■尖閣諸島について

 日本国、沖縄県、尖閣諸島。2010年代の域内の人口は約210万人。小さな島々としては非常に多い人口で、市町村は大きく尖閣島の久場市と大正島の大正市に分かれている。また、他の産業地域、人口地帯から離れた諸島としては、異常なほど発展している。
 産業の主軸は、石油と天然ガスの採掘、そして石油精製事業、液化天然ガス事業となる。また安価な資源を用いた大規模な発電も行われているため、大電力を必要とする重工業、先端産業も多い。間違いなく、鉱工業の島々である。これほど極端に開発された小さな島々は、世界を見渡しても極めて珍しい。

 石油が採掘される前は、周辺を含めて美しい珊瑚が覆う南洋の島々だった。だが、大量の油田(海底油田)、天然ガス田(海底ガス田)と石油や液化天然ガス、石油生成物などを運ぶタンカーなどの船舶から漏れる僅かな石油、工場、大都市からの排水のため、1980年代には珊瑚はほぼ全滅し、海洋汚染のため海水浴が難しい場所すら存在する。現地への環境対策には莫大な投資が実施されているのだが、膨大な量の石油、天然ガスが採掘されているため、全てを止めるには至っていない。
 そして諸島中に存在する油田、ガス田、巨大な石油精製工場、液化天然ガス工場、巨大タンカーが何隻も接岸できる巨大な港、さらに安価な電力を求めた工場群によって、尖閣諸島の二つの市の合計人口は200万に達し、二つの街も近代的都市となっている。また久場市、大正市は洋上の大都市で、特に久場市は人口150万人を越える政令指定都市で、県庁所在地ではないながら沖縄県最大の都市で、尖閣諸島の人口も沖縄県全体の半分以上を占めている。総生産額に至っては、沖縄県の殆ど全てを尖閣諸島が産み出している。
 もちろんだが、日本全体で見た場合の経済価値も計り知れない。日本は1980年代からずっと世界屈指の大産油国で、世界第四位を占め続けている。埋蔵量も21世紀初頭の現在でも6〜7%もある。加えて天然ガスも非常に豊富で、こちらも埋蔵量、産出量ともに世界第四位を占めている。
 全ては、世界最大級の尖閣石油、尖閣ガス田のお陰だ。
(※尖閣以外の沖縄県全体の人口は約140万、GDPは約4兆円)

 同諸島の各島と周辺の海底油田で採掘される石油の量は、2015年度統計で1年間で約2億5000万トン(約18億5000万バレル=日産約507万バレル)。日本が必要とする石油を、ほぼ全て自給している事になる。一部は輸出も行われているが、基本的に日本は尖閣油田の経済的産油量をもとにして、自分たちの使う石油の量を決めているような状態となっている。北海の海底油田を利用している国々と少し近いと言えるだろう。
 21世紀初頭の技術で商業採掘可能な究極埋蔵量は、採掘開始前で約1100億バレル分。過去約30数年間の採掘で既に約3分の1が採掘されているので、残り700億バレル程度と言われている。日本の消費量の約38年分だ。西暦2050年頃まで、日本は石油の心配をしなくてよい事になる。石油の価格が大幅に高騰すれば、さらに数百億バレルの石油が採掘できるとも言われている。また、周辺部には、詳細は未確認ながら別の油層がある。
 また、石油同様に無尽蔵に存在する天然ガスも合わせて採掘されており、石油採掘から数年遅れながら採掘が盛んに行われている。天然ガスの埋蔵量は、約12兆立方メートル。既に約20%が石油採掘の過程で失われるか商業採掘されているので、残り9〜10兆立方メートルとなる。こちらは、日本が消費する全ての天然ガスを賄って、さらに液化天然ガスを利用する近隣の国々に大量に輸出も行われている。
 つまり日本は、この尖閣油田のおかげで、石油、天然ガスを国内で自給出来ている事になる。天然ガスについては、環太平洋最大の大輸出国ですらある。状況としては、北海油田に頼っているイギリスや北欧諸国に少し近いだろう。
 また日本は、尖閣油田によって国内に巨大な石油企業、天然ガス企業が存在する事になったが、石油の多くを自国内で消費してしまうため「石油輸出国機構(OPEC)」には加盟せず、1970年代後半に一躍巨大化した日本の石油企業は、オイルメジャーの仲間入りを果たすことになる。
 しかし同油田の存在は、日本の現代史を大きく揺さぶり、そして翻弄する象徴であり、また最大の原因でもあった。
 では、まずは尖閣諸島の簡単な歴史と概要から振り返ってみよう。

 尖閣諸島は北緯26度付近に存在するが、黒潮(北太平洋海流)の恩恵により、非常に温暖な気候である。島の周辺海域には豊かな珊瑚礁が形成され、亜熱帯よりは熱帯の海に近い自然環境にあった。
 総面積は面積700平方キロメートルほどで、全体の3分の二を占める尖閣本島(尖閣島)を中心にして、大きく尖閣島と大正島に分かれ、大小十数個の小さな島々から構成されている。諸島の総面積は、奄美大島に近い。海外だと、シンガポール島の大きさに近い。
 島の相対的な位置は、台湾島から約100キロ、沖縄本島から約350キロ、中華大陸からも約350キロとなる。日本本土だと、九州南端からでも700キロ以上離れている。日本国全体で見た場合、完全な辺境に位置している。
 人口の殆どが集中する二つの島の全般にわたって山岳部や斜面が多く、利用できる平地は陸地面積に対して精々40%程度しかない。この数字も、20世紀後半に土木機械により造成された土地面積を含めるので、前近代までだと20%程度にまで低下する。そして広い平地の多くが油田と鉱工業施設が占めるため、島を訪れると坂の多い街と感じるだろう。島の最高峰(尖閣大山)は1300メートルに達し、「尖閣」という名も遠くの海からも見える鋭い山並みから付けられたものだとされている。山間部のほとんどは森林で覆われており、緑の山並みが連なるため、「尖閣」という名以外にも「緑壁」などと呼ばれる事もある。
 ただし山並みの多い地形のため、沖縄本島よりも雨量はやや多い。島のイメージは、近在の沖縄本島よりも奄美大島や屋久島に少し近いだろう。尖閣本島には、一定程度の池や湖も存在する。
 山がちのため自然は豊富で、固有種としては「センカクヤマネコ」など多数が存在するが、急速に開発が進みすぎたため絶滅した種も少なくない。センカクヤマネコも、野生は絶滅危惧種で、島の西部にある保護センターで繁殖と研究が行われている。

 同諸島に人類が最初に上陸したのは、台湾や先島諸島、沖縄本島とほぼ同時期と考えられている。時期的には、氷河期に大陸と地続きだった最後の頃だと考えらえている。そして氷河期の終わりと共に島として孤立し、その後台湾方面からカヌーを使った人々が若干数到来していると考えられている。
 その後、利用可能な土地面積が限られているため島の人口増加は限られ、国家を形成するほどの勢力は成立しなかった。また国家を形成しなければならないような環境的な圧力(=厳しい自然環境)もないため、人が住んでいるという以上で歴史的に注目されるような事件は殆ど無かった。住民達も農業と漁業で生活を成り立てるも、ほとんどが村落単位での生活を行うに止まった。島内各所の狭い平野部では多少大きな村落も出現して、ある程度争いや統廃合が行われたが、古代国家以上の政治形態は出現しなかった。大きな政治勢力からも海によりそれなりに離れた位置のため、どこかの支配を受けるという事もなかった。
 尖閣の名が歴史上に最初に登場するのは、後期和冦の拠点の一つとしてだった。この時代、尖閣にあった古代国家(集団)のほとんどが和冦によって滅ぼされ、一時は「海賊の島」となった。尖閣という名も、この頃に登場したのではないかと考えられている。またこの頃には、後期和冦の主軸を占めた中華沿岸部の人間が、侵略的な移住を一部で実施しているし、島の住民との間の混血も多数誕生した。元から住んでいた尖閣諸島の住民にとっては、苦難の時代だったと言えるだろう。
 その後和冦の最中、16世紀後半に琉球王朝の勢力下に組み込まれ、琉球を介した明朝の貿易のための中継拠点の一つとして人々の往来が行われるようになる。尖閣に琉球がやって来たのは、明朝による後期和冦への対策の一環だった。
 とはいえ琉球王朝の時代は、船が入ることに向いた入り江や湾が多かったので、水や生鮮食料の補給基地という役割が与えられただけだった。しかしこの過程で、尖閣諸島の文化や生活、そして何より言葉が琉球とほぼ同じとなった点は重要な変化だろう。言語が日本語化した第一歩とされるからだ。
 文明的な建造物も造られるようになり、護岸工事や堤防の建設、さらには小規模ながら「グスク」と呼ばれる琉球式の城塞も建設された。
 そして17世紀初頭、琉球王朝が日本の薩摩藩の侵攻を受けて間接的な支配下に置かれると、尖閣諸島も日本人の実質的な支配下となった。江戸時代における、日本最西端の領土というわけだ。
 とはいえ、尖閣諸島は物産に乏しく、砂糖を税として琉球王朝と薩摩藩に治める時代が長らく続くことになる。日本列島に与えた影響も、砂糖の国内供給量を若干増やした程度でしかなかった。しかし、清船の中継点となり、砂糖栽培が活発になった事で、島の経済力も多少は増し、島には裕福になった有力者が複数誕生し、現代に至る島の名家の系譜を作り出したりもしている。生活や習慣も、かなりが日本や琉球から持ち込まれた。

 尖閣諸島の主に住民に大きな変化が訪れるのは、日本列島で近代化革命(=明治維新)が起きて以後の事だった。
 1879年に、日本帝国が琉球王朝を完全に廃して沖縄県を設置すると、尖閣諸島も沖縄県の行政単位に組み込まれた。
 その後尖閣諸島では、日本に組み込まれたことで世界との繋がりが出来て、かなりの人々が移民として環太平洋圏各地に旅立っていく事になる。小さな島々のため、人口が完全な飽和状態にあったからだ。この辺りの事情は、沖縄各地と似通っている。
 そして尖閣諸島そのものでは、日本の食料政策に従ってサトウキビ栽培が精力的に実施されるが、それ以上ではなかった。沖縄本島同様に「日本化」政策は精力的に実施されたが、沖縄本島よりも「同化」と順応は早かった。
 尖閣諸島の重要性の低さは第二次世界大戦においても変わらず、1945年に沖縄に侵攻したアメリカ軍も、尖閣諸島をほとんど無視した。当時尖閣諸島には約10万人の日本人(日本国民)が住んでいたが、徴兵された者(延べ人数約6500名)を除いてほとんどが戦争を蚊帳の外で過ごしたとも言えるだろう。
 無論、尖閣諸島にも海軍を中心にした航空基地が設営され、1945年までには1個混成旅団(※現地徴用の軍属を含めて5000人弱)の守備隊が駐留したが、一時期駐留した航空隊以外はアメリカ軍からはほとんど無視された。戦闘も、中規模以下の艦載機の空襲を数度受けただけだった。太平洋側にあればまた違っていただろうが、戦場から離れすぎていた。
 そして1945年8月15日に日本が降伏し、その後日本がGHQの統治下に置かれると同時に、沖縄県に含まれていた尖閣諸島もアメリカ軍の軍政下に置かれることになる。つまりアメリカ領となったわけだ。
 その後尖閣諸島は、沖縄本島よりも中華大陸、台湾島に近いこともあってか、軍事的にあまり重視されていなかった。軍事基地を置くには、敵に近すぎると考えられたからだ。それでも若干のアメリカ軍が駐留したが、レーダーサイト、中規模の飛行場、哨戒艇の基地、若干数の海兵隊員程度だった。このため、沖縄本島のように「アメリカ化」が進むことも無かった。
 ただし、終戦直後に中華民国が自国領だと言い張った事に対して、アメリカは一切相手にしなかった。アメリカの見たところ、尖閣諸島は完全な日本領の一部だったからだ。

 尖閣諸島の歴史上で最大級の変化は、1964年、東京オリンピック開催の年に静かにそして決定的に訪れた。
 アメリカの資源調査団が、尖閣諸島本島及び周辺部の海底に莫大な埋蔵量の石油資源の存在を確認したのだ。しかも、かなり浅い場所で確認された。この調査報告は、しばらくの間アメリカ政府によって伏せられていた。当時石油は安価で豊富にあったし、尖閣諸島の位置が外交的に微妙だったからだ。また、石油を見付けた事で、あわよくば沖縄を独立させてアメリカの傀儡国家を作れないかと、真剣に研究されたからでもある。この時期アメリカは、学者などを動員して沖縄や周辺部の歴史を、多くの人材と予算を投入して調査、研究している。沖縄を含め、島民の意識調査なども、日本返還の準備として熱心に行っていた。また一部の現地住民に対する慰撫工作が実施され、日本からの独立運動を行うように誘導したりもしている。特に琉球民族、琉球王朝としての意識を高め、民意で「自主独立」をさせようとした。こうした動きは終戦からしばらくして、「日本でない地域」として熱心に行われたが、それが再び行われた形だった。だが、肝心の尖閣諸島に対しては逆効果で、アメリカの意図は空回りした。
 そして1969年、今度は第二次佐藤内閣の頃の日本政府が、沖縄復帰を目前にして周辺地域の初期的な資源調査を実施し、同様に「大油田」の存在を確認する。しかも日本政府は、アメリカ政府が何かを言い出す前に、大いなる喜びのまま大油田発見を発表してしまい、世界中に大きな波紋を投げかけることになる。日本政府の最初の発表では、実際の三倍もの量(3000億バレル)の超大油田を発見したと発表された。おかげで、当時ただでさえ安かった石油価格が、一時さらに下落したほどだった。
 こうしてアメリカの嫌らしい目論見は、日本の無自覚な行動によって一瞬で潰えたワケだが、事態はそれだけに止まらなかった。それまで現地住民以外見向きもしなかった島々が、俄に世界の注目を集めるようになったのだ。

 ちなみに、尖閣諸島を含めた琉球諸島の日米間の返還交渉だが、1957年の「岸・アイゼンハワー会談」における「(日本政府による)潜在主権」の確認、1961年の「池田・(J・F)ケネディ会談」における対沖縄援助協議、66年の日本政府内における対沖縄問題特別作業班の設置、67年の「佐藤・ジョンソン会談」における早期返還の確認などの動きが見られた。交渉が順調に進んだのは、米ソ冷戦構造という枠組みの中で、日本の位置と国力、その他諸々がアメリカにとって必要だったからだ。またアメリカが、完全に水面下で進めた沖縄独立計画を表立たせないためでもあった。
 その間の1965年8月には、佐藤首相が戦後の内閣総理大臣では初めて沖縄を訪問して、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとっての戦後は終わっていない」と演説する。これにより日本では復帰がにわかに現実化し、1969年11月の「佐藤・ニクソン共同声明」で1972年の沖縄のアメリカ返還復帰が確定した。
 1969年とは、日本が尖閣油田の発見を発表した後の事だったが、世界情勢的には当時ソ連・共産主義陣営の勢力が拡大傾向を示しており、同時に尖閣諸島が俄に領土問題として浮上したからでもあった。
 当時、中華人民共和国は共産主義陣営と見られていたし、1960年代後半は文化大革命によって、いつ国家が崩壊してもおかしくない極めて危険な状態だと考えられていた。このため、日本の領域で最も中華地域に近い尖閣諸島の主権と防衛を早期に確立することが、西側陣営にとって重要だと考えられていたからだ。尖閣は単体での重要度は低いが、沖縄防衛を考えると外郭拠点としての役割を持っていたからだ。
 しかも中華人民共和国は、日本の尖閣油田発見の発表のすぐ後にも、尖閣諸島の自らの領有権を主張するという外交上恥ずべき行為を実施しているため、尚更日本への琉球そして尖閣返還は重要と考えられた。アメリカが目論んでいた、沖縄の独立など以ての外といえる状況だった。もし強引に独立させていたら、間違いなく紛争予備地域となっていただろう。
 なお、1971年6月「琉球諸島及び尖閣諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」が調印され、1972年3月の批准書交が交わされる事により、正式に沖縄はアメリカ領土に復帰する事になる。

 ちなみに、同じ沖縄県という行政区分にされたが、尖閣諸島の民意と沖縄本島の民意にはかなりのズレがあった。沖縄本島の人は、日本本土を「ヤマトン」と言って嫌う事があるが、尖閣諸島の人にとっては琉球王朝の「ウチナン」も外から来た支配者だからだ。しかも琉球王朝は、国家規模の限界から支配力、統治力が低かったため、尖閣に与えた影響、恩恵は小さく、対して近代化して以後の日本は尖閣の統治にかなりの努力を割いていた。また、尖閣が戦災を殆ど受けていないことも、民意に大きな影響を及ぼしていた。結果、尖閣住民の帰属意識は日本に対して高く、沖縄本島に対してはかなり低くなった。
 次に、米軍の占領統治中に両者の対立が深刻化した。
 米軍は尖閣や先島も同じ琉球としてひとくくりにして、一つの行政単位で占領統治を行った。必然的に人口が最も多い沖縄本島が中心となるが、ここで沖縄本島の人々は周辺の島々を自らの格下に置いた。このためもともと沖縄本島への帰属意識が低い尖閣の住民は、琉球の大学や官庁に行くことはなく、大学はアメリカ本土を目指すようになったほどだった。このため尖閣諸島内の学校では、アメリカ人を講師として招くなどして、英語教育に非常に熱心になったりもした。
 そして大油田の発見で、両者の対立は決定的となる。
 本土復帰、石油開発以後は尖閣が自らの大地を犠牲にして沖縄経済を支えているという感覚が強くなり、沖縄本島を「お荷物」と考える節も強まった。しかも油田に関連する地方税は、当面の日本政府の方針もあって沖縄開発にも大量に投じられ、すっかり尖閣の税収への依存体質ができあがってしまう。
 逆に沖縄本島は、「基地の島」として過剰な負担を強いられていると考えており、ロクに基地もない尖閣や先島への強い不満を持った。
 この税収と民意の違いが、尖閣諸島の市町村統廃合を民意の点でいち早く進め、さらには久場市の政令指定都市への昇格につながっている。また沖縄県知事、議会両選挙は、尖閣候補と沖縄候補の対立が日常的風景で、1980年代半ば以後は人口差と先島の取り込みで尖閣の圧倒的優位の形が続いており、一部の沖縄本島住民の不満を高める強い要因となっている。
 さらに尖閣と沖縄の対立は、時代が進むと共に深くなっている。油田開発以後に油田開発と製油のため、尖閣には瀬戸内と近畿圏を中心に、日本中から多くの人がやって来て尖閣の地域性を希薄化させているためだ。しかも近年は、日本中の反戦、反政府的運動家が沖縄本島への移住を強めているため、地域間の溝はさらなる深刻化を見せるようになっている。
 そうした民意があるため、日本本土の反戦団体が尖閣に来ることは殆ど無く、もっぱら尖閣に来るのは自然保護団体だった。しかし彼らも、石油会社、天然ガス会社などが尖閣の自然保護に莫大な寄付と投資を行いロビー活動を展開するため、一部急進的な団体以外が目立つことはない。

尖閣諸島の大油田