■フェイズ28「グレート・ウォー(4)」

 インド洋での日本海軍の戦略的な意味での勝利は、ヨーロッパにも大きな衝撃をもたらした。小競り合いではなく、正面からの戦いで世界最強のブリテン海軍が負けたのだ。ドイツでは、セイロンでの戦いはトラファルガーに匹敵する歴史的偉業だと称えられ、ブリテンではナポレオン戦争以来の国難だと危機感を煽った。
 そしてインド洋情勢を受けて、ドイツ海軍が動き出す。ドイツ海軍としては、今度は自分たちの番だという心境だっただろう。しかも日本海軍の戦艦の多くがドイツ製のため、ドイツ海軍の自信はいやが上にも高まった。
 対するブリテンは、同盟側の報道は大きな誇張が含まれていると国民や同盟国に伝えることに腐心したが、内心は大きく動揺していた。何としてもインド洋のシーレーンを維持しなければならないのに、ドイツ軍が俄然元気になってしまったからだ。
 状況を揶揄的に表現すれば、吹きこぼれる鍋の蓋、しかも灼熱の蓋を二つ押さえ込まねばならない状況だった。

 1916年5月末頃、北海の戦力比は五分に近かった。
 ブリテンは弩級、超弩級戦艦数21隻、準弩級戦艦6隻、各種巡洋戦艦6隻で、ドイツは弩級、超弩級戦艦数は合わせて17隻、各種巡洋戦艦が5隻あった。他に有力な前弩級戦艦、装甲巡洋艦が主要戦力として双方加わるが、超弩級、弩級艦が勝敗を決することは、この戦争で日本海軍が散々立証しているので、注目すべきは最有力艦の保有数だと考えられていた。
 しかもこの頃ドイツは各地での戦闘を有利に展開しており、日本の活躍でブリテンは戦争経済に大きな支障が出ていた。このためドイツ海軍では、今こそ艦隊決戦により戦局を転換するときだという気運が盛り上がっていた。
 新たに艦隊司令となったシェーア中将は、早くも5月31日に全力出撃を実施。これに対してブリテンの大艦隊を率いるジェリコー提督も総力を挙げて出撃。双方の盟主であるブリテン、ドイツによる、インド洋を上回る史上最大規模の艦隊決戦が行われた。
 ブリテンが旗艦《アイアン・デューク》以下各種戦艦20隻、巡洋戦艦6隻、各種巡洋艦26隻、駆逐艦63隻など、ドイツが旗艦《フリードリ・デア・グロッセ》以下各種戦艦22隻、巡洋戦艦5隻、各種巡洋艦11隻、駆逐艦51隻などから成っていた。
 ブリテン側の強みは、多数の主力艦艇を保有し、さらに25ノット高速で15インチ砲を搭載する最新鋭の《クィーンエリザベス級》戦艦を4隻も有する点だった。ドイツ側の強みは、個艦性能の高さと自国が有する全ての有力艦を集中できている点にあった。加えて、戦後になるまであまり知られていなかったが、ドイツ側の砲が測距装置と遠距離射撃戦能力でも勝っていた。また戦艦数ではドイツが僅かに勝っているが、ドイツ側には前弩級戦艦5隻が含まれており、戦力としては五分かドイツ側がやや劣勢だった。補助艦艇の有利は完全にブリテン側にあり、日本海軍が見せたような積極性が見られれば、ブリテン側が尚のこと有利だった。
 しかしドイツ側には、自国艦艇を信頼する要素が直前にもたらされていた。日本から戦闘を詳細に伝えた暗号電文が届いており、そこにはドイツ方式の防御方法、砲撃システムが極めて有効なことが記されていた。日本海軍は、航海性能が低く居住性の悪いドイツ方式の設計に不満を持つことが多かったが、防御方式、砲撃システムについては今回絶賛した。しかも日本海軍は、戦闘の終盤にイギリス艦が恐らく主砲塔上面から突入した砲弾によって、たった1発で爆沈した形跡があることを伝え、同様の事態に陥った自分たちの戦艦は、強固な防御方式(特に装薬の供給と保管方法)のお陰で同様の悲劇を回避できたとも報告していた。
 戦艦が爆沈した報告はブリテンにももたらされていたが、ブリテンはドイツ方式の防御の有効性ついては知らなかった。また主砲塔を打ち抜かれた上での沈没は、偶然の不運だとしか見ていなかった。

 そして5月31日の最初の決戦を迎えるが、両者共に突出した巡洋戦艦を主体とした艦隊の衝突が発生する。
 ここでブリテンの《クィーンメリー》《インディファティガブル》が、主砲塔天蓋を打ち抜かれて短時間のうちに爆沈。これで慎重になったブリテン側が一時後退したため、戦闘自体もそのまま有耶無耶となってしまう。ドイツは敵主力の誘因に失敗するも、イギリスが後退した事でドイツの一方的勝利で幕を閉じてしまう。
 たて続いた勝利に同盟諸国の士気は上がり、連合のとりわけブリテン国民の士気は下がった。
 対するブリテンは、日本、ドイツ双方に海で敗北したことに大きな衝撃を受け、特にドイツとの戦いでの消極性が非難された。

 そして7月、両者はもう一度対陣を迎える。
 ドイツは新たに15インチ砲を搭載した新鋭の超弩級戦艦《バイエルン》を艦隊に迎え入れ、ブリテンは《クィーンエリザベス級》の5番艦を迎え入れていた。しかしブリテンは、インドでの敗北の後始末に負われて地中海の戦力をさらに低下させており、ジブラルタルの防備も最小限に低下していた。インド・ボンベイの艦隊も機を見てアデンにまで後退しており、損傷で十分な速力の得られない艦艇は沿岸沿いの後退が命令されたが、ボンベイなどインド各地に事実上置き去りとなっていた。これにより、インド洋に投入された戦艦、巡洋戦艦の半数が、実質的に失われることになった。この影響で連合側のフランス、イタリア海軍も慎重となり、事実上の艦隊保全に入って動きを停滞させた。
 加えて、5月末のインド洋での日本に対する手痛い敗北とドイツとの戦いでの敗北そのものが、連合側の心理的な重石となった。特にブリテン海軍にとって、自分たちの主力艦の防御力が敵の攻撃に対して不足しているという欠点は、将兵の士気を低下させていた。
 春頃までは牽制程度は期待できたフランス海軍も半ば艦隊保全に入ってしまい、戦力としてまったくアテに出来なくなっていた。
 ブリテン各地では強力な新造艦は続々と建造中だが、一気に10%以上の主力艦を失った心理的衝撃は大きかった。しかしそれでも、制海権を維持しなければ国家が立ち行かないことをブリテン国民は理解していたので、むしろ士気を高める効果もあった。
 一方のドイツ海軍は、士気旺盛だった。
 北海での弩級以上の戦艦、巡洋戦艦比率が、27隻対23隻にまで縮まっていた。インド洋では、既にブリテンは完全な劣勢だった。弩級以上の艦艇は4隻にまで低下しているのに対して、日本はさらに新鋭艦を迎え入れたため、インド洋で1隻沈んだ分を穴埋めして11隻あった。それ以外の国の比較では12対5と劣勢だが、連合と同盟の全体での第一級の主力艦比率はほぼ均衡するまでに縮まっていた。
 そして同盟の盟主たるドイツでは、積極的に正面からの決戦を挑むべきだという気運が漲っていた。有色人種に出来て、自分たちに出来ないわけがないと言う少し歪んだ感情もあったが、士気の向き方は非常に上向きだった。

 そして積極的なドイツ海軍と、ドイツの封じ込めを第一目標に定めたブリテン海軍の二度目の艦隊決戦が始まる。
 この時ドイツ海軍は、先の海戦でブリテン艦隊全体の動きが鮮やかだったことを掴んでおり、それが敵無線の傍受、航空偵察などを駆使した事が大きな要因だったという認識に至っていた。そこでまずはドイツ的几帳面さで、出撃の一週間前に暗号帳を一斉に変更した。
 このためブリテンは、ドイツ艦隊の動きを掴むのに手間取り、またドイツ側が多数繰り出したツェペリンの偵察飛行船のおかげで、ドイツ側の方が優位な位置を占めることが出来た。
 戦闘は当初から主力艦隊同士の同航状態に入り、ドイツ側が比較的遠距離からの攻撃を行おうとするのを、ブリテン側が巡洋艦、大型駆逐艦の数の優位を活かした接近戦を試みるという形になる。つまりは、ドイツは上方から打ちかける砲弾で相手の爆沈を狙い、ブリテンは雷撃により打撃を与えようとしたと言えるだろう。ブリテンが15インチ砲戦艦を多数有しながらも遠距離戦を避けたのは、ドイツ側の砲が遠距離砲撃戦で優位になるのではないかという疑問を持っていたからだと言われている。
 しかし敵戦艦の1発爆沈には、偶然の要素が必要な上に自分たちにも一定の危険があった。大規模で統一された雷撃には、かなりの訓練と条件を必要としたし、魚雷そのものの命中率は低かった。当時は不発魚雷の数もかなりに上った。このため両者決定打に欠けたまま、かなりの時間砲撃戦を行うことになり、双方に損害が続出した。そしてドイツ側が期待した通り、防御力に劣るブリテン艦には爆沈したり簡単に脱落する艦艇が出た。しかし多くの艦は、数十発の主砲弾を受けても致命傷でないかぎり戦場に止まって戦い続けた。幸運の一撃は、簡単にもたらされるものではなかったからだ。

 戦力そのものは、ドイツ側は前弩級戦艦で数を水増しして五分に持ち込んで、ブリテンが大口径の15インチ砲で優位があった。だがドイツの大型艦は、基本的に居住性と航海性能を犠牲にして防御にリソースを振り向けているため、ブリテン艦に対して防御面ではワンランク上の優位があった。主砲塔(砲弾と装薬)の防御方式も非常に優秀だった。このため、12インチ砲搭載戦艦が、15インチ砲弾の打撃に耐えるという情景が見られた。
 しかしドイツ戦艦が15インチ砲に耐えた理由は、ブリテン側にもあった。ブリテンの砲撃試験は垂直の装甲に対して行われるのに対して、ドイツ側は実践的に傾斜した装甲に対して行っているため、両者の砲の性能はドイツ側がさらに優位となったからだ。ドイツ海軍があえて小口径の主砲を搭載するのも、クルップの大砲が優れていると言うよりは、この理由がかなりの割合を占めていた。

 戦闘開始から2時間近くが経過すると、両者いったん距離を開ける。状況が混沌とした事と、互いに損害が積み重なった結果だった。各艦の砲弾の減少も激しかった。そして双方の司令官は自らの損害に慄然となり、そして砲弾が既に残り少ない艦が多いため撤退を決意する。いったん距離を取った時はどちらも自らが有利になった場合の追撃戦を考えていたが、互いに追撃どころではなかった。
 戦闘の結果、双方ともに6隻の戦艦または巡洋戦艦が、沈没もしくは救う手だてがない程損傷していた。しかし損害の質が違っていた。ブリテンは最新鋭の《クィーンエリザベス級》戦艦の《バーラム》があろう事か弾薬庫側の甲板を撃ち抜かれて爆沈しており、相手の牽制に終始した筈の巡洋戦艦群は今回も防御面での弱体を晒していた。これに対してドイツ側の損害の半数は、劣勢を覚悟で投入された旧式の前弩級戦艦で、ブリテンの損失艦が全て弩級クラス以上だったのに対してドイツの損失は半数の3隻だった。
 この結果、北海の弩級艦以上の戦力比は21隻対20隻となり、遂にドイツ海軍がブリテン海軍に拮抗する事ができた。
 しかしブリテンは15インチ砲を搭載する新型の《ロイヤル・ソヴェリン級》を既に就役させ始めており、同級を改設計した巨大な巡洋戦艦の就役も近かった。独特の思想に基づく超軽巡洋艦の建造も、急ピッチで進んでいた。これに対してドイツでは、艤装中の戦艦は僅かに2隻であり、結局北海の制海権を奪うことは出来なかった事になる。
 だが戦略的には、また別の視点があった。
 日本海軍の存在だ。
 日本は、1916年中にさらに1隻の超弩級戦艦が就役予定で、1917年に入ると半年以内に4隻が相次いで就役し、さらに4隻の大型艦の建造が3交代24時間操業体制で始まっていた。つまり、就役する数は同数となる。しかも連合側は、フランス、イタリア、ロシア共に近日就役する予定はなかった。しかも噂話としてだが、大和共和国が自らが参戦しない代わりに、日本に最新鋭戦艦を秘密裏に輸出したという話しまであった。
 このため1917年夏頃には、同盟と連合の弩級、超弩級艦の勢力は完全に五分になることを意味していた。しかも、若干ではあるが質的優位も同盟側に傾き、ロシアは完全に艦隊保全状態なので優位は同盟が握るという事を意味していた。しかも連合の制海権維持を一手に引き受けるに等しいブリテンは、ドイツの封鎖か日本の侵攻阻止かでその後も頭を悩ませ続ける事にもなる。

 海で派手な戦いが行われる一方、陸では西部戦線が壮絶なことになっていた。「消耗戦」という新たな戦略が出現し、「ヴェルダン攻防戦」がその舞台となったのだ。
 消耗戦は、ドイツ陸軍の中枢部が新たな戦術の一種として仕掛けたものだが、ドイツ軍将兵の殆どは上層部の考えを知らず勝利を信じて激しい攻撃を行い、つられたフランスは懸命の防戦を実施した。
 1916年2月に開始された戦いは10ヶ月近くに渡り、合わせて70万もの将兵が死傷する事になる。なお、この戦場では、新兵器である航空機も消耗戦の対象となり、双方の航空機が多数空を舞い、そして地に墜ちていった。撃墜王(エース)が誕生するようになったのも、この時期からの事だった。
 同年7月からは、ソンムの地で連合側がほぼ初めての全面攻勢を取り、ここでも激しい戦闘が繰り広げられる。この戦場の特徴は、単なる消耗戦というだけではなく、新兵器である戦車が投入された点にあるとされる事が多い。しかし初期の戦車は故障も多く、戦術も稚拙なためほとんど役には立たなかった。結局11月中頃までに攻勢は失敗に終わり、連合60万、ドイツ45万の死傷者を出して幕を閉じる。
 一方東部戦線では、1916年8月にルーマニアが連合側で参戦した。ロシアの1916年の夏季攻勢に期待しての参戦で、オーストリア(ハンガリー)から領土(トランシルバニアなど)を奪い返す事を目的とした参戦だった。オーストリアの不甲斐なさを見て、ルーマニアは連合での参戦が有利と判断したのだった。
 だがルーマニアは、ドイツの存在を無視しすぎていた。
 開戦から僅か四ヶ月足らずの間ひたすら同盟側、主にドイツ軍に叩かれ続け、全軍の4分の3と国土のほとんど失ってしまう。ドイツ軍とルーマニア軍とでは軍隊の質がまるで違い、まったく勝負にならない戦闘だった。これは日本軍と清朝軍の戦いでも見られた事だが、第一級の産業と戦術運用能力を持つ列強と、それ以外の国の軍事力格差をよく伝える事例だと言えるだろう。
 そして準一流同士の戦いであるイタリアとオーストリアによる「失われたイタリア」を巡る戦いだが、この戦争では珍しく山岳地帯が主戦場のためほとんど戦線が動いていなかった。なぜ山岳部で戦われたかと言えば、ここがイタリアが奪い返したい土地だったからだ。
 そして無理に攻めるイタリア軍は無為に損害積み上げるばかりで、矛先を東部のイーストラ半島(ここも「未回収のイタリア」)に向けるも、こちらの攻勢も芳しくなかった。戦略的にイタリアは、オーストリア軍を引きつけたという以上には何もしていなかったと言えるだろう。そして連合軍のかかえるヨーロッパ各地の戦線は、どこも似たような有様だった。

 一方の同盟側だが、日本軍の動きが相変わらず活発だった。これは相手が基本的に弱いからであり、日本軍が極端に強いからではなかった。無論、インド洋でのブリテン艦隊のような例外はあるが、インド洋の場合はあくまで例外だった。しかも日本には、奪い返した地域の物資と人員、大和からの資金援助(国債購入、借款)、物資供給(決済先延ばし、最恵国待遇の貿易など)があった。
 1916年春を越えた頃の日本は、列強各国も行った産業構造の強引な大幅転換によって、国内の戦時生産がフル稼働状態に入っていた。国内で不足する機械などは、大和から購入された。中には工場がラインごと購入された。兵力動員数については、日本は生産力を優先したのでフランスほど極端ではなかったが、それでも400万人に達していた。しかも濠州、新海、その他植民地からの動員も積極的に行われ、その数は総数600万人に達していた。ヨーロッパ各国に比べると動員数はやや少ないが、それは大規模な陸戦を行う戦場が少ない事と、日本が自国経済と工業生産力の維持を図りつつ戦争を行っていたからでもあっだ。このため、海軍の拡張、戦時商船の建造は非常に活発で、造船業は拡大の一途だった。大戦争遂行に必要な商船の建造量は、ブリテンの半分(約100万トン)を超えるほどとなっていた。
 そして短期間で巨体となった日本軍の戦略目標は二つ。ロシアのシベリアと、ブリテンのインドだった。しかし1916年半ばの時点では、インドではインド洋の制海権の獲得と通商破壊戦が最盛期であり、大規模な地上侵攻はまだ最低でも三ヶ月後の予定だった。
 陸戦の主軸は、夏しかまともな戦闘のできないシベリアにあった。
 満州では前年の秋以降から鉄道、道路の整備を熱心に進め、その傍らで機動性を高めた軍団を準備し、5月に一斉に攻勢を開始していた。また、既に敗者となった清朝と領内通過の話しを付けて、外蒙古からバイカル湖近辺を突く準備が進められた。こちらは旧来の騎兵を主軸とした戦力を投入予定で、二方向からの同時攻撃でシベリア東部のロシア軍を殲滅する積もりだった。加えて、支作戦として小数の騎兵部隊が、シベリア各地で遊撃戦を展開する予定だった。
 対するロシア軍は、開戦頃から満州に駐留するくたびれた1個軍がそのまま展開するだけで、戦争が始まってからもロシア語すら理解できない兵士の補充しか受け取っていなかった。兵力の補充はまずはヨーロッパ戦線(東部戦線)に回されており、ロシア中央はシベリアでの戦いは時間稼ぎと日本軍への嫌がらせで十分と考えられていた。戦争に勝利しさえすれば取り返せるし、戦争の勝利とはドイツに勝つことだったからだ。
 加えて言えば、山脈、沼地、荒野ばかりのシベリアで、まともな戦争が出来るとは全く考えていなかったからでもあった。

 そして4月15日、まだ十分に温かくなったとはいえない満州北西部とザバイカル地方の境界線であるアルグン川を、既に展開を終えていた日本軍が一斉に越えた。同時にアムール川方面からの攻勢も開始され、既に奪回した北海州からシベリアに対しても、多数の騎兵部隊が陽動攻撃と遠距離偵察、さらには浸透攻撃を開始した。
 アルグン川を越えたのは1個軍集団、約30個師団で、前線の兵員数は100万人に達した。その後方には、兵站維持のためだけに50万の兵士が任務に当たっており、後方で活動する軍人、軍属、その他兵站関係者の数は前線の兵士の数よりも多かった。侵攻した30個師団にしても、半分は進撃を維持するための部隊で、中には後方部隊である工兵師団や鉄道師団、新設の輸送師団が含まれていた。
 人ばかりでなく、多くの鉄道、馬、さらには各種自動車、自動貨車が動員されていた。自動車の多くは新大陸の大和共和国から大量に輸入されたもので、日本軍の中には多数の大和軍の観戦武官が派遣され、志願兵からなる大和義勇軍(旅団規模)も日本の傭兵という枠で日本軍の戦列に参加していた。この志願兵には大和陸軍の将校が多く、彼らは一時大和軍籍を外れて活動して、近代戦争に必要なものを直に学び取ろうとしていた。
 なお100万の軍勢といっても師団数は約30個で、戦闘要員は多めに換算しても70万人程でしかない。つまり後方の人数と合わせると、攻勢に出た全軍の半分以上、最大60%が進軍を維持するためのものだった。半年間に鉄道の強化や道路整備、円滑な補給と進撃の為のシステム構築は実施されていたが、それだけでは世界の辺境であるシベリアでの大規模な戦闘など不可能だったからだ。この事は、当の日本軍もよく理解していたため、兵力、特に火力を増強した騎兵部隊や軽快な運動力を与えた精鋭の歩兵部隊を多数用意していた。侵攻した部隊全体も、運動戦を主体として動くことが決められていた。また、山岳戦に強い専門部隊(=山岳師団)の編成も行われ、第二次攻勢で使う予定だった。

 日本軍の攻勢は、最初の戦闘こそ川の対岸のロシア軍を、半年間備蓄した物資による圧倒的物量戦で粉砕したが、それ以後はロシア軍を二重包囲するような大規模な運動戦を行った。この戦闘は平原で行われたため、軍の先鋒には多数の騎兵が参加していたが、それ以上に多数の自動車、自動貨車が参加していた。初期的な装甲車の姿を見ることも出来た。重い重砲や砲弾、各種補給物資も、多くが自動車、自動貨車で運ばれた。
 とはいえ、第一目標のチタの街に至るまでずっと平原が続くわけではなく、ロシア軍も後退戦術を主軸にしていたため無様に捕捉されることは殆ど無かった。ただし現地ロシア軍の士気は低下を続けており、次なる衝撃がシベリアロシア軍全体を揺るがす。
 それは5月12日、日本軍の精鋭1個軍がようやくチタ前面に迫った頃に、極秘裏にモンゴル地域を突破した数万の大騎兵部隊が、バイカル湖東岸近くにあるウランウデの町に突如現れた事だった。
 ロシア軍もモンゴル方面からの攻撃を全く警戒していないわけではなかったが、予測していたのはせいぜいが旅団規模の威力偵察部隊程度で、軍団規模の騎兵部隊が押し寄せるとは予測していなかった。しかも日本軍は多数の重砲を擁しており、本格的な侵攻部隊だと報告されたため衝撃はいっそう大きかった。
 しかもこの部隊は日本軍ばかりではなく、日本に賛同したモンゴル人の騎馬部隊も多く参加していた。このため規模が大きくなったのであり、また道案内と補給部隊(の一部)を得た事で比較的容易く侵攻できたと言えるだろう。現地の者しか知らない道なき道を通った日本軍部隊も少なくなかった。
 そして突如現れた日本軍の大騎兵部隊は、防備手薄なウランウデをほぼ無抵抗で占領すると、シベリア鉄道を実力で封鎖してしまう。しかも、周辺部にまともなロシア軍部隊(軽装備の警備部隊程度しかいない)が居ないことを掴むと、積極的な戦線拡大を実施して付近一帯を占領してしまう。
 要衝のイルクーツクは、バイカル湖南岸の狭隘地での鉄道爆破が間に合った事で何とか陥落を免れたが、事態は現地ロシア軍にとって極めて深刻だった。何より、チタ方面にいるロシア軍1個軍は、完全に退路と補給路を同時に断たれたことになる。しかもロシア軍は、シベリアの兵力については常に最低限に抑えていたため、この1個軍がなくなると、まともな兵力はヨーロッパ正面にしか存在しなかった。つまりウラル山脈まで、無防備になるに等しいという事だった。
 ロシア軍自らがシベリア鉄道を破壊したのも、イルクーツクだけでなくシベリア全土を守る戦力が存在しなかったからだった。

 そして日本軍は、チタに籠もったロシア軍を前後から包囲し、約一ヶ月後に現地ロシア軍は降伏することになる。
 しかもその頃には、バイカル湖を北部から迂回した日本(+モンゴル)の騎兵部隊がイルクーツクとその周辺部に展開した。彼らは、俄仕立ての民兵や僅かな数のコサック騎兵を蹴散らし、バイカル湖一帯を完全に占領下に置いてしまう。要塞陣地などなかったイルクーツクも、一週間ほど抵抗した後に市街戦を行って陥落した。
 そして鉄道を復旧しつつ日本軍主力がバイカル湖にまで到達する頃に、ようやくヨーロッパから引き抜かれた1個軍のロシア軍部隊が西シベリアに運ばれてきた。
 このため日本軍の前進も停滞し、イルクーツクからクラスノヤルスクに至るシベリア奥地の山岳地帯で両軍は対峙する事になる。
 もっとも、北部の北海州からシベリアの中部及び北部に入った日本軍は、中央シベリア高原をほぼ制圧していった。そして夏の大湿原と化した西シベリア低地にまで、ロシア軍のコサック騎兵達を追い落としてしまう。夏に日本軍が動けたのは、河川(+川船)を利用したからであり、シベリアでの戦い方を十分に心得ていたからだった。
 この結果、クラスノヤルスクを軸とするロシア軍は、大きく二方向から日本軍に半包囲された状態となり、結果として夏は補給路として使えるエニセイ川の制川権まで失ってしまう。
 広大なシベリアの大地での日本軍の成功は、既に時代が過ぎ去ったと言われていた騎兵の多用にあった。さらにその騎兵を、大量の機関銃と最低限の機動砲兵だけを伴わせた事にあった。この時期シベリアで活動していた日本の軍馬は、輸送用を含めると20万頭に達しており、さらに5万頭近いモンゴル馬と騎兵達が加わっていた。加えて河川の運用もロシア軍並に長けており、ロシア軍が持たない自動車も投入できる戦場には積極的に投じた。
 そして数に劣るロシア軍が対処できない動きを取る事が多いためロシア側の損害も少なく、多くの成果を上げることができた。そして前近代的面の多い騎兵を多用したため、この戦争でどの軍隊もよく陥った進撃後に兵士達が疲労と補給不足で動けなくなるという言う事態にはほとんど至らなかった。補給が重要なシベリア鉄道沿いでは、日本軍はこの頃世界でも最も多くの機械化された補給部隊を投じていた。
 ただし日本軍の勝利と騎兵戦術の成功は、シベリアという世界の僻地に鉄道がほぼ1本しかなかった事が大きな要因となっている。鉄道は攻撃だけでなく防御でも大きな威力を発揮するからだ。またロシア軍がヨーロッパで行われている戦いの形式にとらわれすぎていた事、逆に日本軍が主戦戦で見せた高い補給能力を予測できなかった事も、日本軍の勝利に結びついていた。

 なお、シベリアでの戦闘は短い秋の到来と共に完全な膠着状態に陥ったが、復讐に燃える日本軍が依然として意気軒昂なのに比べて、ロシア軍の士気は大きく落ちていた。
 原因は日本軍との戦いだけではなく、ヨーロッパでの大規模な攻勢がドイツ軍の前に大きな失敗に終わり、多くの兵士を失ったためだった。
 シベリアでは途方もない面積の領土を占領された事になるが、失った兵力は多く見ても30万人程度で捕虜が半数以上を占めていた。だが、ヨーロッパ方面での攻勢による失敗では、100万の兵士が死傷していた。しかも大量の戦争資源が無為に浪費されており、列強の中で最も経済、社会、工業の近代化が遅れていたロシアに大きな士気低下をもたらしていた。
 そしてロシアの斜陽は、大戦を混沌とする前触れでもあった。 


フェイズ29「グレート・ウォー(5)」