■フェイズ26「グレート・ウォー(2)」

 1914年秋、戦争は「グレート・ウォー」から「ワールド・ウォー」へと拡大した。とはいえ基本的な名称は「グレート・ウォー」のままであり、一部で「ワールド・ウォー」と言われただけだった。また二つを足して、「グレート・ワールド・ウォー」と呼ぶこともある。環太平洋圏内で使われる日本語の場合は、「世界大戦」とまさに最後の言葉の翻訳系が基本的に使われた。
 1914年11月の段階での参戦国は、連合軍側がブリテン、フランス、ロシア、ベルギー、ルクセンブルグ、セルビア、モンテネグロ、そして北米大陸の大和になる。同盟軍側はドイツ、オーストリア、トルコ、アメリカ、日本、清朝だ。この時点では、後に参戦するイタリア、南部連合、ギリシャ、ポルトガル、ルーマニア、ブルガリアはまだ中立だった。
 なお、列強各国の保護国は基本的に外交権がないため、参戦国には含んでいない。植民地等を含めてしまうと、中南米、南米以外、世界のほぼ全てが戦争に何らかの形で関わることになる。
 半ば冗談、半ば本気で「参戦国が多すぎて戦争国債を買ってくれる国がない」と言われたほどだった。
 そしてこの現状は、後から参戦した一部の国を除いて、殆どの場合が予想外、想定外の状態だった。多くの国は、旧来のヨーロッパ型の二国間戦争は想定していたが、国家の総力を挙げた戦争、しかも多国間の戦争はほとんど真剣に考えた事が無かった。それ以前の問題として、本格的な総動員を行った国は今までに存在しなかった。だからこそ起きた混乱だったかもしれないが、既に投じた戦費や関わっている国の多さから、誰もが戦争を放り出すわけにはいかなかった。負けを認めた国は、国家が何度も破産する借金を背負わされることになるからだ。
 そうした状態は、賭け金のチップだけが上積みされていく賭博のようでもあった。しかもこの賭け事は、例え一方的に勝利したとしても、富と栄光が待っていそうにない、という事だった。

 ドイツ軍が投機的な初期の攻勢に失敗して以後、次に積極的に動いたのは日本人達だった。
 動いたのは、アメリカ合衆国と日本帝国。周辺部での自らの不利を覆すべく、それぞれの国が相手の準備が整う前に動き始めた結果だった。アメリカは、暖めていた「極秘の作戦」を実行に移し、日本は半ば積もり積もった怒りの感情のまま、周辺部の敵対勢力に殴りかかり始めた。
 日本から見ていこう。

 日本本国の周りには敵が多かった。とはいえ、本国と鉄道でつながったロシアですら、辺境部でしかなかった。フランスやブリテンが東南アジアに持つのも、本国から遠く離れた辺境の植民地に過ぎなかった。そうした中で、連合軍の最大勢力はロシア極東軍だった。
 開戦までのロシアは、日本戦争後に本国から続々と艦艇を送り込み、ロシア太平洋艦隊を編成していた。また鉄路で陸軍も送り込み、おおよそ1個軍が各地に駐留していた。戦争が始まっても、ヨーロッパ方面が大変な状態のため増援はほとんど送り込まれなかったが、ロシアとしてはこれで必要十分と考えていた。
 かつて日本人が作った港町の浦塩はロシア艦隊のまたとない拠点となり、ロシア太平洋艦隊は慌てるように艦隊保全に入ったが、日本海軍はまずはこれを海上から封鎖した。同様にブリテン領の香港の封鎖も行い、さらに別働隊を組織して9年前に奪われたフィリピン、北ボルネオの「奪回作戦」を開始する。
 日本軍が積極的なのは、日本軍の戦力が大きいからではなく、東アジアに存在する連合軍の戦力が少なすぎたからだった。しかも連合軍が清朝まで相手にしなければならないとなれば、日本軍は相手が少ないうちに積極的に動くだけの理由もあった。
 東アジアの連合側は、ロシア以外まともな艦隊を置いていなかったため、ブリテン、フランスの海軍部隊はシンガポールへ後退し、インド洋方面からの増援を待つことになる。また連合軍各国は、連合軍に参加したばかりの大和に対して、日本に対する「一定の役割」を求めていた。しかし大和から日本までは距離があるし、大和が本格的に動き出すのはまだ先の事だった。
 このためドイツの旧式装甲艦が合流した日本を中心とする同盟艦隊は、日本兵を満載した上陸船団を伴って各地を一方的に攻撃し、侵攻各地の日本人、日系人の内応によって敵を混乱させ、1914年内にはフィリピン、北ボルネオの「奪回」に成功し、大きく政治宣伝される。
 また開戦と同時に、日本海軍は通商破壊のための装甲巡洋艦、仮想巡洋艦を各地に派遣して、連合の海上交通網を破壊した。日本による戦争初期の通商破壊戦の規模は、ドイツを遙かに上回っていた。10年ほど前まで東アジア・太平洋に君臨した海軍国の面目躍如たる姿と言えるだろう。
 一方陸地では、ロシアから父祖の地を奪い返すべく、清朝軍が満州へと軍を進めつつあった。しかし東アジアの同盟軍は、ここで躓いてしまう。
 清朝軍は、それなりの近代的装備を持っているだけで、近代的な軍隊ではなかったのがそもそもの原因だった。戦力が希薄な地域なので、騎兵はそれなりの戦力になったため平原での進撃は比較的うまくいった。だが、ロシア軍が各地で拠点化している鉄道沿線まで進軍すると、突然のように前進が止まってしまった。
 日本側が清朝に援軍を出すと言っても面子を重視してまるで聞かず、闇雲に攻めて損害を上積みさせるだけに終わった。このため清朝軍は、浦塩どころか満州平原の主要鉄道より東と北に進むことが出来ないまま、無為に日々が過ぎることになる。そして浦塩を封鎖している日本艦隊の主力も動くに動けず、こちらも焦りを強めるだけの毎日を過ごすことになる。
 そうしたまま1914年の冬を迎え、浦塩に流氷が来る季節を迎えてしまう。とはいえ、流氷のお陰で春までロシア艦隊は動くことができないので、この点は日本軍にとって少し安心できる要素となった。
 しかし、ここで無為の日々を過ごした事が、後々まで日本を苦しめることになる。

 対する連合側だが、日本、清朝の参戦に対して当面東アジアでは打つ手が限られていた。当面はヨーロッパで精一杯であり、日本軍をインド洋に入れないという暫定的な戦略以外立てられなかった。これは、簡単にロシア海軍が艦隊保全に入ったことで助長される事になる。だが、清朝軍が予想以上に不甲斐ないという事が判明したため、少なくともロシアは自らの極東での持久にかなりの自信を持つようになっていた。
 とはいえ、東アジア、大洋州各地には、不安の種が広がっていた。言うまでもないが、主にブリテンとロシアが、9年前の日本戦争で日本から多くの地域を奪ったからだ。しかも急速な植民地化政策のため圧政を敷く事が多かったため、グレート・ウォーが始まるまでに、各地では日本人、日系人を中心とする有色人種の反抗的姿勢が強まっていた。
 白人達としては今まで通りの事を行ったに過ぎなかったのだが、日本人達は今まで支配者として過ごしていた点が大きく違っていた。しかも日本人達は、庶民にいたるまで基礎教育が施されるという、白人社会すら越える状況があった。
 このため単純な植民地政策が通じず、また日本人が有色人種、異教徒という二つの要素を持つため、白人側の態度も自然と厳しくなっていた。この傾向は日本本土に近づくほど強く、だからこそフィリピン、北ボルネオは日本軍の侵攻と共に呆気なく解放されたとも言えた。
 しかし白人側、特にブリテンも、未曾有の戦争に対して手をこまねいたわけではなかった。

 ブリテンは、戦争が本格化するとすぐにも、自らの構成国、保護国、植民地に対して積極的に戦争協力を行わせようとした。戦争協力に対して、カナダなどの白人自治領に対しては完全な独立を約束し、インドでも自治拡大を約束した。そして大洋州、特にオーストラリア(大濠州)とニュージーランド(新海)に対しては、現状の保護国状態から完全独立を約束した。当然ながら総督府も軍も完全撤退し、言語、通貨、単位系などを独立国家として国民の望む形にしてもよいとすら約束した。これは日本に復帰するよりも、現地の人々にとっては魅力のある提案だった。
 1914年当時、オーストラリア(大濠州)保護国の人口は、1905年以後日本などからの移民が大きく停滞したにも関わらず、約2000万人あった。同じくニュージーランド(新海)保護国は、約450万人住んでいた。ほとんどが日本人とその子孫で、ブリテンが来るまでは殆ど日本の地方の一つのような場所だった。しかし1910年の保護国への転落後、少なくとも中央行政は全てブリテン型に切り替えられた。軍隊もインド兵を中心にしたブリテン軍となり、反抗的な日本人との出口のないゲリラ戦をする毎日となった。
 そうした悪夢のような状態を、ブリテンの側から全て放り投げると言ってきたのだ。
 しかしブリテンにとって、大洋州全てを全面的に戦争強力させることは、戦後全てを放り投げるだけの価値があると判断されていた。
 日本戦争当時の濠州(オーストラリア)、新海(ニュージーランド)の一人当たり所得は、開拓地域だけに列強水準ほどではなかったが、東ヨーロッパ地域より高い数字を示していた。日本の各地それぞれに多くの文物を作り上げる方針のもと、農業や鉱業以外の産業も広く発展していた。鉄と石炭が豊富な濠州では、本格的な大規模製鉄所すら建設されていたほどだ。グレート・ウォー開戦頃の粗鋼生産量自体は、欧州最弱の列強イタリアを大きく越える200万トン以上あった。この数字は、オーストリアに匹敵するほどだ。
 鉄道の総延長も、大陸丸々一つを抱える濠州は、イタリアを越えるほど敷設されていた。良質の石炭や鉄鉱石は、その気になれば当時としては無尽蔵な量が採掘可能だった。
 そして二つの地域を合わせた人口は、ブリテン本国の半分にも匹敵する。ブリテンが、是が非にでも積極的な戦争協力させようとしたのも当然だった。
 ブリテンは、両国の戦争協力に際して、全面的な武器の供与、現地での補給の請負まで約束した。また開戦時の時点では、万が一旧宗主国や同族国家が同盟に与した場合でも、大洋州の兵士はそれらの国々と交戦させない事も約束した。
 戦後全てを手放すブリテンだが、9年前の戦争で法外な要求で得た場所だけに、手放す際の惜しみも少ないが故であるし、教育が施された異民族支配に短期間で嫌気が差した証だとも言えるだろう。

 かくして何度かの交渉後、1941年9月末にオーストラリア保護国、ニュージーランド保護国双方の国内議会は、条件付きでブリテンの戦争に全面協力する事を決議する。
 その後10月16日に日本が同盟側に参加すると大きな動揺が走ったが、ブリテン側が日本軍が大洋州に攻め込まない限り同族同士は戦わせないと再度公開文書で約束したこと、同じ日系国家の大和が連合側の態度を両地域に伝えていた事もあり、大洋州が反ブリテンとなる事もなかった。
 それでも一部の過激派、不満分子は日本「本国」との連携を唱え、ブリテン及び各民族自治政府に対する抵抗運動を実施した。しかし規模は限られ、年々縮小していくことになる。
 そして1916年には、両地域も総動員態勢が実施され、最終的に約250万人もの兵士が、中東や地中海を中心に海外に派兵されることになる。しかもオーストラリア(濠州)は、戦争末期には自らの意志で東南アジアの日本領を攻撃している。別に大和ほど日本本国に対して敵意や悪意があったわけではないが、全面戦争という特殊な状態が大洋州に冷徹な行動を行わせることになったのだ。

 明けて1915年1月になると、東アジアの戦場が再び動き始める。
 日本軍が、ロシア海軍が冬の流氷で浦塩から出られない状況を利用し、近隣の連合軍植民地である日本軍はインドシナ、マレー侵攻を画策したのだ。
 本来なら、満州や沿海州に単独でも軍を進めるべきだったが、冬の満州や北海州各地で陸軍を活発に活動させることは極めて困難だし、同盟国の清朝も満州に日本軍が来ることを拒んでいたため、別の方面で動けるだけ動いておこうという戦略だった。期間は、浦塩の流氷が解ける3月までと比較的短いが、ロシア海軍が本当に動けない間隙を突く好機を利用したのだ。
 そして貧弱な植民地警備軍しか駐留していないフランス領インドシナは、軍団規模の日本軍が上陸すると呆気なく日本の占領下に置かれる。これに対してマレーは、半島先端部のシンガポールに連合側のかなりの艦隊が駐留しているため、海軍でシンガポールを封鎖、監視しつつの上陸作戦を行おうとした。だが、日本海軍がマレー近海で本格的活動を始めようとすると、ブリテン海軍が頻繁に出没するようになった。
 この前後ブリテンでは、ドイツとの決戦より先にアジアで有力な海軍を有する日本を叩くべきだという論が高まり、当初予定していたトルコ海峡部の攻撃より先に、日本に対する攻撃を優先することを決めていたのだ。
 連合側諸国は、ドイツ大海艦隊へ対処する部隊を除く殆どの艦艇をインド洋へと回航した。東洋艦隊と新たに名付けられた艦隊は、前弩級戦艦、準弩級戦艦が多いが、数では十分に日本海軍を圧倒できる戦力だった。戦艦数にして14隻の大艦隊であり、しかも最新鋭戦艦の「クイーン・エリザベス」が投入され、かなりの規模の海軍を有する日本海軍に十分対処できる筈だった。
 それに艦隊が派遣される春になれば、弩級戦艦3隻、前弩級戦艦4隻、装甲巡洋艦3隻を有するロシア太平洋艦隊が活動できるため、日本海軍は十分とはいえない戦力を二分しなければならず、十分な勝機があると考えられた。
 東南アジアへ派遣される地上部隊も、インド兵中心ながら8万が用意される予定で準備が進められた。強力な日本兵をうち破るため、グルガ傭兵も旅団規模で準備された。しかもロシアが、不甲斐ない清朝軍をあしらいつつドイツの保護国となった朝鮮と日本領遼東半島に牽制攻撃を掛ける予定であり、戦力分散を余儀なくされる日本を十分叩けると考えられた。
 そして日本の本格的動員が完了する前に叩くことが重要と考えられたため、急ぎ作戦が準備された。
 日本としては自らの方が上手を行っていると考えていたのだが、実際は連合軍の方が上手だった。しかもさらに衝撃的な事件が日本を遅う。
 1915年2月、大和共和国の艦隊が突如ハワイに襲来し、短時間で全土を占領下に置いたのだ。しかも大和艦隊の動きは止まらず、共に連れてきた大量の輸送船の物資でハワイを拠点化すると、さらに西へと進んでいった。同方面に有力な海軍を配備していなかった日本は為す術が無く、大和共和国は瞬く間(約三ヶ月)に西部太平洋にまで進出する事に成功していた。
 しかも5月になると、日本領だったアラスカにまで大和艦隊が現れ、そして6月にはアラスカ、アレウトは大和の占領下に置かれてしまう。
 大和の攻撃に、日本国内の世論は衝撃を受けると共に敵愾心を燃やしたが、日本政府に出来る事は殆どなかった。
 周辺に有力な敵が少ないという前提が完全に崩れ去り、今度は自分たちの方が主に海で包囲された状態に置かれたのだ。

 開戦時、日本海軍は、弩級戦艦2隻、準弩級戦艦2隻、準弩級巡洋戦艦4隻、前弩級戦艦6隻、装甲巡洋艦8隻を有する世界有数の海軍国だった。しかも超弩級戦艦4隻が国内で建造中で、植民地も多いから巡洋艦はドイツより豊富に有していた。しかし最新鋭の戦艦の数は少なく、戦艦も弩級戦艦は実質的には準弩級戦艦だった。艦ごとの性能を見ても、ブリテンの新鋭艦に対しては劣勢だった。
 ここで少し、当時の東アジア、西太平洋地域の海軍力を整理しておこう。

 同盟側:
日本:弩級戦艦2隻、準弩級戦艦2隻、準弩級巡洋戦艦4隻、
   前弩級戦艦6隻、装甲巡洋艦8隻
   (※超弩級戦艦4隻が建造中)
清朝:前弩級戦艦6隻(※自国製なし。各国の雑多な輸入艦)
独:装甲巡洋艦2隻

 連合側:
武仏:最新鋭戦艦《クイーン・エリザベス》
   弩級巡洋戦艦1隻、準弩級戦艦1隻、前弩級戦艦12隻、装甲巡洋艦6隻
ロシア:弩級戦艦3隻、前弩級戦艦4隻、装甲巡洋艦3隻
大和:超弩級戦艦2隻、弩級戦艦4隻、弩級巡洋戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻
※日本、ブリテンの装甲巡洋艦の半数は各地に分散配置。

 日本はかなりの海軍国だったが、世界一の海軍を有するブリテンや、この十年で急速に海軍力を拡張した大和を前にすると、その勢力が霞んでしまっているのが分かるだろう。
 しかも同じ同盟側の清朝海軍は、基本的に本国近海以外での作戦行動は色々な理由により不可能なので、あまり戦力として数えることが出来ない。
 戦力比は、単純にいって3対1以上で連合側が優勢となっていた。ブリテンと大和の艦隊が同時に日本に向けて動いたことで、日本が開戦時に持っていた優勢は一瞬のうちに吹き飛んでいた。先に強引にでも浦塩を陸路落とすなどしていれば、日本が取れる選択肢も増えていたかもしれないが、1915年春の時点で日本海軍は殆ど身動きがとれなくなっていた。
 そして短期間で制海権が危うくなった事は、日本にとって国家存亡の危機に直結していた。
 1905年までの日本はブリテンに次ぐ海洋国家であり、戦後も大きな違いはなかった。日本本土は資源に乏しく、増えすぎた人口に対して農業生産力も足りていなかったからだ。
 世界が平和なら問題の多くは回避できるのだが、世界中を巻き込んだ戦争となると話しは全く違ってくる。敵対国は日本への資源、食料の輸出を停止し、敵対国は中立国の船が日本に向かう事も邪魔をする。
 グレート・ウォーが始まったとき日本の食料輸入地域は、主に中華大陸のため少々の事では食料が逼迫する可能性は低かった。しかし、情勢が一気に悪化してしまったのだ。
 1915年春の時点では、ブリテンとフランスの連合艦隊はシンガポールを拠点にして、まずはインドシナを奪回しようとしていた。大和の艦隊は、太平洋を押し渡ってきたばかりで、中部太平洋の大きな環礁の一つに腰を落ち着けたばかりだった。ロシア艦隊は、何とか封鎖されていた。
 しかし夏になれば、ブリテン、フランス、そして大和の大艦隊が二方向から押しよせ、これに乗じてロシアの艦隊が動く可能性も極めて高かった。そして日本海軍の力では、全力を挙げてもブリテン・フランス連合艦隊もしくは大和太平洋艦隊のどちらかに勝つことすら難しかった。これは、どちらもが日本がまだ保有していない破格の能力を備えた超弩級戦艦を保有しているからだった。
 こうした脅威を前に、日本側は清朝を半ば無視することを決める。何としても、短期間で浦塩を攻略して、ロシア艦隊を殲滅しなければならないからだ。

 かくして、既にある程度準備されていた部隊を、朝鮮半島経由で続々と沿海州方面に進めた。同時期、北満州から朝鮮半島にロシア軍も攻勢を行おうとしていたが、日本軍の方が行動は一ヶ月程度早かった。
 そして清朝軍が弱いとはいえ戦力を二分しなければならない極東ロシア軍に対して、日本軍は10個師団以上を投入することを決め、続々と兵力を送り込んだ。艦隊による浦塩封鎖と陽動の攻撃も強化され、当時日本軍に数えるほどしかなかった航空機も、偵察や陽動に使用された。
 一方では、日本の行動に清朝が強く反発したが、日本政府は半ば無視を決め込んだ。清朝の体面など気にしている場合ではなかったからだ。しかしこれで、日本と清朝の関係は急速に悪化。清朝は、日本に対する貿易や軍の連携を考え直すとまで、強硬な態度を取るようになる。だが清朝も、4月にブリテン、フランス連合軍がインドシナに上陸し、現地日本軍が持久戦の為奥地に後退すると、顔色を失い始める。インドシナのトンキン湾にはブリテン、フランスの艦隊が溢れ、東南アジア各地の日本軍は初戦の攻勢が嘘のように、各地で長期持久の為に動きを大きく縮小させた。
 しかし、日本が追いつめられている現状に対して、清朝の動きはやはり鈍かった。北京の紫禁城からは、実質的に何も見えていなかったと言えるだろう。有るのは、実体のない大国意識と自尊心だけだった。戦況の不利も、「格下」の日本が不甲斐ないからというのが一般評だった。
 無論、一部には現実を直視できる人々もいたのだが、そうした人々は紫禁城では弱腰などと言われ、宮廷闘争の結果として発言権を奪われていた。

 そして1915年夏、日本軍がどうにかロシア極東軍主力を大興安嶺山脈西方に押し返し、浦塩を包囲しようとしていた時、連合軍が日本本土に向けて動き始める。
 連合軍の目標は、台湾もしくは沖縄。どちらかを軍事的に占領して、日本から制海権を奪うのが目的だった。それが叶えば、国内で食料が自給できない日本は、軍隊が残っていようが降伏するより道はない。
 そしてその事を理解している日本政府は追いつめられていた。
 国内には、依然としてブリテン、ロシアを討つべし、大和の植民地人に目に物見せてやれと威勢だけは良かった。しかし何ら実体を伴わず、それは政府も軍も同様だった。
 陸軍は各地で善戦していたが、善戦している以上ではなかった。海軍はロシア海軍をどうにか封鎖出来ていたが、他に回すべき戦力は殆ど無かった。
 しかし政府は、連合軍の目標が沖縄だと判明した時点で、一度はロシア以外と海で戦うべきだという結論に至る。戦って万に一つも敵を撃退できればよし。出来なくても、現実を国民に見せることが出来、その後日本の身の振り方が少なくとも内政面でやりやすくなるからだ。
 この時点で日本政府は、国民に対して目に見える形で敗北して、自らの戦争に幕を引こうと考えていたのだ。
 だが、命令を受けた海軍は、ただやられるつもりはなかった。
 基本的な作戦は、連合軍の上陸部隊が沖縄本島に上陸を開始した瞬間を狙い、艦隊全力を突撃させて船団を粉砕するというものだった。艦隊は二つに分け、連合軍艦隊を引き寄せる囮の主力艦隊と、上陸船団を粉砕する高速艦隊に分けられた。
 主力艦隊は弩級戦艦《霧島》を中心に、準弩級戦艦2隻、前弩級戦艦4隻、他約10隻で編成。高速艦隊は、準弩級巡洋戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻、他約6隻で編成した。また、陽動などで、防護巡洋艦や駆逐艦、水雷艇が多数動員され、可能な限り連合軍の動きを欺き、翻弄する事になっていた。

 8月5日、連合軍が沖縄本島に現れると、日本側も一斉に動き始めた。そして航空機がまだ黎明期の時代、遠方から来襲する敵艦隊の動きは察知が難しく、日本側の意図はかなりの段階まで成功を収めた。
 8月6日、「予定通り」連合軍のピケットラインに捕まった日本海軍の主力艦隊の前には、15インチ砲を搭載する当時世界最強と言われていた超弩級戦艦《クイーン・エリザベス》を中心とした大小14隻のブリテン、フランス連合艦隊が待ちかまえていた。戦艦数で二倍であり、戦闘は戦う前から決まっているようなものだった。しかし、日本艦隊の巧みな艦隊運動によって、連合軍艦隊は北東海上につり上げられてしまう。
 そしてその間、大きな迂回ルートを取っていた日本海軍の高速艦隊が沖縄近海に到達。大船団を視界の遠方におさめ一時は作戦成功かと思われた。だが、《香取級》準弩級巡洋戦艦4隻を中心とする日本艦隊の視界には、当時太平洋で最強の戦力を有していた大和共和国太平洋艦隊主力の姿もあった。
 14インチ砲を3連装砲塔で9門を搭載した最新鋭の超弩級戦艦《みらい》《はるか》を旗艦とする、超弩級戦艦2隻、弩級戦艦4隻、弩級巡洋戦艦4隻を中核に編成された大艦隊で、艦隊速力も最大で21ノットを誇る高速艦隊でもあった。巡洋艦や最新鋭の大型駆逐艦など多数の補助艦艇も従えていた。これらの大艦隊は、工業国としても成功した大和の新たな姿でもあった。
 しかも大和艦隊は、沖縄近海まで突入に成功した日本艦隊の退路を断つように、西から北東方向に進路を取っていた。
 その後、日本の高速艦隊は戦闘目的の達成が不可能と判断し、突撃を中止して戦線離脱を図ろうとした。後世、味方の犠牲を無駄にしたと言われることもあるが、作戦が根本から失敗した以上、損害を最小限にするのは妥当な判断だった。
 だが、既に有視界まで接近していた事、最短の退路を断たれていた事、連合軍側も盛んに偵察機を飛ばしていた事などから、日本側の高速艦隊は逃げ切れなかった。日本側に最初から戦う意図がないためまともなぶつかり合いは一度きりだったが、半ばすれ違いざまの激しい砲撃戦によって日本の高速艦隊は3分の1が脱落し、その後殆どが連合軍に沈められるか降伏して自沈した。
 一方、日本の主力艦隊とブリテン、フランス連合艦隊の戦いだが、敵をつり上げるだけつり上げた日本艦隊は劣勢な戦力でも一歩も引かずに勇戦し、殆どの艦が沈められる大損害を受けるも、彼らに与えられた任務はほぼ達成した。
 この戦いは、より多くの戦力をうまく配置できた連合軍側の勝利に終わり、日本海軍は壊滅的打撃を受けることになる。日本海軍の主要戦力は40%程度まで激減し、稼働戦力となると20%程度にまで落ち込んでしまう。
 もちろん沖縄も陥落し、日本は東南アジアの海上交通路を完全に遮断され、最後の生命線である東シナ海の海上交通路も重大な危機に瀕することになる。日本そのものの制海権もほぼ失われたため、大陸に派遣されていた陸軍も窮地に陥った。

 沖縄での戦闘が一段落した9月中頃、大和政府は一度日本政府に対して降伏を打診した。既に海軍の壊滅した日本に制海権はなく、国民が飢える前に名誉ある降伏を行うべきだと説いたのだ。しかし秋の収穫期を迎えつつあった日本では、少なくとも冬を越えるだけの食料は確保できることもあり、また本土にまで攻め込まれていない事もあって国民の抗戦意欲は高く、この時の大和の提案を黙殺。
 戦争を続けることになる。
 そして日本の戦争が一定段階を過ぎる頃、世界各地ではいよいよ「本当の総力戦」の幕が上がろうとしていた。


フェイズ27「グレート・ウォー(3)」