■フェイズ26「グレート・ウォー(2)」

 ヨーロッパでの戦況が突然のように膠着状態に陥ると、ドイツはどの敵から相手にしていくかの選択肢を選ばなければならなかった。連合軍各国と違い、複数の主要戦線を抱えていたからだ。
 主敵である西部戦線のフランス、ブリテンか、それより与しやすい東部戦線のロシアか、オーストリアを助けるのか、それとも事実上既に裏切っているイタリアを叩くか。ヨーロッパ以外では、トルコまたは日本、特に日本の活躍にかかっているので、海外に小規模な戦力しか置いていないドイツとしては、ヨーロッパの問題に向き合う以外の現実的選択肢がなかった。
 幸いと言うべきか、日本はブリテン、ロシアに対する復讐心を激しく燃やしており、相対的に十分な戦力を有していたので、攻撃と領土奪回を順調に進めていた。このためロシアは1個軍を極東地域から動かせず、ブリテン、フランスは東アジアで軍や物資の動員ができないばかりが、こちらもブリテン軍を中心に兵力が拘束されていた。加えて、東アジアの海上交通も脅かしていた。特に旧式とはいえ大量の戦艦がアジア方面で身動き取がれなくなっている点は、ドイツにとって大きな得点だった。北海での挑戦がし易くなるからだ。
 そして同盟の盟主たるドイツの選択は、まずはロシアを中心に叩くことだった。ロシアの東部戦線は戦線が長く伸びているため塹壕戦ではなく運動戦であり、運動戦はドイツ陸軍の最も得意とするところだったからだ。また、シベリアからの日本軍の牽制が期待できるのも、ロシア叩きが選ばれた理由だった。二正面作戦は誰にとっても悪夢だが、その悪夢をロシア人にも味合わせるが目的の一つでもあった。

 一方、ドイツからも期待されていた日本の基本戦略は二つあった。一つが、春から秋までは、大陸でロシアを叩いて北海州、満州を奪回する事。もう一つが、シンガポールを島の裏側から攻め立てて籠もる艦隊をつつき出し、これを殲滅する事だった。
 二つの戦略が達成されれば、冬からはインドへの侵攻も可能となるし、濠州との連絡を完全なものとして戦力、資源の全てが活用出来るようになる。これは日本にとって大きな要素であり、連合にとっては可能な限り阻止したい状況だった。
 とはいえ連合軍は、ヨーロッパ正面以外での戦力が限られていた。動員戦力500万、フランス以上の工業力を持つ日本が、アジアの僻地から本気で殴りかかってきたので、対処のしようがないというのが実状だった。
 ロシアが領土にしたばかりの旧北海州では、現地日本人が中心となって日本の参戦直後から活発な反抗活動を展開。自らを「義勇日本軍」と称して、小数のロシア人を攻撃して「奪回」していった。
 厳冬期には一旦活動は静まったが、春になると再び動き出した。日本が沿岸各地に軍艦付きで船を派遣して部隊と物資を送り込むと、瞬く間にユーラシア北東部の地図が塗り変わっていった。
 ロシアが北東アジアの主戦線とした満州平原での戦いも、日本の参戦初期にロシア軍による遼東半島攻撃は、南山野戦要塞戦攻撃が失敗に終わると冬営に入り、その間日本軍は遼東半島とドイツ保護国の朝鮮に続々と軍隊と物資を送り込んでいった。この間朝鮮王国も、勝利の暁にはドイツから主権を回復させてもらうことを条件に、同盟として参加(保護国なので参戦ではない)させていた。
 そして3月になると、日本軍を中心にした日本、ドイツ(主力は朝鮮兵)による同盟軍は、一斉に満州各地に入り込む。しかしここで一つの事件が起きる。
 清朝が、日本、朝鮮に対して宣戦布告したのだ。
 理由としては外交よりも内政重視で、東洋世界での格下である日本、朝鮮が正式な清朝領である満州南部を侵したというのが理由だった。だが清朝にしてみれば、十分な戦争理由だった。英仏が大艦隊を東アジアに派遣し始めた事も、参戦の理由だった。
 だがこれで、東アジア世界の過半も大戦へと首を突っ込む事になる。
 傍観すると見ていた清朝の突然の参戦は日本にとっても誤算であり、当然ながら清朝軍に兵力を振り向けなければいけなかった。特に、清朝の北洋艦隊はかなりの戦力を持っているため、日本海軍はさらなる戦力分散を余儀なくされた。
 この時点で日本海軍は、ロシア、清朝、そしてシンガポールのブリテン、フランス連合艦隊を相手にしなければならなかった。幸い新鋭戦艦2隻の戦線投入が可能となっていたが、主力艦総数で言えば日本軍23隻に対して、連合側の合計数は27隻と劣勢に陥っていた。少し整理すると、以下のようになる。

日本:《山城型》など弩級戦艦6隻6隻、
   《出雲型》準弩級戦艦4隻、
   《香取型》弩級巡洋戦4隻、
   前弩級戦艦7隻、装甲巡洋艦11隻
    ※超弩級戦艦4隻が建造中でうち2隻が既に実戦配備
武仏:最新鋭超弩級戦艦《クイーン・エリザベス》
   弩級巡洋戦艦《インヴィンシブル》
   前弩級戦艦又は準弩級戦艦が合計12隻、装甲巡洋艦6隻
ロシア:弩級戦艦3隻、前弩級戦艦4隻、装甲巡洋艦3隻
清朝:前弩級戦艦6隻(※自国製はなく各国の雑多な輸入艦)
独 :装甲巡洋艦2隻
※日本、ブリテンの装甲巡洋艦の半数は各地に分散配置。

 広大な東アジアの海での双方戦力分散はお互い様であり、日本海軍はまずは弱敵から順番に殲滅することを企図する。当然清朝、ロシアの順番となるが、これには大陸への侵攻のため海上交通路を優先しなければならないという事情もあった。また日本陸軍は、既に大陸に展開していた2個軍のうち1個軍を割いて、清に対する短期決戦を目指して陸路北京を目指させた。
 一方のロシア、清朝の連合軍側だが、やはり日本の補給路遮断が一番の命題であり、自分たちの海上戦力が上回っている状況を利用して、一気に攻めかかることが企図される。
 そして1915年3月、何とか修理されたロシア艦隊が活動を再開すると、まずはまだ日本海軍が威海衛を封鎖しに来ていなかったため、清朝海軍の北洋艦隊(=主力艦隊)が、より安全な南部の港に後退するため黄海に出撃する。迂闊な行動だったが、日本側の飛行船を用いた航空偵察に怯えた結果でもあったと言われている。実際、飛行船は威海衛の「爆撃」すら実施している。

 清朝海軍の動きを察知した日本海軍は、日本本土の佐世保と朝鮮半島に待機していた連合艦隊第二艦隊が緊急出撃。日本艦隊の早急な出撃と進撃を捉えられなかった清朝海軍と日本海軍の間で、東シナ海で日清双方の海軍が衝突する。
 各種前弩級戦艦6隻を有する清朝海軍に対して、日本海軍の主力部隊は新鋭の超弩級戦艦2隻、巡洋戦艦4隻を有する日本海軍唯一の高速打撃艦隊だった。第二艦隊は、これまでブリテンを相手にするには力不足だと考えられていたが、新鋭戦艦の編入によって戦力が著しく増強しており、清朝の参戦がなければすぐにも東南アジアに派遣予定だった有力な艦隊だった。主力艦以外にも、それまでよりもずっと大型の航洋型駆逐艦や新思考の巡洋艦(※いわゆる防護巡洋艦以上の巡洋艦で後の軽巡洋艦の原型艦)も編入されており、時代を先取りする最新兵器で固めた新鋭艦隊となっていた。
 この日本艦隊の特徴は、とにかく艦隊速力と運動性が高いことだった。平均速力は30ノットに達しており、ブリテンの新鋭艦隊並に優秀だった。自助努力とドイツからの技術輸入で実現されたもので、最新鋭超弩級戦艦の《播磨》《備前》はドイツで建造中だった最新鋭艦と同じ45口径14インチ砲を連装の背負い式で4基8門装備したモダンなスタイルで、25ノットの速力発揮が可能だった。しかも各部装甲も十分な厚さを持っており、ブリテンの最新鋭超弩級戦艦《クイーン・エリザベス》にすら匹敵した。しかもドイツ海軍の艦艇と違って、日本側の注文でドイツ軍艦艇よりも航海性能、居住性が高く設定されたため、当時としてはかなりの巨艦だった(※ただしドイツは、日本への輸出艦で自分たちの戦艦に採用する技術の事実上の試験をしていた。)。
 そして目視での発見後も、誤認から相手を二線級の艦隊で戦力も劣ると誤った判断をしていた清朝海軍は(※第二艦隊と第三艦隊を取り違えていたと考えられている)、気が付いた時には同航戦を挑まれ、しかも退路を断たれた状態に追い込まれる。そこに次元の違う砲撃が秩序だって殺到したため、清朝艦隊は逃げる間もなく呆気ないほど簡単に撃破された。
 なお日本艦隊の砲撃は、各艦がドイツの最新鋭の測距システムを搭載していたこともあって、進路を変更していても遠距離からの砲撃戦が可能だった。この砲撃システムは、当時ドイツ海軍とドイツの新鋭艦を輸入した国しか搭載されていなかった。対する清朝艦隊は、水兵の訓練も十分にされていない上に、やったこともない遠距離射撃(1万メートル以上)で命中弾を出すことは不可能だった。それ以前の問題として、主砲仰角の関係から日本の最新鋭戦艦のような遠距離射撃そのものが不可能だった。
 清朝艦隊の6隻出撃した前弩級戦艦のうち2隻は、遠距離から飛来した想定外の高角度で落ちた大口径砲弾に防御の手薄な甲板を射抜かれて相次いで爆沈。命中弾の被害が明らかになると清朝艦隊は慌てて撤退を開始したが、他にも撤退中に集中射撃を浴びた2隻が沈んだ。何とか生き残って逃げのびた2隻も、沈んだ艦同様にめった打ちにあって大破していた。旧式艦が殆どの巡洋艦は何も出来ないまま、そして何もしないまま撃破されて撤退した。清朝艦隊の水雷戦隊の多くは、まともに戦闘加入すらせずに撤退した。
 当時の戦艦の世代交代の早さを伝える、一方的な戦闘だった。
 そして清朝の有する軍港には、大破した大型艦艇を短期間で修理する能力がなかった。破壊された主砲なども、砲身や装甲の予備がなかった。修理能力がないのは、清朝という国家が主にヨーロッパの先端技術を上辺だけ真似たに過ぎなかった弊害の現れだった。清朝は、近代というものを全く理解していなかったのだ。

 一戦で海軍主力が何もしないまま壊滅したことに清朝は色を失い、しかも地上戦でも圧倒的弾幕を張りつつ迫る日本軍に次々と撃破され、「数十万の屍をさらす」と記録される様な敗北を喫した。機関銃と重砲の弾幕の前に、清朝の兵士達は算を乱して逃げ出していた。
 しかも海戦で勝利した日本軍は、ほとんどまともな抵抗を受けることもなく威海衛、天津を次々と攻略し、万里の長城を越えてきた地上軍と併せて二方向から首都北京を指呼におさめる。この間、開戦から僅か二ヶ月の出来事だった。
 そしてここで日本軍は一旦停止し、清朝に対して降伏と停戦を勧告する。しかし、まだ10才ほどの皇帝溥儀を担ぎ出した清朝政府は、北京を棄てて奥地の西安にまで逃亡してしまう。このため日本軍も進まざるを得ず、ほぼ無血で北京を占領下においた。
 その後北京に残っていた官僚、宦官を政府と認めて停戦交渉を行い、首都の治安維持能力を無くした清朝にかわり、日本がしばらく北京一帯も占領下に置くことになった。日本軍としては、余計な事の為に貴重な戦力を割かれた形だ。それを意図していたのなら、清朝は連合軍として自らに出来る限りの役割を果たしたことになるだろう。だが連続する大敗で混乱する清朝に深謀な動きなどなく、事態が見えてくるとすぐにも日本にすり寄った。
 1915年6月に清朝は正式に日本に対して降伏し、連合からの初めて降伏国が出た事は各国に少なからない衝撃を与えた。
 なお、北京で行われた日清間の講和会議では、日本は、万里の長城以北の利権を数多く獲得し、旧来持っていた権益の復帰が約束された。他にも海南島が割譲され、日本は以後の作戦での南方攻略の拠点の一つとした。ただし日本は、万里の長城を越えないことを約束し、また清朝に対する軍事的支援と技術援助を行う条約も交わした。清朝としては、ロシアや他の連合各国が頼りにならない以上、限られた選択肢の中での行動だった。
 しかしその後の中華地域は、同じアジア国家の日本に清朝が大敗を喫したため、以後深刻な混乱期に突入していくことになる。

 他方面では、日本軍が北京を落とす頃、ヨーロッパ、北アメリカ大陸情勢が逼迫していた。
 ヨーロッパでは1915年5月23日、イタリアがオーストリアに対してのみ宣戦布告し、連合側に加わった。イタリアの意図は、「未回収のイタリア」と言われるオーストリア領を得ることにあった。三国同盟に加わっていたのも、もともとは戦争以外の手段で領土を回復するのが目的だった。だが大戦勃発で情勢が変わったため、本来の陣営に加わったと言えるだろう。
 一方北アメリカ大陸では、1915年5月7日のブリテンの客船ルシタニア号がドイツ潜水艦により撃沈される事件が混乱の元凶となった。この船に124名の南部(アメリカ連合国)人が乗っていたのが原因だった。
 そして折からのドイツによる通商破壊戦と、戦争による物資(工業製品)の滞りに苛立ちを募らせていた南部国民は、ドイツへの復讐とブリテンへの助成を叫んだ。この声を南部政府も無視できず、まずは北アメリカ大陸の他の国と国際会議を持つ事とした。そして大和、アメリカも南部の声にノリ、北米会談が実施される。
 この会議で、三国の相互不可侵条約が交わされ、北アメリカ大陸を戦場としない公約と宣言が採択され、その上で南部はドイツに対する宣戦布告に踏み切る事を他の二国の了承を得た上で決定する。
 この時南部政府は、状況としては自治領カナダと同じだと説明し、そして他の二国は承認した上で不戦をも約束した。他にも、不測の事態に備えて色々と決めごとを取り交わした。たが、それでも他の二国はさらなる警戒感を高めざるを得なかった。特にアメリカ(アメリカ合衆国)は、既にカナダが全面的に欧州への兵力、物資を送り込むため総力戦状態に移行している事に神経を尖らせており、国境線の長い南北双方の動きは、国家安全保障上の重大事だった。
 そして国民の声を受けたアメリカ政府は、参戦もしていないのにさらなる軍備の増強と、準動員の命令を出さざるを得なかった。これまでも軍は動員されていたが、それは「平時」における戦時動員でしかなく、国民多数を兵士とする本格的な動員の意味は大きかった。
 このため、出来れば何もしたくなかった大和も、兵力のさらなる増強を実施せざるを得なくなる。
 だが、大和の場合は、他の二国よりも状況が複雑だった。
 大和は太平洋側に首都があり、メヒコ湾、五大湖、ハドソン湾を通じて大西洋にもつながっていた。また主な貿易相手は、連合側のブリテンと同盟側の日本だった。戦前にはドイツとの関係も深まりつつあった。そして大和は、日本人中心ながらも様々な人種が住む多民族国家、つまり非白人国家だった。
 本来、国家安全保障上で関係を重視すべきブリテンとの関係は、20世紀に入ると急速に悪化していた。同じ有色人種同士、さらには同じ日本人同士連帯すべきだという国内の論調に煽られ、日本戦争後には日本との連携強化と軍備増強にも走っていた。大戦勃発後も、同盟国の戦争国債を買う動きの方が圧倒的に多かった。ヨーロッパで八方ふさがりへと追い込まれつつあったドイツとの関係強化も行った。
 このため連合側は、大和を親同盟国と見て警戒感を増大させていた。しかしブリテンとしては、大和が同盟側で参戦されたら対処のしようのないので、交渉によって局外中立を維持するように交渉を続けていた。何しろ大和共和国は、万が一総動員をかけた場合、最大1000万を越える巨大すぎる軍隊が出現する国家なのだ。北アメリカ大陸を制覇し、大西洋を押し渡ることすら可能な国力と生産力を有していた。
 このため大和は自分たちも抑えるので、南部に対してミシシッピ方面には兵力を極力置かないように強く要請していた。南部もその事は熟知していた。またアメリカに対しても宥和政策が実施され、北アメリカ大陸の中立化をひたすら目指した。
 しかし大和国民の多くは日系だった。ドイツ系も白人では最も多いほどだった。ブリテンを嫌うアイリッシュ系もかなりの数が住んでいた。大和での主要民族である日系人達は、かつての故国日本の活躍に喝采を送り、大資本家から貧しい個人に至るまで、日本の戦時国債を競って購入した。日本に義勇兵として志願する者も少なくなかった。
 また日本が各地で華々しい活躍をし、太平洋からブリテン、ロシアを駆逐しつつあるという「吉報」は、大和国内の日系を中心に「汽車に乗り遅れるな」という論調を日増しに高まらせつつあった。
 だが大和共和国政府自身は、中立こそが一番の利益、国益であることを他国よりも深く熟知していた。このため改めて局外中立宣言が出され、全ての国と貿易を継続する代わりに、正価での現物貿易以外は対応しないことも合わせて宣言された。
 そして大和の世界に対する中立宣言は、北米の全ての国にとって有益だった。
 最悪の場合は白人国家連合対大和という図式で、連合、同盟に分かれた参戦を予測していた人々も多かったからだ。このためアメリカなどは、南部、ブリテンが戦争で疲弊するのを非常に好ましいと考えていた。
 そしてこの戦争でアメリカは、フランスばかりでなくブリテンを始め連合各国の国債を買い物資を輸出することで、関係改善に大きく舵を取るようになる。

 参戦国が増えた連合側だが、戦況が有利になったとはいえなかった。
 イタリアは基本的に「未回収のイタリア」にしか興味がなかったし、南部連合がヨーロッパに送り込める兵力は、北アメリカ大陸の情勢から実際の国力の半分程度が限界だったし、派兵の為の動員はこれからだった。兵器の生産力も低かった。それどころか、ヨーロッパに派兵するかも怪しまれた。「東洋の眠れる獅子」と言われた清朝などは、参戦した途端に文字通り怒れる日本に一方的に叩きつぶされていた。
 一方同盟側は、東西からロシアを叩いていた。
 結果論としての連携だが、ドイツはまずロシア野戦軍を叩いた後に西部戦線に兵力を傾けようと考えており、日本は浦塩などロシア人の太平洋の港湾を虱潰しに奪回(占領)し、敵海上戦力の殲滅を図ろうという意図があった。
 そして運動戦が続く4月〜9月の東部戦線では、毎月25万人のロシア軍が主にドイツ軍によって「順調に」撃破されていった。一流の陸軍国同士の戦いにこれほどの差が出たのは、兵力の運用面でロシア軍がドイツ軍に対して非常に遅れていたからだ。特に酷かったのは、ロシアが誇ると言われていた砲兵だった。当時ロシア以外のヨーロッパ列強は砲兵を、遮蔽物に隠してカムフラージュすらするようになっていたが、ロシアの砲兵は直接照準のままで露出した陣地で砲撃することが殆どだった。このためドイツ軍は、自ら損害を出さないままで一方的に撃破できた。またロシアの歩兵は、訓練の問題などから銃弾を無駄にばらまくだけで効果的な戦闘が出来なかった。この点ではオーストリア軍も似たり寄ったりだったが、相手が先進的なドイツ軍ではこの頃のロシア軍では太刀打ち出来なくなっていた。
 北東アジアでは、満州平原で都合ロシア軍の三倍以上の兵力を用意した日本軍が多方面での運動戦を仕掛け、兵力に劣る現地ロシア軍は後退戦術を取った。ロシア軍としては軍港都市の浦塩が孤立するが、極東の全軍が包囲殲滅されたら元も子もないし、後退戦術はロシア軍の伝統だった。
 そして戦力の限られる現地ロシア軍は、満州北部の大興安嶺山脈に防衛線を敷き、浦塩は野戦要塞で凌ぐという戦略を選んだ。後退戦術を取っているのは、それらの地域での防戦準備が出来るまでの時間稼ぎのためでもあった。ヨーロッパ戦線の状況次第では、極東に増援の兵力を回せるかもしれないという期待があったからだ。
 しかし日本軍も甘くはなかった。そして非常に積極的だった。いち早くアムール川河口部、北蝦夷島対岸の沿海州(外満州)に部隊を上陸させて急ぎ南下、太平洋方面に逃れたロシア軍が、浦塩に籠もる前に遮断してしまった。またアムール川に河川舟艇部隊を投入し、他の地域に投入された騎兵部隊と連携した電撃的な進撃を実施して、貧弱な装備と兵力、そして補給体制しかない現地ロシア軍を苦もなく撃破していった。日本人達にとっては勝手知ったる場所でもあるので、相手の裏をかいての行動も多かった。また現地に住む日系ゲリラや日系の協力者の助けも多く、逆にロシア兵は前と後ろから翻弄された。
 大興安嶺山脈方面でも、日本陸軍の擁する兵力全てを投じるような大量の騎兵部隊を用意して迂回進撃を行い、優良な部隊をヨーロッパ方面に取られた現地ロシア軍に痛撃を与えた。
 結局、ロシア軍は大興安嶺山脈で日本軍を押しとどめることができず、10月には北満州の要衝ハイラルも陥落。旧国境のアルグン川にまで後退した。日本軍の方も、鉄道の復旧と補給線の構築のため逃げるロシア軍を追いきれず、そこで北海州の厳しい冬を迎える。

 一方浦塩だが、10月までにロシア軍約8万人が日本軍の包囲下になって孤立し、洋上もロシア太平洋艦隊より五割り増しの戦力を有する日本海軍・日本海艦隊によって封鎖されていた。浦塩のロシア軍にとって友軍は1000キロ以上彼方で、完全な包囲下だった。しかし日本側も艦艇の消耗を嫌ったため、封鎖は駆逐艦や巡洋艦が中心で主力部隊は朝鮮半島の泊地や、舞鶴、佐世保などに待機してロシア艦隊出撃の兆候が現れたら邀撃する手はずになっていた。
 そして陸側に攻城砲を大量に持ち込んだ日本軍は、冬までに浦塩を奪回するべく10月中頃から、自らの犠牲を省みない大規模な浦塩攻略作戦を開始。補給のないロシア軍に猛烈な消耗戦を仕掛けて一気に押し、約一月後には長距離重砲が港内に落ちるようになる。これにたまりかねたロシア太平洋艦隊も、日本の包囲艦隊に有力な部隊がいない事を確認していた事もあって決死の出撃を決意。日本海軍の封鎖線を破り、シンガポールまでの逃亡を企図する。
 進路は対馬海峡か津軽海峡の選択肢があったが、逃亡先の遠さから少しでも短距離になる対馬海峡しか選択肢がなかった。
 しかしこの逃避行は、成功の確率が極めて少ない事をロシア海軍も熟知していた。当面の包囲を抜けても、対馬で確実に日本海軍が待ち受けていると予測していたからだ。そして日本海軍も抜かりは無かった。浦塩を出た時点で無数の水雷艇や駆逐艦が付きまとい、湾口では潜水艦が監視していた。さらに空からは、多数の飛行機と飛行船が監視の目を光らせていた。潜水艦による雷撃も実施された。
 ロシア太平洋艦隊の出撃は、即座に日本海軍の知るところとなり、これを受けて日本本土近辺にいた全ての日本軍艦艇が抜錨。進路を対馬海峡へと向けた。
 双方の戦力は、ロシア太平洋艦隊が開戦直前に太平洋に回航されたロシア最新鋭の《ガングート級》弩級戦艦3隻を中心に、前弩級戦艦4隻、装甲巡洋艦3隻なのに対して、日本近海の日本海軍は連合艦隊の第二、第三艦隊を主軸に《播磨型》超弩級戦艦2隻、《香取型》弩級巡洋戦艦4隻を中心に、準弩級戦艦2隻、前弩級戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻を主力としていた。戦力的には、日本海軍の方が倍以上有していた。その上日本海軍には、多数の巡洋艦、駆逐艦、水雷艇があった。対馬海峡には、複数の潜水艦すら潜伏待機していた。
 そして11月13日に行われた「対馬海戦」(または「日本海海戦」)では、第二艦隊の誇る機動性と最新鋭戦艦の火力(※命中率)がこの戦場でも発揮される事となった。また日本近海のため、砲撃戦が始まるまでに小型の水雷艇、旧式駆逐艦が戦場に大量投入され、日本側が多重飽和攻撃を仕掛けることができた。
 結局ロシア太平洋艦隊は、高速で迫る犠牲を省みない大量の艦艇(駆逐艦、水雷艇)の飽和攻撃に翻弄され、半数以上が洋上で撃破もしくは降伏、拿捕された。
 そして大損害を受けた残存艦艇は、陸からの包囲の続く浦塩に引き返した。多少砲塔配置が悪いながらも12インチ砲12門を装備した最新鋭の《ガングート級》弩級戦艦も、慣れない戦いに翻弄されて殆ど何も出来なかった。
 この時の海戦は、双方が主軸となると考えていた砲撃戦よりも、従来は補助的と考えられていた小型艦の雷撃戦が主体となった戦いだった。

 これで北東アジア地域での戦闘にはほぼケリが付き、艦隊の修理と整備が終わる1616年始めには、日本海軍の全てがシンガポールを目指す体制が出来ることになる。
 ヨーロッパでも、ドイツ軍がロシア野戦軍を撃破したと考え、いよいよ西部戦線で本格的な総力戦を仕掛けようとしていた。
 本当の総力戦が、いよいよ始まろうとしていた。


フェイズ27「グレート・ウォー(3)」