■フェイズ25「グレート・ウォー(1)」

 西暦1914年6月28日「サライェヴォ事件」が起きて、ヨーロッパは未曾有の戦乱へと突入していく。
 戦争の発端となった事件はともかく、大戦争に発展する経緯は当時の軍事システムが大きな要因を占めていた。詳細はここでは割愛するが、それぞれ仮想敵の短期間での大量動員を恐れた列強各国は疑心暗鬼に陥り、それまで通りのバルカン半島での局地戦争だった筈の戦争は、事件から一ヶ月後急速に大規模戦争へと発展していった。
 無論、ここに至るまでに様々な積み重なりがあった。ブリテンがドイツとの建艦競争によってヨーロッパでの優位を失った事が、原因の一端だと言われる。オーストリアとバルカン半島地域の多民族性が原因なのも間違いない。他にも、数年前まで機能していた王室外交も機能せず、日本戦争のように単独の国を多数の国が攻めるという状態では無かった事、ブリテン、ドイツ、ロシア、フランスといった国々が直接対峙する形が短期間で形成された事などなど、色々な原因がある。
 異なるゲームプレイヤーである日本を叩いた事で世界分割が一定段階を過ぎ、帝国主義の膨張が限界に達した事も大きな要因だっただろう。ヨーロッパ諸国は、長年の目の上のたんこぶだった日本を十分に叩いた事で、心理的に油断していたと言えるかもしれない。
 しかし経緯はこの際どうでも良かった。

 ロシアが7月28日に国民の兵士への総動員を開始したという情報が流れると、それぞれの国も対応しなければならないという硬直した動員システムが一斉に動き始めた事が、これからの悲劇を大きくした。
 7月28日のオーストリアによるセルビアへの宣戦布告から僅か一週間で、ブリテン、ドイツ、フランス、ロシアが次々に全面的な戦争状態に突入していった。中でもドイツ軍の動きは早く、戦争が始まってから僅か一週間後の8月3日には、当時永世中立国だったベルギーに侵入した。これで当時永世中立国だったベルギーも、無理矢理戦争に巻き込まれる事になる。
 しかしこの時点では、戦争は長くても三ヶ月で終了するだろうと誰もが予測していた。このため戦争当事者以外の国々は、おのおのの陣営に一応のお伺いを立てるも中立を宣言する。
 こうした予測は、8月末にドイツに素早く侵攻したロシア軍が、各個撃破の包囲殲滅戦によって壊滅的打撃を受けても国家として大きな打撃を受けていないという事実によって、少しおかしいという雰囲気が出てきた。だが、本当におかしいことが分かったのは、ドイツ軍によるパリ進撃が失敗して以後の事だった。後世の評価では、ドイツ軍は戦前に本気でパリ進撃を考えていなかった事が分かったが、この当時は当時としてはあまりにも早いドイツ軍の進撃が、ドイツの一方的勝利を「予感」させていたのだ。
 だが、9月初旬にフランス、ブリテン軍の反撃によりドイツ軍の進撃が止まると、戦争は突然のように長期戦の様相を示すようになる。西部戦線ではそれぞれの陣営が、立ち止まったその場で激しい砲撃を防ぐための深い塹壕を掘り始め、そして長大な戦線で睨み合ったまま座り込んでしまう。
 そしてこの時点で、戦争が世界中に波及する。誰もが、短期間で戦争を終わらせる手段を失ったのだ。

 9月中頃から、同盟、連合双方がヨーロッパ以外の国々に参戦を求めたり、逆に中立を強く要求してくるようになった。対象となった国は、東アジアの日本と清朝、北アメリカの大和、アメリカ、南部だった。
 主に全ての国に中立を求めたのが、ブリテンだった。ブリテンは、日本人から酷く恨まれている事を十分に自覚していた。だからこそ、とにかく外交でばらまけるだけのアメを日本にばらまいて、何とか自分たちに敵対しないように説得しようとした。
 ブリテンの動きは早く、8月中頃には既に日本政府の代表と交渉を持っていた。ブリテンは、日本が中立を保てば戦後にオセアニアの権利と独立を返還すると言った。さらに自分たちの側で参戦すれば、北ボルネオ返還の用意もあるとも言った。また旧日本領のオセアニア各地に対しては、戦争に協力すれば報償として独立もしくは日本の勢力圏への復帰を認めると伝え、積極的に戦争協力させようとした。
 この好条件に、日本政府は一時ブリテンの要求を呑みそうになる。ブリテンの保護国化していた大洋州各国も揺れ動いた。
 しかしブリテンと同陣営のロシアは、日本に対しては局外中立のみを望むという以上の言葉を伝えなかった。日本から奪った領土の事には、いっさい触れていなかった。ロシア人は、新たに得た領土を返還するなど全く思考に無かった。
 このため日本が連合側で参戦する場合、全ての領土問題を合わせて考えない限り参戦はあり得ないと日本側は回答するに至る。ロシアの行動を理由に、ブリテンが言ったことを反故にする可能性も十分考えられたからだ。
 そしてロシア領となった北海州には多数の日本人が住んでいるのだから、日本側としては他に選択肢はなかった。それに加えて、ここ数十年のヨーロッパ諸国に対して悪感情しか持っていない日本人としては、ブリテンの言葉が最後の段階で信じられなかった。このためブリテンが改めて二国間交渉を求めたときも、条件を決める際に公の場での文書による条約調印を求めた。当然というべきか、ブリテンは即答を避け日本に対する行動を鈍らせた。

 一方ドイツは、日本にロシア、ブリテンを攻撃、最低でも牽制させるために、日本に好条件を並べて自分たちの側での参戦を積極的に促した。しかもドイツは、自分の懐が痛まないのを良いことに、だめで元々な好条件の羅列によって日本との交渉を行った。日本が求めた公文書にも書類にも、気軽にサインしていった。日本にとっても、ドイツがロシア、フランス、ブリテン相手に全面戦争しているのだから、例え「出世払い」のような言葉であってもドイツの言葉は信じやすかった。
 日本としては、ドイツがブリテン、ロシア、フランスとがっぷり四つに組んでいる間に、大和の手助けを受けて奪われた全てを奪い返そうという魂胆だった。
 そして当時の日本国内の世論は、反ブリテン、反ロシアが極めて強く、数ヶ月前にドイツに発注していた新鋭戦艦複数が到着したばかりだった事も重なって、親ドイツ世論が強まっていた。しかし日本政府は、先の戦争での大きすぎる失敗があるため煮え切らず、しばらくは戦争準備を進めつつも情勢を傍観する事になる。その間、ドイツもブリテンも日本に見せる「あめ」を増やしていった。
 結局日本の参戦を決めたのは、トルコと少し似ていた。
 10月中頃に、開戦前からドイツの有力な艦艇(装甲巡洋艦《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》)が日本の植民地に寄港していたのを、ブリテン側が退去させるように要求した事が発端だった。通常ならドイツ艦艇を退去させれば済む話しなのだが、折からの反ブリテン世論がドイツ艦艇の国外退去を日本政府に許さなかった。結局日本は、内政干渉を理由として自らの艦艇を派遣して、逆にブリテン艦艇を追い散らしてしまう。
 日本の参戦は10月16日で、ドイツ艦艇保護を連名で非難してきたブリテン、フランス、ロシアに対して宣戦布告した。

 これに対して日本の隣国の清朝は、各国からの様々な参戦もしくは局外中立の要請に対して、自分たちに関わりがない事として当初は取り合うことがなかった。実際は、ロシアと日本の戦いを見定めてからという向きが強く、清朝の軍自体は相応に戦争準備が進められる事になる。半世紀以上、列強から叩かれてばかりだった清朝としては、ようやく反撃の機会が訪れようとしていたと感じられたと言われている。

 一方北アメリカ情勢だが、こちらは少し複雑だった。
 大和、アメリカ、南部、どの国も同盟、連合各国との同盟、協商関係が無かったが、どの国もどこかの国と相応の関係を結び、加えて三国それぞれが敵対しあっていたからだ。
 だが、どの国も基本的に戦争の波及、特に北アメリカ大陸での全面戦争には反対していた。南部は心情的には連合側に立ちたかったが、戦争になったら他の2国対して単独での必負が確実だった。アメリカは、南部の統合を強く欲するも基本的に孤立しているため、連合、同盟どちらかの陣営での参戦が難しかった。しかもどちらかの陣営に立って参戦した途端、他の二国がもう一つの陣営として参戦してくる可能性を強く警戒していた。
 国力に勝る大和は、北アメリカ大陸での戦争で最終的に勝てることは分かっていても、それをしたくなかった。日本、ブリテン双方との貿易のどちらかが滞っても経済上での打撃となるからだし、北アメリカ東部の国々を戦争に勝って飲み込むことは物理的に可能でも、その後の内政に費やさねばならない手間を考えると絶対にしたくない事だった。
 しかし一つの変化が、三竦みを微妙なものとしていた。それは新鋭戦艦の保有量だ。
 南部は、1914年春にブリテンから13.5インチ砲を装備した強力な新鋭戦艦4隻を、相次いで受け渡されたばかりだった。しかしアメリカは、フランスに発注していた戦艦2隻が、戦争勃発のため完成直前にフランスに差し押さえられていた。フランスが対ドイツ戦で使うためだ。大和もドイツに発注していた戦艦の半数(2隻)が差し押さえられたが、こちらは自力でも多数建造しているためそれほど大きなダメージでもなかった。ただ大和の場合は、太平洋とメヒコ湾、さらには五大湖に水上戦力が分散されているため、他の二国に対して有利となるにはまだ数年が最低必要だった。だからこそ、自力建造出来るのにドイツに発注していたのだ。
 そして、大西洋での南部の海上優位という、過去今までにない状態で大戦を迎えてしまい、アメリカの焦りが非常に強まっていた。とはいえ南部は、ヨーロッパからの工業製品、武器が輸入できないという、経済と国家安全保障双方で大きな欠点をさらけ出していた。今までの常識ならあり得ない想定だが、南部にとっての大戦は全く想定外の事態だった。
 そしてアメリカ、南部双方が、自らの国家安全保障に重大な支障が発生したと考え、疑心暗鬼に陥っていた。
 そしてそこに、ドイツ大使館から各国に誘いがきた。
 ドイツの言葉は、極論すれば自分たちの陣営に立てば戦後いい目を見させてやる、という非常に無責任なものでしかなかった。しかしドイツが、それぞれの国に何と言ったかは全く分からないので、疑心暗鬼に拍車がかかる。
 そしてここで一番疑われたのが、大和だった。
 アメリカはフランスと、南部はブリテンと関係が深いが、大和はドイツとの関係が深まっていると見られていたからだ。しかも日本戦争以後は最も軍拡に傾いており、ブリテンとの関係も年々冷えつつあった。カナダも、大和を一番警戒していた。そしてそれぞれの国の間の国力差、大和:北:南=7:3.5:1という構図が、小さい側の防衛本能をいたく刺激してしまう。大きい側の大和も、国力に対して国土の広さが国防のネックになるため、単純な国力差で計れない脅威を二つの国に対して感じていた。特に大和が警戒していたのが、二つの国が反白人で連携して連合に荷担することだった。
 かくして北アメリカの3つの国が、示し合わせたかのように一斉に動員を始める。
 アメリカと南部の場合は総動員で、大和は準動員という違いはあった。だが膨大な軍隊が、北アメリカ大陸の丁の字型の国境に沿って並び始める。
 とはいえ、どの国も宣戦布告しなかったし、連合、同盟のどちらかに加わるという事もなかった。ドイツ、ブリテンの誘いに乗った国も無かった。自分たちの中での戦争に対する恐怖心はあったが、南部以外は連合、同盟どちらかに荷担しなければならない義理がなかったからだ。そしてある種奇妙なことに、三国は国交も断絶せずに貿易すら維持した。でないと、国内の鉄鉱石が既にほぼ枯渇していたアメリカは、極度の資源不足に陥って何も出来なくなってしまう。また南部は、ヨーロッパからの工業製品輸入が止まったため、その代替を北米の他の二国に頼らなければ国内経済が維持できなかった。
 そして大和は、出来る限り戦争をしたくないので、資源と工業製品を相手国に対する人質として北アメリカでの戦争を抑止しようとも考えていた。
 しかし北アメリカでの動きは、多くの影響を与えた。北アメリカの資源と資産、そして軍隊が自分たちの動員のために使われてしまったからだ。中立国なので貿易は維持されることになるが、それでも鉄鉱石、石油の大輸出国だった大和が輸出を停滞させたことは、特に大きな変化をもたらす。大和が全面戦争を始めた場合、最悪連合に荷担した場合を想定した日本は、急ぎ代わりとなる場所を得るための行動に出なければならない。
 また戦時国債市場では、少々の高利では買い手がなかなかつかない状態となり、ヨーロッパ各国を困らせた。
 だが北アメリカ各国の当面の動きは、困る程度で済んだとも言えるだろう。日本が同盟に荷担して、連合各国を攻撃し始めた事の方がよほど問題だった。

 連合にとって、日本がドイツの側に立って早期に参戦したことは、どちらかと言えば予想外だった。ロシアの強欲がもたらした愚かな結末と言えなくもないが、想定外の事態ばかりが起こる戦争にあっても、日本の同盟側ので参戦は連合側の主要三国全てにとって大きすぎる失点だった。
 当時日本本国の総人口は、約6500万人。これに植民地などの日本人、日系人約500万人が動員の基礎となる数字で、その気になれば総人口の一割に当たる700万人以上の兵士が調達できる。これはドイツを上回る数字だった。ヨーロッパに大軍を移動させることは難しいが、アジア、太平洋なら十分以上の脅威だった。
 そして海を越えるための海軍は、開戦時で《山城型》など弩級戦艦6隻、《香取型》弩級巡洋戦艦4隻、《出雲型》準弩級戦艦4隻、前弩級戦艦7隻、装甲巡洋艦11隻を有する、ブリテン、ドイツに次ぐ海軍大国に復活していた。各弩級艦は、ドイツから技術を導入した上で航海性能の向上などを図ったので非常に有力だった。しかも超弩級戦艦4隻が国内で艤装最終段階で、さらに4隻の巨大な超弩級戦艦が急ぎ建造中だった。依然として植民地も多いため、巡洋艦はドイツよりもずっと豊富に有していた。既存主力艦艇の多くも建造年次が新しかった。
 しかも日本戦争以後、陸軍は徹底して近代化と訓練の向上が行われ、海軍は日本戦争でブリテン、フランス連合艦隊を破った実績を持つ精兵として知られていた。装備の方も、ドイツからの技術導入で大きく向上していた。
 先の戦争で敗北した日本は、一種の「復讐者」となって極めて凶暴化していたと言えるだろう。

 そして参戦した日本は、半ば感情の赴くままに即座に行動を開始し、まずは東アジアの連合諸国の攻撃を開始する。ヨーロッパでの戦いが始まると自らの戦争準備も進めていたため、行動開始も素早かった。
 日本戦争後に回航されたロシア太平洋艦隊は、日本人が作った日本海岸の港町の浦塩で慌てるように艦隊保全に入ったが、日本海軍はまずはこれを海上から封鎖した。同様にブリテン領の香港の封鎖も行い、さらに別働隊を組織して9年前に奪われたフィリピン、北ボルネオの「奪回作戦」を開始する。当時の東アジアにおける日本海軍は、それだけの行動を可能とする相対的な戦力を有していた。
 東アジアの連合側は、ロシア以外まともな艦隊を置いていなかったため、小数のブリテン、フランス海軍部隊はシンガポールへ後退し、形だけの防衛体制を取りつつインド洋からの増援を待つことになる。このためドイツの旧式装甲艦が合流した日本を中心とする同盟艦隊は、日本兵を満載した上陸船団を伴って各地を一方的に攻撃し、侵攻各地の日本人、日系人の内応によって敵を混乱させ、1914年内にはフィリピン、北ボルネオの「奪回」に成功し、大きく政治宣伝される。
 また開戦と同時に、日本海軍は通商破壊のための装甲巡洋艦、仮想巡洋艦を各地に派遣して、連合の海上交通網を破壊した。日本による戦争初期の通商破壊戦の規模は、ドイツを遙かに上回っていた。東アジア・大東洋に君臨した海軍国の面目躍如たる姿と言えるだろう。

 対する連合側だが、日本の参戦に対して当面東アジアで打つ手がなかった。強大なドイツ軍のためヨーロッパで精一杯であり、日本軍をインド洋に入れないという暫定的な戦略以外は立てられなかった。これはロシア海軍(太平洋艦隊)が、簡単に艦隊保全に入ったことで助長される事になる。
 しかも、9年前に日本から多くの地域を奪い圧政を敷いた弊害が、旧日本領各地で発生していた。日本の宣戦布告と共に、旧日本領各地でほぼ一斉に全国規模のサボタージュやデモが発生した。事前に日本が武器などを現地勢力に渡していたため、事実上の内乱もしくは内戦状態に入った場所もあった。
 日本の通商破壊戦と合わせると、東アジアの連合側植民地は、戦争への動員がとても出来ない状況に追い込まれた。特にブリテンが期待した大濠州では、事実上の内乱発生によって親ブリテン政権が戦争開始と共に武力によって短期間のうちに倒壊に追いやられた。現地ブリテン人の多くは虐殺こそ免れるも、圧倒的大多数の日本人達によって臨時の収容施設や刑務所などに放り込まれ、秋には親日政権が成立していた。
 濠州、新海共にブリテン出身兵やインド兵が駐留いたが、ブリテン統治後から奥地でゲリラ化していた兵、ブリテン側に雇用されていた日本兵の反逆、日本人の行動に意気投合したインド兵の離反などにより、簡単に覆されてしまった。植民地統治に慣れたブリテンも、十年に満たない時間で近代化を済ませていた他民族の土地で統治体制を作り上げることはできなかった。
 大濠州各地の港にいたブリテン艦艇や船舶が、出来る限り邦人(ブリテン人)を収容してシンガポールに後退すると、すぐにも日本軍艦艇がやって来て民衆からの大歓迎を受けた。数の限られた現地ブリテン海軍は、日本海軍から逃げるより他無かった。
 濠州近在の新海諸島も似たようなもので、年始すぐに日本軍が有力な艦隊を派遣するまでに、親ブリテン政権もブリテン人も消えてなくなっていた。他の大洋州地域も、順次ユニオンジャックが引きずり降ろされて日の丸が翻った。
 手に入れた植民地が反逆して自分たちが何も出来ずに逃げ出すなど、ヨーロッパ世界としては驚天動地の事件とすら言えるだろう。日本と同盟を結んだドイツですら、何か大きな間違いをしたのではないかと考えた程だった。
 しかし、怒りに任せた日本人達の動きは、まだまだ始まったばかりだった。日本人の行動は、噴火を始めたばかりの活火山のようなものだった。

 明けて1915年1月になると、日本軍は完全な敵地となるインドシナ、マレー侵攻を計画する。冬の間満州では動きにくいため、まずは南方を片づけてしまおうという戦略だった。加えて3月にならなければ浦塩の流氷が解けないため、ロシア海軍が本当に動けない間隙を突く好機でもあった。
 そして貧弱な植民地警備軍しか駐留していないフランス領のインドシナは、軍団規模の日本軍が上陸すると呆気なく日本の占領下に置かれる。これに対してマレーは、半島先端部のシンガポールに連合側のかなりの艦隊が駐留しているため、海軍でシンガポールを封鎖、監視しつつの上陸作戦が行われる。とはいえこちらも、シンガポールやマラッカなどの拠点以外にまともなブリテン軍はいないし、陸軍も派兵された日本軍に対しては貧弱だった。このため二ヶ月でマレーも陥落し、残すは艦隊が籠もり要塞でもあるシンガポールだけとなる。

 ここでブリテンでは、ドイツ海軍との決戦より先にある程度日本の海軍力を叩くべきだという論が高まり、当初予定していたトルコ海峡部に対する野心的な攻撃より先に、日本海軍に対する積極的な攻撃を優先することを決める。
 連合側諸国は、ドイツ大海艦隊へ対処する部隊を除く殆どの艦艇を順次インド洋へと回航した。東洋艦隊(オリエント・フリート)と新たに名付けられた艦隊は、当時地中海などにいた二線級の前弩級戦艦、準弩級戦艦が多いが、数では十分に日本海軍を圧倒できる戦力だった。戦艦数にして14隻の大艦隊であり、しかも15インチ砲を搭載する最新鋭戦艦の《クイーン・エリザベス》が投入され、他にも弩級巡洋戦艦《インドミダブル》の二隻に装甲巡洋艦を加えた高速艦隊と、準弩級戦艦の《ロードネルソン》《ハイパニア》などが含まれるため、有力な海軍を有する日本海軍に十分対処できる筈だった。
 それに艦隊が派遣される春になれば、《ガングート級》弩級戦艦3隻を中心に、前弩級戦艦4隻、装甲巡洋艦3隻を有するロシア太平洋艦隊が活動できるため、日本海軍は戦力を二分しなければならず、十分な勝機があると考えられた。
 東南アジアへ派遣される地上部隊も、インド兵中心ながら8万が用意される予定で準備が進められた。しかもロシアが、ドイツの保護国となっていた朝鮮と日本領遼東半島に牽制攻撃を掛ける予定であり、戦力分散を余儀なくされる日本を十分叩けると考えられた。そして日本の本格的な戦時動員が完了する前に叩くことが重要と考えられたため、急ぎ作戦が準備された。

 これに対して日本側は、連合側の予測通り艦隊の二分を余儀なくされた。同盟国は、通商破壊戦を行う二隻の装甲巡洋艦以外はまったくアテに出来なかった。一方で地上戦力の方は、連合側の予測を大きく上回る速度で動員が行われ、急ぎ遼東半島、朝鮮に送り込まれた。そして北海州、満州各地での日本人住民のデモ、サボタージュ、テロ行為により、十分な兵力を用意できない現地ロシア陸軍は、事実上身動きできない状況に追い込まれていた。それどころか、鉄道線(シベリア鉄道など)の寸断でほとんど本国との連絡が絶たれた状態にまで追い込まれてしまう。
 浦塩のロシア海軍も、流氷が解けるが早いか一度牽制のために旗艦《ガングート》以下全力出撃を仕掛けるが、ここで大きな失敗を犯してしまう。目の前の日本艦隊が数も少なく旧式だったため、日本海軍主力の多くが東南アジアにいると判断して、予定したよりも突出したのだ。これを包囲していた日本艦隊は見逃さず、弩級戦艦《山城》《摂津》などがロシア艦隊と浦塩の間に割り込んでしまう。浦塩沖の日本艦隊は、ロシア艦隊を逃がさないために封鎖艦隊の主力を高速艦艇で固めていた。
 そして第一次世界大戦で初めての艦隊決戦に発展したが、冬ごもりを余儀なくされていたロシア海軍に対して、実戦経験を積んだ上で訓練に励んでいた日本側の方が練度で上回っていた。しかも日本側の方が、ロシア側の予想を大きく上回る戦力と投じていた。
 海戦の結果、ロシア太平洋艦隊は撃沈された大型艦こそ無かったものの、浦塩湾に逃げ帰るまでに多くの大型艦が多数を被弾して一時的に行動不能な打撃を受けてしまう。
 そして浦塩に逃げ込んだロシア艦隊の様子は、現地でロシア側が有していない飛行機によって日本人の目で確認され、修理すればまだ十分戦う力を残していることが分かった。
 一方のシンガポール方面では、日本側の封鎖艦隊が出撃してきたブリテン艦隊の運動に翻弄されているうちに、後方から迫った増援艦隊の接近を許し後退と敵の合流を許してしまう。日本海軍も優秀だったが、世界最強を自認するブリテン海軍の方がこの時は一枚上手だった。

 東アジアでの戦火は一気に燃えさかったが、西ヨーロッパでの戦争は本当の凄惨さを見せていない1915年4月の事だった。
 総力戦は、まだ始まってもいなかった。


フェイズ26「グレート・ウォー(2)」