■フェイズ23「帝国主義全盛時代」

 基本的に19世紀のヨーロッパ列強各国は、日本は世界の辺境にある有色人種国家だとして、東アジア・太平洋の問題以外では外交的に下に見ていた。現時点では東アジア・太平洋では圧倒的な力を持っているかもしれないが、インド洋を越えれば影響力は小さかったからだ。強きにおもねり弱きを叩くのは、帝国主義社会でのある意味鉄則だった。相手が有色人種で邪教徒となれば、尚更だった。生意気にも力を持っているから、取りあえず対等につき合っているという向きが強かった。
 その一方でアジア・太平洋では、ヨーロッパ各国は他のヨーロッパ列強との競争に勝つため、日本を利用する傾向が強かった。まずヨーロッパで抜きん出なければ、他の地域での競争など夢物語でしかないからだ。

 日本人勢力圏を一番利用しているのはブリテンで、大国である大和、日本を介することで、世界の通商網、アーシアンリングを擬似的に形成するようになっていた。だがそれ以上の面では、ブリテンの思惑はうまくいっていなかった。日本人達は、ブリテンから借款はしないし技術者も一時的以上に雇う事がなかった。上記二つこそが、相手国、民族を植民地化する手っ取り早い切っ掛けなのだが、日本にはそうした事がほとんど不要だったのだ。しかもヨーロッパ列強並の工業力、軍事力、世界有数の国力を持つとあっては、相互利用以外は難しかった。それに、多くの人口を持つうえに国民国家となっている日本人達の領域が、簡単に植民地にできる場所でないことは、ヨーロッパの中ではブリテン人が一番よく知っていた。
 他の列強では、1870年代、80年代のロシアが、シベリアから進むべきか退くべきかで悩んでいた。日本側からは鉄道を自分たちの側から延長しようという話しまでされては、シベリアでの自らの不利を自覚せざるを得なかった。しかしロシア人にとって、石ころ一つ相手に渡すことは、大陸国家としての潜在的恐怖心が許さなかった。このため仮想敵の上位に日本を置き、資金、技術の不足を克服してシベリア奥地の開発を行おうと躍起になっていた。
 そしてロシアにとっての幸運が舞い込んでくる。

 ドイツ帝国で宰相ビスマルクが退かされ、皇帝ヴィルヘルム二世自らが膨張路線という外交転換を図ったからだ。
 それまでビスマルクの天才的政治手腕により孤立していたフランスは、ようやく鎖から解き放たれ、いち早くロシアとの関係を結んだという事になる。フランスは、ビスマルク退場すぐにもロシアに借款を行って、これでロシアはシベリア鉄道の建設に乗り出し、翌年には「ロシア=フランス協商」が成立する。そしてフランスは、ロシアなどへの借款で外貨を稼ぎ、それを回転資金に帝国主義政策を強めた。
 これに日本も反応せざるを得ず、北満州の開発促進とアムール川平行鉄道の敷設を開始する。しかしここで南満州への進出を強めたため、清朝、正確には満州族の父祖の地を侵すものだとして清朝が日本と対立した。しかし日本は、清朝中枢への献金、賄賂攻勢と、満州族の父祖の地を大切に扱い満州族の権利を第一に考えるという約束を清朝と交わすことで、南満州での経済的権益を手に入れることに成功する。清朝側は、自らに漢族の流入を抑えるなどの統制力がないため、日本との妥協を図ったのだ。
 そして日本の目的がチャイナ全土の市場化ではなく、チャイナ域内の未開発領域の開拓と自国領化であるため、列強も極端に文句を言い立てることはあまりなかった。日本人も、自分たちが万里の長城を越えない限り、漢族から極端に叩かれないことを歴史的経緯と今までの経験から熟知していた。
 ロシアは開発競争の遅れから焦りを強めるが、これはむしろ方向転換の良い機会となった。
 ロシアが満州国境まで鉄道を引く頃には、満州の日本化は一定段階を過ぎ、もはや濡れ手に粟で奪える場所でなくなるのが確実だからだ。無論国防のため日本に負けない国土開発のための鉄道敷設は必要だが、帝国主義的な側面から見るとロシア人の方向は取りあえず中央アジア外縁部の東トルキスタンと外蒙古に向かう。あわよくば、ペルシャ(イラン)を飲み込むか中華北部を勢力下に置き、暖かい海を確保するのがロシア人の当面の目的だった。
 そして年々日本とロシアは、北東アジア地域の互いの勢力境界を確認しつつ接近していった。満州は日本、外蒙古はロシア、それが両国の暗黙の了解だった。また日本は、インド洋に関して自分たちは不干渉だという言質をロシアに与えていた。
 日本にしてみれば、ロシアの矛先が自分たちに向かわないのなら、それは助長するべき事柄だった。白人同士が争う事は、日本の利益だったからだ。
 しかしロシアの行動が具体化するのは、1897年にシベリア鉄道がバイカル湖まで到達してからの事だった。
 そしてその翌年、ロシアがモンゴル地域を経由するイルクーツクと北京の間の鉄道敷設権を手に入れると、中華情勢も動き始めるかに見えた。しかしこの年、世界中で色々な事件が起きたため、ロシアの行動はあまり目立たなかった。

 1898年は、事件の多い年だった。
 カリブ海では、スペイン領キューバで大規模な暴動が起きて、北アメリカの国々が騒がしくなった。アフリカ奥地スーダンのファショダでは、ブリテンのアフリカ南北縦貫とフランスのアフリカ東西縦貫のそれぞれの植民地政策がぶつかり合った。そのすぐ後には、南アフリカの巨大金鉱を求めるブリテンが「ブーア戦争」を始めた。またその前年には、ドイツとブリテンが建艦競争に入っていた。無論と言うべきか、広大な版図を有する日本人社会も無関係ではいられなった。
 そして上記の事件全てに、ブリテンが関わっていた。
 ブリテンとしては、ドイツの膨張とファショダではフランスの妥協により、むしろフランスとの今後の良好な関係への一里塚を築けたが、安易に侵略戦争を仕掛けた「ブーア戦争」では失敗する。初期の戦闘が呆気なく終わるも、その後ブーア人(=オランダ移民の子孫)のコマンド戦法によって泥沼化してしまったからだ。結局ブリテンは、あしかけ3年の戦争を行って莫大な戦費を費やし、40万人もの兵力を投じることになる。
 このためブリテンの覇権は一時的に後退し、そこにドイツが仕掛けた戦艦の建造競争が追い打ちをかけた。このためブリテンは、「栄光の孤立」と言われる政治方針を棄てて、フランスとの協商関係を結ぶに至る。そしてフランスが仲介することで、ロシアとの間にペルシャ利権の分割が成立し、その翌年の1903年にブリテンとロシアの間に協商関係が成立し、ここにいわゆる「三国協商」が登場する。これでヨーロッパは、ドイツ、オーストリア、イタリアによる「三国同盟」と「三国協商」により勢力がほぼ二分され、ブリテンの「3C政策」ドイツの「3B政策」という分かりやすい図式で帝国主義的対立構図が出来上がる。
 主な係争地はバルカン半島だったが、「三国協商」の本当の目的は日本人社会の外縁部の植民地化だった。
 広大な領域と市場を持つ日本の外郭地を奪うことは、ブリテン、ロシアの国益にかない、フランスも「おこぼれ」に与ろうというのが目論見だった。すべからく、世界は白人によって管理運営されなければならない、というのが当時の白人の言うところの崇高な義務であり責務だからだ。
 この動きは、1890年頃からヨーロッパ列強各国が、太平洋に進出し始めていた頃に起きていた。

 太平洋のあの島、この島の争奪戦によって、日本と他の列強の摩擦が始まった。
 日本人は、長らく自らがマラッカ海峡を越えないことで他国との衝突を避け、清朝を身代わりにして他国との直接的な衝突は可能な限り避けていた。だが、文明の進歩に伴う距離の短縮と世界規模での帝国主義の膨張が限界に達しつつある何よりの証拠だった。
 主に日本と衝突したり接触を大きくしたのは、ブリテン、ドイツ、フランスだった。これらの国々を中心としたヨーロッパの国々は、東アジア・太平洋を一国で支配する日本の強欲さをなじり、自分たちにも帝国主義の分け前を寄越すように言った。特にイギリスの干渉が強かった。
 対する日本側は、正当な手続きを経て得た正当な権利だと譲らなかった。フランスは他国の間をすり抜けるような外交を行って、一時的に日本と一部棲み分けをすることで妥協した。ドイツは東アフリカから足を伸ばすしかないので、当面は日本を突っつくのを諦めてチャイナに向かった。またドイツは、日本が小突き回されている情勢を利用して、日本の肩を少しずつ持つようになる。絡め手で日本の市場を開かせ、最終的に植民地を得るのが目的だった。これをドイツ人は、「北風と太陽」の戦略と呼んだ。
 そして他国の圧力にさらされた日本は、それまで必要最小限に抑えていた軍備の拡張に乗り出す。この時出た言葉が「富国強兵」であり、日本人社会における帝国主義的行動のスローガンとして受け入れられるようになる。
 ほぼ一世紀ぶりの国難であり、平和と帝国主義的収奪の上の繁栄に慣れきっていた日本国民の意気も相応に向上した。
 しかし、日本の敵はヨーロッパそのものであり、あまりにも強大だった。

 最初に動いたのは、ブリテンだった。
 ブリテンは、帝国主義の強欲の赴くまま中華地域を貪り食っていたが、それだけでは飽き足らなかった。そしてブリテンが目を付けたのが、地下資源、穀物、市場、比較的希薄な人口地帯という条件を備えていた、日本領の大洋州地域だった。
 ブリテンは日本に難癖を付け、フランスなど他の列強を誘って日本を外交的に追いつめる。当然日本は反発し、日本の軍拡を世界の平和に対する犯罪だと言い立てたブリテンは、マレー半島近くのインド各所に大規模な艦隊と軍を派遣する。
 しかし戦争を吹っかけるのではなく、当初はあくまで交渉で日本を追いつめようとした。
 そしてブリテンが求めてきたのが、大洋州の市場開放と自治権拡大だった。既に十分な人口と産業がある地域をいつまでも植民地状態に置くのは文明国として問題があると、日本に言い立ててきた。
 そしてブリテンとしては、大洋州に対する自治拡大の言葉によって一定の懐柔を試みようとしたのだが、今までブリテンの強欲を見続けていた日本人達は本国、植民地を問わずに一斉に反発し、戦わずして何らかの利益をせしめようとするブリテンの意図は叶わなかった。
 しかもブリテンが、さらに日本に対する締め付けを行おうとしているとき、自ら「ブーア戦争」を起こしたため、ブリテンの予想外に日本への行動を後らせねばならなかった。このためブリテンは、ブーア戦争後にフランスとの協商関係に踏み切ったと言えるだろう。
 そして一度で諦めるようなブリテンではなく、自らが行動できないとなると、日本に一定の軍事的威圧をかけたまま他国をけしかけた。

 二番手として本格的に日本に殴りかかってきたのは、ロシア人だった。19世紀末に日本とブリテンの関係が極度に悪化するようになると、俄然満州を目指した圧力をかけるようになり、満州国境のアルグン川にまでシベリア鉄道を急ぎ延長した。日本側も同じように鉄道を延長したが、平和に慣れていた日本に対して、欧州、中央アジアで侵略に慣れていたロシア人の行動は早く、瞬く間に国境沿いや外蒙古にロシア軍が溢れた。
 これに対して日本も満州に続々と兵力を派遣したが、そもそも日本軍は建国以来植民地の治安維持ばかり行い、対外戦争を行ったことがなかった。工業力に裏打ちされた装備は相応に優秀だったが、戦訓が不足していたし、兵士達の士気も高いとは言えなかった。軍そのものも保守的になっていた。
 そして対立構図は、オスマン朝を清朝に置き換えた様な形で進み、日本はロシア、ブリテン、フランスを相手に孤立していた。ドイツは対向外交と自らの戦略に従って軍艦、兵器などを日本に輸出したが、この時点では他の国々に対しても日本への商売を前面に出すことで対立は避けていた。日系国家の大和共和国も白人国家群への警戒感を露わにしたが、日本との感情的対立を解消しきれていないため、同盟や協商にまで至らなかった。それに大和は、基本的に国防以外考えない外交しか行わない孤立主義に近かったので、そうした政策、民意も日本との連携を邪魔していた。
 ロシア、ブリテンに虐げられている国々、地域、民族は日本を応援したが、感情面以上の事象には至らなかった。何しろ相手は、世界最強の国々なのだ。
 もっとも、ブリテンは狡猾であり、矢面に進んで立ったのはロシアとなる。ロシアと日本の対立は徐々に深まり、ついに開戦に至る。
 「日本戦争」の始まりだった。

 戦争は1904年春に開始され、翌年秋までの約1年半続いた。
 ロシアと日本の戦場は、満州国境を中心とした平原地帯で、双方十数万の大軍が盛んに運動戦を行うという図式で推移した。そして騎兵運用に長けたロシア側の優位で戦況は進む。
 しかし日本軍も、満州北部の大興安嶺山脈に野戦要塞群による要塞線を造り、そこが主戦場となると戦況は膠着する。ロシア軍は、さらなる大軍を投じて強引に突破しようとしたが、重砲、機関銃の十字砲火を浴びて大損害を受けただけに終わった。要塞線の前には、騎兵も役には立たなかった。
 アムール川流域、シベリア=北海州境界でも戦闘は起きたが、双方とも戦場にしにくい地形と自然環境のため、大規模な会戦ができないまま小競り合いに終始した。
 そして戦況が膠着する頃になると、日本が戦争を一気に有利とするべく本格的な動員を行おうとする。
 これに対してブリテン、フランスは、軍の大動員は世界秩序を乱すものであり、もし日本が動員を行うなら自らの参戦も辞さないと強く勧告した。
 ここで一旦は、講和会議に向けた話し合いが開始されるが、ロシア側の態度は強硬で、北満州の割譲と南満州の清朝への権利返還を日本に要求。また満州全域の市場開放を求める。無論、ロシア側はここから日本の態度を見つつ駆け引きするつもりだったが、あまりにも無体な要求に日本世論は激高。またヨーロッパの世論も折からの反ロシア感情もあって、ロシアへの非難が高まってブリテン、フランスの政治的動きも一時的であれ衰えた。そして自らの政治的優位を感じた日本は、白紙講和を提案。これに、既に大きな損害を受けていたロシアが強く反発し、最低でも現占領地の割譲を求めるロシアと日本の話し合いは平行線をたどった。
 当然交渉は決裂し、日本は大動員をついに決意。大軍を用いて一気にロシアとの戦いを優位に持ち込もうとしたのだ。
 だが、ブリテン、フランスは日本が両国からの勧告を無視したとして、ついに宣戦布告を実施。既にシンガポールに準備していた艦隊を、東アジア奥地へと前進させる。ブリテン、フランス連合艦隊は、インドシナ、香港を経由してまずは日本艦隊を排除して沖縄を占領。これでも日本が折れなければ、インドから大軍を持ってきて一気に日本の首都を突く目算だった。そうした「スマートな戦争」こそが、本来帝国主義的な戦争だからだ。ロシア人のように大軍を投じるのは、愚かな田舎者の行動でしかなかった。
 これに対して日本側も、各地に分散配置していた海軍の集結を行い、当時世界第一位、第二位のブリテン、フランス連合艦隊に対して果敢に海上戦闘を挑む。
 日本側は戦艦5隻、装甲巡洋艦6隻を集め、ブリテン、フランス連合艦隊は戦艦8隻、装甲巡洋艦1隻の編成で、双方ともに他にも多数の巡洋艦を敵艦隊捕捉や牽制のために配置していた。ただし、装甲巡洋艦を植民地警備ではなく主戦力として運用するのは、豊臣時代以後高速船を好む日本海軍独自の戦法だった。
 「リッサ海戦」以来久しぶりの大規模海上戦闘は「沖縄沖海戦」と呼ばれ、海上戦闘の形式が一気に変わったことを世界中に教えることになる。
 戦闘は、「リッサ海戦」での横隊突撃ではなく単縦陣による運動戦となり、連携に欠けるブリテン、フランス連合艦隊に対して、日本艦隊は運動戦を駆使した各個撃破に専念。日頃訓練だけは積んでいた日本海軍の行動は、ブリテン海軍に匹敵すると言われるほど優れていた。
 数で劣るため日本艦隊から優先的に攻撃を受けたフランス艦隊が落伍し、その後単独での戦いを強いられて損害の増えたブリテン艦隊も後退を余儀なくされた。日本側の意外なほどの戦術、戦意の高さと、ブリテン、フランスが東アジアにまで本国の大海軍を持ち込めなかったことから起きた日本の勝利だった。
 しかしブリテンはこれで尻に火がついた形になって、当時既に海軍拡張競争が本格化していたドイツを半ば無視し、本国から増援を送り込んだ。そして艦隊を一部の地域に集中していた日本海軍を、一つの艦隊で押さえ付けている間に、他の艦隊がインドで載せた兵によって東南アジア各植民地に送り込んで占領していった。複数で同時に行動したブリテン海軍は、東南アジアだけでなく大洋州各所にまで進出して、海上封鎖を実施し、出来得るなら上陸・占領を行った。フランスもこれに乗じ、本国から一定規模の艦隊を派遣して日本勢力圏の各地に侵攻した。
 そして全てに対応する戦力のない日本は、本国が本格的に攻撃を受ける前、じり貧になる前に、自ら不利な講和を選択せざるを得なかった。
 そして戦争は、日本の一方的敗北という結末を迎える。

 1905年11月、ドイツのベルリンで行われた講和会議は、日本の仲介役としてドイツが入った形で開催された。
 敗戦国が日本一国なのに対して、戦勝国はブリテン、ロシア、フランス、そして清朝が加わっていた。なお、朝鮮王国も日本に敵対したと主張したが、これは各国から相手にされなかった。
 形としてはクリミア戦争に似ていたが、一つ違う点は日本が完全な有色人種国家であり、敗者である有色人種に白人達は容赦がなかったという点になるだろう。
 講和会議では、日本はユーラシア大陸北東部の北海州の過半をロシアに割譲させられ、北満州も北海州の一部という事で同様の措置となった。南満州の利権は多くを清朝へ返還する事になるが、遼東半島など若干は日本の手に残された。最後の点は、ロシアの強欲が招いたロシアの失策だった。仲介役のドイツや各国の声によって、日本の手に残されたのだ。加えて日本は、大陸との補給路を断たれる前に戦争自体を止めていたので、ロシアの強欲は戦勝国各国からも反発を浴びた。ただし、広大すぎる領土を得たため、ロシアは賠償金を得ることは諦めねばならなかった。
 一方で、ブリテン、フランスへの賠償もある意味巨大だった。
 基本的に一部拠点の割譲以外では賠償金支払いが主となったが、2億ポンド(12億フラン)も課せられたからだ。この金額は、当時の日本の国家予算に匹敵しており、いかに巨額だったかが分かるだろう。ブリテン、フランスとしては、日本政府がため込んでいる黄金(又は金貨)を奪うのが目的だった。これにより、ブリテンを中心とした世界規模での金本位体制がより充実し、日本の財政を悪化させるので、広大な領土を奪って日本人から極めて強い恨みを買ったロシアよりも狡猾だった。
 またブリテン、フランスは、一部占領下においたジャワ、パプア、フィリピンの割譲もしくは要地や鉱山の租借を要求していた。加えて、既に人口も多く近代文明も成立している大洋州を独立させるべきだと要求した。
 そして外交面でも四面楚歌状態の日本は、粘り強い交渉を行うも相手の要求の多くを認めざるを得ず、フランスにはフィリピンを、ブリテンには北ボルネオを割譲する。また、翌年を目処に大洋州の濠州、新海の自治独立までも認めざるを得なかった。しかも濠州は、日本の賠償として巨大鉱山の多くの割譲または租借が行われているので、経済的な理由からブリテンの影響下に組み込まれることがこの時点で決められていた。つまりは、大洋州そのものが日本の利権でなくなることを意味していた。このためブリテンも、日本人から強い恨みを買うことになる。
 ブリテン、フランスとしては、スンダ地域主要部を奪えなかったことは残念だったが、それは次の戦争なりで奪えばよい場所でしかなかった。何しろこれからの日本は、今まで日本の繁栄を支えていた豊富な資金力と原料資源(鉄鉱石、石炭)の供給地と市場、資本投下場所の多くを失うのだ。後は煮るなり焼くなり、好きに出来る事を意味していた。

 だがしかし、日本から一気に奪い取って競争から蹴落とした事で一安心したヨーロッパ列強は、簡単に植民地に出来る場所が日本と中華の本土地域となった事もあって、再び内輪もめに戻る事になる。それは未曾有の対立、帝国主義の終焉への道のりでもあった。

 ここからはシナリオ分岐します。望む方にお進みください。
(※連載中は、ルート方向が開通していない場合がございます。)

トゥルールート フェイズ24「戦乱への道」

グッドルート フェイズ24「戦乱への道」