■フェイズ:01 「悪魔の襲来:ヨーロッパ世界の受難」

 西暦とされる年号における13世紀、世界の歴史が大きく動いた。言わずとしれた、「モンゴル帝国」の「西征」による影響だった。
 
 中世後半でのヨーロッパ壊滅の最大の原因は、モンゴル帝国が欧州を軍事的に席巻した事にあるとされる。歴史に「もし」は禁物だが、大ハーン・オゴタイの死が10年ほど早ければ、バトゥ(西暦1207年〜1256年)の欧州遠征軍はロシアか東欧の玄関口あたりで引き返し、「タタールのくびき」はせいぜいロシアで止まったであろうと。
 しかし現実のモンゴルの遠征は、西暦1248年にピレネー山脈とアルプス山脈、そしてドーバー海峡にまで至った。
 西暦1240年にルーシ大公国(キエフ公国)がキエフの街を焼き尽くす業火の中で滅び、1241年には「ワールシュタットの戦い(=リーグニッツの戦い)」でポーランド王国、神聖ローマ帝国、そしてテンプル騎士団やドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団などのヨーロッパ連合軍は惨敗した。ヨーロッパの見た目は屈強極まりない騎士達は、モンゴルの優れた集団戦の前に為す術がなかった。しかもこの戦いは、現地モンゴル軍にとってただの局地戦にすぎなかった。この時モンゴル軍の主力はハンガリー方面にあり、「モヒの戦い」においてハンガリー軍10万を苦もなく包囲殲滅している。ハンガリー王国がこの時滅びなかったのも、モンゴル軍が前哨戦と考えて攻城兵器を持ってきていなかっただけに過ぎなかった。前哨戦を挑んだに過ぎないモンゴル軍としては、ヨーロッパの軍隊がこれほど弱いとは予測していなかった。
 そしてその年のモンゴル軍はウクライナの平原で越冬するも、翌年再びハンガリー盆地に侵攻。ハンガリーを選んだのは、現地が牧草地として優れた条件を有していたからだ。この辺りの事情は、ハンガリーを建国した騎馬民族のマジャール人と似ている。
 今度のモンゴル軍は攻城戦の準備を整えて攻め寄せたため、ブタなどの主要都市は次々に陥落。ハンガリーの地方勢力も、次々に自ら軍門に降っていった。こうしてマジャール人のハンガリー王国も実質的に滅亡。生き残ったマジャール人達は、その後モンゴル軍の尖兵とされた。これで、中央アジア由来のほぼ全ての騎馬民族が、モンゴル帝国の支配下に組み込まれることになる(※例外はフィン族ぐらい)。
 なおハンガリーの戦いで用いられた攻城兵器は、数十年前のイスラム世界の攻撃の際に使われたものとほぼ同様だった。そしてイスラム世界よりも劣るヨーロッパ様式の城塞や城塞都市は、イスラムの世界から招かれた技師や軍人達の助言もあってか、簡単に陥落していった。

 さらに翌年の1242年、ウィーンが陥落する。ウィーンは2ヶ月程度の籠城を実施するも、陥落後の蹂躙により街はほぼ壊滅。住民のほとんども殺されるか奴隷として捕虜にされ、街は一度完全に滅亡する。当のモンゴル人がやりすぎたと考え、その後慌てて自らの拠点とするべく再建に力を入れたほどだった。
 同年には、別働隊がポーランド王国にも本格的に侵攻。既に軍(騎士団)主力を失っていたポーランドは為す術もなく、ワルシャワでの籠城戦の末に滅亡。その余勢をかって、モンゴル軍は神聖ローマ帝国内深くに進入して荒らし回った。北ドイツ平原も、河さえ渡れてしまえば騎馬民族にとって理想的な戦場だった。
 この時点で、当時ヨーロッパ最大の国力を持つフランスが神聖ローマ帝国の援軍に駆けつけたが、モンゴル軍の集団戦の前には騎士による戦いは通用せず、犠牲者を増やしてフランスの防衛能力を低下させるだけに終わった。
 当初フランスでの領土拡張や火事場泥棒を考えていた島国で貧乏国のイングランドも、フランス惨敗後は態度を180度変えてヨーロッパ諸国の支援を始めたが、こちらも犠牲者の仲間入りをしただけで、結果的にはほとんど意味がなかった。3万といわれた遠征軍は、溶けるように消えていった。

 次の年とその翌年は色々な理由があって遠征は行われなかったが、この間主のいなくなった東ヨーロッパのかなりの農地が次々に牧草地へと姿を変え、モンゴルの支配が強まっていった。牧草地とされたのは、10万の騎兵が有する50万頭以上の馬をヨーロッパ中原で養うためであり、ハンガリー盆地、ポーランドの平原は農地から牧草地とされたのだった。当然現地では飢饉が起きたが、反抗的な住民に対してモンゴル軍は寛容さを持ち合わせていなかった。従順な者にはそれなりに寛容なのだが、刃向かう者に厳しく当たるのがチンギス・ハーン以来のモンゴル軍の一般的行動だったからだ。
 そして1245年、北ドイツ平原への本格的侵攻が開始される。
 神聖ローマ帝国軍は、総力を挙げて騎士団と兵力を集め、さらにヨーロッパ各地からの援軍も募り、その数は最大で20万人にも及んだ。しかし、もう一つの「ワールシュタット(死者の街(山))」を作っただけに終わり、一年で神聖ローマ帝国はほぼ壊滅した。教会の祈りも、魔女の祈祷ですら、タルタロス(悪魔)の軍勢であるモンゴル軍には意味をなさなかった。この頃のモンゴル軍を阻めるのは、海しかなかった。
 その年のうちにモンゴル軍は難なくライン川にまで至り、この時点で神聖ローマ帝国に属していたアルプスの峰の向こうにあるイタリア諸都市が、それまでの威勢の良さがウソのように諸手をあげてモンゴルの経済的従属下に入った。この時点で、流石のモンゴル軍も戦費や物資に不安を感じつつあったが、北イタリアの服属により不安も解消され、モンゴル人にさらなる進撃を行わせる事になる。十字軍の遠征に使われるはずだった物資や資産は、モンゴル人のヨーロッパ侵略に使われることになったのだ。これは、北イタリアの商人達が、宗教と人種よりも自分たちの商売、さらには命を選んだ結果だった。この点は、モンゴル人が征服した他の地域の商人達と大きな違いはなかった。そしてモンゴル人達は、従順な商人に対してはかなりの寛容さを示した。モンゴルの遠征の大きな理由も、統一された意志のもとでの流通網の構築にあったからだ。
 その後もバトゥの遠征は続き、1247年にフランス王国は絶望的な抵抗の末に滅亡。パリの街も焼き払われた。ガスコーニュなどフランスの一部に地盤を持っていたイングランドも、国王が戦死し派遣軍、現地軍が徹底的に敗北すると、ブリテン島に引きこもった。
 しかも同年、ローマ教皇インノケンティウス4世がモンゴルの力により教皇の座を退位させられ、モンゴルの都合によってヨハネ1世というどこの馬の骨とも分からない者が教皇に就任。モンゴルによるキリスト教支配を、ヨーロッパ世界に印象づけた。
 同年、モンゴル人はピレネー山脈に到達。同時に、ノルマンディー半島から大西洋を望み、ついに二つのオケアノスを望む人類史上空前の大帝国を作り上げることになる。
 バトゥの名は、ユーラシア世界西部全体に知れ渡り、その後彼の勇猛さにあやかろうと、世界各地で彼の名前を付ける事が一般的に行われるようになる。例えばイングランドで「バーツ」といえば、バトゥという事になる。

 西暦1248年、バトゥと西征軍の主力は突如モンゴル平原へと引き上げていった。だが、これは単に大汗オゴテイが死去したからに過ぎず、ヨーロピアンが勝利したわけではなかった。モンゴル人によるヨーロッパ支配は、その後も長らく続くことになる。
 「西征」の結果残ったヨーロッパ由来の国家は、スカンディナビア半島、イベリア半島、イタリア半島、ブリテン諸島、ビザンツ帝国ぐらいとなった。北イタリア地域、ビザンツは実質的にモンゴルの属国や属領であり、巨大な経済網を手に入れたモンゴル人の前に、ヨーロピアンの経済は全て握られたも同然だった。北ヨーロッパ地域は比較的残っていたが、これは単にモンゴル人が寒すぎる土地を嫌ったからに過ぎない。
 しかもイベリア半島では、モンゴルの影響でイスラム教徒が勢いを少しばかり盛り返し、イベリア半島での「レコンキスタ」は大きな停滞を迎えることになってしまう。当然だが、十字軍の遠征もなくなり、神聖ローマ帝国の滅亡、ローマ教皇の強制的な後退などもあって、キリスト教の権威は地に墜ちた。
 かくしてモンゴル人のヨーロッパ侵攻によって、それまで独自の中世世界を構築していたヨーロッパ世界は、一度徹底的に壊滅する事になる。その後、ヨーロッパ中原の多くがモンゴルのため農地から牧草地へと姿を変え、強大な遊牧帝国を人工的に出現するに至る。
 モンゴル人がヨーロッパ史に与えた影響は、ヨーロッパ世界ですらアレキサンダーやシーザーすら凌駕すると言われた。

 ヨーロピアンによるモンゴルに対する反抗は、ヨーロッパ全土を黒死病(ペスト)が覆い尽くしていた頃、つまり14世紀半ばにに始まる。
 その間ヨーロッパは、大きく3つの地域に分けられたクリミア・ハン国(ジョチ・ウルス)による支配が続く。クリミア・ハン国の支配領域は、モンゴル帝国の中でも「大元国」に匹敵し、支配下にある総人口も主に白人ばかり5000万人を数えた。そして現地を支配したモンゴル人は、民族ごとに支配階層を作り上げる。小数のモンゴル人を頂点とし、イスラム系=ロシア・スラブ系=ゲルマン、ラテン系という構図だ。モンゴル人の支配のもとで、イスラム系商人や技術者、官僚が幅を利かし、先に征服されたロシア系の人々が中間階層として直接ヨーロピアンの支配に動員された。このためその後のヨーロッパでは、イスラム教徒、ロシア人に対する恨みや恐れなどの負の感情が大きく増大したと言われている。また、モンゴル人の支配ではユダヤ人も積極的に利用され、イスラム商人と同様にモンゴルの統治下で活躍するも、ヨーロッパ社会からは一層嫌われる事となった。
 そうした、ヨーロッパ社会でのもともと存在した対立関係を利用した統治だったため、モンゴルによるヨーロッパ中央部の支配は、1世紀以上続いたと言えるだろう。
 しかしペストと地球温暖期終了に伴う異常気象による農業生産の大幅な低下によって、ヨーロッパ社会に大きな社会不安が発生。モンゴル人による統治に大きな亀裂が入る。特に農業生産が多く維持されているフランス地域での反発が強まり、ここにブリテン島で引き籠もりを決め込んでいたイングランドが、助成と影響力拡大を狙ってフランス進出を画策。「フランス百年戦争」とも言われる動乱状態がフランス地域に到来し、その中でモンゴル人による西ヨーロッパでの支配力はほぼ失われていった。
 北ドイツ平原、ポーランドなどでは、貧しい農地の多くが牧草地へと変化していたため、フランス地域に比べてモンゴルの支配の揺らぎは遅かった。モンゴル人が農地に不向きな場所の多くを自らの牧草地として現地人口そのものも大きく減っていた事が、同地域での混乱減少に寄与していたのだ。
 それでもバルト海沿岸に広がっていたハンザ同盟、ドイツ騎士団が徐々に力を蓄えてモンゴルの支配に対向するようになり、スウェーデン、ノヴォゴロドなど北の国々も加わって、モンゴルの支配を脱する動きが強まった。ロシアも同様で、主にモンゴル人が住みたがらない北の地域でロシア人の勢力が徐々に強まっていく。
 ヨーロッパでモンゴルの影響力が最も遅くまで残ったのはハンガリー盆地で、同地域からモンゴル人とその系譜に連なる人々が追い出されるのは、16世紀を待たねばならなかった。

 そうしてモンゴル人は徐々にヨーロッパから追い出されていったのだが、だからといってヨーロピアン社会に平和と安定が訪れたわけでもなかった。
 モンゴル人という支配者がいなくなると、再び内輪もめを開始したからだ。しかも一度何もない状態にされたところから、新たに支配権を作り上げるという状態のため競争は激しく、また取り立てて大きな力を持つ勢力が存在しないため、争いは長く続いた。その典型が、ドイツ地域での小諸侯の乱立と「フランス百年戦争」だった。
 フランスでは、ペスト流行の頃からモンゴル人の支配を一応は脱することができた。しかし、旧フランス王国とイングランド、イングランドの支援を受けたライン川流域のブルゴーニュ公爵による戦いが展開されるようになる。一度壊滅した社会を再建しつつの争いのため出口はなかなか見えず、またイングランドは当時のヨーロッパ水準でも人口が少なく貧乏な国のため、海の向こう側の大陸を侵略しきるだけの力を持たなかった。だが、貧乏であるだけに、裕福な土地であるフランスの大地に固執した。
 戦争終了の契機となったのは、1429年のジャンヌ・ダルクに始まる「救国運動」と、イングランド国内での大規模な内乱「バラ戦争」によってだった。「救国運動」によって復興されたフランス王国が一時勢力を取り戻し、「バラ戦争」によってイングランドはフランスへの介入能力を失ってしまう。
 しかしブルゴーニュ公爵の力は、主に経済力においてこの頃大きくなりすぎていた。ドイツ地域の混乱を見てライン川地域にまで勢力を広げていたブルゴーニュ公爵は、公爵という単なる貴族ではなく立派に王国を形成しつつあった。しかもフランドルやライン川地域の優れた商工業者を味方に付けていたため、経済力と国力も強大だった。
 このためブルゴーニュ公爵は、権威の復権に躍起になっていたローマ教皇を賄賂を積み上げる事で抱き込んで、自らの領土を公爵領から王国へと昇華させる事に成功する。また、ジャンヌ・ダルクを捕らえキリスト教の敵(魔女)として処刑することで、フランスの反撃を封じることにも成功した。この時点ではイングランドの内乱はまだ起きていなかったため、イングランドのフランス支配は進む事になるが、これも15世紀中頃にイングランドが内乱でフランスでの勢力を減退させ、王国となったブルゴーニュの優位に運んだ。
 そしてドイツ・ハンザ同盟の地域で起きた「宗教改革」の波に乗る形で、自らの国教を新教として商工業者の支持を取り付け、一気に自らの国とフランスを国家、民族、宗教全てで分けてしまうようになる。当然ローマ教皇からの批判と弾圧を受けたが、モンゴルの支配前ほどの力はローマ教皇になく、バルト海沿岸、スカンディナビア、そしてブルゴーニュ王国での新教の浸透は進み、これらの地域がモンゴルを追い出した後のヨーロッパ社会を引っ張って行くことになる。
 だが、旧教とされたカトリックが勢力を失ったわけではなく、今度は新教対旧教という対立がヨーロッパ社会にもたらされることになる。
 そしてその問題をさらにややこしくしたのが、イスラム勢力による再度のヨーロッパ浸透だった。

 西暦1299年に建国されたイスラム社会にとっての傭兵の国であるオスマン朝は、ティムール朝の前に一度滅亡の危機に瀕するも、その後トルコ半島で勢力を静かに拡大した。1453年にはビザンツ帝国(旧東ローマ帝国)を滅亡に追い込んで、一気に勢いを増した。セリム1世、スレイマン1世と名君が続いた事もあって領土も一気に膨れあがった。セリム1世の代に事実上のイスラム社会の盟主となり、スレイマン1世の力によって「ローマ帝国」の再現が行われた。ヨーロッパ世界にとってのオスマン朝は、新たなタタールに等しかった。
 1529年には、モンゴル人の破壊からようやく再建されたウィーンが、スレイマン1世による大遠征によって呆気なく陥落した。あくまでキリスト教を中心に据えた神聖国家の再現を目指していた多くの地域が、イスラム世界の軍門に降っていった。小諸侯が乱立するドイツ中原、ポーランド地域では、強大で組織力を持つオスマン朝トルコの力に抗することはできず、ドイツ南部、ポーランド南部、いまだタタールの国(クリミア=ハン国)が続いていたウクライナまでがオスマン朝の支配下となった。また、その周辺部の多くが属領とされた。キエフやモスクワも、一度は焼き払われた。
 また、ウィーン陥落などで喉元を抑えられたベネツィア、フィレンツェなど北イタリアも、今度はイスラム教徒への従属を誓わざるを得なかった。そしてオスマン、ベネツィアの連合軍によって、イタリア半島南部で続いていたシチリア、ナポリ両王国がオスマンの支配に入った。さらに西暦1538年に起きた、西地中海の制海権を巡る海戦では、レコンキスタで意気上がるイスパニア(カステーリャ)艦隊を散々にうち破った。その間のオスマンによる遠征と支配の強化によって、地中海沿岸の北アフリカのほぼ全てもオスマンの影響下となった。最盛時には、イスラム教徒が再びイベリア半島の一部を有するまでに勢力を拡大した。このためイスパニアは、レコンキスタを一部逆戻しの形でやり直す事態に陥ることとなる。
 もっとも、オスマン朝がヨーロッパ深くに踏み込んだおかげで、インド洋からの物産がヨーロッパに入り込みやすくなった。15世紀の間は、香辛料などに重い関税をかけていたオスマン朝などイスラム系国家だったが、オスマン朝としては支配領域の慰撫のためにも法外な税を取り立てることもできなかった。また逆に、軍門に降った北イタリアの商人達にもある程度の利益を約束しなければならず、オスマン朝は歴史上始まって以来と言えるほど、ヨーロッパ世界とオリエント世界を合わせた「世界国家」へと変貌していくことになる。
 その姿は、まさにローマ帝国の再現だった。
 その巨大な帝国の産み出した科学の精華こそが、各種火薬式前方投射兵器だった。もともと火薬を用いた兵器の元祖は中華地域で発明され、14世紀中頃には初期型の「大砲」がイスラム世界で登場し、コンスタンチンノープルの攻撃で一躍有名となった武器だ。北ヨーロッパで中華世界発祥の印刷術が発達・改良された事で宗教改革が進んだように、オスマン朝の力は火薬の力による者だったと言ってもよいだろう。大砲の力により、籠城、籠城による敵の撤退を促すという従来の軍事行動が出来なくなったからだ。
 そしてその火薬兵器は、主に攻撃される側という形でヨーロッパにも伝えられたのだが、それ以上の地域に広がるにはかなりの時間を要することになる。タタールに蹂躙されたヨーロッパは、長らく自らの世界に籠もりきりだったし、イスラムの盟主オスマン朝トルコは、ヨーロッパ政策を重視してインドなど他方面には商業上以外であまり進出しなかったからだ。
 しかし、ヨーロッパの全てがオスマン朝トルコの支配下に入ったわけではなかった。16世紀半ば以後、オスマン朝の侵略も停滞期に入り、スレイマン1世のような侵略は行われなくなる。このため、バルト海沿岸地域、ライン川沿岸地域、そしてローマ教皇領が、新たにヨーロッパ世界の境界線となる。また一方では、地中海の制海権、商業権益もほぼ全てオスマン朝のものとなり、ジブラルタル海峡の北アフリカ側もオスマン朝の領するところとなった。
 イベリア半島で意気を挙げていたカステーリャ(イスパニア)やポルトガルに対しても、オスマン朝の海軍やイスラム系海賊が襲いかかり、イスラム世界を介しない貿易を考えていた人々の意図を粉砕していた。
 しかもその一方では、ローマ教皇領を守らねばならないと考えるカトリック教徒は、その努力の多くをイタリア半島中部に注ぎ込んだ。フランス王国、イスパニア王国がその代表で、主に二国は新教国家との対立を行いつつも、オスマン朝の脅威からローマ教皇領を守るための泥沼にはまり込んでしまう。このため新教の拡大と浸透を阻止することが難しくなり、異教徒よりも邪教徒を優先する時代が長らく続くことになる。


フェイズ:02 「東洋の雄」