■フェイズ27「グレート・ウォー(3)」

 開戦から16ヶ月が経過した。
 東部戦線ではロシア軍がドイツ軍に酷く叩かれたが、ロシアが降伏する気配はなかった。西部戦線とバルカン戦線は、それぞれ別の理由で完全な膠着状態だった。アルプスでのイタリア軍に対するオーストリア軍の奮闘も空しかった。アフリカや中東では、ブリテンが中心になって同盟側の貧弱な勢力を駆逐していたが、ほとんど火事場泥棒のようなもので大局には影響のないものだった。
 一方東アジア・太平洋方面では、アジア唯一の大国である日本が、復讐の刃をふるって短期間の間に旧領の多くを回復し、連合のまともな拠点はシンガポールを残すのみとなっていた。
 そして日本がアジアで暴れ回っている影響が、徐々に連合側に出始めていた。日本軍による各地への侵攻と、水上艦を多用した通商破壊戦によって、連合側の戦争経済が大きな狂いを見せていたからだ。
 東アジアでは各植民地から一兵も欧州に送れないばかりか、資源や食料の輸送も難しかった。インドで動員されたブリテン軍の多くも、日本軍に対向するためにインドを中心としたアジア各地に拘束されていた。しかもインド防衛のために、ブリテンは多くの努力と兵器、戦争資源をアジアに注がなければならなかった。その上、日本海軍はインド洋での通商破壊戦も始めていた。
 その象徴が、孤立無援となったシンガポールに籠もるブリテン、フランスの連合艦隊だった。だが、シンガポールに有力な艦隊が籠もっている限り、日本軍はインドに進軍できない事を意味していた。
 その事は日本側も重々承知しており、またシンガポールの艦隊が出撃して日本の海上交通を破壊しないように、日本海軍で最も有力な艦隊がシンガポール近くのリンガ島近辺を拠点に封鎖を続けていた。また陸上からもシンガポール島への上陸を行うべく努力が続けられていた。
 だが1915年は、日本軍自体がロシア、清朝に多くの努力を傾けていたため、シンガポール島を押しつぶせる軍隊を投入できなかった。一度島の裏側のマレー半島の方からシンガポール島への上陸作戦を敢行したが、準備不足だった事もあり日本陸軍は手ひどい失敗を経験した。

 しかし1915年秋頃から、情勢は日本有利になっていた。完全に日本側となった濠州、新海の戦時体制が整った。両地域はブリテンの支配を完全に駆逐するばかりか、日本との間にも参戦により完全独立を獲得するという条件のもとで軍の整備と参戦の準備が急ピッチで行われ、1915年9月に相次いで同盟側で参戦していたからだ。連合側が独立を認めていないので、国際法上での扱いは日本軍とせざるを得なかったが、実質は変わりなかった。
 また11月半ばまでには浦塩のロシア艦隊がほぼ壊滅し、残存艦艇のほとんども行動不能になったことが日本軍が包囲する浦塩軍港要塞への航空偵察で明らかとなった。そして損傷度合いに対して修理施設が十分ではないので、もはや再出撃はないと判断された。
 これで浦塩方面に拘束されていた日本艦隊は、二ヶ月の休養と整備、修理の後に東南アジアに派遣される事が決まった。そしてその間に十分なシンガポール攻略の準備を整え、1916年2月に満を持した作戦が発動できる目処が立っていた。
 日本の反撃が、いよいよ本格化しようとしていた。

 太平洋のロシア艦隊が撃破された情報は、シンガポールの連合軍も友軍からの情報ですぐに知っていた。そして周辺の日本軍の動きも考えると、そろそろインドに後退すべきだという判断に至っていた。本国からの増援艦隊を得られれば情勢も違ってくるが、ブリテン、フランス共にドイツ艦隊を恐れて、有力な艦隊をアジアに派遣出来ずにいた。
 しかしインド洋に後退するには、近在に待機する日本艦隊を撃破しなければならないし、出来るならシンガポールに滞在する同胞も連れ出さねばならなかった。
 このため現地日本艦隊に牽制攻撃を一度を仕掛け、その間に戦闘艦艇以外が脱出し、順次艦隊も日本艦隊と距離を取り引き上げるという脱出作戦が実行されることになった。
 この時日本艦隊は、第一、第四艦隊が交代で封鎖任務に就き、敵が出撃する兆候が出るとすぐにも待機中の艦隊が合流する手はずになっていた。またシンガポールの監視は、マレー半島から飛行船や飛行機を飛ばして上空からも行われており、兆候を察知するのは数年前に比べて格段に容易となっていた。シンガポール島内部の情報も詳細に分かった。
 航空機の効果は、清朝、ロシアとの戦いでも十分に発揮されており、この頃既に日本海軍は、臨時の水上機母艦をリンガに持ち込んですらいた。日本本土では、各種航空兵器の開発も急ピッチで進んでいた。

 そして1915年がもうすぐ終わろうかという日、シンガポール艦隊出撃の報に、周辺の日本艦隊も集結と合戦準備に入る。
 この時日本海軍は、第一、第四艦隊を主軸に超弩級・弩級戦艦が合わせて7隻、準弩級戦艦2隻、前弩級戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻を主力としていた。一方の武仏連合艦隊は、最新鋭戦艦《クイーン・エリザベス》以下14隻の前弩級戦艦または準弩級戦艦と装甲巡洋艦3隻などを有し、戦艦数では日本側がやや不利だった。しかもシンガポールを出撃した連合側艦隊は、日本側に積極的に戦う意志を見せるような動きを取っており、これは日本側にとって想定外の事態だった。しかし、日本側が引き下がる事はなかった。
 現地日本艦隊は、自らが弩級戦艦戦力で優位だと考えていたし、最精鋭の第一艦隊としては引き下がるわけにもいかなかったからだ。また、最新鋭の《播磨型》超弩級高速戦艦3番艦の《美濃》が加わっていた事も、日本側の積極的迎撃を促していた。これで《クイーン・エリザベス》を恐れずに済むからだ。
 そして日本側、連合側共に艦隊を二つの縦陣に分けて対陣する。
 日本側は、《美濃》と《山城型》弩級戦艦、装甲巡洋艦を中心にした高速艦隊と、速度に劣る準弩級戦艦2隻、前弩級戦艦4隻の艦隊の二手に分かれていた。連合側は、高速の超弩級戦艦《クイーン・エリザベス》、弩級巡洋戦艦《インドミダブル》の2隻に装甲巡洋艦を加えた高速艦隊と、準弩級戦艦の《ロードネルソン》《ハイパニア》を中心にした旧式戦艦群の二つに分かれた。
 個艦性能では日本が、数では連合側が勝っていたが、練度は似たようなもので、フランス艦隊が加わっている分だけ連合側の統率がやや不安定だった。だが、ブリテン海軍があくまで主軸のため、大きな欠点とはならなかった。
 また、戦闘開始前後は一見積極的に見えた連合側だが、日本艦隊と本気で組み合うことはなく、運動戦を主体としてかなりの距離を開けての緩慢な砲撃戦が続いた。日本側は敵艦隊の殲滅を図ろうと陣形を気にして、連合の高速艦隊の動きに翻弄され、最終的に連合側の艦隊を逃してしまう。それでも一連の砲雷撃戦によって激しい砲火の応酬が実施された。このため低速艦隊を持つ連合側が2隻の前弩級戦艦を失っている。そしてシンガポール近辺を確保するという日本側の戦略目的の一部達成をもって、戦闘そのものは日本の勝利と判定された。しかし連合側は、別働隊のシンガポール脱出も成功されているので、一概に勝利者が日本とは言い切れなかった。
 「決戦持ち越し」となったからだ。

 艦隊脱出でシンガポールに連合側の艦隊はいなくなり、残っているのも逃げることができないが故に殿を任された要塞守備軍だけでしかなかった。翌年2月から予定のシンガポール攻略戦は、双方にとって事後処理に近いものだった。
 そして1915年にたて続いて行われた戦いでは、一つの教訓が再確認され、新たな認識も必要だと解釈された。それは艦隊決戦が十分に有効であり、高速艦隊と主力艦隊の組み合わせが有効だという事だった。また多数の艦艇が参加し、さらに両者の艦艇数が接近している場合は混乱が発生しやすく、決定的な局面に至らない可能性が存在すると言うことも理解された。加えて、飛行機が偵察手段として非常に有効なことが確認されたのも重要な戦訓だった。
 そして最も重要だと考えられたのが、制海権確保のための艦隊決戦が必要だと再認識された事だった。清朝と日本、ロシアと日本の戦いでは、日本海軍の勝利が戦略的にも決定的状況を作り出した。東南アジアでの戦いも、シンガポールの艦隊が存在する限り、日本は決定的な制海権を得ることが出来なかった。
 そして戦訓を最も重視したのが、巨大なライバルを抱えるブリテンとドイツだった。そして双方共に、日本の動きを気にしなければならなかった。
 既に日本は東アジアでの制海権を得たので、順次インド洋に入ってくると考えられた。事実、シンガポール沖での海戦以後、日本の通商破壊艦艇、装甲巡洋艦などがインド洋に大挙出没するようになり、マレーのペナン、ジャワのジャカトラを拠点として各地で連合側の海上交通網を破壊していた。
 これに対して連合側は、フランスが2隻派遣していた旧式戦艦を引き上げ、ブリテンも《クイーン・エリザベス》を引き上げる代わりに弩級巡洋戦艦2隻を増援し、さらに準弩級戦艦4隻を増援に派遣した。巡洋戦艦の派遣は、日本軍の通商破壊を阻止するためでもあった。この結果、数は以前と同様だが、総合戦力は幾分高まっていた。本当は弩級戦艦や超弩級戦艦を多数派遣したかったが、それらの有力艦艇はドイツ海軍を封じるために必要で、北大西洋から動かすことが出来なかった。
 しかしブリテンも、弩級、超弩級戦艦を多数有する日本海軍に対して、現状のままではアジアで正面から挑める戦力がないことは理解していた。このためブリテンとしては、一日も早くドイツ海軍との決戦に勝利して大打撃を与えなければならなかった。
 ドイツ海軍は、スカパ・フローのブリテン主力艦隊によって、北海の奥に封じ込められたに等しい状況を打破すること自体が目的化していた。だが、バルト海奥地に逼塞してしまったロシア海軍も、依然として侮れない存在だった。そして1916年段階での北海での戦力比は、ほぼ2対1とドイツが大きく劣勢だった。ドイツにとって、戦力バランスを自らに大きく有利にするか、ブリテンの大艦隊の一部を引きずり出して各個撃破しない限り正面からの勝機はなかった。そこで日本がインド洋に大挙進出して、ブリテンがインドに戦力を割かねばならない状況の到来こそが決戦の時だと考えられた。

 各国の思惑の中、最初に動き始めたのは、この戦争で最もアクティブに動き続けている日本だった。2月に半ば、予定通りシンガポールを半島側からの上陸作戦と攻略戦で開城させると、そこを起点とした海上交通網を整備するよりも早く、有力な艦隊がマラッカ海峡の出口にあるペナンに進出した。
 日本にとっては、いよいよインドに打って出てブリテンに一泡吹かせようという野心的な行動だった。また、濠州、新海、さらには東南アジアで大量の兵士が動員された事から、ロシア軍とシベリアで戦いつつインドに侵攻できる目算が立ったことも、日本の積極性を促していた。
 そして日本列島は、大軍を武装して十分な砲弾や船舶を安定して供給するべく、日本の産業構造を変化させるほどの兵器生産に奔走していた。
 既に不安が感じられつつあった戦費、物資についても、大和共和国が実質的に同盟的行動を取ってくれたため、多くの問題が解決していた。濠州などからも資源が流れてくるようになった。多くは、東アジア、太平洋の制海権を有しているからこそだった。
 そしてインド洋侵攻を前にした日本海軍は、あまり役に立たないことが分かった旧式戦艦(前弩級戦艦)をやや後方に下げ、装甲巡洋艦を航路警備や通商破壊用とし、残りの全てをインド洋に向けることを決意する。新たに3個艦隊に再編成された日本海軍連合艦隊は、4月に活動を開始した。
 日本海軍の次の目標は、インド洋東部の制海権を得ること。それさえ叶えば、セイロン島だろうとカルカッタ、マドラスだろうと、どこにでも上陸作戦が展開できるからだ。
 しかし日本海軍は、インドのブリテン海軍は艦隊保全に入るか逃げ出すだろうと予測していた。既に戦力は圧倒的に日本側が有利であり、ブリテンが本国から弩級戦艦を2個戦隊程度を持ち込まない限り、日本の優位は動かない状態だったからだ。何しろブリテンの東洋艦隊は、半数があまり役に立たないことが浮き彫りとなりつつあり、日本が第一線から退かせたばかりの前弩級戦艦だった。
 そのブリテン東洋艦隊はセイロン島を拠点としており、制海権を得ると言うことはこの艦隊の撃破もしくは無力化を行うことにあった。

 インド洋を巡る戦いは、既に日本側の仕掛けた大規模な水上海上交通破壊戦で幕を開けた。
 日本側の通商破壊で潜水艦が用いられていないのは、この時期の日本海軍が潜水艦を偵察兵器として重視していたためで、また当時の潜水艦の性能では広い海域を戦場とする通商破壊戦には、航続距離などの問題から不向きと判断されていたからだ。それでも水上砲撃を主戦法とした通商破壊戦には一定の効果を認めていたため、大戦中に多数整備した大型潜水艦をかなりの数を配備した。
 だが、日本の通商破壊の主軸は、装甲巡洋艦、防護巡洋艦、商船を改造した仮装巡洋艦であり、その数は既に50隻に及んでいた。中には装甲巡洋艦で戦隊を組んで行動している場合もあり、こうした場合は通商破壊艦を狙った敵巡洋艦、商船の護衛をしている艦艇の撃破も目的としていた。
 ドイツとは違う大規模な水上艦隊による通商破壊戦であり、明らかに大航海時代の延長としての戦闘を行っていたことになる。自らが海賊船であることを示すように、非公式に八幡の幟を掲げた艦船も多かったと言われる。
 これに対向するためブリテンは、弩級巡洋戦艦を増援に送り込んだのだが、相手が多すぎるため対処しきれずに翻弄されていた。それでも、日本海軍が本格侵攻するまでに、装甲巡洋艦1隻、防護巡洋艦2隻を仕留めており、巡洋戦艦が航路防衛にも有効なことが立証されていた。またインド洋の戦場では、両軍の装甲巡洋艦同士が一騎打ちを行った例もあるなど、北大西洋と違い非常に活発な戦場だった。
 しかし、ブリテン側の弩級巡洋戦艦隊の活躍は、長くは続かなかった。日本側も、ブリテンの弩級巡洋戦艦を狙った弩級巡洋戦艦部隊をインド洋に出撃させ、同時に主力艦隊がセイロン島近海に出現したからだ。
 日本軍の目的が、セイロン島の攻略なのは明白だった。日本艦隊は、ブリテン艦隊のいるコロンボ沖に展開し、占領した水辺(小さな島や小さな環礁)から飛行機(飛行船、水上機)を放って上空からの偵察を行ったからだ。
 そしてブリテン艦隊が出てこないうちに輸送船団を伴った別働隊がやって来て、上陸作戦を行う目算だった。この時代の上陸作戦には酷く手間もかかるし上陸時の危険は大きかったが、場所を選んで上陸作戦が出来る優位がある上に、上陸場所を選んで防衛体制を整えることも難しいので、敵艦隊が現れなければ失敗する可能性はほとんどなかった。
 なお、日本海軍のコロンボ封鎖艦隊は、主力艦隊が全艦揃ったばかりの《播磨型》超弩級戦艦4隻と《山城型》など各種弩級戦艦6隻。別働隊の上陸部隊には、準弩級戦艦4隻が護衛に付いていた。他にも第一線を退いた前弩級戦艦が敵の通商破壊を警戒した任務に各所でついており、さらに《香取型》弩級巡洋戦艦の4隻からなる強力な高速戦隊が、インド洋で同種族の敵を探し求めていた。
 弩級艦以上が14隻という構成は、北海のブリテン、ドイツ海軍以外では日本海軍しかないという強力さだった。また日本海軍は、初めて航空機(水上機)を搭載した船(高速貨物船の改造の特務水上機母艦)を投入して、偵察力を強化していた。
 日本艦隊の編成は、開戦時から大きく進歩し始めており、戦争が陸上だけでなく海上でも革新的に進展した典型例となっていた。

 これに対してインド洋のブリテン海軍は、コロンボの艦隊には援軍到着まで艦隊保全が命令され、巡洋戦艦部隊には一旦紅海出口のアデンまでの後退が命令される。事前情報などで確認された日本艦隊が、予測された以上に強力だったためだ。ブリテンの予測では、戦力の幾らかは他に派遣するか後方に残してくるだろうと想定していたが、日本海軍が主要海軍力の全てを投入してくるという事態は全くの想定外だった。この時の心情を現す言葉として、「日本海軍に艦隊保全という言葉は存在しないらしい」というものがある。
 そして日本海軍の全力を投じたインド侵攻の報告を受けたブリテンは、一つの選択を迫られる。インドを守るために大幅な増援を送り込むか、本国(近海)を防衛するためにも艦隊保全に徹して日本とドイツに戦力を分散しないか、である。
 この時の決断は、当時ブリテンがドイツに対して建艦競争で大きくリードを奪っていた事と、地中海を現状維持に甘んじて戦力を回す事の二つによって、ドイツ海軍よりも脅威を増した日本海軍を撃退すると決まる。
 時の海軍大臣は「これ以上、東洋人をつけ上がらせるわけにはいかない」断じたが、真意はインドとの本国の道を閉ざすわけにはいかないからだ。そしてブリテン海軍とは、「キャッチ・アンド・キル」の言葉通り常に積極的でなければいけないという精神風土もこの時の決定に影響していた。
 かくして5月初旬、ブリテン海軍に所属する数十隻の戦艦群の大移動が世界中の海で始まる。
 地中海からは比較的有力な艦艇が北大西洋、北海へと回され、北海北端のスカパ・フローの英本国艦隊グランド・フリートからは、日本海軍を撃滅するための有力な戦艦戦隊が地中海を経由して急ぎインド洋へと向かった。
 まさにブリテン海軍の力を見せつける行動だった。
 なお、この頃ブリテン海軍の弩級、超弩級戦艦数は29隻、準弩級戦艦が10隻、弩級巡洋戦艦が10隻あった。しかもさらに超弩級戦艦6隻が急ピッチで建造中だった。対するドイツは、弩級、超弩級戦艦数が17隻、巡洋戦艦が5隻、準弩級戦艦はなかった。つまり日本海軍を加えると、日独の洋上戦力はブリテンに匹敵するところまで迫っていた事になる。ただしドイツは、フランス海軍の動きもある程度注意しなければいけないし、地中海ではイタリア海軍もかなり強力だった。バルト海にはロシア海軍の存在もあった。
 一方のブリテンも、日本がこうも簡単に東アジアの制海権を獲得するとは考えていなかったため、この時点での状況は非常に誤算だった。
 地上侵攻による拠点攻撃と艦隊による包囲、決戦を組み合わせてくるという戦法自体は常套手段ではあるが、こうも鮮やかに何度も決められるとは考えていなかったと言えるだろう。

 そして四匹目のドジョウを狙う日本海軍に対して、ブリテンは13.5インチ砲を装備した超弩級戦艦8隻を擁する極めて強力な第二戦艦戦隊を、グランドフリートからイースタンフリートへと転属させる。しかも移動は欺瞞情報を交えて行われたため、ドイツはこの情報を掴むのが遅れ、日本は地中海の戦力がインド洋に増援で派遣されるものだと予測した。
 このため日本海軍は、念のため建造年次の新しい前弩級戦艦4隻を増援に呼び寄せ、通商破壊戦に出ていた巡洋戦艦隊を主力部隊に合流させるも、それ以上の対処は行わなかった。インド洋では自らが有利だと考えていたからだ。
 そして増援を得たブリテンの東洋艦隊本隊は、アデンで超弩級戦艦8隻が弩級巡洋戦艦3隻に合流し、さらに周辺に展開していた装甲巡洋艦5隻を加えた大戦力で日本艦隊をコロンボの後方から奇襲する目算を立てた。
 だが、ブリテンの目論見はうまくはいかなかった。
 日本側が現地に多数の潜水艦に加えて、航空機、新兵器の飛行船を偵察任務に投入し、そのうちインド洋西部を偵察飛行していた新鋭の大型飛行船が東へと向かうブリテンの大艦隊を捉えたからだった。この頃の航空機による洋上偵察は危険も多いし航続距離の面でも厳しかったので、例え日本が偵察を重視していたとはいえ、日本が幸運だったと言えるだろう。
 そして敵の大艦隊接近を察知した日本艦隊は、コロンボの包囲に旧式戦艦だけを抑えに残し、全力で敵増援艦隊の撃滅へと向かう。ブリテン艦隊の合流を防ぐと共に、増援艦隊がインド西部海岸のボンベイなり南部のコーチンなどに入り込む前に戦力を殺いでしまうのが目的だった。
 コロンボが半ば放置されたのは、敵の行動のイニシアチブを奪うためで、それまで日本海軍であまり行われていなかった機雷(浮遊機雷)の緊急大量敷設を行って後顧の憂いを可能な限り絶っていた。海流や水深もそれまでの包囲戦の中である程度掴んでいたので、臨時の機雷網でも短期間なら十分な効果が発揮できると考えられた。それでも旧式戦艦が置かれたのは、コロンボの艦隊が強引に出撃した場合に備えての事で、機雷によって大損害を受け混乱しているであろう相手には、それでも十分な抑えの戦力だと考えられた。
 一方のブリテンの東洋艦隊本隊だが、日本側に見つかった事が分かったので、コロンボ接近は諦めてコーチンへの一時待避を行おうとする。ブリテン側も、日本がコロンボを機雷封鎖している事は予測していたので、掃海を行った後に全ての艦艇を一気に投入して雌雄を決する積もりだった。

 両者の動きは、日本海軍の動きの方が一歩早かった。
 日本艦隊から先行した《播磨型》超弩級戦艦4隻、《香取型》弩級巡洋戦艦4隻から編成された極めて強力な高速艦隊が、ブリテン艦隊の捕捉に成功する。この時日本艦隊が最高25ノットなのに対して、ブリテンの超弩級戦艦は少しばかり建造年が古い事もあって最高21ノットしかでない。だが突出してきた日本艦隊の数が少ないため、一時的な交戦を行いつつ煙幕を展開して逃亡する作戦をブリテン側は採った。
 ブリテン側の選択がやや消極的だったのは、合流前の艦隊決戦を避けたのもあるが、大型艦の修理施設が近在に存在しないからだ。これがブリテン本土なら、たとえ損傷してもすぐに修理できるが、インドではそうもいかなかった。工作艦の手配と配備は行われていたが、万が一水線下に損害を受けた場合の修理がままならないのが実状だった。日本海軍も状況は似たようなものだったが、今までの戦闘でまともに修理できない艦隊の惨状を見てきた日本海軍は、急ぎ大規模な修理も出来る工作船複数を仕立ててペナンにまで前進させていた。シンガポールも工作部隊を入れて修理施設を突貫工事で建設中で、旧式前弩級戦艦や巡洋艦程度の入れる船を利用した浮きドックまで持ち込んでいた。このため日本海軍の方が積極的だったのだ。
 そしてブリテン側の予測以上の高速で突撃してきた日本艦隊に対して、ブリテン艦隊も進路を逸れつつ応戦を開始。ブリテン艦隊は進路変更によってうまく反航戦に持ち込んだ。煙幕のための風向き的にも、ブリテン艦隊としては反航戦が好都合だった。このため日本艦隊の意図とは反して、すれ違いの一戦で戦闘を終えなければならなかった。
 そして高速でのすれ違いでは、ブリテン側の煙幕展開もあって両者大きな損害もなかった。だが、反転した日本艦隊はその後も燃費無視の高速に任せて追撃を実施し、最初のすれ違いから2時間後には再びブリテン艦隊のしんがりを捕捉した。だが、これに対してブリテン艦隊は、煙幕と数度の進路変更で対応する。
 その後も両者の駆け引きは続いたが、流石に燃料が不安になった日本艦隊は追撃を停止し、「コモリン岬沖海戦」とされた海上戦闘は終幕となった。この戦闘では互いに損失はなく、ブリテン側が14インチ砲弾を受けた装甲巡洋艦が1隻大破した以外では、すべて中破止まりだった。しかし実質的に短時間の砲撃戦だけでかなりの損傷を出したブリテンとしては、さい先の悪いスタートとなった。この時点で、修理できない備砲などが出ていたからだ。
 しかもブリテンにとっては、あと半月以内に艦隊の合流もしくは日本艦隊の撃滅を行わなければならなかった。コロンボの別方向から上陸した日本軍が、現地軍を鎧袖一触で蹴散らしつつ進撃しており、あと半月ほどで長距離重砲の射程圏内にコロンボ港全域が入ると予測されたからだ。ブリテン側としては、コロンボが陸から攻め落とされるのを阻止するには、インド本土から増援を送り込まねばならず、そのためには制海権が必要だった。
 日本軍とすれば、ブリテンの増援を撃破できなかったのは失点だったが、合流させなかったので戦略上の必要十分は満たしていたといえるだろう。
 しかも日本軍のコロンボ砲撃は、ブリテンの予測よりも早かった。ブリテンの増援艦隊がコーチンに入ってすぐに、日本軍が長距離砲、超長砲身の列車砲(非常に重く嵩張る)をセイロン島に持ち込んで、超遠距離から砲撃を開始したからだ。
 この列車砲は、ロシアの浦塩軍港を攻略するために戦争前から開発されていた新兵器の8インチ長距離列車砲で、既に浦塩攻略戦でも使われていた。日本軍はこれを6門、苦労してセイロン島に持ち込んでいた。着弾に関しても、上空に飛行機や飛行船で観測を行うため、精度は今までの戦争とは違って非常に高かった。
 そして対抗手段のない日本軍の砲撃に神経をすり減らしたブリテン側は、コロンボ港沖の掃海未了のまま日本艦隊に対する決戦と、コロンボからの脱出作戦を企図せざるを得なくなる。既に港内にも多数の砲弾が飛来しており、停泊する艦艇にも無視できない損害が出ていたからだ。この出撃も、地上からの長距離砲撃で1隻の準弩級戦艦が出撃不可能な損害を受けたことを直接的な原因としていた。
 そして大量の煙幕と機雷よけを担った決死任務の商船の先駆けを先頭にしたコロンボ艦隊の出撃が始まり、その頃にはコーチンを出撃したブリテン艦隊も出撃してセイロン島に接近しつつあった。
 ここで日本海軍が採った作戦は、時間差を付けた各個撃破戦術だった。敵の合流までコロンボを封鎖しつつ待つのではなく、コーチンからやって来る艦隊の撃破を最優先したのだ。

 1915年5月27日、日本艦隊合わせて主力艦18隻に対して、ブリテン艦隊の主力艦11隻による艦隊決戦が始まる。この状況はブリテン側にとって少し予想外だったが、ここでコーチンに引き返すとコロンボにいる艦隊の未来はなく、それは今後のインドでの大きな劣勢を意味していた。このためブリテン艦隊としては、日本艦隊との戦闘を出来る限り避けつつ、出撃してくるコロンボの艦隊と合流する事だった。
 そして戦闘は、混乱したまま推移する。
 ブリテンは、日本が全力で先制攻撃してくるとまでは予測していなかった上に、日本海軍は高速打撃艦隊と主力の二手に分けて戦闘の火蓋を切った。そして日本側の高速部隊が強力なため、ブリテンの偵察艦隊(巡洋戦艦隊)が突出できず、ブリテンの全力に日本の高速艦隊が攻めかかるという形で始まった。イギリス側は出来る限り戦闘を避けたかったが、日本側が多数の飛行機や飛行艇、偵察艦艇を配置している上に、高速艦隊の速度が速すぎて避けることも難しかった。
 日本の高速艦隊は、初期の段階である程度ブリテン艦隊の頭(先頭)を抑えることに成功した。おかげで局所的な優位を活かして集中砲火を実施して、早々にブリテンの超弩級戦艦1隻を脱落させるも、その後13.5インチ砲の釣瓶打ちを受けて瞬く間に損害を積み上げていった。
 ブリテンの超弩級戦艦群は強力であり、日本側は本隊が到着するまでに装甲巡洋艦1隻が大破航行不能、超弩級戦艦と弩級巡洋戦艦それぞれ1隻が戦闘継続不能で離脱となり、他の艦も半数近くが中破以上の損害を受けた。これに対してブリテン側は、損傷艦こそ増えたが最初の1隻以外に脱落は出ていなかった。
 砲弾の命中率では日本側が勝っていたが、投射量そのものでブリテンが大きく優位だった結果だった。
 そして、この段階で日本の主力艦隊が戦闘加入する。ブリテン側がまだ日本の高速艦隊を砲撃している間に、焦るブリテン艦隊に対して有利な位置を占めて一方的な砲撃を展開。日本の高速艦隊が自らに不利な砲撃戦を継続したのも、主力に有利な位置にブリテン艦隊を導くためだった。ただし日本の主力部隊は、危険を察知したブリテン艦隊の変進で反航戦となったため十分な砲撃時間がとれず、多くの命中弾を得るも決定的打撃を与えることが出来なかった。

 その後両者は巨大な蛇のような艦隊運動を続けるが、砲煙、煙幕などで視界が低下。さらに上空にも低い雲がたれ込め、両者相手を一時的に見失ってしまう。
 その間コロンボからはブリテン艦隊が強引に出撃し、触雷により2隻が脱落し、またコロンボを包囲していた日本の前弩級戦艦群が、機雷で動きの制限されたブリテン艦隊に対して有利な位置から効果的に砲撃を実施したためさらに1隻が脱落した。しかしまだ8隻の戦艦があるため、数で大きく劣勢な日本の包囲艦隊は、コロンボのブリテン艦隊が完全に外洋に出ると一旦後退。その後は後方から追撃する体制をとった。

 都合5つの大艦隊がうごめく洋上での錯綜は、日本側の方が回復が早かった。多数の偵察艦艇を配置していた事と、航空機、飛行艇による偵察が功を奏したためだ。このため日本艦隊の方が先に再集結と攻撃態勢を整えることに成功し、ブリテン側はまだ艦隊が二分されている状態で戦わねばならなかった。ただし日本側も、旧式戦艦群は後方から追撃するも主戦場には間に合っていない。
 この時点での主力艦数は、ブリテン側18隻(二手に分散)、日本側16隻(+4隻)で、両者まだ引き下がる気はなかった。この戦場は、インド洋の制海権を得るための決定的成果を求めた戦いであり、両者共に敵主力艦隊を撃滅、最低でも撃退しない限りそれは叶わないからだ。
 そして精鋭艦隊を擁するブリテン主力艦隊は、インドを守るという強い意志を持っているため積極的だった。数の減った日本の高速艦隊からの圧力を受けつつも、コロンボ艦隊との合流に向けた動きを強引に行った。ブリテン側としては、合流してしまえば敵を圧倒できるし、そうなれば日本艦隊が後退すると考えていたからだ。

 結局戦いを決したのは、激しく動き回った無数の主力艦ではなかった。
 日本側が増援として投入した新鋭の第二水雷戦隊(※最新鋭の高速巡洋艦(軽巡洋艦)《天龍》《竜田》、排水量1000トンクラスの《峰風型》大型駆逐艦12隻)が、両者が砲撃し合っている間に高速で強引に割り込み、友軍の支援砲撃を受けつつ30ノットを超える速度で敵隊列に強引な肉薄を実施。そして世界で初めての昼間統制雷撃戦を実施した。
 この時、各艦4〜6線、合計60本の魚雷を強引に接近しつつ距離6000メートルから5000メートルで扇状に一斉投射し、約15%にあたる10本が相次いでブリテンの大型艦に命中。うち9本が水面下で炸裂する。魚雷を受けたのは5隻の戦艦で、3本を一度に受けたブリテン自慢の超弩級戦艦は急速に傾き、2本を受けた巡洋戦艦も行き足がほとんど止まってしまう。それぞれ1本ずつ受けた残り3隻も速力が低下し、ブリテン側の隊列は大きく乱れた。この時代、まだ水雷防御が十分ではなかったため、魚雷の被弾に戦艦も脆かった。
 この好機を日本側は逃さず、各戦艦部隊が一気に間合いを詰めて集中砲撃を実施。14インチ砲の集中砲撃で超弩級戦艦1隻がさらに戦闘不能になった時点で、ブリテン側は後退を決意。その後は、自分たちの駆逐艦群による牽制突撃と煙幕展開によって何とか戦場から離れ、危険度が増したコーチンではなく、より北方のボンベイへと後退した。
 この最後のブリテン側水雷戦隊の突撃と雷撃で、日本側も戦艦1隻が大きな損傷を受けていた。そして日本側も損害が多いことと、一部燃料に不安があったため戦闘の終了を決意。ここに「セイロン沖海戦」は終幕する。

 この戦いで日本側は各種戦艦3隻を喪失するも、多くの艦艇がすぐに簡易修理して戦場に戻ったため、その後の制海権の獲得に成功した。対するブリテン側は、超弩級戦艦3隻を始め8隻もの戦艦を一度に喪失し、沈まなかった14隻の主力艦艇も半数が大きく損傷して、最低でもアレキサンドリアにまで後退しなければならなくなった。しかも簡易修理などで稼働状態が維持できた主力艦の半数以上が前弩級戦艦と巡洋戦艦であり、大規模な増援なくしてインド洋で日本海軍に挑む能力を完全に失ってしまう。
 なおこの日は、日本で「海軍記念日」が制定された日であるばかりか、イギリスがインドを失った日、レパント海戦以来、ヨーロッパがオリエント(東洋)に海で敗北した日として戦史に記録されることになる。
 こうして日本のブリテンに対する復讐は一応達成されたが、戦争はまだまだ燃えさかろうとしていた。決戦一つで終わるような時代は、既に過去のもとなっていたのだ。


フェイズ28「グレート・ウォー(4)」