった。見渡す限りの草原ばかりだが、土地も有り余っていた。有色人種と暮らすことを受け入れたアイルランド人、ドイツ人が1850年代から入り始めて変化が出ていたが、北部、西部の平原はまだまだ未開発の地が広がっていた。
 一方のアメリカは、既に国内で簡単に開拓できる場所が不足していたため、新たな農地を得ることを目指していた人々を落胆させる。南部では、農地となりうる場所はアメリカよりも余っていたが、奴隷を用いた大規模綿花栽培が主軸で、簡単な開拓で穀物栽培できる場所の多くは、既に誰かが開拓している場合がほとんどだった。しかもニューヨークを経由して南部に入るのは、アメリカが邪魔をしているため難しかった。このため南部は、1870年にノーフォークを移民受け入れの港として開く事になる。とはいえ、南部を目指す人々は比較的少数派だった。この時期に新大陸に流れてきた人々は、奴隷を使う農業よりも、自ら開拓した土地の主となる事を目指す、ヨーロッパでも北部の人々が中心だったからだ。
 そして新参の白人移民を短時間で満足させる場所は、大和領内にしかなかった。この場合白人達にとって、大和が公用語とした日本語という系統が全く違う言語が大きな壁となる。しかしアメリカに入っても、イングリッシュを学ばねばならないので同じ事だと割り切る者の方がが圧倒的に多かった。移民を決意した人々にとっては、人種の違い、文化の違い、言葉の壁よりも、自分の農地を得られることの方が重要だったからだ。
 ただし、ヨーロッパを旅立つ前に、北アメリカの現状に希望を見いだせず、南アメリカ大陸、特にラプラタ川流域の肥沃な土地を目指す人々がこの頃から増え始めている。また、アメリカ、南部で徴兵される確率の高さを嫌って移民を避ける人も出た。特にイタリア系移民は、言語の近い南米大陸への移民が増えていた。一方ロシア系ユダヤ人は、既にユダヤ系が多かったアメリカに居着く傾向が強かった。ただし一説によると、日本人を最も避けているのがユダヤ系民族だったと言われることがある。
 これに対して太平洋から入ってきた移民達は、選択肢はほぼ一択で大和への移民しかなかった。米の出来る場所はほぼ無くなっていたが、彼らの多くも自らの農地を得ることを求めてやって来た人々だったからだ。
 かくして、北アメリカに至った移民の約7割が、大和共和国を新たな国と定めるようになる。

 移民の波はその後さらに大きくなり、1880年代に新大陸に渡った人の数は700万人に達した。それまでの二倍の数字だった。次の十年には先の十年の八割程度に落ちたが、1860年から40年間に新大陸に移民した人の数は、約1800万人にも上る。しかも新大陸全体での旺盛な自然人口増加率が人口の拡大を助長した。
 1860年頃、大和3400万、アメリカ2700万、カナダ200万だった人口は、1890年頃にはそれぞれ大和7100万、アメリカ4300万、南部1300万、カナダ500万に拡大していた。
 カナダの拡大幅が最も大きいのは、大和に行かずに止まった移民が多く、また大和=カナダという経済的つながりがカナダ全体の発展を早めた結果だった。
 そして移民の増加と、移民の流れによって最も変化したのが、大和共和国だった。
 20世紀が幕開けする頃、総人口の4分の1ほどが白人となっていたからだ。半世紀前までは9割以上が日本人だったし、残りも文明化の途上にある先住民族で日本人への同化政策が進んでいた。しかし新たに東から入ってきた北ヨーロッパの人々は、知識、教養を備える者が多く、日本語をマスターすると積極的に公の場に進出した。また北中部の平原地帯は、積極的な開拓の進展によって事実上彼らの第二の故郷となりつつあった。ゲルマン系に続いた東部ヨーロッパ、ロシアの人々は保守的な場合が多かったが、北部の開拓農民としては重宝された。
 そして依然として日本系移民の子孫が支配層となる大和政府だが、白人達がアメリカに寝返ったり政府に反発されないため民族宥和政策を心がけることで、白人移民の数はますます増えていた。
 大和領内の日系移民も、先住民の同化政策、解放奴隷の受け入れなどで既に他人種の受け入れに寛容かつ慣れていたので、アメリカ色に染まっていない白人達が入ってきても、極端な拒否反応はしめさなかった。
 このため大和共和国では、地域主権を高く設定する分権主義が強まり、連邦国家へ向けた道のりを進めていく事になる。
 また多くの白人を国の中に抱え込むことは、日本人社会にとって初めての経験であり、しかも多くの人種が入り込んだ事で、大きなとまどいと変化をもたらすことになる。日本人と白人の文化、生活の違い、言葉の壁、大和共和国として作られた制度に対する移民のとまどいや反発、全てがこれまで体験してこなかった事だった。
 取りあえず、移民してきた人々の人種の違いによる差別感情がブリテン系白人よりも低いことは大和政府にとっても有り難かったが、それでも問題は山積していた。ちょっとした衝突や軋轢は、かなりの間日常茶飯事となった。
 そして19世紀後半の大和共和国は、とにかく移民の受け入れと制度、社会の整備に力を入れざるを得ず、外への膨張、帝国主義化に走りたくても走れなかった。一方で大和は、基本的に広い国土があって資源が豊かなので、国民の間に帝国主義などという野蛮な行動は不要だという考えも強かった。
 しかしそうも言ってられないがの、アメリカと南部だった。

 アメリカには、石炭以外の地下資源がなかった(※多少の鉄鉱石はあったし、後に石油がある程度みつかっている)。南部は、アメリカより少ない石炭と綿花ぐらしかなかった。しかも南部は、奴隷制農場の経営を続けなければ、友好国との関係を維持することすら難しいほど何もない国だった。アメリカには相応の産業(工業)と資本家はいたが、長大な国境線に配備する軍隊への出費のため、国庫は常に悲鳴を上げている有様だった。しかも農場の主軸は無尽蔵に取れるトウモロコシであり、小麦を中心にしたヨーロッパ的な農業が出来る場所(※主にヴァージニア州)の多くを南部が持って行っていた。その南部も、少ない国家予算の多くが軍事費に取られているため、ブリテン、フランスに借金を重ねていた。
 そしてアメリカは、基本的に周りが全て敵な上に、工業力を持つ西ヨーロッパ諸国も基本的に敵だった。一方の南部は、ブリテンなど一部のヨーロッパ諸国が生命線と言えるほどの重要な取引相手国だった。またアメリカは重工業を何とか発展させることで国力を増さねばならないが、移民は基本的に貧しい上に国内市場が限られているので、海外市場や原料供給地、さらには資本投下先となる植民地が欲しかった。大和のように広大な国土に鉄道を張り巡らせることが、この時代最も手軽な重工業力の拡大手段だったからだ。
 一方の南部は、自身が植民地や市場の立場であり、近代産業が不足するためブリテンから様々な武器や工業製品を輸入しないと、アメリカに太刀打ちできない状態だった。
 そして共に、西にある大和を妬み交流も最低限だった。
 アメリカにしてみれば、自分たちが得るはずだった場所を牛耳る邪魔者であり、南部にとっては有色人種の国というだけで嫌悪すべき対象だった。大和に移民した白人移民も、二つのアメリカからは裏切り者と見られていた。これでよく激発に至らないと、むしろヨーロッパ諸国は感心するほど険悪な状態だった。ミシシッピ川という大河が国境となっていなければ、遙かに多くの軋轢と衝突が生まれていたという研究報告も多い。
 そして欲望と感情の赴くまま、北アメリカ大陸内で覇権を賭けた戦争を行う事も可能だが、単純な国力面だと最終的に大和が勝つのが分かり切っていた。単に領土や人口面だけでなく、工業化が最も進んでいるのも大和だったからだ。しかも鉄鉱石と次なる燃料資源である石油が無尽蔵に眠る大和は、既に次の半世紀の繁栄が約束された国だった。
 このためアメリカ、南部共に動くに動けなかった。大和の方は、戦争で万が一南北アメリカが統合したり、自分たちがそのどちらかもしくは両方を支配することを可能な限り避けたいと考えていた。どの選択肢でも、国内統治が今より厄介になることが分かり切っているからだ。
 ある意味この三竦み状態が、北アメリカ大陸の微妙な均衡を保っていたと言えるだろう。
 そして、大和は外に出ていく気がなく、アメリカは打って出たくとも出る事ができず、南部は自らが経済的に支配される立場という三者三様のまま、グレートパワーによる植民地獲得競争と外交合戦を傍観せざるを得なかった。


フェイズ23「帝国主義全盛時代」