■フェイズ30「グレート・ウォー(6)」

 1917年に入り、各国の戦争経済はそれぞれの理由で窮乏しつつあった。特に戦費の不足は著しく、連合、同盟の違いはほとんどなかった。何しろこの戦争では、経済的に豊かな中立国が少なかった。国債を買えるほど豊かで尚かつ中立を維持しているのはヨーロッパのごく限られた国だけで、多くの国が直接戦争に首を突っ込んでいた。
 そうした中でもヨーロッパの中立国は、主に連合側の国債を買っていた。国のラインナップから、連合が勝利する可能性が高いと見られていたからだ。しかし購入規模は限られており、各国は国内での国債消化にも限界があったため、少しでも早く戦争を終わらせたいと考えていた。だが、負けてしまえば天文学的な賠償金が待っている。この事を思えば、停戦はあっても降伏はあり得ない、というのが連合、同盟、特に劣勢な同盟側の考えだった。

 しかし同年春、世界規模での戦略環境を一転させかねない大事件が発生する。
 1917年3月、ロシア帝国で総力戦により困窮した国民の反乱が起き、首都ペテルブルグでの反乱によって呆気なくロマノフ王朝が倒れてしまったのだ。
 しかし革命だけでは、極端な戦略的変化はなかった。
 革命後に成立した臨時政府を率いるケレンスキーは、同盟との停戦や講和を行わなかったからだ。だが、この臨時政府が盤石だったのかといえば、むしろ逆だった。
 主に社会主義者、共産主義者、反貴族、少数民族など様々な反政府、反ロシア、反帝政の団体や勢力が臨時政府に参加していたが、これといった支持母体を持つ組織がなかった。しかもこの革命に対して、依然として半ば盲目的に皇帝陛下とロシア正教を信じる民衆、宗教を否定する共産主義者を敵視する正教会とそれに率いられた民衆、革命を嫌う富裕層、中産階級の市民など様々な反発勢力もあった。
 こうした不安定さを外敵の存在で何とかしようとした臨時政府だが、既に兵士達は戦争に飽きていた。革命後の攻勢でオーストリア軍に打撃を与えたにも関わらず、戦場放棄してロシア軍の方の戦線が自壊という形で崩壊する異常事態となった。そして同盟の反撃により攻勢も粉砕され、ロシアは窮地に立つ。だがこの時点で同盟側に大規模な攻勢に出る準備ができておらず、ドイツはロシアでのさらなる混乱を作り出すため、スイスにいた最も危険と考えられていた共産主義者達をロシアに送り込むことを画策する。
 こうしてスイスからロシアに送り込まれたのが、レーニンを指導者とする急進的、革新的な共産主義者達だった。
 一方、十年ほど前まで日本領だった東シベリア、日本名北海州では、ほぼ一斉に独立運動が起きていた。革命初期の頃は、反ロシアと言うことで革命に参加する気運もあったのだが、他の地域から遠すぎる事、有色人種だとして白人達が相手にしない事もあり、数ヶ月を経ずして革命に乗じた自立という路線が作られた。
 そして現地の日本人達は、大戦前の「日本戦争」に負けて以後ロシア人の理不尽な支配に苦しんできていた。このためロシア皇帝にも正教にも特に義理立てする気はないし、反抗勢力にはロシア人が来る以前の地主や貴族(武士)の末裔も多かったので、彼らも共産主義や社会主義に迎合する気はなかった。そして北海州に住んでいるロシア人は、中央から送り込まれた支配階層に属する官僚と軍人、そしてコサックだった。収容所を作る計画もあったが、幸いにも実働する前に革命が始まった。このため現地で社会主義革命や共産主義への迎合が起きるわけもなかった。
 自立を謳った現地の日本人達も、取りあえずは反革命という事で現地のロシア人達と団結し、旧北海州を掌握すると、逆にバイカル湖や西シベリア方面に進む気配を見せた。
 そして北海州は、連合軍でも同盟軍でもなく中立政府を目指すと諸外国に向けて発信し、取りあえず革命派以外から攻撃を受けない対策をとった。
 また一方では、日本政府に対して援助を求める。
 これに対して日本政府は、ケレンスキー政権のロシアは取りあえず連合軍のため表向きは黙殺した。しかしロシア人に対する恨みは強いため、水面下で現地日本人勢力に武器や弾薬、食料などを援助した。-

 その間ロシア中央では、レーニンらヴォルシェビキ(多数派)と呼ばれた人々が勢力を拡大し、同年11月二度目の革命を実施する。最初の革命は社会主義革命だが、今度の革命はより急進的な共産主義革命だった。
 ソビエト(=評議会)政権が成立し、共産党を中心とした体制が急速に作られていた。共産党の体制とは、共産党、秘密警察、党の軍(=赤軍)による体制で、国家と言うよりは結社に近い組織構造が見られた。そして共産主義の象徴色として「赤」が用いられたため、以後共産主義の事を「赤」を揶揄して呼ぶことが多くなる。「赤旗」「赤軍」などだ。
 しかし初期のソビエト政権と赤軍は、ロシア中心部の掌握にすら手間取った。他国と戦うことなど出来る筈もなく、ドイツ軍を中心にした同盟軍との間にも、即座に休戦協定を結んだほどだった。当時のロシア、正確にはソヴィエトとなった政府組織には、戦争が出来るだけの軍事組織が無くなっていたのだ。
 一方、ロシアでは「内乱」の一部とされた北海州だが、ソビエト政権の成立と共にロシアからの完全離脱を宣言。北海共和国として独立宣言を行う。この独立には、現地ロシア人達も数多く参加しており、地理的な環境もあって共産主義者が全く近寄れない場所となった。
 しかもこれ以後、北海共和国は白軍と呼ばれた反革命勢力にとっての策源地ともなり、北海政府も日本などから回ってくる武器、弾薬を続々とそれら白軍に供給し、シベリア鉄道を通じて逃げのびてくる人々を迎え入れた。
 そしてロシア辺境、北海州での混乱は、グレート・ウォーが終わっても長らく続く事になる。
 その一方では、ロシア革命とその後の混乱は、戦争の行く末にも大きな影響を与えることになる。

 1916年6月、同盟国側のアメリカ合衆国が連合軍側の多民族国家である大和共和国に大敗を喫し、多くの国土を占領された。この敗北でアメリカは、北西部の重心となる中核都市シカゴを失い、北西部を守備していた120万の兵力の殆どを捕虜とされ、前後した激しい戦闘で約50万の兵力を失っていた。対する大和軍は、一連の戦闘でも最大で30万の死傷者を出しただけで、攻勢に出た側の圧勝というヨーロッパの西部戦線では見られない情景が作り出されていた。状況としては、ロシアとドイツの戦いに少し似ていた。広い戦場を用いた運動戦が主体となった戦いでは、戦力が多く機動性の高い側が圧倒的に優位となるという典型例とも言えるだろう。
 しかもアメリカは、単に戦術的な大敗を喫しただけでなく、戦略的にも追いつめられていた。先にも書いた通り、国内で新たな鉄が作れなくなっていたのだ。そして鉄がないと言うことは兵器が作れない上に、鉄や鉛がないので銃砲弾が作れない事を意味していた。アメリカ政府は、鉄や鉛の不足を補うために全国民に対して大規模に鉄の供出を求めてていたが、そのような付け焼き刃では、到底、総力戦となった激しい戦闘で必要な量を得ることは出来なかった。
 国内に鉄がない事を十分理解してたからこそ、初戦でカナダに奇襲的な攻撃を仕掛けたが失敗し、失敗した時点でアメリカの戦争は成り立たなくなっていたのだった。
 そしてアメリカの窮乏を見計らったかのような大和軍の物量を全面に押し出した総攻撃を前にして、アメリカ軍は押し切られてしまった。このシカゴを巡る戦いでも、戦闘中盤からはアメリカ軍の砲撃量は大きな低下を示していた。
 そして今後行われる戦いでも、無尽蔵な砲弾を供給できる大和軍に対して、アメリカ軍は殆どまともな砲撃が実施できなくなっていた。食べ物は自給できるので日本ほど慌てて降伏する必要はなかったが、通常ならもう降伏もしくは停戦を自ら言い出すべき時だった。
 だが、日本とアメリカでは、周辺を取り巻く政治的環境が大きく違っていた。日本は本国の独立まで奪われる可能性はないが、アメリカの場合は南部連合に吸収合併される恐れがあった。しかも南北戦争の頃と違い、1916年の南部連合政府は既に十分な中央政府を持ち統治体制を整えていた。しかも連合と同盟という二大陣営の世界規模の戦争中の為、南部連合の求める行動が認められる可能性が高かった。
 だからこそ、アメリカは簡単に降伏や停戦を言い出せなかった。不利な状態で自ら言い出せば足下を見られるだけで、自ら言い出す場合は余程有利な状況になければならなかった。

 一方の大和共和国だが、少し混乱していた。
 正直なところ、攻勢がこれほどうまくいくとは考えていなかったからだ。基本的に局地攻勢でアメリカ軍を消耗させ、鉄の備蓄を減らせられれば十分なぐらいだった。ところが「大勝利」してしまい、しかも自らの軍隊はまだまだ元気いっぱいだった。大和中枢部が一部懸念した白人市民達も、アメリカ軍を容赦なく攻撃した。今回の攻勢を立案、実行したのも主軸はドイツ移民もしくはその子孫達だった。しかも陸軍に大手柄を立てられた海軍までが、五大湖か東海岸での大規模な作戦を言い出す始末だった。
 そして連合軍の一員である大和としては、同盟軍であるアメリカへの攻撃の手を緩めるわけにもいかなかった。例えアメリカがこのまま倒れてしまうにせよ、同盟軍の盟主であるドイツが手を挙げてくれない限り、戦争全体に終わりが来ないからだ。
 しかし大和としては、今更アメリカなんて併合したくないし、アメリカの南北統合も望んでいなかった。戦争に勝って少しばかり領土を割譲して、賠償金が取れればそれで良かったのだ。
 一方で大和国内の主戦派は、戦争を戦術的に決定的とするため、南部連合と合同で大包囲戦を実施し、アメリカから中部全域を奪ってしまうべきだと論じた。
 このため大和政府は一計を案じて、まずはカナダの奪回を自らの戦略的目標に定めた。
 カナダを奪回することは、完全勝利に是非とも必要な条件だし、先にカナダを奪回すればヨーロッパとの連絡路をより安定させ、多くの物資や兵士をヨーロッパに送り届けやすくなるという利点もあった。それに「奪う」よりも「奪い返す」方が気分が良いという、大和国民の心情にも合致していた。
 そして北方での戦いは、冬の寒さが来る前に急ぐべきだとされ、多くの大和軍の予備兵力が各地から引き抜かれてカナダへと再配置された。大軍の移動には約二ヶ月かかったが、優れた鉄道網を有する五大湖一帯では大軍の移動もそれほど大きな苦労ではなかった。兵士達も砂糖楓が生い茂る中の移動を、「カナダ旅行」と呼んだほどだ。

 カナダでの連合軍の攻勢は、1916年8月末に開始された。
 カナダ軍120万、大和軍170万のおおよそ300万の兵力が投じられた。対するカナダ方面のアメリカ軍は、五大湖方面に50万、北東部沿岸に約100万が配備されていた。本来はさらに50万の兵力があったのだが、春の大和軍の攻勢の穴埋めとしてシカゴ方面に抽出されており、カナダ方面のアメリカ軍は予備兵力に極めて乏しい危険な状態となっていた。
 グレート・ウォーでの塹壕線を用いた消耗戦とは、とどのつまり予備兵力の投入合戦であり、戦力の多い方、数の多い方が勝つ場合が多かった。その上アメリカは弾薬不足で、大和軍は世界的に見ても最も豊富な弾薬を有していた。
 そして連合軍側は全体として二倍の戦力を準備し、攻勢正面では三倍以上の兵力を集中していた。これに対してアメリカ軍は、一度突破されてしまうと基本的に後のない状態だった。
 このため戦線のはるか後方では、国内でのさらなる動員、事実上の根こそぎ動員が実施されつつあった。だが、編成された新規兵力は、まずは大きく後退して塹壕線の構築も行わなくてはならない中西部に送られてしまい、次に蠢動が目立つ南部国境に回されカナダは後回しだった。
 連合軍のカナダでの攻勢も、アメリカ軍の動きを見定めた上での行動と言えた。
 しかも「カナダの戦い」で大和軍は、ブリテン、フランスから技術輸入し、独自改良を施した最新兵器の「戦車」を準備していた。加えて、春の戦闘で有効性が立証された自動車も前線と後方の双方で大量に準備し、中には一定の距離からの小銃弾に耐えられる装甲版を据え付けた「軽装甲車」もあった。他にも重量物を運搬する為のトラクターや装軌車もあった。また上空には、いまだまともな戦闘機を持たないアメリカ軍を圧倒するだけの空軍部隊が用意された。ロンドンを襲っているツェペリン飛行船のような飛行船も投入された。
 大和軍は、技術面でもアメリカを圧倒していた。

 カナダでの戦いの主軸は、モントリオール方面からの連合軍による東部沿岸地帯への全面的な攻撃だった。この方面でアメリカ軍の前線を突破して、一気に占領地を回復するというのが連合軍側の作戦の主な目的だった。五大湖方面のカナダ領も奪回しなければならないが、こちらはあくまで補助的で、できれば奪回という程度に置かれていた。
 そして戦闘が始まるのだが、連合軍側の予測通りアメリカの砲撃は既に散発的といえる状態だった。銃弾はまだ豊富に有していたが、これはアメリカが弾薬の補給を機関銃弾と小銃弾に絞って、鉄を多く必要とする砲弾の製造を事実上切り捨てていたからだった。アメリカ陸軍の戦いも、砲撃戦の間はひたすら頭を下げて、迎撃はもっぱら機関銃に頼るという形にされていた。
 しかし全体の数で二倍、局所的には三倍以上の兵力差で、砲撃量は段違い、制空権が奪われている為陣地の状況は丸分かり、しかも最前線の一部には未知の兵器の戦車までが投入されているという悪い状況では、アメリカ軍の総司令部が望んだような状況は簡単に覆されてしまう。
 ルーマニアなど二流国家ほどの惨敗ではなかったが、既に落ち目となった国の軍隊と、一流の勝ちに乗じる軍隊の差が如実に現れていた。
 本来のアメリカは一流の工業国だし、十分な人口を持つ国家だった。開拓民の国だが、言語は基本的にイングリッシュで統一されていたし民度も高かった。移民してきて数年という者は例外としても、移民国家と言うことを考慮すれば国民意識自体も強かった。アングロサクソンとそれ以外、白人とそれ以外という差別感情は極めて強かったが、グレート・ウォーを迎えるまでに殆どの黒人(解放奴隷)は大和に移住しているので、実質的な人種問題も殆ど無かった。
 しかし、アメリカには戦前の懸念そのままに、地下資源に乏しい事が戦争の致命傷となっていた。
 兵士の戦意がいくら高くても、弾薬が少なく兵器が劣っていては対等に戦うことはできない。総力戦、消耗戦という新しい概念が導入されたグレート・ウォーでは、その事がいっそう強まっていた。名将や英雄が戦争の帰趨を決することは最早あり得ない、容赦のない戦いの中で、アメリカ軍将兵達は乏しい弾薬で圧倒的敵に立ち向かわなくてはならなかった。その事そのものがアメリカ軍将兵の悲劇であり、そしてアメリカにとっての戦争が終わらない以上、兵士達の悲劇は続く事になる。
 カナダ方面で約二ヶ月間続いた戦いで、アメリカ軍は開戦前の国境線ですら踏みとどまることが出来ず、連合軍が望んだだけ進んだ時点で戦闘は自然休止となった。
 そして北東部沿岸が総崩れの様相を呈したため、カナダ領の五大湖方面を占領していたアメリカ軍も、戦線整理のため計画的な後退を実施せざるを得なかった。狭隘な地形などに頼って改めて防衛線を作り、兵力をより必要とされる場所に投じなければ、一部の国が陥ったような全面崩壊すらあり得たからだ。
 しかし、戦場での敗北、負けてもいない状況での大幅な後退によって、アメリカ国民の士気を大きく落とした。アメリカ軍の士気も落ちた。
 グレート・ウォーは、「持てる国」と「持たざる国」の戦争と言われることもあるが、これほど持っている場合と持っていない場合の差が出た戦場も珍しかった。今までの戦争なら、金儲けのために資源や武器弾薬を売っただろうが、この戦争では中立国ですらどちらかの陣営に属さねばならず、最初から負けそうな側につこうと考える国は無かった。グレート・ウォーは、今までの戦争とは違い余りにも容赦のない戦争でもあった。

 その後のアメリカは、インディアンへの鞭打ち刑さながらに、まさに「ガントレット」、なぶり殺しだった。
 大和軍の攻勢は晩秋まで続き、アメリカは戦うたびに敗北を喫し、国土を奪われていた。そして大和軍の攻勢が続く中ですら大統領選挙が実施されたのだが、戦争を引き起こした二期続けたタフトは破れ、新たな大統領としてハーディングが選ばれた。冒険的戦争を始めた大統領が、ついに国民によって否定されたのだ。
 戦いの方は、冬の間は特に連合軍側が兵士の大量凍傷などでの余計な損害を嫌って動かず事実上の冬営となったが、大和共和国陸軍の容赦のない侵攻は厳冬期を過ぎると再開された。しかも1917年2月末からは、南部連合も大和と共に全面攻勢に移った。大和で大量生産された兵器と弾薬が、十分に南部連合軍にも供給されたからだった。
 対するアメリカ軍は、祖国を守るという気概こそ強まっていたが、根こそぎ動員されて兵士の質も落ちていたし、何より銃弾、砲弾が大きく不足していた。というよりも、金属を必要とするありとあらゆるものが不足していた。アメリカ軍は、橋梁や塔などはもちろん各地の銅像や教会の鐘まで鋳潰して銃弾に変えたが、不足する金属資源を補うことは到底不可能だった。
 そして南部連合はあえて砲撃戦をしかけ、アメリカ軍に砲弾の浪費を促した。しかし、本土防衛で本気になったアメリカ軍は手強く、陣地構築も巧妙化していった。砲撃は返さなくなったが、接近戦となると盛んに攻撃し、相手に消耗を強いた。また、非常に「効率よく」戦うようになった。
 これに対して大和軍は基本的に「贅沢な戦い」を重視し、出来る限り友軍の犠牲を減らそうとした。大和軍にはそれだけの余裕が生まれていた証拠だった。
 そしてそれぞれの国家と軍の思惑の中での駆け引きと動きがあったが、最大規模の作戦となったのがシカゴに陣取る大和軍主力部隊とオハイオ側の一カ所に集中した南部連合軍による「中部大包囲作戦」が北アメリカ大陸での戦闘のクライマックスとなった。
 連合軍が合わせて500万人を動員した大作戦で、アメリカ軍は大包囲戦を仕掛けてくる大軍に連動して、大和、南部それぞれの国境線から全面攻勢に転じてきた軍双方に激しい攻撃を受けた。包囲戦を企図した大和軍と南部軍も突出部が三方向から激しい迎撃を受けたが、既にアメリカ軍に撃退し押し戻すだけの力はなかった。それでも塹壕戦が続いている間は何とかしのげたのだが、一度運動戦に突入してしまうと総崩れだった。
 連合軍の攻勢から約2週間で包囲の輪は完成して、イリノイ州とインディアナ州の過半が包囲下となり、数百万の国民と逃げ遅れた約150万のアメリカ軍が閉じこめられた。アメリカ軍が失った兵力は数字の上ではせいぜい20%だったが、軍の半分を失ったに等しい損失だった。
 一方北部では、初戦で自国領に踏み込まれ怒りに燃えるカナダ軍が、大和軍の支援を受けながら全面攻勢を取っていた。目標は北東部沿岸の占領で、まさに復讐戦だった。これに対して中部の戦いに全力を投じていたアメリカ軍は、何とか耐え凌ぐだけで精一杯だった。そして一度戦線を突破されてしまうと、攻めている側が停止するまで後退が止まらなかった。この結果、最も北に位置する大都市のボストンは半包囲状態となって市郊外にまで砲弾が落ち、ニューヨークにすら危機が迫ることになる。五大湖では、今やデトロイトも敵の砲弾が落ちる前線の街となっていた。
 海軍は健在だったが、それは戦争の序盤以外で出撃しなかったからで、洋上に出られない事からくる練度の低下から、紙の上での苦連ぐらいしか出来ない状態だった。
 そして各所での敗北と事実上の戦線崩壊の前に、国民の士気は大きく低下した。有色人種(=大和)と裏切り者(=南部連合)と旧大陸の尖兵(=カナダ)に国土を蹂躙されたことに強い怒りと屈辱を感じたアメリカ国民は多かったが、それ以上に勝てる見込みのない戦争に対する士気低下の方が大きかった。それにアメリカの民意は、既に大統領選挙で示されたに等しかった。新政権の任務は、一刻も早く戦争を止めて国家滅亡を防ぐことだった。

 アメリカ合衆国の降伏は、1917年4月6日だった。
 アメリカ側からの降伏の基本条件は、独立の保障、自由貿易の保障だった。領土割譲も賠償も触れていなかったが、アメリカ自身がこれ以上戦っても国家の滅亡に繋がると考えていたからに他ならない。この条件に北部の統合(=併合)を目論む南部連合が強く反発したが、大和とブリテンが最初から合意する積もりだったため、必要以上に強硬な意見を続けることも出来なかった。
 南部の内心としては、戦争が自分たちの側に有利になったので南部による南北統合という野望はあったが、現実政治として叶わないことぐらいは理解していた。南部としては、取りあえずいつも通りの「宣伝文句」を言ってみただけだった。しかし強硬な意見を言っておく事で、講和会議では多くの利益をせしめるつもりだった。また、今回の戦争を指導した南部連合大統領のウィルソンは、アメリカでも伝統を持つヴァージニア州出身であり、彼自身は分裂以前のアメリカ的な理想主義者だった。このため北アメリカ大陸では、戦争前の現状維持こそが均衡のために大切だと言うことを理解していた。

 北アメリカ単独での講和会議は、アメリカ合衆国を唯一の敗戦国として、大和、南部、そしてカナダの宗主国であるブリテンが参加して1917年5月から開催された。
 この講和会議では、アメリカは自らの条件通り独立と国交通商の回復は保障された。一方では、賠償金支払いと領土割譲は受け入れなくてはいけなかった。大和は占領下のイリノイ州を丸ごと割譲され、カナダは北東部の国境線を北緯で1度下げた。南部連合は、ウェスト・ヴァージニア州のアパラチア山脈の一部の割譲を受けた。南部が割譲した地域の南部は炭田地帯のため、地下資源に乏しい南部にとって大きな価値があった。賠償金の方は総額で大和円30億とされ、即金で3分の1、残りは25年間の分割とされた。賠償金については、アメリカの支払い能力や国家資産から割り出したもので、連合側の戦費から考えれば破格の安さだった。
 これ以外の条件としては、アメリカ軍の一方的な軍備制限が課せられ、特に毒ガス、潜水艦、航空機の製造だけでなく開発や研究の禁止が明記された。
 一方では、南部のウィルソン大統領の提案により、あくまでグレート・ウォー終結後ながら、北米全体での軍縮、関税障壁の緩和、平時の航海の自由など次の時代に向けた歩みが約束されることになる。ウィルソンの提案は、南部国内からは理想主義的過ぎると反発も強かったが、ウィルソンは北アメリカ大陸での行きすぎた対立が今回の破滅的な戦争を呼び込んだのだから、根本的な解決こそが平和と相互繁栄への最短経路だと熱弁を振るって反対を鎮めた。大和も、基本的にはウィルソンの提案に賛同した。大和としては、北米大陸特に東部の人種問題を何とかするのが一番の目的だった。

 こうして北アメリカ大陸も何とか平静を取り戻したが、戦争の震源地となったヨーロッパでの戦いはまだ続く気配を見せていた。


フェイズ31「グレート・ウォー(7)」