■フェイズ29「グレート・ウォー(5)」

 1917年に入り、各国の戦争経済はそれぞれの理由で窮乏しつつあった。特に戦費不足は著しく、北アメリカ諸国が連合、同盟双方の国債を購入していた。アメリカ、南部が連合を、大和が同盟の国債を主に買っていた。また戦争に参加していないヨーロッパ諸国は、主に連合側の国債を買っていた。国のラインナップから、連合が勝利する可能性が高いと見られていたからだ。

 しかし戦争の行く末は、徐々に混沌としつつあった。
 特にヨーロッパ諸国にとって、日本の存在はまさにダークホースだった。日系国家の大和共和国は、冷静に日本の国力と東アジアでの戦力差、日本の持つ地の利を知っていたので日本買いを行っていたが、他の国々にとっては日本が東アジア随一の大国と言われていた清朝、陸軍大国のロシア、さらには世界最強のブリテン海軍すら破ってしまうことは、天地がひっくり返る程の予想外以上の出来事だった。
 その上ブリテンは、力の根元とすら言われるインドとの海上交通路の主要ルートを事実上遮断され、総力戦遂行の上で戦争経済の根幹が揺らいでいた。カナダは想像以上に活躍していたし、南部連合も予想外にかなりの兵力をヨーロッパに派遣していたが、どれも決定打に欠けていた。しかも北米随一の大国である大和共和国は、局外中立を宣言している上に基本的に親同盟派の国だった。さらに各種資源の輸出を行うブリテンなどに対して、現物による取引を常に求めるという向きを日に日に強めていた。大和は、連合が負けないまでも勝てないだろうと考えていた何よりの証拠だった。
 しかも大和が親同盟の動きを強める事は、北アメリカ大陸情勢の不安定化を進める要因となっていた。
 南部は、既に動員戦力の4分の1近くをヨーロッパに派兵しており、北アメリカ大陸での戦争は全く望んでいなかった。アメリカもフランスやブリテンの国債をどんどん購入していたので、陣営としては仇敵南部と同じ連合側であった。
 確かにアメリカの心情としては、この機に南部、そしてカナダに侵攻して一気に北米東部を統一したいという願望は強くあった。そうすれば、最終的には大和を破って北米の統一すら可能性が出てくるからだ。だが今回の戦争の場合は、連合、同盟、中立の三択しかないので同盟に荷担しなければならない上に、恐らくはその後自国の利益のために連合に加わる大和の総攻撃を受け、戦争前より酷い状態に終わるという可能性しか見えていなかった。アメリカが連合に参加しても、結果は似たようなものだろうと予測できた。大和は、必ずアメリカの敵となるからだ。
 その上、フランスもブリテンも、大和を参戦させるようなことは全く望んでいなかった。
 特にブリテンは、濠州、インドという食料供給地を失った為、カナダを経由して大和からの食料輸入が不可欠となっていた。
 そして北米大陸では、大和だけが構成民族の影響もあって親同盟だった。このため南部は、連合の側にあえて立って参戦したと言えるだろう。大和が同盟側に立って参戦することはブリテンが到底許容しないし、大和自身がそれを演出していた。
 しかも大和は、日本、ブリテンさらには世界中で工業製品、穀物、地下資源の不足する国々に様々なものを売りさばいて巨万の富を稼いでいた。その上大和は、少しずつであるが軍拡を進めつつあり、既に太平洋とメヒコ湾の双方に弩級または超弩級戦艦を浮かべてすらいた。日本への輸出に並行して自国軍の近代化と重装備化、軍の制度そのものの近代化も進めており、1917年に入る頃には北アメリカ大陸の軍事バランスは全ての面において完全に大和優位となっていた。
 幸いと言うべきか、大和は各国に通達した上で通常動員以上の軍の動員は行っていなかったが、それは敢えて行っていないというだけに過ぎなかった。
 だが大和自身は、自らの国防に不安を持っていた。万が一、アメリカが連合に参加して南部と共に自分たちに攻めかかってくる事態を警戒していたからだ。戦争に負けるとは考えていなかったが、不利は免れない事を警戒していた。大和は広い国土に、産業と人口の中枢が分散しており、特に大陸を南北に縦断している巨大な大雪山脈は、国土を二分しているに等しかった。このため大和は国内の鉄道網の整備に殊の外努力を傾け、広大で緻密な国土全体の鉄道網を構築していたが、戦争となった場合の不利は免れないと見ていた。
 このため大和は、国内の流通網の整備を精力的に進めると共に、対立状態が深くなる19世紀中頃から、国境となっているミシシッピ川から西に100キロ入った辺りに拠点都市を設けるようになっていた。戦争中も、鉄道網のさらなる整備と、国内での移動効率の向上に力を割いていた。
 そして双方の警戒感から、ミシシッピ川は南北を分けるオハイオ川、ポトマック川よりも緊張の走る川となっていった。同時に、大和とカナダの境界線の緊迫度も徐々に上がっていた。

 だが、ロシア革命による大きな混乱が起きた1917年は、北アメリカ大陸に破局は訪れず表面上は平和を維持していた。
 大和共和国政府が、日本へのさらなる資源、製品の輸出、さらには武器の大量輸出、国債の購入に踏み切る決定を行った事で緊張は増したが、増した以上にはならなかった。ブリテン政府など連合各国は大和の行動を非難したが、大和政府は中立国の貿易や国債購入に制限を求める事は内政干渉に当たると反論。同盟諸国や、ヨーロッパとりわけブリテンの覇権が衰えることを願う国々も大和の肩を持った。
 これで両者の緊張はさらに増したが、平穏を維持した。
 なぜなら、大和共和国自身が戦争を望んでいないし、ほぼ全ての国が大和が戦争に加わることを望んでいなかったからだ。比較的関係の薄いドイツですら、大和がドイツの国債を大量に買い付けているので、それが止まることの方を嫌っていた。大和が同盟側で参戦したところで1、2年は北米平定に時間がかかるし、それはヨーロッパに与える直接的な影響が比較的小さかったからだ。そして大和の軍事力を恐れている北アメリカ各国は、巨人を起こすことを常に警戒していた。
 総人口1億1000万人の大和共和国が総動員した場合、その戦力は簡単に1000万人に達する。後先考えない「根こそぎ動員」を行えば、2500万人の軍隊だって誕生する。そしてその全てに十分な武器と補給物資を与えるだけの国力と工業力を持っていた。食料も有り余るほど生産されていた。これが大和の強みであり、他国が感じている恐怖だった。
 防戦に徹されたら絶対に倒すことが出来ず、しかも攻勢能力だけでも簡単に北米の他の国を粉砕することが可能だった。大和がそれをしないのは、占領統治もしくは領土割譲や併合による統治コストが、得より損が多いと強く考えているからに過ぎない。
 北アメリカでの「白人とそれ以外」という国による棲み分けが、そうした戦略的環境を産み出していたのだ。
 しかし不安定を抱え続けている事に各国は耐えられなくなり、最初にしびれを切らした南部連合が声を上げる形で再び北アメリカ大陸での国際会議を持つことになった。最初の会議はあえてワシントンで開催され、北アメリカ大陸での不戦と中立を確認し合った。本来なら、各国共に期間限定でもよいので相互不可侵条約にまで踏み込みたかったが、これまで積み上げてきた互いの疑心暗鬼と相互不信、そして世界情勢から成立しなかった。しかし、北アメリカ大陸での不戦の確認、相互監視のもとでの各国境線での兵力削減が決められた事は大きな成果だった。
 だがこの結果、大和自身が戦争に荷担しない事で、大和が自分たち用に生産していた兵器の一部が輸出へと回されている。この事について北米各国は半ば「見なかった事」にしたが、戦争当事国にとっては戦闘の天秤を揺らす小さくない要素として神経を尖らせる事になる。
 そして大和共和国がちょっとした「寝返り」をうつたびに北アメリカの各国は神経を尖らしている頃、ヨーロッパ随一の大国の一つが呆気ない最後を迎える。

 1917年3月、ロシア帝国で総力戦により困窮した国民の反乱が起き、首都ペテルブルグでの反乱により、呆気なくロマノフ王朝が倒れてしまう。
 しかし革命だけでは、極端な戦略的変化はなかった。
 革命後に成立した臨時政府を率いるケレンスキーは、同盟との講和を行わなず戦争を継続したからっだ。だが、この臨時政府が戦争継続できるほど盤石だったのかといえば、そうではなかった。
 臨時政府には、主に社会主義者、共産主義者、反貴族、少数民族など様々な反政府、反ロシア、反帝政の団体や勢力が臨時政府に参加していたが、これといった支持母体を持つ組織がなかった。しかもこの革命に対して、半ば盲目的に皇帝陛下とロシア正教を信じる民衆、宗教を否定する共産主義者を敵視する正教会とそれに率いられた民衆、社会主義革命を嫌う富裕層、中産階級の市民など様々な反発勢力もあった。
 こうした不安定さを外敵の存在で何とかしようとした臨時政府だが、既に兵士達は戦争に飽きていた。貴族の将校はもはや戦争どころではないし、農奴の兵士も同様だった。
 革命後の攻勢では、オーストリア軍に大きな打撃を与えたにも関わらず、戦場放棄してロシア軍の方の戦線が自壊という形で崩壊する事態となった。そして同盟の反撃により攻勢も粉砕され、総崩れとなったロシアは窮地に立つ。だがこの時点で同盟側に大規模な攻勢に出る準備ができておらず、ドイツはスイスにいた共産主義者達をロシアに送り込むことを画策する。別に共産主義革命を起こすためではなく、自らの戦争を有利に運ぶためロシア国内の混乱を大きくするのが目的だった。
 しかし最も急進的、革新的な団体がロシア入りするという情報が各所に漏れており、レーニンなど共産党関係者を乗せた封印列車(外交列車)は爆破、脱線さらには襲撃を受ける事で全滅する。彼らがもし生存してロシア領内で活動した場合、歴史に名を残したかもしれなかった。だが、それは仮定の話しであり、グレート・ウォーという容赦のない時代にあっては小さな事件としか扱われなかった。もちろんと言うべきか、暗殺の犯人なり国が特定されることは無かった。

 そしてシベリアの奥地からは、5月から一斉に日本軍が動き始めた。この時日本軍は、戦線を放棄するロシア兵の後を追って進むだけとなった。夏はロシアを押すという基本戦略を固めて準備を整えていた日本軍だけに、その行動は早かった。
 しかも日本軍は、革命という状況に対応して、捕虜への待遇、占領地での民政、物資の供給に力を入れ、占領地の民心を掴むことに心がけた。その方が占領統治が安上がりになることを、これまでの戦いで熟知していたからだ。そこにきて革命の混乱のため、日本軍の進撃速度は非常に早かった。
 アジアからのシベリア鉄道は、兵士や武器弾薬よりも食料や衣料品、一般医薬品を運ぶ貨車で一杯であり、負傷兵で一杯の筈の帰りの列車は戦利品や貿易品を積む以外ではガラガラだった。このため軍用に用意していた医薬品の一部までが、占領地の住民に安価で販売されたり配給された。軍医や従軍看護士(婦)も、赤十字共々民間への医療活動で活躍した。
 そして日本軍がシベリアの重工業都市として発展しつつあるノヴォシビルスク辺りまで進んだ頃に、ドイツと共にロシア臨時政府との間の講和を図ろうとした。だが、同盟全体での講和を優先し、しかもドイツが過酷な条件のため、この年の10月の講和は成立しなかった。おかげで日本軍は、さらにシベリア奥地へと進まねばならず、最終的には先遣の独立混成機動兵団がウラル山脈にまで到達する事になる。
 日本がロシア軍を破るために用意した武器弾薬以外の兵站物資は、武器弾薬以上の効果を発揮して日本軍を西へと進ませることとなったのだった。食料運搬用の列車の中には、住民慰撫をかねて大量の酒類、甘味が満載されたりもした。

 ロシア中心部では、その後ケレンスキーに代わる中心に立つ人物は出ず、しかも臨時政府の対抗馬であったソビエト(=評議会)は力を得ることができず、そのまま臨時政府は憲法を発布して臨時政府ではなく新たなロシア政府となった。この時点での新たな国名は「ロシア連邦共和国」になった。
 しかし国の体裁を文字通り形だけ整えたからと言っても、何も変化はなかった。ドイツ軍を中心にした同盟側は1918年2月に一斉にロシアへの総攻撃を行い、対処する軍事力どころか国家体制すらないロシア軍は、まともに戦う手段すらなかった。西からはドイツ軍と小数のオーストリア軍が、ウラル山脈の東からは準備を整えた日本軍が、一斉にペテログラードやモスクワ目指してほとんど無抵抗なロシアの大地を進撃した。
 結局ロシアは、ブレスト=リトフスク、エカチェリンブルグの二カ所でドイツ、日本それぞれに対して講和条約を結び、ロシアという国家は完全に戦争から脱落する事になる。
 二つの条約の違いは、ドイツが戦争遂行(=食料、資源、労働力確保)のための多数の領土割譲なのにたいして、日本側は相手を脅した末での中央アジア地域の独立にあった。この時点で日本はまだまだ進撃する能力を有していたため、このままではウラル山脈より東側全てが奪われると考えたロシア側が慌てて日本との講和を図っていた。また日本は、奪回した北海州以外にも、バイカル湖周辺部など東シベリア全域を割譲している。
 ちなみに、この停戦後の話しだが、依然としてノヴォシビルスク辺りで駐留していた日本軍は、オムスクで敗北した白軍残党を収容し、自国領内などへの亡命を認めている。その数100万人とも200万人ともいわれ、日本は人道援助であることを強調した。しかしこの時、白軍残党はロマノフ王朝の財宝、金塊を多数保持していたとされ、その量は黄金だけで500トンにも達すると言われる。だが真実は日本政府から漏れ出ることはなく、革命と戦乱が産んだロマンとして今日にまで語られている。
 またもっと大きな事件として、ウラル山脈のエカチェリンブルグまで進んだ日本陸軍の先遣部隊の特務偵察隊が、予想外の場所でロシア皇帝とその一族を保護することになった。臨時政府が、白軍の奪回を恐れてエカチェリンブルグの離宮に幽閉していたのを、日本軍が偶然救出した形だった。
 とはいえ、その後ニコライ2世とロマノフ王朝が復活するという事件もなく、くだんの金塊はロマノフ王家から日本への事実上の身代金となったと言われる事が多い。そしてロマノフ一家は、日本での一時滞在の後でスウェーデンに改めて亡命しロシア帝国は正式に滅亡する。

 なお講和時の同盟側は、ロシアに通商の回復という名目で一時的なシベリア鉄道の通行権を得ようとした。しかしロシアが、全土が事実上占領される可能性を恐れた事と、ロシア領内の治安の悪さ、鉄道の運行状況の酷さから同盟側も諦めている。しかしヨーロッパに向けての輸出はロシア人を介して実施され、ロシアの資源や食料と同様に、日本から輸出された様々な物資が、その後多少なりともドイツを始め同盟諸国の窮状を救う事になる。
 そしてロシア革命とその後の混乱は、戦争の行く末にも大きな影響を与えることになる。

 一方、1916年秋頃から、日本軍がインド洋で活発な活動を開始していた。
 1916年5月末の艦隊決戦に勝利した日本軍は、インド洋中部までの制海権を獲得して海上戦力を再編成すると、すぐにもインド洋西部、アラビア海、アフリカ東部沿岸、さらには南アフリカ近辺までを作戦海域とした、大規模な通商破壊戦を活発化させていた。
 それまでも通商破壊には熱心だったが、セイロンを完全に拠点化してブリテンの東洋艦隊を撃破したことで拍車がかかっていた。
 通商破壊戦が可能な、巡洋戦艦、装甲巡洋艦、防護巡洋艦、仮装巡洋艦、潜水艦、様々な艦艇が多数海に放たれた。単艦の場合が多いが、中にはブリテンのカウンターに備えて戦隊で行動しているものもあった。しかも彼らの偵察を、長距離飛行を可能とした大型飛行船や、環礁などに展開した水上機が支援した。黎明期の航空機たちだったが、ブリテン側の航空戦力がほとんどない状況では非常に効果的だと考えられていた。
 日本の水上破壊艦隊は「鯱の群」と恐れられ、多数の弩級、超弩級戦艦を擁する日本の主力艦隊がアデンのブリテン東洋艦隊を力で押さえ付けているため、連合側、というよりブリテンに出来ることは限られていた。
 そしてインドのアラビア海側にあるボンベイやカラチから紅海を目指すブリテンの船は多かったが、基本的には護衛艦艇を多数付ける以外に対処方法がなかった。何しろ日本海軍は、ドイツと違って力任せの通商破壊戦を仕掛けてきているのであり、有力な水上艦隊以外での防衛もしくは排除は事実上不可能だったからだ。
 ブリテンは、フランス、イタリアにも助力を頼み、トルコへの攻撃や地中海の制海権を低下させてでも、インド洋西部に増援艦艇を多数送り込んだ。前弩級戦艦、装甲巡洋艦が多数アラビア半島のアデンに入り、前弩級戦艦は日本艦艇から船団化させた商船を守るための護衛につき、装甲巡洋艦は戦隊を組んで日本軍通商破壊艦の狩りに出撃した。
 しかし日本側は有力な《香取型》弩級巡洋戦艦を投入するなど、たいていの場合ブリテンを越える海軍力を投じるため、頻発した小規模な戦闘では多くの場合ブリテン側、連合側が劣勢を強いられ、7割以上の確率で連合側が敗北した。しかも連合側の敗北は、輸送船の損失も意味しているのに対して、日本軍は艦艇を失うか損傷するだけという、連合にとって不利な状況だった。
 そして日本が、本来なら最も有力な巡洋戦艦を前線に投入していることに対して、ブリテン海軍は危惧を強めた。新造艦が多数就役したか、他国から購入した可能性が高まったからだ。
 だがブリテン海軍は、消極的になる訳にはいかなかった。ブリテン側の敗北の多くは、商船の沈没だけでなく海上交通の途絶そのものを意味しており、事態は単に水上戦闘に敗れるよりも深刻だった。
 しかも日本海軍は、続々と新型の高速巡洋艦(大型の軽巡洋艦=《長良型》軽巡洋艦)を戦線に投入し、新鋭戦艦の導入に合わせて他の戦艦もブリテンの艦艇狩りに投入した。
 その間日本軍は、インド洋東部にあるセイシェル諸島、モーリシャス諸島に上陸部隊を送り込んでこれを占領。現地には、ほとんど連合軍が駐留していなかったため、どちらも無血占領となった。連合軍も重要性は理解していたが、回す戦力がなかったし、制海権を失うことは全く予測していなかったからだった。
 そして日本軍は、両諸島を占領後、すぐにも拠点化して艦艇の補給拠点とした。急拡大する水上機部隊、大型飛行船部隊も急ぎ展開していった。秋には、遠路南大西洋にまで日本軍艦艇が出没するようになり、アルゼンチンからブリテンに向かう穀物輸送船が、日本軍の巡洋艦や潜水艦の臨検や場合によっては襲撃を受けた。

 インド洋の海上交通路を巡る戦いは、ブリテンと日本だけならブリテンが勝てる勝負なのだが、ドイツが陸で善戦するだけでなくブリテンの主力艦隊を北海に拘束し、潜水艦群が通商破壊戦を仕掛けているので、日本軍が戦いを有利に運んだ。
 このためブリテンは、1917年春になると戦線を立て直すべく続々とインド洋に新造艦を送り込んだ。
 ブリテンで新たに《ロイヤル・ソヴェリン級》や新型の巡洋戦艦の整備が進んでいた事と、日本海軍の新鋭艦の方がドイツよりも脅威だったからだ。またインド洋の海上交通路を何としても維持しなければならないという、ブリテン海軍の決意の現れだと見る事もできる。
 こうして《ロイヤル・ソヴェリン級》超弩級戦艦のうち既に就役している4隻と、準同型艦といえる最新鋭の超弩級巡洋戦艦《レパルス》《レナウン》、さらに超軽巡洋艦《カレイジャス》《グロリアス》がアデンに送り込まれた。全ての艦が、42口径15インチ砲という当時最大級の主砲を搭載した新鋭艦艇ばかりだった。ブリテン海軍は、インドの航路を回復するため、圧倒的な性能と火力で日本艦隊を撃滅する積もりだった。
 一方の日本海軍も、インド洋に続々と戦力を送り込んでいた。
 この時期日本海軍は、稼働状態にある超弩級戦艦6隻、弩級戦艦5隻、弩級巡洋戦艦4隻、準弩級戦艦3隻の全てをインド洋西部に置いていた。前弩級戦艦の残余6隻は自分たちの航路護衛に割き、《香取型》弩級巡洋戦艦と稼働する装甲巡洋艦の全てを通商破壊戦に投入していた。
 このため、超弩級戦艦6隻、弩級戦艦5隻、準弩級戦艦3隻の合計14隻が主力艦隊に属していた。大幅な増援を受けたブリテンの東洋艦隊が超弩級戦艦8隻、超弩級巡洋戦艦4隻、準弩級戦艦3隻なので、ブリテン側が再び優位に立っていた事になる。
 しかし日本側が新たに2隻戦線に投入した《伊勢型》超弩級戦艦は、主砲が45口径14インチ砲12門で、基準排水量3万トンを超える当時世界最大級の巨大戦艦だった。速力も25ノットと巡洋戦艦並に速く、ブリテン最強の《クィーンエリザベス級》戦艦を越える能力を持っていた。ドイツ譲りの防御力も充実していた。4隻の《播磨型》超弩級戦艦も、ドイツ型の重防御を継承した14インチ45口径砲8門装備の高速戦艦なので、一方的に不利と言うことはなかった。
 しかもブリテンの巡洋戦艦は、日本の通商破壊艦艇群を追いかけなければならないし、基本的に航路を破壊しようとしているのが日本側なので、守るものの多いブリテン側の戦略的不利が覆されているわけではなかった。加えて言えば、《カレイジャス》《グロリアス》は4門の15インチ砲と高速だけが取り柄の超軽巡洋艦とすら呼ばれる特殊な巡洋戦艦なので、防御という面では日本の弩級巡洋戦艦に大きく劣る艦だった。
 また日本の45口径14インチ砲とブリテンの42口径15インチ砲は、貫通力などでほぼ同じ能力であり、最大口径の砲門数では56対52とブリテン側がやや劣勢だった。その上、ブリテンとドイツの照準システムの違いもあり、日本側が優位にあった。
 補助艦艇についても、日本の方が続々と《長良型》軽巡洋艦、《神風型》駆逐艦を配備されるとすぐにも送り込んでいるので、日本側が有利だった。

 1917年2月にインド洋に対するブリテン海軍の大増援が行われると、警戒した日本側も紅海寄りでの通商破壊活動を中止し、艦隊再編や休養のためもあって一旦、多数の補助艦艇群によって一大拠点となっているコロンボに主力を後退させた。
 なお、インドを巡る戦いが洋上中心だったのは、相手の妨害と海上交通路の保持が難しい地域では、大規模な上陸作戦とその後の攻める側の陸戦が極めて難しいという事情があった。
 しかもインドには、ブリテンが動員した100万人以上のインド兵の殆どが拘置されていた。日本側も、濠州兵を中心に150万の兵力を濠州やマレー半島、スマトラ島、さらにはセイロン島に準備していたが、それは海を挟んだ睨み合いを作り出しただけだった。そして同盟側は、それで満足していた。日本としては、インドの兵力を中東やアフリカ、地中海に向かわせなかっただけでも十分な戦略的利点があったからだ。何しろ自分たちが動員した兵達は、余程状況が変化しない限りヨーロッパに向かうことができないからだ。
 また、インド洋で日本が暴れ回ったおかげで、ブリテン本土に流れ込む資源、物資は激減していた。ドイツに受けた損害を合わせて、船舶の損害も深刻だった。ブリテンの船舶保有量は、順当といえるほどのペースで減少を続けていた。しかも日本軍は英連邦に属する南アフリカにも脅威を与え、東アフリカ地域で連合側はヨーロッパやトルコに向けるはずだった兵力を動かせなくなっていた。
 加えて言えば、日本が東アジア、そしてインド洋で暴れ回ったおかげで、連合側の海上戦略は前提段階から総崩れ状態だった。主戦場の北海ではドイツとのギリギリの睨み合いとなり、地中海ではまともな攻勢を一度も取れていなかった。一度、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡、そしてイスタンブールを目指してダーダネルス海峡のガリポリと呼ばれる場所に侵攻したが、準備不足が祟ってトルコ軍との消耗戦に陥り、手ひどい敗北を喫しただけだった。中東では、戦争初期の段階でペルシャ湾奥のバスラに上陸するも、バグダッドへの侵攻を手間取っている間に日本軍がインド洋に入り込んだため、補給路を維持できないなくなり退却を余儀なくされた。しかも、何とか補給が維持されているトルコ軍の反撃を防ぐので精一杯に追いやられていた。
 最も悪影響を受けているのは、サロニカと呼ばれるバルカン半島南部のセルビアの南部辺境の「戦線のような」場所だった。サロニカは、セルビアが大敗して以後ずっと、連合軍は部隊を置いているだけの場所だった。本来なら戦力を増強して戦線を構築して南からオーストリア軍を圧迫したかったが、世界のどこにも余剰戦力がなかった。ブリテンなどは、ギリシアを恫喝して連合に荷担させようとしたが、ギリシアは既に連合が不利になっていると見て首を縦には振らなかった。
 要するに、連合軍が何とか優勢を維持しているのは、西部戦線だけという有様だった。無論、西部戦線で決定的に勝利してドイツを屈服させれば戦争そのものを終える事ができる可能性が最も高いのだから、基本戦略は間違っていない。
 しかし、十年ほど前の戦争に負けた国にここまで追いつめられることは、完全な誤算、予想外の事態だった。まさに日本は、ダークホースと言うべきだろう。
 そしてロシア革命とその顛末、そして三竦みの北アメリカ情勢の二つが、戦争の最終幕を開けつつあった。
 

フェイズ30「グレート・ウォー(6)」