■フェイズ24「戦乱への道」

 日本戦争後、日本から広大な領土を一度に奪った国々は、奪った地域の自国植民地化をそれぞれ急いだ。理由は言うまでもなく、日本人を早急に支配下に置くためであり、同時に他者に取られない為だ。さらに言えば、日本が弱っている今こそ、さらに日本から多くを奪うためだった。
 日本人は有色人種でもあるにも関わらず、今まで多くの富を独占しすぎていたのだから、その富みを「正統な主」のもとに戻す事こそが、白人国家の義務だとすら考えられていた。現代では全く通じない理屈や考え方だが、当時のヨーロッパ世界ではこうした考え方はもはや常識に近かった。
 そして今まで日本人、そして日本帝国のため苦い思いをさせられて続けていたと考えていたヨーロッパの国々は、容赦なく手に入れた日本人のテリトリーを自分たちの好きなように弄り始めた。
 このため白人達の支配下となった旧日本領や日本の勢力圏だった地域では、現地日本人、日系人、日本人寄りの現地人が有していた富みや利権を次々に不当に奪い、さらには有色人種全体にヨーロピアンでは一般的な圧政を敷くことになる。各地方に残留した役人や軍人、資本家以外にも、追い出された日本人も多数に及んだ。理由もなく逮捕、投獄されることが日常茶飯自的に行われた地域もあった。特にロシア帝国の圧政は厳しかった。
 当然、日本人の三国協商各国(ブリテン、フランス、ロシア)に対する恨みは大きく増し、白人の植民地とされた地域では暴力を交えた反発も発生した。そして反発すればするほど統治は厳しくなり、さらなる反発を産むという悪循環を繰り返していた。17世紀から世界の海に出ていた日本人とその子孫達は、自ら近代文明を手に入れた人々であると同時に、従順という言葉からほど遠い人々だった。その上十分に抵抗力を備えていた。
 日本領を支配下に置いた国々は、大きすぎる財産を得ると同時に、大きな苦労を背負い込むことにもなった。

 ユーラシア大陸北東部の旧北海州では、ロシアの圧政に反発した日本人達が反乱を行うも、ロシアは軍を派遣して鎮圧し、より強い圧政を実施した。それでも反発は止まず、極めて広い地域でもある北海州は常に内乱が起きる地域となっていく。しかしロシア人は、遂に太平洋への出口を得たことに有頂天で、現地日本人の反抗的行動は「些細な事」でしかなかった。実際、多数の異民族を抱える大陸国家ロシアにとっては、日本人が数万、数十万増えたところで、その程度の感覚しか無かった。ましてやロシア本土から余りにも離れた辺境とあっては、ペテルブルグにいる皇帝や貴族が現実的な考えが及ぶ場所ではなかった。刃向かえば殺すか収容所に送ればいい、という程度にしか考えていなかった。そしてそれを行うのは現地に派遣された役人や軍人の仕事であり、支配階層の仕事でないと考えられていた。統治が荒かったのも当然だろう。逆に反発も常に大きく、多くの予算を投じざるを得なかった。

 南太平洋(※大洋州=オセアニア)では、講和条件通りに1906年に濠州、新海が、半ば名目上で日本からの独立を実施した。それぞれ名目上は民主共和制国家を樹立するが、名目君主をブリテン国王とする事を中心にして事実上ブリテンの影響下、いや支配下に組み込まれた。ブリテンの要衝シンガポールには、ブリテン本国から有力な艦隊が派遣されて常駐するようになり、インドでも大量のイギリス・インド軍が準備され、「不測の事態」に備えた。大洋州各地にも多数の軍隊が駐留した。
 これでは、敗戦したばかりの日本は何も出来ないに等しく、事実上の植民地でしかない大洋州は、それ以上にまな板の鯉でしかなかった。
 1907年には、早くも新海共和国がブリテンの保護国となり、オランダ人が名付けたニュージーランドの名が数百年ぶりに復活した。そして1910年9月、濠州共和国もブリテンに対する国債利払いの不履行を理由に、オーストラリアと改称され上でブリテンの保護国に転落した。
 連動して、大洋州という日本名もヨーロッパ風にオセアニアと改称された。各地のブリテン大使館はそのまま臨時総督府となり、それまでの日本に代わりブリテンの艦艇が各地の港に碇を降ろした。そして多くのブリテン役人、軍人、資本家、それらを操る支配階級がやって来た。大洋州(オセアニア)では、自分たちの土地の名すら奪われた事に対する反発が強く、ブリテンに対する抵抗運動が激化する事になる。そして反発のたびにブリテンの支配は強められ、さらに多くのものが奪われていった。

 当然と言うべきか、戦後の日本、及び日本人社会では、三国協商に対する敵意が大きく膨れあがった。上記したように、大洋州各地では反発運動が起きて、濠州奥地や南洋の名もない島を拠点とした抵抗運動が日常化していくようになった。このためブリテンは、かなりの予算を治安維持に割かねばならず、新たな領土を得た利益よりも損失の方が大きい状況が続く事になる。そして統治コストの悪さは、ブリテンにとってはかなり誤算だった。
 フランスも、日本から得たフィリピンの統治に頭を悩ませていた。もともとフィリピンは、国家や統一政府が作りにくい地理条件と気候、自然環境にあった。このため日本も、自らの統治時代は緩やかな統治しかしていなかった。敢えて欲しい物産も少ないという理由もあるが、近くだから自分のものにしていたという程度の場所だった。これをフランスは、既に自らの勢力圏としているインドシナの近在だから日本人から奪ったに過ぎなかった。そして他と同じような植民地統治を実施して、ものの見事に失敗していた。とはいえ、フランスが東アジアに投射できる国力が限られているため、フランスの動きはは東アジア全体として特に大きな影響はなかった。
 しかし東アジアで多くのものを得られなかったフランスは、その後日本ではなく大人口を抱える中華地域へと強い興味を向けるようになっていた。

 そして、東アジアで日本以外の唯一の大国清朝だが、依然として近代へと本格的に足を踏み入れていなかった。ヨーロッパの文物は武器や便利な道具を中心にしてかなりの量を購入したが、購入して取りあえず表面上の使い方を覚える以上にはなかなか進まなかった。清朝の政治制度に全く変化はなく、軍の制度、学問、その他諸々、ほとんどが今まで通りだった。日本がヨーロッパ列強との戦争に敗れても、自分たちの方が「格上」なので大きな問題はないと頭から思いこんでいた。
 いっぽう諸外国も、余りにも巨大な人口を前に「眠れる獅子」と警戒し、一定以上の進出は行っていなかった。そうした動きに若干の変化が見られたのは、「日本戦争」以後となる。アジアの大国であり先進国だった日本ですら戦争でうち破れたのだから、というわけだ。
 このため日本戦争以後、中華地域に進出を強める国は増えたが、それでもあからさまな戦争や植民地化を画策するまでに至っていなかった。

 一方、歴史的な敗戦を喫した日本本国では、政治的に大きな動きが起きた。「神武以来の国難」と言われた。
 1906年には事実上の挙国一致内閣が成立し、国民の強い支持を受けた政権として臥薪嘗胆、富国強兵へと急速に突き進むことになる。戦争に敗北した1905年8月15日は、日本人全てにとって屈辱の日となった。
 日本列島で成立した新たな政権は、軍拡と重工業拡大政策による国威回復を政策に掲げ、国威と勢力圏の回復を政策の旗印とした。日本は大量の国債を発行する積極財政政策で軍備の大幅増強開始し、費用や資源など不足する様々なものを他国に求めた。そしてこれに応えたのが、日本列島を祖として誕生した北米大陸の大和共和国だった。
 それまで大和共和国は、自らの豊かさとヨーロッパからの距離の遠さもあって、あえて孤立主義的な外交を展開していた。有色人種国家であっても、相手が手出しできないだけの力を持っていれば問題ないとの考えから、そうした外交選択を行っていたのだ。野生動物に例えれば、サバンナの象やサイ、カバのような状態を目指したと言えるだろう。
 しかし似たような政策を行っていた日本は、最強の列強複数から袋叩きにされ、大和に自らの外交政策が通用しないことを思い知らせた。そして今度は、三国協商とアメリカ大陸東部の国々が徒党を組んで大和に戦争を吹っかけるかも知れないという恐怖が、大和国民の間に広まった。また大和共和国の国民の多くが日本人もしくは日系人のため、先祖の故郷が受けた屈辱は自らの事のように思い、ヨーロッパ列強に対する警戒感を増すと同時に、敵意と憎しみを増大させた。
 このため日本戦争後の大和でも、俄に軍備増強、国防重視への政策転換が行われるようになる。それまで最低限だった海軍増強も積極的に実施されるようになり、俄に北アメリカ大陸での緊張も高まった。また日本が不足する鉄鉱石、石炭、穀物などの輸出を安価にかつ優先的に行うようになり、相互最恵国待遇とするなど日本側の歩み寄りと譲歩もあって外交関係の大幅な改善も実施された。低利での借款や国債購入も積極的に行われるようになった。とはいえ、諸外国に口実を与えかねないので協商や同盟には至らず、ハワイと北米太平洋岸を挟んだ状態での棲み分けは続いていた。
 そして日本、大和共に不足するのが、最新の工業技術とその精華である最新兵器で、そうした巨大な需要に応えたのが、三国協商国との対立路線を進んでいたドイツ帝国だった。
 ドイツとしては、日本からアジアでの利権を奪えないかという面もあったし、最終的には日本の市場化を目指した接近ではあった。無論、純粋な商売という面もある。大和に対しても同様で、自らを積極的に売り込んだ。またドイツとしては、ブリテンとロシアに「獲物を奪われた」というやっかみがあった。加えて、日本が協商各国を酷く恨んでいるという感情を利用するという目論見もあった。
 またドイツの外交としては、ブリテンと対等に渡り合うためには、重工業力、十分な海軍、海外での拠点、そして必要十分なヨーロッパ以外での同盟国と海外市場があるのが望ましかった。ドイツにとってオスマン朝トルコが距離的にも妥当な存在だったが、日本もドイツのターゲットとして重要視されるようになる。市場としては、大和共和国も非常に有望だった。
 皇帝ヴィルヘルム二世が唱えていた「黄禍論」は、いつしか皇帝の口からもドイツ人の舌の上から消えていた。横暴なロシア、ブリテンの植民地帝国主義に対向する「新たな友人」として、日本との関係強化が実施されるようになった。
 また大和に対しては、ドイツ系、ゲルマン系移民が多いことを理由に、友好国足りうるという論法が用いられた。ドイツ、中欧から大和への移民も増えた。
 そしてドイツの動きは、三国協商各国の警戒感と行動の加速をもたらし、ヨーロッパでの二つの陣営の対立に日本人勢力圏も組み込まれていく事になる。

 もっとも日本は、ドイツへの好意の代償、購入した工業製品、武器、工作機械の莫大な代金の当座の肩代わりとして、朝鮮王国を自らの現地利権ごと差し出していた。他国のことなど知ったことではないという、実に帝国主義的行動だった。それに朝鮮半島は、ロシアと地続きで対立しなければならない場所であり、当時の日本単独では荷の重い場所になっていたことも、ドイツへの譲渡に強く影響していた。同時に、日本が何とか保持していたスンダ地域にも、ドイツ資本の参加や軍艦の寄港権など、様々な権利が約束された。
 そして1911年、ドイツと日本は通商条約を大幅に改定する。これにより、ドイツは日本との通商関係を強化するという名目で日本の施設を優先的に使用できるようになるため、実質的なドイツ優位の協商関係だった。
 1907年頃からは、日本や大和への大幅な輸出増加でドイツは好景気になり、それは1914年まで続いた。
 しかもドイツと日本の接近は、トルコ帝国にドイツへの接近を促すことにもなる。日本が有色人種国家であり、白人国家のロシアやブリテン、フランスと戦争をした国だからだ。そして日本側からトルコへの友好関係強化も実施され、日本の大使館もイスタンブールに設けられた。さらには1912年、1913年の第一次、第二次バルカン戦争でトルコが多くの領土を失うと、日本とトルコの関係はさらに加速する。
 そしてドイツによる「3B政策」は、インド洋を越えて日本領ジャワ島のヴァタビア(Batavia)まで達した「4B政策」となる。さらに日本人の勢力圏とつながることで、ブリテンのアーシアンリングや「3C政策」に対向する動きを見せるようになる。
 当然と言うべきか、ブリテンの世界戦略に大きな脅威を与えたため、ブリテンは日本及び日本人に対する圧力と締め付けを強めざるを得なくなる。三国協商が奪った日本人の領域での統治も年々強化され、バルカン半島以外での戦争が起きるとしたら日本人が関わる戦争になるだろうとの噂で持ちきりとなった。
 そして1913年春、ブリテンが日本人移民が多く日本の既得権であるハワイ王国への浸透を強化するが、日本がハワイとの間に同盟関係を結び有力な艦隊を派遣してとん挫。これを「ハワイ事件」と称し、日本とブリテンの対立の次の象徴となった。

 一方、この頃の北アメリカ大陸情勢だが、上記したように大和共和国による軍拡と日本との融和が新たな対立を呼び込んでいた。ブリテンは、自らのアーシアンリング確保のため当面ではあっても大和との関係悪化を避けようと努力していたが、日本戦争以後はあまりうまくいっていなかった。このため南部(アメリカ連合国)との関係を強化し、カリブ海での覇権を強め、そしてパナマ地峡に注目する。
 パナマ地峡に運河を造り、自らのアーシアンリングを再編成するのが目的だった。しかしカリブ海には自らの拠点が少ないし、ブリテン本国から運河建設のための膨大な機材、人材を供給するのには限界があった。このための拠点として、南部との関係強化が実施されたのだ。
 一方、相変わらず孤立主義一直線なのが、アメリカ(アメリカ合衆国)だった。アメリカは大和とは資源、最低限の加工品貿易で一定程度の関係を結んでいたが、大和との関係は同じ大陸内なので最低限の自分たちのルール(モンロー主義)が維持できる相手だった事が影響していた。ただし、両者の主に人種差別面での対立感情、大和側がアメリカが自らの意を反映する移民を送り込むのではないかという強い警戒感から、アメリカからの移民や移住、アメリカを経由した移民に依然として厳しい制限、規制を設けているなど、両者の関係は対立状態と言えた。無論、逃亡奴隷を苦々しく思っている南部と大和の対立ほどではないが、アメリカと南部の対立と合わせて、三者がそれぞれを憎み警戒し合う状況に大きな変化はなかった。
 そしてこの三国にとってある意味問題だったのが、ユーラシア大陸から押し寄せる膨大な数の移民だった。

 1890年代は大西洋から約850万人、太平洋から150万人が、1900年代は大西洋からは約600万人、太平洋から200万人が新大陸に押し寄せていた。しかもこれはカナダに止まった約200万人を除外した数字で、僅か20年間2000万人近くが移民として押し寄せていた。年間平均でも100万人と言うことになる。
 これは産業革命の進展で人口が激増した事に加えて、文明の進歩に伴う移動手段の向上、つまり蒸気で動き鉄で船体を作った巨大な客船が大西洋、太平洋の双方で多数建造され、移動速度すら競って収益向上を図っていたからだ。北大西洋上で悲劇的最後を遂げた豪華客船のタイタニック号も、そうした客船の1隻だった。
 そして1890年頃、南部のメヒコを除く北米の総人口は既に1億3000万人以上に増えていた。四半世紀後の1915頃には、2億人に達していた事になる。(※当時のメヒコの総人口は約1300万人)。
 大西洋からの移民の主体は、これまでとは違い東ヨーロッパが増えていた。イタリア、ロシアからの移民も増え、ロシアからの移民はロシア系ユダヤ人以外が大半となっていた。太平洋からは、日本が戦争で敗北して多くの植民地を失うと、そこから大量に移民してくることになる。これは1900年代の統計数字になるが、通常の移民と合わせて400万人にも達した。
 そして国内での旺盛な自然増加と膨大な移民によって膨れあがったそれぞれの国だったが、より多くの移民を受け入れることが出来るのは、広大な領土と豊富な天然資源を有する大和共和国しかなかった。1910年頃、アメリカは東部沿岸都市が既に人口肥大化で都市機能が半ば麻痺状態で、総人口は5000万人に達して以後人口増加は鈍化して6000万人程度だった。加えて国内市場も飽和状態で、工業の発展も停滞していた。南部では相変わらずの(黒人)奴隷制が維持され、産業の発展も遅れているため人口は2000万人を越えることができずに停滞していた。移民の側も、心理的に少なかった。カナダは元々寒冷な気候のため農地にできる場所が少なく、ブリテン本国の存在があるため国内産業の発展が抑止されているため、総人口は1000万人に届いていなかった。
 つまり大和が、1億人以上(1億1000万人程度)の人口を抱えている事になる。1億人という数字は、当時の文明国もしくは列強の中ではロシアに次ぐ数字だった。しかも大和は、広大な農地、豊富な地下資源を有しており、日本の植民地時代から自力での工業生産も積極的に行われていた。インフレ傾向が強いとはいえ、国民の消費意識は常に世界トップクラスで、大和政府が教育に非常に力を入れている事もあって民度も高かった。国土が広すぎる事の不利もあったが、逆に国土を人で埋め尽くすことで国力拡大を達成していた。国力比較だと、アメリカの約2倍、南部の約7倍の格差があった。工業力の一つの指標となる粗鋼生産量は、20世紀に入る頃には日本、ブリテンを追い抜き、ドイツと首位争いをするようになっていた。粗鋼生産量は、北米では圧倒的優位にあった。
 しかもアメリカ、南部と違って大和にはヨーロッパ諸国からの借金はなく、首都のある太平洋岸がヨーロッパから最も遠い場所にある事もあって、対ヨーロッパ外交からの安全度は高かった。
 だがその大和は、1907年頃から軍事費が年率10%以上の上昇を開始する。南部とアメリカが反発したが、大和側からのヨーロッパ列強の脅威に備えるためという言葉を聞くと、どちらも一旦は沈黙せざるを得なかった。三竦みで対立していても、ヨーロッパ列強は共通の脅威でもあるのだ。しかも大和の軍拡が、東洋随一の大国だった日本の惨敗を原因としているとなると、次は自分たちの順番なのではと考えるようになっていた。中南米の国々も、ヨーロッパの進出を防ぐ事になるのならと、三国の大和の軍拡には好意的だった。
 そして三者暗黙の了解で、北アメリカ大陸全体も軍備拡張時代に入った。大和はドイツ、アメリカはフランス、南部はブリテンから最新鋭の武器や軍艦、技術を買い入れた。大和とアメリカでは、自国企業の発展と兵器企業の育成にも熱心に行われ、それぞれの国は主に海軍を拡張する動きが続いた。大和では、日本との協力関係も進められ、さらには太平洋岸とメヒコ湾双方の造船地帯で自力での超弩級戦艦の建造も開始された。
 これにヨーロッパ列強も警戒感を抱くが、基本的に北アメリカ大陸内での軍拡競争なので、カナダを持つブリテンとカリブに最後の植民地を有するスペインが若干警戒を上げたぐらいだった。現時点では、それ以上の行動を取りたくても取れなかったからだ。

 それ以外の地域だが、満州利権を丸々得たロシアがそのまま清朝本土への進出に向けた動きを見せていた。だが、清朝自身が日本に対するカードであり、また「東洋の眠れる獅子」と言われる人口大国であるため、ロシア人も満州での足場固めでのため動きを若干鈍らせていた。1911年にドイツが朝鮮利権を手に入れていたが、それもロシアの目を中華本土から逸らさせることになった。
 また、大人口国家の清朝を警戒しているのは他のヨーロッパ列強も同様であり、市場化したいと思いつつも程度問題の帝国主義的行動にしか出ていなかった。
 その清朝では、1908年に長年政治の実権を握っていた西太后が死去して幼い皇帝が新たに即位するも、大きな変化には至っていなかった。清朝内でも、西洋文物の導入(洋務運動)だけで事足りるという考え方が依然として強く、いまだ古い体制が続いていた。特に、日本戦争で他国に混ざって日本に「勝利」した事は、内政面では大きな成果だと考えられていた。清朝内では、日本にもう一度戦争を挑んで台湾を奪い返そうという動きすらあったほどだ。
 このためか、体制を打破して近代国家を作ろうという民衆運動はほとんど皆無で、僅かに海外留学した一部の革命家が存在したが、革命をもたらすほど国が決定的気に傾いていないので力を持つに至っていなかった。革命家などが日本を頼るという傾向も、日本の敗北以後は大きく減少していた。
 それ以外となると、本当に当時のヨーロッパ列強にとって取るに足らない力しかなかった。植民地化を逃れているのは中米、南米諸国ぐらいで、ヨーロッパの中小国は多くが大国の衛星国か隙間で生きているのであり、アジアの残りの清朝、日本、タイは次の獲物に過ぎなかった。
 しかし、続いて次の獲物と指定された日本は、19世紀に入ってすぐに政治の近代化を行い、それ以前に産業革命にもいち早く取りかかっただけに、最も強大な力を持ったブリテンやロシアにとっても難しい獲物だった。アフリカのサバンナで例えれば、手負いの大型草食獣といったところだろう。
 そしてこの時期の日本は、ユーラシアの橋頭堡を失ったことで陸軍の増強を取りあえず防衛軍として止め、海軍へ一気に予算を注ぎ込んでいた。しかも三国協商各国と対立が始まった頃から軍備の増強を行い日本戦争中も増強に余念がなかったため、1909年から1913年にかけて新鋭戦艦が相次いで多数就役すると、海軍力はブリテン、ドイツに次ぐ世界第三位に浮上していた。しかも造船業を一種の公共投資にしていたため、鉄鋼、機械、造船分野が大きく躍進しつつあった。
 こうした日本の動きを見た各国は、その後日本に対する一連の攻撃を「寝た子を起こした」と言うようになる。そして怒り狂うように軍備を拡張する日本に対して、ヨーロッパ各国は相応に警戒感を強めた。そして同時に、日本に対する次なる攻撃を、少しばかり遅らせる事になる。ブリテン、フランスも、日本をさらなる獲物と捉えるよりも、既に捉えた獲物の確保と保持または自国化に力を入れ、東洋での軍備も増強した。
 そして両者の対立にドイツが日本側に立って入り込みつつあり、東アジア・太平洋での対立も次なる争いのステージへと至りつつあった。
 だが、アジアが次の破断界を迎える前に、予想外にヨーロッパで大きな動きが起きてしまう。


フェイズ25「グレート・ウォー(1)」