■フェイズ31「グレート・ウォー(7)」

 ロシア革命によって、戦争は一気に動き始めた。
 1917年3月のロシア革命によってロシア帝国は倒れ、海外からは実体が今ひとつ良く分からない社会主義者を中心とした合従連合の新政権が誕生した。これが、当時の視点から端的に見たロシアでの「二月革命」だ。
 連合軍にとって取りあえず幸いだったのは、ケレンスキーという指導者がドイツとの戦いを継続した事だった。
 しかし、従来のロシアの兵士や士官達は、それぞれの理由でもはや戦争どころではなかった。ロシア人達の多くが望んでいるのは国家の勝敗ではなく、一日も早い戦争の終結だった。
 そして革命後の名目上は新しくなる筈のロシア軍は、今まで以上に弱体だと考えた連合軍は、ロシア軍を完全撃破したドイツ軍が西部戦線に溢れる前に戦争を決してしまおうと考えた。
 幸い連合軍には、日本軍300万、オセアニア軍250万、インド軍120万、その他30万の合わせて700万もの有色人種軍がヨーロッパ各地に到着し、このうち500万人が西部戦線の前線もしくは後方に送り込まれていた。前線配備されたのは師団数にして60個で、日本軍とブリテン植民地軍であるオセアニア軍(※日系兵が過半)はまとまった規模の兵力を送り込んでいるため、かなり有力な存在だった。
 そしてこれらの増援の前線配備により、西部戦線の連合軍はドイツ軍に対して約二倍の兵力を整えることに成功している。しかも日本など、自力での兵器や物資の生産能力を持つ国もあるため、兵力以外の面でもドイツの不利は強まった。
 この状態が作られたのは1916年の冬だったため、この時点では攻勢は取られなかったが、春になると同時に「大攻勢」を企図した。そしてそれはロシア革命によってより規模を拡大することが決まり、フランス軍を中心にして一気に戦争の帰趨を決してしまいたいという気運が満ちることになる。

 攻勢正面は三カ所。同時に攻勢を開始することでドイツ軍全軍に対して対応する時間を与えず、ドイツ野戦軍を消耗戦に引きずり込んで撃破しつつ、一気に戦線全体を押し戻そうという野心的な目論見だった。オセアニア軍の大挙到着により密度が異常なほど高まった北部のブリテン軍は、アスラと呼ばれる街の正面から攻勢を実施する。増援によりこちらも戦力密度を高めたフランス軍は、ドイツ軍の突出部を挟んだ反対側のエーヌ方面で攻勢を取る。これとは別に、半ば陽動作戦として日本軍が全力を挙げてフランス軍主力より南部のランス方面で攻勢を取ることになった。
 攻勢の順番は、囮であるだけに日本軍が最初で、その効果をみつつフランス軍が動き、最後にブリテン軍が動く事になる。攻勢が最も巧く進んだ場合には、パリを指呼に収めるコンピエーニュ前面(パリの北東100キロ近く)に迫っていたドイツ軍は、最大数十キロの後退を余儀なくされる筈だった。攻勢にはのべ100個師団以上が参加予定で、これは当時西部戦線にいたドイツ軍全軍に匹敵し、しかも連合軍の攻勢正面のドイツ軍は、最大でも連合軍の6割程度しかなかった。

 1917年3月20日、日本軍は自らの備蓄砲弾の関係(※他国に比べて非常に少ない上に、自力で持ち込める量が限られている)から、事前砲撃や準備砲撃なしで一斉に突撃を開始した。
 砲弾の代わりにブリテン軍の戦車を求めてもみたが、ブリテン軍からは色好い返事はもらえず、従来の兵器で戦わなくてはならなかった。日本軍にとっての僅かな救いは、日本本土からもたされた幾つかの兵器だけだったが、この時投じられた小型の簡易迫撃砲は、その後改良されて日本軍の標準装備として重宝される事になる。とはいえ決定的な兵器も豊富な砲弾もないまま、日本軍は攻勢を開始しなければならなかった。
 しかし日本軍は、砲弾も装備も不足する中で作り上げた弾幕射撃の下を、遮二無二自ら強引に前進した。砲弾が降り注いでいる間は、恐るべきドイツ軍の機関銃は撃たれないからだ。しかもドイツ軍は、毒ガスを恐れて動きがいっそう鈍っている可能性も十分にあった。しかも現地日本軍は、次々に部隊を投じることで三日三晩不眠不休での突撃を全軍挙げて実施した。連合軍全体の兵力余裕を受けて作り出された予備兵力も、使い切る積もりで出し惜しみすることなく投じた。重砲弾、機関銃の弾幕射撃を初期に受けず敵陣に肉薄してしまえば、飽和攻撃も十分に効果的だった。
 日本軍がこれほど強引な攻勢を実施したのは、ここで実績を示しておかなければ、敗軍としての日本の名誉を挽回できないばかりか、戦いでの消耗のために、これほどの規模の攻撃は恐らく二度と行えないと日本軍全体が強く考えていたからだった。
 日本軍にとっては、敗軍としての先陣という気持ちもあったかもしれないが、だからこそ刹那的だったともいえるだろう。

 そして日本軍の攻勢は、当の日本軍にとっても意外なほど大成功を納めた。
 確かに日本軍は、今までの戦いを懸命にそして色眼鏡をかけること無く研究していた。その上で準備砲撃を敢えてしないことを選択し、初期の段階では奇襲攻撃に成功した。事前砲撃がある事で、敵(ドイツ軍)は敵の攻勢の規模を図り、準備を整えるからだ。そして相手砲兵を封じるために、毒ガス弾も躊躇無く使用した。最初の攻撃では、事前に準備した坑道爆破戦術も大規模に使用した。これで破壊されたドイツ軍の野戦要塞化された塹壕陣地も少なくない。情報も可能な限り集めた。進撃を有機的に行うため、佐官級の参謀や高級将校達も危険を承知で可能な限り前線に出た。進撃を開始してからは、なけなしの砲弾で移動弾幕射撃も実施した。この弾幕射撃は日本軍の前線直近で行われたため、味方にも多くの犠牲が出た。しかしドイツ軍の機関銃の嵐を浴びるよりも遙かに少ない犠牲で突撃が出来るため、日本軍将兵は後方の砲兵部隊に自分の目の前に落とせと無線電話に向かって叫び続けたと言われる。
 とにかく、他国の友軍からたいしたものを与えられない日本軍は、持たないが故に工夫に工夫を重ねていた。
 しかし多くの要素は、戦闘の初期段階を除いて半ば付け足しに過ぎなかった。
 ここでの戦いで勝敗を決したのは、要するに戦力密度と予備兵力の問題だった。また連合軍全体で分厚くされた、後方支援体制の充実という要素も重要だった。そして連合軍は相手よりも数が多く、日本軍は異常なほどの密度と速度で攻勢を続けられた為、ドイツ軍が対応するよりも早く準備されていた後方陣地を突破して前進してしまったのだ。しかも日本軍は、夜だろうと昼だろうと構わず前進したため、一部のドイツ軍守備隊は態勢を整えることが出来ずに大混乱に陥り、これがドイツ軍の重厚な塹壕線突破に結びついたのだった。
 日本軍は、最初の三日間で塹壕と砲弾後だらけの不毛の大地を15キロ近くも前進していた。西部戦線の正面でこれほどの前進が出来た例は殆ど無いため、連合軍が日本軍の予想外の「快進撃」に湧いた。
 その後も日本軍は、他国以上に味方の犠牲を省みないような突進を実施し、最終的にはドイツ軍の大量の予備兵力による反撃を受けてかなり後退するも、前線を最大で20キロも前進させランスの奪回にも成功する。
 「ランスの戦い」と呼ばれた戦いで、日本軍は約50個師団120万の兵力を投じ、僅か一ヶ月の間に実に40万もの死傷者を出すことになる。対するドイツ軍の消耗も大きく、特に初期の段階で日本軍に蹂躙された事が響いて、最終的に25万の死傷者を出した。局地戦でしかも一ヶ月の消耗としては、ドイツ軍としても非常に大きな打撃だった。
 しかもドイツ軍の悪夢は、まだ始まったばかりだった。
 連合軍にとっての第二幕、フランス軍による攻勢が、日本軍との戦いが終わるか終わらないかという時に開始されたからだ。

 フランス軍による攻勢は、一般的には「エーヌの戦い」や「エーヌ会戦」と呼ばれ、攻勢は4月16日に開始された。とはいえフランス軍の攻勢は、実質的には4月5日の準備砲撃によって開始されていた。フランス軍は、2420門の重砲で約250万発の砲弾を10日間かけてドイツ軍前線に送り込み続けた。これにより、フランス軍と隣接する日本軍の戦線では、ドイツ側にかなりの混乱が見られた。ドイツ軍としては、日本軍の後先考えないよな大攻勢に対処しつつ、フランス軍の大攻勢に対処する準備もしなければならないからだ。そして混乱と準備のため、ドイツ軍の行動は敵から見ると大きく停滞したように見えた。
 そして、ドイツ軍の主に重砲の多くを制圧したと考えたフランス軍は、日本の成功を確認した形で新戦術の移動弾幕射撃によって歩兵の前進を開始する。しかし、日本軍の前線からの情報によって臨機応変に修正が加えられる形とは違うニヴェール将軍発案の移動弾幕射撃は、一度前提条件が崩れてしまうと脆かった。そして戦場とは予定通り行くことは極めて希であり、結果としてフランス軍の攻勢自体も大失敗してしまう。この攻勢失敗が致命傷とならなかったのは、この時期連合軍全体として優位に戦闘を展開していたからだった。
 そしてブリテン軍による攻勢も、フランス軍とほぼ同時期に行われていた。
 ブリテン軍は4月9日に行動を開始しており、ここでの戦いは一般的に「アラスでの戦い」と呼ばれる。戦闘はブリテンの第三、第四の2個軍合わせて45個師団が参加したが、その半分がブリテン出身者が率いる日系兵によるオセアニア軍の将兵で占められていた。これは第四軍の半数以上がオセアニア軍によって構成されていた為だ。
 そしてここでの戦いでも、日本軍と同様に連合軍側の戦力密度がドイツ側の予備兵力を上回っていた事が、勝敗の決め手となった。ブリテン軍は、ドイツ軍の予備兵力投入を上回る速度で前進と予備兵力投入を続けることでドイツ軍の塹壕線を完全に突破し、さらに投入した大量の予備兵力によってドイツ軍が後方で待機させていた予備兵力も撃破。事実上の戦線突破に成功する。
 そしてドイツ軍が各所で攻勢に出た連合軍のため予備兵力が不足していたので、ここでの予備兵力投入合戦でブリテン軍が完全に上回る。ブリテン軍は最終的に約20キロ前進し、今まで進むに進めなかったカンブレー前面までの前進に成功する。
 この春の連合軍の攻勢は、ブリテン軍、日本軍が大幅に前進し、ドイツ野戦軍にも少なくない打撃を与えた事から、連合軍の「大勝利」と考えられた。敵手のドイツ軍も、自らも敗北と判定した。しかも従来の塹壕線ではあり得ないほどの敗北だった。

 連合軍による1917年の春季攻勢は、ドイツ軍に大きな焦りをもたらした。多くの土地と兵力を失ったのだから当然なのだが、それよりも全体の兵力差で押しつぶされる恐怖をドイツ軍が切実に感じたからだった。ドイツのカイゼル(ヴィルヘルム二世)は、日本兵、日系兵を盲目的に蔑んでいたが、圧倒的兵力として現れた日本兵、日系兵はドイツ軍を完全に圧倒していた。しかも、本命と考えられていた大和共和国軍が来ていない状況の出来事だった。
 とは言え、実際のところフランス軍は4月末に犠牲の多さに反発した将兵達の反乱騒ぎがあって攻勢どころではなく、日本軍は向こう半年は攻勢を取れないほど消耗していたのだが、そんなことはドイツ軍にはほとんど見えていなかった。グレート・ウォーとは、そう言う時代の戦争だったのだ。
 しかもドイツにとっては、遂にアメリカ合衆国が大和共和国に降伏した事も大きな衝撃となっていた。アメリカ降伏により、今まで北米に拘束されていたブリテンのカナダ軍、無尽蔵といえるほどの兵力を持つ大和共和国軍が、いよいよヨーロッパにやって来る可能性が大きくなったからだ。最低でも、海軍が大挙してやって来る筈だった。そうなっては、ブリテンとの洋上決戦など夢物語でしかない。しかも大和は、巨大な生産力を有していた。
 そして北アメリカからの一定程度の兵力移動は半年程度かかるとして、秋には再び連合軍の大攻勢が行われると考えられた。しかも夏の間は、今西部戦線にいる連合軍の攻勢が断続的もしくは恵贈的に続くと考えられた。
 そこに大和共和国の大軍と大量の兵器、弾薬がヨーロッパに到着したら、ドイツ軍が支えることは物理的に不可能だった。
 このためドイツは、ロシアの革命政権との講和を画策するも、ケレンスキーという人物に率いられたロシアは、ドイツとの戦いを止めるつもりは無かった。常識的な戦略眼から見れば、講和も降伏も必要ないからだ。このためドイツ軍、オーストリア軍共に攻勢を強化し、ロシア側の士気崩壊によって大勝利を得たのだが、ロシアの大地はあまりにも広大だった。
 しかも11月には再びロシアで革命が起きて、今度は共産主義政権が誕生してしまう。そしてここでドイツは、新政権との間に即時停戦を約束し、急ぎ東部戦線の全軍を他の戦線へと移動する事ができた。
 本来ドイツとしては、君主国家としてこのような国を許すことも出来ず、また戦争を継続するためにはウクライナの小麦が必要だった。だが、明日のためよりも、今日のための事をする方が先決となっていたのだった。この時点でのドイツにとっては、ソビエト連邦ロシアが戦争を止めようと言ったのは、ほとんど僥倖に等しいと考えられたほどだった。

 一方で、アメリカが降伏するが早いか、ブリテンは大量の船舶を用いてカナダ軍に北大西洋を越えさせ始めた。
 大和共和国政府は、1917年2月にドイツが無制限潜水艦戦を宣言した事を理由として、断固としてドイツを降伏に追い込むと宣言していた。このため大和軍の動きも早く、潜水艦を制圧するために、今までアメリカ封鎖作戦に従事していた艦艇を続々とヨーロッパ方面へと派遣していった。各地の造船所も、駆逐艦を吐き出し始めた。
 次いで陸軍の派遣にも踏み切り、ブリテン軍同様に5月には先遣隊がフランスの大地に降り立っていた。
 カナダ軍、大和軍共にさすがに連合軍の春季攻勢には参加しなかったが、両軍共に春季攻勢で消耗したブリテン軍、日本軍の穴を埋めるべく、準備期間を終えると夏頃から続々と前線に姿を見せるようになった。
 そしてその間も、西部戦線での連合軍の攻勢は続いた。
 攻勢を行ったのはブリテン軍と日本軍で、フランス軍の参加はなかったが、これはフランス軍全体が一時的に争乱もしくは反乱状態となり、反乱騒ぎ自体は短期間で終息するも機能不全に陥っていたからだ。そして連合軍としては、フランスの混乱につけ込まれない為に、ドイツ軍に対する攻勢が行われた。このためブリテン軍、日本軍共に無理押しの感が強く、春の攻勢と違って多くの損害を積み上げただけに終わる。しかし戦闘につき合わされた格好のドイツ軍の消耗も大きく、連合軍としては思惑以上の結果を得ることが出来た。戦線もいくらか東に押し戻す事に成功していた。

 そして夏が過ぎると、西部戦線に陣取る連合軍の顔ぶれが大きく変わっていた。また連合軍全体で兵力が大きく増えたので、サロニカと呼ばれるバルカン半島のセルビアの残り滓のような地域にすら、有力な戦力が配備されるようになった。しかもバルカン半島では、連合軍の優位を確信したギリシアが連合軍の側に立って参戦し、連合軍の優位が強まった。
 西部戦線では、春季攻勢で40万人が死傷した日本軍は、本国との距離の問題もあって補充が間に合わず、ヨーロッパで治療した軽傷兵が復帰した以外では、夏を迎えても戦力に大きな変化はなかった。このため戦力密度が低下したが、その代わりにフランス軍と日本軍の間に大和共和国軍の1個軍約20個師団の大軍が重厚な陣をもって布陣した。北部のブリテン軍では、続々とカナダ軍がやって来て、春季攻勢、夏季攻勢で消耗した友軍の穴を埋めた。
 しかも大和は、連合軍で不足する物資も大量にヨーロッパに持ち込み、これにより敗軍の裏切り者として待遇の悪かった日本軍は、初めて十分な弾薬と装備を受け取ることが出来た。
 兵士の方は、約半年の間にカナダは60万、大和はなんと300万の兵力をヨーロッパに強引に送り込んだ。北大西洋航路のヨーロッパに向かう船は、常に物資と兵士を満載していた。これをドイツ海軍のUボートがヨーロッパ近海で狙うも、連合軍が大量の護衛艦艇を投入するため、戦果は十分ではなかった。
 もはや圧倒的な物量差だった。
 そして秋になると、西部戦線に配備された師団数は250を数えるようになっていた。ドイツ軍は東部戦線からの移動がまだ叶っていないので、戦力差がますます開いた事になる。局所的には攻者三倍の原則を連合軍が満たすようになっており、もはや西部戦線全域がドイツ軍にとって危険に陥りつつあった。
 しかもバルカン戦線も危機が迫っていたし、イタリアの攻勢を受け続けていたオーストリアも、次は耐えられないほど疲弊していた。文字通り「火の車」であり、ドイツ存亡の危機だった。

 一方の連合軍だが、こちらも少し前まで危機に瀕していた。
 といっても、軍事的にではない。財政的な危機に陥っていたのだ。
 先にも少し書いたが、「グレート・ウォー」と呼ばれた戦いは世界中の列強と呼ばれる国が戦った戦争だった。このため戦争国債を買ってくれる国が殆ど無かった。多くの国は、自力で戦争国債を消化しなければならなかった。
 こうした状況が若干改善するのは、1917年4月に北アメリカの戦いが終わって北米の大和、南部がブリテンとフランスの国債を買い始めてからの事だった。比較的早く日本が降伏したが、こちらは財力に乏しいし、戦力を活用するため国力を消耗していたので、国債購入にはあまり役に立っていなかった。
 それまでの連合軍、特に1916年に消耗戦に入ってからの連合軍各国の国家財政は、こちらも別の意味で「火の車」だったのだ。
 しかし北米での戦いが終わると辛うじて一息つき、多くの増援を得たことで軍事的にも余裕が出ていた。
 そして借金で持たせているとはいえ、この戦争での散財は既に国家としての許容範囲を大きく超えているため、一刻も早く終わらせたいというのが正直な願望だった。
 そして財政状況の改善、友軍の来援の二つの要素が、連合軍に秋の大攻勢を企図させることになる。

 この攻勢の特徴は、ブリテン軍と大和軍が主軸となったのだが、共に大量の戦車を投入したのが大きな特徴だった。既に両軍とも戦車の戦いは経験しており、利点と欠点もある程度把握されていた。機械的な未熟も、多数の車両を揃えることで補われた。
 そしてこの攻勢は、戦車に続いて圧倒的な数の大軍を注ぎ込むことを目指しており、戦車にはドイツ軍の重厚な塹壕線を突破する為の破城鎚としての役割が期待されていた。また大和軍は、北米での戦いの教訓から、前線部隊と補給部隊双方に可能な限り多数の自動車を配備した。そうして投入された車両は、戦訓に従って太いゴムタイヤ(空気袋なし)を持つようになっていた。
 また春季攻勢で結果として大損害を受けた日本軍だったが、日本軍の行った準備砲撃を実施しない戦法がかなり有効だと考えられるようになっていた。決められた時間、決められた場所に闇雲に撃ち込むよりも、進撃に合わせ、そして前線の要求に従って砲撃する方が、効率が良いという事だ。その為には前線に多数の高級将校や軍人が直に確かめなくてはならないし、無線や有線電話も充実させなければならない。また可能ならば、制空権を得て上空からの詳細な偵察情報も欲しかった。
 加えて、十分な予備兵力があるのだから、これを出し惜しみせず間断なく投じる事こそが、戦線突破と前進を継続する大きな要素だとも考えられていた。
 これら連合軍の攻勢に対する基本方針は、総力戦が産み出した物量戦の最たるものだったかもしれない。しかし、兵の数が多い方が勝つ、というごく当たり前の原則を満たしたに過ぎないし、この戦いの結果も前提条件を肯定するだけに終わった。

 1917年11月、事前砲撃の前触れもなく開始された連合軍の大攻勢は、西部戦線の北部からブリテン軍が、ほぼ中央部では大和軍が参加した。他にも日本軍も大和軍の側面で作戦を実施したので、参加した総兵力は100個師団を越えることになる。大和軍などは、戦車と装甲された一部車両に乗った兵士達がまず突進し、その直後に通常の数倍の規模の兵団が続いていったのだから、ドイツ軍の今までの対応で防ぎきれないのは道理だった。カナダからの大軍を得て攻勢に転じたブリテン軍の方もほぼ同様で、犠牲を省みないオセアニア軍の突進も加わったため、たった一日でどちらも10キロ以上の前進を現実のものとした。
 この攻撃成功の報告が届いたロンドンでは、街中の教会の鐘が鳴り響きその喜びを伝えた。
 どちらもドイツ軍の重厚な塹壕線を突破しており、ドイツ軍の分断にも成功していた。しかも攻勢は局地的でも急襲的でもなく、全面的な大規模な攻勢だった。このため連合軍の攻勢開始二日目には、ドイツ軍総司令部は攻勢正面及び近在全体での戦線後退を各地に命令。さらに増援部隊の投入合戦でもドイツ軍が負けたため、さらに大きな後退を余儀なくされた。
 連合軍の戦車は、その後急速に故障で勢力を減退させていったが、完全な戦線突破に成功した連合軍の大部隊の進撃はさらに続いた。前線のドイツ軍は、1個軍で敵の2個軍または3個軍を支えている状態で、他も同数以上の敵と対陣しているため救援に駆けつけることが出来ず、戦いは連合軍のほぼ予測通りに推移した。
 複数箇所で突破戦闘を仕掛けてくるため、仮に一つを潰しても他で前進されてしまい、ドイツ軍の防衛システムはほとんど機能しなかった。
 この戦闘で、「飽和攻撃」という言葉が生まれたほどだった。
 西部戦線での連合軍の攻勢は、投じた物量と前進に対して流石に補給が追いつかなくなり、約二週間で前進は停滞してしまう。
 大和軍は、北米とは違う戦場にとまどいもあったが、まあこんなものだろうと、ヨーロッパの戦場に対する感想を持った。連合軍全体としても、今回の攻勢は満足すべきものだった。最終的に30キロ以上の前進を実現し、二週間で合わせて20万以上のドイツ軍を撃破したからだ。自らも同程度の損害を受けていたが、グレート・ウォーで攻勢側の方が大きな犠牲を出すのは一般的な事なので、特に気にされなかった。
 この戦闘は、連合軍が勝利しつつあるという思いを強くする戦闘だった。
 そして敗北しつつある同盟軍側だが、西部戦線以外が酷い状況に陥りつつあった。

 事件は1917年初秋に立て続けに起こった。
 中東では、オセアニア軍、インド軍、さらには日本軍を引き連れたブリテン軍が、アナトリア半島以外のトルコ領を殆ど占領下に置くまでに前進していた。当然ながら、トルコ軍は総崩れ状態だった。後にケマル・アタチュルクと言われる軍人(※後のトルコ大統領)などが勇戦敢闘したが、それも局地的な事で、連合軍の進撃を遅らせるのが精一杯だった。こうして10月30日にトルコは連合軍と休戦し、戦争から脱落した。
 バルカン半島でも、サロニカ戦線の連合軍が遂に反抗に転じ、既に疲れ切っていたオーストリア、ブルガリアの現地同盟軍は溶けるように消えていった。この戦線では、まともな戦闘も成立しなかったほどだった。ヨーロッパで最初に脱落した同盟軍はブルガリアで、ブルガリアの連合軍との休戦はトルコよりも約一ヶ月早い9月29日だった。そして戦線に大穴の空いたバルカン戦線は、その後もオーストリアの一方的な後退というより退却が続き、オーストリア軍の士気は地に墜ちていった。
 北イタリア北東部にある「未回収のイタリア」の山岳地帯では、ドイツ軍の予測通りイタリア軍の12回目の攻勢が遂に実を結び、既に士気が大きく落ちていたオーストリア軍は比較的容易く撃破され大幅に後退した。そしてオーストリアにとってはこれが致命傷となり、11月4日に大和共和国との間に和平交渉を開始。その間連合側諸国が交渉に首を突っ込み、オーストリアは国内では一度崩れたタガを占めなすことが出来ず、兼ねてから言われていた連邦制への移行を宣言。さらにドイツとの同盟関係を解消して、オーストリアも戦争から離脱した。オーストリアにとって、もはや戦争どころではなかった。

 かくして、1917年晩秋のうちに同盟軍は事実上瓦解し、連合軍と戦いを続けるのはドイツ一国となってしまう。
 しかもこれからの戦いは、イタリア・オーストリア方面、バルカン方面からも連合軍が攻め寄せてくる可能性が高まった。ロシアとの戦いを切り上げて50個師団以上の部隊を大急ぎで各所に再配置しようとしたが、それすら間に合わないような状態だった。11月の時点で、連合軍の一部は既にオーストリア領内に入り込んでいた。連合軍の一部は、既に降伏したトルコを経由してロシアに軍を派遣しつつあったが、この件に関してだけは赤く染まったロシア人に感謝したいぐらいだったと言われる。
 しかしこの時点での世界的な予測は、ドイツは1918年の春まで持たないだろうというものだった。
 大和共和国の大軍が、今後戦争が終わるまで毎月10万人以上が送り込まれる予定だったし、冬の間に再配置を済ませた連合軍は、オーストリアからミュンヘンを目指し、チェコから直接帝都ベルリンを突くという予測まであった。
 そして春までの実質的な戦力差は3対1以上に開き、ドイツ国内への空襲すら予測されたので、最早軍事的にどうにもならないというのが、多くの者の予測だった。
 そして軍事的にもこれだけ不利になるのに、それにも増してドイツ経済が破綻すると見られていた。
 何しろ隣国オーストリアすら脱落したら、ドイツ本国でしか物資の調達が出来なくなってしまう。これでは、次の収穫期までドイツ国内の食料が尽きてしまうのだ。ロシアを得たところで、大きな変化はないと見られていた。ドイツが得たロシアの占領地を十分に活用する時間を与えるつもりが無いからだ。

 そしてオーストリアの完全脱落によって、ドイツ国内に大きな衝撃が走る。ドイツ陸軍は本土決戦に一縷の望みを託していたが、多くのドイツ国民は既に戦争に飽きていた。勝てないことを早々に思い知らされていたドイツ海軍の兵士達も同様だった。何より、ドイツ国内の食料生産と備蓄では、1918年夏までに多くの餓死者が出ると予測されていた。
 そしてここで決定的役割を果たしたのが、1917年晩秋から急ぎドイツ本国に戻ってきた兵士達だった。東部戦線の兵士達は、ロシア革命を直に見聞きしている。その彼らが、自分たちの祖国が追い込まれている現状と、カイザーを中心とする現在の体制に疑問を抱くのは半ば必然だった。
 そしてオーストリアの正式な降伏から数日後、12月1日にミュンヘンに戻ったばかりの部隊が一揆を起こし、これが発端となってドイツ全土に波及。西部戦線でもドイツ軍将兵は戦闘を放り投げ、半ば個々人でドイツ本国へと急ぎ帰国し始めた。こうなってはもう戦うことは出来ず、12月10日ドイツ皇帝がネーデルランドに亡命すると、どうにもならなくなったドイツは、その翌日には連合軍との間に休戦協定を結ぶことになる。

 しかしこの休戦は、ドイツの敗北という前提での休戦であり、この後ドイツには過酷な講和会議と連合軍各国からの仕打ちが待っていた。それが「持たざる国」ドイツが、最後まで戦い続けた末の末路だった。


フェイズ32「ヴェルサイユ体制」