■フェイズ:06 「日本の混乱と再編」

 新大陸で見つかった莫大な量の金銀は、所有者にして採掘者である日本人の社会を短期間のうちに根底から覆しつつあった。
 「大接触」のあった18世紀末頃、日本は織田家を中心とする「石山幕府」と呼ばれる官僚制の強い封建政府の絶頂期に位置していた。人口が飽和状態にさしかかるほど増え、国内産業も大きく発展していた。海外進出もある程度行われ、無数の商人と商船が日本列島で不足する文物をせっせと運び込み、多くの加工品(手工業品)を輸出していた。当時の日本は、世界でも有数の豊かな国であり、近世的といわれる社会としても世界的に最も発展している状態にあった。少なくとも、当時のヨーロッパのどの国よりも発展し、豊かだった。
 しかも当時の世界最新の文物を持った人々、つまりようやく外の世界へと乗り出した白人達とインドで出会い、大きく進路を上向きに取ることになる。
 日本人達は、欲望の赴くままに新大陸へと向かい、そして誰よりもどん欲に貪り食った。その結果の一端が、短期的には未曾有と言えるほどの金銀の奔流だった。
 そして金銀の奔流が、日本の封建社会を時代と共に押し流していく。

 織田家を中心として成立した石山幕府は、日本的封建制度の完成形だった。優れた中央統治、地方分権も行われて、国内では秩序と平和による安定した時代が続いていた。「天下太平」が、この時代を象徴する言葉だった。
 その中で特権支配層である武士(西洋での騎士に当たる)階級は、中央政府の幕府や地方政府の藩(大名=貴族)から形式上領土という形の給与を与えられて、主君に仕える形が取られていた。故に、石山幕府は封建制度国家とされる。
 とはいえ領土と言っても、ごく一部の在地領主や土豪勢力以外は、自分の領地を知る者は殆どいなかった。どこにあるのかすら分からない者も多い。なぜなら日本での租税の基本は、土地そのものではなく租税作物である「米」の取れ高であり、「米」を「石」や「俵」という単位で貰う事で、主君に仕える封建支配層だったからだ。そして米一万石分の領土を持つと、「大名」つまり封建貴族となって与える側となる。
 「米」を与えられるだけなので、自らの領地を知らないのもある意味当然だった。主君から与えられた「米」という給与が重要なのであって、領地や領民は生産者にして付属物程度でしかなかったからだ。このため実際農地を運営管理する名主や地主、村長といった者の方が、よほど本当の領主だったほどだ。武士は特権と共に寄生する存在だったのだ。
 そして武士達は、「米」を商人から換金して日々の生活を送っていた。このため日本では、世界に先駆けて「米」の先物取引市場が成立していた。支配層はその年、場合によっては一日単位で変動する「米」の価値、価格に一喜一憂して過ごしていた。石山以外での市場で、価格をいち早く知るための手旗信号による高速情報通信網が整備されたほどだった。
 そこに今までにないほどの貨幣の奔流が、まるで津波のように押し寄せてきた。
 物価は高騰し、今までの貨幣価値が大きく乱高下した。この一連の変化を「価格革命」と呼ぶ。まずは1820年代後半から銀の価格が急落し、1848年以になると膨大な金の発見に伴って再び金銀格差は是正された。そして大量の金銀により、大規模な物価高騰と貨幣の大量流通が発生する。このため金銀に関しても、先物市場に変わる為替市場が登場して、両替商では急速な銀行業務の近代化が促された。
 この「価格革命」で元気になったのは、商人達だけではなかった。日本中の武士達と、そして大名達も元気となった。

 石山時代も200年も継続すると、日本経済は大きく向上していたのに、武士達の給与はほとんど初期に定められた領地(石高)のままだった。開拓、干拓、農業技術の発展で大きな変化が生じているのに、米の取れ高をほとんど再算定しなかったからだ。
 このため時代が進むに連れて武士が貧しくなって、町人、自作農が豊かになると言う支配層にとっての悪循環が起きていた。しかも武士達は、自分たちの華美な生活を体面にかけて維持しなければならないので、生活の質を落とすわけにはいかなかった。必然的に大名家から各武士に至る台所(財政)事情は赤字となり、両替商や高利貸しが幅を利かせて行くようになる。今日でも大銀行家として知られる鴻池、淀屋が隆盛したのも、武士との取引においてだった。
 この流れは、最初の大量の銀の奔流が生まれる1830年頃まで変化なかった。当時日本は「文化文政時代」といわれ、浪費癖の将軍(君主)に影響された消費文化が花開き、武士達の出費額も増加の一途を辿っていた。
 そうした状態がほぼ頂点にさしかかりつつある時、巨大な銀の奔流が日本列島に訪れ、租税の基本となる米の価格が一気に急騰した。もっとも高騰したのは米だけではなく、貨幣価値そのものが大きく下落した。このため武士の生活は一気に改善したわけではないのだが、貨幣ではなく米を禄(給与)の基本としていたため貧困に陥ることはなかった。しかも、借金のほとんどは貨幣で帳簿付けされていたので、借金の価値が相対的に大きな下落を示した。価格革命により、武士とそれ以外の格差が大きく是正された効果は大きかった。
 単純に言えば、借金の価値が一気に3分の1から4分の1に減ったことになる。100両の借金も、それまでの価値から逆算すると25両から30両程度の価値となるわけだ。当然両替商は利子の変更を行ったが、幕府が一般経済の均衡という理由で金利抑制を行ったので、インフレに追いつかず一時大きな苦境にすら陥った。
 金銀の奔流に特に狂喜乱舞したのは石山幕府そのものであり、幕府は無尽蔵にもたらされる銀(の税収)によって莫大な借金をあっと言う間に返済すると共に、財政事情が非常に潤沢となった。幕府の金蔵には、勘定奉行(財務省)の武士達がうれしさのあまり卒倒しそうなほどの金銀が山積みとされた。既存の施設で収容しきれないため、新たに多数の丈夫な金蔵や地下倉庫が作られたほどだった。薩摩など一部の藩も、新大陸進出や藩政改革によって財政事情が潤沢になるばかりでなく、今までにない大きな力を持つようになった。
 そして巨大な金銀の奔流は、経済を担う人々にも大きな力を与えた。両替商、豪商、そういった人々だ。特に海外貿易に携わっている人の力は急速に拡大し、新大陸での事業、海運事業、造船業は飛躍的な発展を遂げた。そうした商人達は幕府(政府)や藩(地方政府)と結託する向きが強く、富の偏在が顕著化した。また大規模すぎた「価格革命」が、貧富の差を実質的に拡大していった。賃金で日々の糧を得ていた人々は、めまぐるしい上昇を続ける物価を前に悲鳴をあげる毎日となった。
 そして強い光と影の中で、社会の不満が高まっていく。
 これを財政の健全化に浮かれた幕府や藩、つまり武士の多くが見落とし、民衆との間に格差を生んだ。

 「持つ者」と「持たざる者」。古今東西、二つの差が国家や社会に不安定と混乱をもたらすことは多々存在する。
 この時の日本も例外ではなかった。しかも人類史上最大級と言える物理的な物価高騰という貨幣価値の混乱が根底に流れているため、「格差」を短期間で埋めることは不可能に近かった。それでも石山幕府は努力をした方だった。将軍、奉行、優れた武士官僚達は、彼らがその時出来る対策を場当たり的ながら多数実施したし、実際成果も見られた。大規模公共事業の乱発で、今までの町並みが大きく変化したりすらした。だが効果は限定的であり、特に金銭経済が浸透していた都市部において、混乱は拡大の一途を辿った。
 最初の混乱は、1837年の「大塩平八郎の乱」だ。
 東の商都江戸の高級官僚だった武士の大塩平八郎が同士と共に起こした乱で、乱の原因は江戸の町奉行(今の市役所)と富を独占する大商人達が、貧民救済を疎かにしたことにあった。この前年に「天保の大飢饉」があって、日本国内に食料が不足していた事を発端とする混乱であり、富の格差がそのまま人々の生存率に関わる状況を見かねた末の一種の実力行使だった。
 乱自体は短期間で終息し、大塩平八郎も逃亡後の数週間後には捕らえ処刑されている。しかし事件自体は、幕府内部に大きな衝撃をもたらした。そうした中での大清国の日本締め出しは、幕府(政府)にとって渡りに船と言える事件だった。民衆の不満を外征で晴らす事は古今東西良く行われることであり、実際この時の日本でも民衆の不満は幾分沈静化し、「唐の国」の横暴を戒める幕府の行動に対して民衆は喝采を送った。そうして稼いだ時間で、幕府は物価高騰の是正を懸命に図った。
 しかし物価高騰は、収まるどころか拡大の一途を辿る。
 新大陸から毎年もたらされる莫大な銀に加えて、戦争に伴う浪費がさらなる物価高騰をもたらしたからだ。しかも幕府は、自らの戦争と諸外国への援助により、湯水のように銀を浪費して日本と東アジア世界の銀の価値を下げ続けた。
 そこに1848年の「黄金祭」がやって来る。
 巨大な黄金の流れによって銀の価格下落は大幅に反転したが、貨幣価値の下落と物価の高騰はいっそう強まった。
 そして長引く戦乱を前に、日本国内での物価高騰を始まりとした社会不安が広がった。また武士の間では、長引く戦乱の中での戦死者、戦病者の慢性的増加によって、大きな士気の低下が起きていた。武士の中には従軍を拒否した挙げ句に新大陸などの海外に逃亡する者が後を絶たず、支配階級のタガも緩んでいった。

 そうした中での1853年6月に、大清国の揚子江河口部で幕府軍が大敗するという事件が起きる。
 この時の戦闘では、鉄砲や大砲で高度に武装した3万の大清国軍の前に、臨時築城された城に籠もる8000の幕府軍が壊滅的打撃を受けた。戦闘の結末そのものは、自らの制海権を有する奢りから事態を楽観した末の事件で、戦局が転換したなどという事態ではなかった。
 しかし多くの上級武士、しかも幕府の旗本の若者が犠牲となった。陥落した要塞はもともと戦線の後方にあって、本来なら大規模な地上侵攻を受ける可能性はほとんど無いと考えられていた。しかし大量の河用船舶を用いた奇襲攻撃によって攻撃を受け、呆気ない陥落、そして守備兵の惨殺という事件によって幕を閉じた。
 清国からすれば、侵略者に対する復讐劇の一つでしかなく、その後怒り狂った幕府艦隊が沿岸部や大型河川で暴れ回り、受けた損害を遙かに上回る被害、損害を清国側に与えたのだが、日本での問題は国内において起きた。
 幕府軍が惨敗したことで、幕府の威厳が大きな揺らぎを見せたのだ。しかも一度に数千人もの旗本の子息が戦死したことは、幕府を支える武士達に大きな社会的衝撃をもたらしてもいた。しかも翌年1月には、薩摩、長州を中心とする藩兵が復仇と言える戦闘で大勝利を飾ると、幕府の威信はさらに揺らいだ。
 しかし戦争を終えることは難しく、織田幕府はジュンガル汗国への莫大な支援をアメに清国との戦争へと誘う。
 そうして自国の消費、他国への支援という際限ない浪費の末に、1860年、日本というより織田幕府はようやく戦争終了を実現する。
 だが、戦争の代償は大きかった。戦争の間に日本経済自体は未曾有の巨大化と技術革新を実現したが、中央政府とそれに従順に従った地方勢力は大きく疲弊してしまう。しかも自ら作り出した巨大な金銀の奔流が、自らを苦しめていた。
 戦争を何とか「手打ち」にできたのも、大老(宰相)だった明智光弼個人の政治力の賜物だった。だが、明智光弼は中央政府の強い締め付けによって日本を何とかしようと画策した結果、暗殺という形で1861年に死去。幕府の威信は地に墜ちてしまう。
 しかも、清国との戦争が未だに終わらない1858年に織田信定が死去。幕府の混乱はますます激しくなった。
 こうなると、後は悪循環だった。

 一方、日本人社会の膨張と日本本土での混乱で大きな力を持つようになったのが、「雄藩」と呼ばれる一部の地方政府と、近世的資本家へと躍進しつつある大商人達だった。
 雄藩で力を持った若手の武士と領主(藩主)は日本の改革を望み、大商人達は自分たちの富の拡大のため強力な中央政府の出現を望んだ。しかも日本人達は、海外進出の激化によって世界が幕府だけのものでない事を身を以て知り、中華世界とのあしかけ20年にもわたる戦争によって、血(戦い)に慣れ始めていた。また、多くの「持たざる」民衆の不満は、暴力による変革を是とするまでに高まっていた。
 つまり、日本の歴史上何度か起きた「戦乱の時代」が到来すべき要素の多くが揃っていた事になる。
 しかし、今までの日本史上とは全く異なる要因が強くそして大きく横たわっていた。
 北東アジア以外の諸外国の存在ではない。日本人社会が、自分たちですら把握できないほど巨大化している事だった。
 人口だけ見ても、19世紀も半分以上を折り返した頃、新大陸に住む日本人、日系人の総数は100万人を早くも越えようとしていた。しかも人口は、移民と現地での開拓の進展に伴って、爆発的に増大しつつある。東南アジアでも、それまでの経済的進出によって、約30万人の現地日本人と100万人以上の日系人が住んでいた。日本の本土化が進む台湾、蝦夷にも、それぞれ200万人ほどが住んでいた。蝦夷島は、もはや日本本土の一部だった。
 新大陸と東南アジアの多くの地域では、日本語こそが事実上の商用公用語であり、日本人がもたらした経済網こそが動脈となっていた。
 そして半ば名目上だが、日本の本州、四国、九州以外の土地は、全て幕府の統治下(直轄地)とされていた。もっとも、日本以外に住む人々にとっては、幕府がどうこうよりも日々の生活と近隣の原住民、猛獣対策が主な関心事であり、幕府の統治下といっても幕府に対する忠誠心や帰属心は低かった。実力社会のため、武士に対する敬意や忠誠心も低かった。
 対して、当時の日本本土の総人口は、急速な海外移民と伝染病コレラによる度重なる猛威によって人口が10%近く減少していたが、それでも3700万人の人口を抱えていた。日本に住む外国人の数も、漢族と東南アジアから流れてきた人々を中心に30万人以上を数えていた。
 
 また、戦乱が迫っているとはいえ、日本列島は既に近世的視点で開発しつくされていた。このため十分に戦えるだけの土地の確保が難しい上に、流通網が発展していた。特に帆船に代表される海上交通網の発展は著しく、17世紀に幕府が整備した街道網の意図的な不備(大河にあえて橋を架けないなど)も、あまり意味をなさなくなっていたほどだ。
 そして軍事力についてだが、もともと幕府は各藩の軍事力を酷く制限していた。船の建造についても、軍艦については大きな制約を設けていた。だが「中華戦争」の間に大きな変更があり、幕府は自らの財政負担軽減と各藩に浪費させるべく、自ら以外の軍事力に対する規制を大きく緩めた。そして一種の功名争いのため、財力、国力(藩力)のある藩はこぞって軍を作り、兵器を揃えるための施設(大規模手工場)を建設した。また幕府自身も巨大な軍備を建設し、中華地域や世界各地に派遣した。
 しかし「中華戦争」の終了と共に、軍隊の多くが日本列島に戻ってくる。幕府は、各藩が作った軍隊(藩兵)の解体を命じるも、既に混乱の予兆が見えている各藩、特に雄藩と言われる一部の藩は財力に任せて軍備を維持し、幕府に挑戦する向きを一気に強めた。
 そうした中、戦いは不意に起きる。
 最初の戦闘は、蝦夷だった。
 当時蝦夷は、幕府直轄地で札幌奉行が統治を実施し、藩という名の地方政府は置かれていなかった。入植と開拓が進んでからは、「天領」つまり織田家の直轄領も広がった。そして蝦夷には、日本各地、特に貧しい奥州(東北)や信州(長野)からの移住者とその子孫が多く住み、冬の雪が比較的少ない太平洋沿岸を中心に開発が進んでいた。当時米を作ることは難しかったが、漁業は非常に盛んとなり、各種麦の栽培や大陸から導入した家畜の飼育で生計を立てて人々は暮らしていた。また原住民のアイヌも、日本人による実質的な侵略を受けながらも一定数が日本人社会に組み込まれ、日本人の少ないところを中心にして日本的生活を取り入れていた。逆に、日本人が蝦夷さらにはより北方での暮らしを確立できたのは、アイヌ人が有していた冬の寒さに強い構造(二重構造)の家屋など暮らしの知恵を取り入れたからだった。
 そうして取りあえずの安定にあった蝦夷だが、金銀の奔流による物価の高騰、長引いた戦争際した幕府による過酷な増税が重なり、ついに「一揆」が「反乱」へと発展した。蝦夷は、在地領主と言うべき屯田兵的な武士が多く、また猛獣対策などのため住民の武装率が高かった事が、この時の反乱を引き起こした一つの原因でもあった。この時の混乱が「蝦夷の乱」として「乱」とされたのは、武士が幕府に反抗したからだ。
 そして何より、この混乱の中心的人物となったのが、名目上の蝦夷奉行となったばかりの若き織田信輝(1844 - 1916)だった。

 織田信輝は、1700年代初期に織田本家から分かれた分家の一つの出身で、同分家は分かれた当時は織田の血統を残すための小さな家でしかなかった。しかし小琉球、蝦夷と徐々に広がる幕府直轄地の統治のため、18世紀頃から名目的に織田の分家を領主として配置する事が行われるようになる。織田信輝の分家は、そうして蝦夷の太守となった。「蝦夷公」や「北氷公」といえば、彼らの血統の事を示す。歴史的には、「蝦夷織田家」と呼ぶ事が多い。
 そして蝦夷は屯田兵的武士が多いので、幕府内では兵士の質が高いと考えられたため、「日清戦争」、「中華戦争」で信輝の父信光は蝦夷公の総大将として出陣し、多くの武功を立てた。信輝も戦争末期に元服(成人)するとすぐに参陣して武勲を立てた。
 そして信輝は、遠征の中で幕府軍の不甲斐なさを実感し、同時に幕府の統制の乱れも痛感したとされる。
 蝦夷織田家は現地に民心安定の為に在地領主であり、民と接する機会の多い一族だった。信光、信輝父子も「一揆」に対して同情的で、信光は石山に陳情のため上府。しかし彼の意見は幕府から無視され、事実上幽閉(軟禁)されてしまう。その後解放を求めるも、幕府は権高に出るだけで、さらに厳しい要求を突きつける。
 一連の流れに信輝は激怒。「もはや幕府に民を治める資格なし」として、自らが先頭に立つ事で1861年に「蝦夷の乱」へと発展する。
 彼のもとには蝦夷のほぼ全ての武士、民が参集し、また中華での戦闘で関係の深かった一部の人々も駆けつけた。

 「蝦夷の乱」に石山幕府は、「天地をひっくり返すような」と揶揄されるほど混乱した。規模が蝦夷全土という「大塩の乱」どころではなく、しかも織田一族から乱を率いる者が出たのだから混乱するのも当然だろう。このような事は、それこそ戦国時代以来であり、誰も対応する術を知らなかった。
 一方では、「大接触」前後から始まる大規模な海外進出と、中華での20年にわたる戦争が、日本人達に再び戦国的な自由で野蛮な気持ちを呼び覚まさせていたとも言えるだろう。
 当時の蝦夷の総人口は、約200万人。海産物などの物産が豊かなので経済力は400万石に匹敵すると言われるも、基本的には日本の一地方に過ぎなかった。だが、新大陸同様に開拓者の国であり、屯田兵が多かった。民衆の武装率も高く、その対策として駐留軍も大きな武力を持っていた。さらに、念のための北方からの中華地域からの侵略に備えるための駐留部隊も存在した。北氷海の進出拠点であり、同地域を実質的に版図に組み込んでもいた。だから固有の織田海軍部隊すら駐留していたほどだ。
 そして現地での武力の維持のため、札幌奉行(=城)には、常に数十万両の金銀と10万石の兵糧が蓄えられていた。
 また蝦夷は、日本で最初に開拓の進んだ場所のため、特に初期において新大陸の開拓にも経験を活かすためにかり出された。このため海外領とのつながりも深く、蝦夷織田家はそうしたつながりを利用して、多くの財産を幕府に秘密裏に蓄財していた。
 蓄財は、本来なら幕府の無理な要求に応える為、中華での戦争に備える為のものだったが、価格革命で困窮する民に回され、さらにこの乱では反乱そのものに使われる事になる。
 蝦夷の総動員による戦力は約15万人。一定程度の海軍も独自に有する為、島である蝦夷は簡単に自主独立地域へと変化してしまう。しかも、地理的にも蝦夷より北の地域との繋がりも深く、北氷海、あれうと海地域、あらすか地域なども事実上、蝦夷織田家、実質的には織田信輝側についた。
 しかも、奥州諸侯も蝦夷同様に中華での戦争と物価高騰には悩まされた為、蝦夷の乱に同調する向きが強かった。奥州の重心に位置する伊達家でも、中華戦争で鍛えられた軍勢を動員するも、むしろ彼らの矛先は石山を向いていた。

 蝦夷での反乱に際して幕府は、「反乱鎮圧」の戦費調達のために物価維持を目的として一定量備蓄されていた勘定奉行内の金銀の大量放出と増税を画策。これに日本各地、特に西国の雄藩が経済の混乱を理由に強く反発。石山、京、博多などの大商人達も反発の姿勢を強めた。また増税のお触れ(知らせ)が、幕府直轄地とされる海外領各地でも発表されると、今までの不満に火を付ける一撃となった。
 西国雄藩は、織田家の「お家騒動」で自らの勢力拡大を画策し、商人達は戦争での利益を得ようとしたのだった。だが、「持つ者」と「持たざる者」の差と、大規模な海外進出による自由な雰囲気の醸成により、天下太平の中で培われた価値観が意味を無くしつつあることを感じ取る人々もいた。その最たる人物こそが、蝦夷織田家の織田信輝であり、彼は織田家の者が民のために立つ事が、今後の織田家の為、さらには日本の為、そして「日本人」の為に必要だと考えていた。
 織田信輝の限界を、織田家に固執したことだと言われる事も多いが、この場合彼が織田家出身だったり、織田家が今後も日本の中心に位置する事はあまり重要ではなかった。
 織田信輝は、新たな時代を切り開くべく出現した、時代が求めた新たな英雄もしくは改革者だったと言えるだろう。
 改革者と言う点では、石山幕府開祖の織田信長がそうであり、織田信輝は徐々に織田信長の再来とも言われるようになっていく。
 なお、「蝦夷の乱」及び織田信輝の反乱組織での一つの特徴は、東アジア特有の女性を蔑視する風潮が弱いことだった。蝦夷が古くから開拓者の土地であり実力主義の土地だからこそであり、反乱当初から彼の配下には一定数の優秀な女性の姿も見られた。このためアジア世界での女性の地位向上は、蝦夷から始まったと言われることが多い。

 「蝦夷の乱」の勃発から時を経ずして、強権を用いて反乱軍を鎮圧しようとした明智光弼は1861年に暗殺され、「蝦夷の乱」を合わせて「幕末」の到来とする。もしくは「革命」や「第二次戦国時代」という呼び方が行われることもある。
 期間は非常に短かったが、「蝦夷の乱」を契機として日本の体制が大きく転換したからだ。
 「蝦夷の乱」での織田信輝は、当初は蝦夷の民衆に対する慈悲と父の解放を求めるが、幕府側の強硬な態度により徐々に態度を変化。幕府側も明智光弼の暗殺でより強硬な態度を取り、証拠もないのに明智光弼暗殺の罪を織田信輝とその一党の責任として、織田信輝らを幕府に対する「反乱」と定義した。蝦夷織田家も、領地没収の上で取りつぶし。蝦夷は奉行所を置かずに代官として、石山幕府の直轄地とする旨が発表される。
 これに対して織田信輝も、決起を決意。
 日本本土のみならず、世界中の日本の影響下にある地域に対して檄文を飛ばした。一部を要約すると、以下のようになる。
 「現在の石山幕府には、日本を統治する力と正義はない。私は織田の一族だったが、幕府の側からもう織田ではないと宣告されたので、ここで改めて一人の日本人として、人々の自由と尊厳のために世の中を改めるべく立つ事にした。志を共にする我こそはと思う者は、我々の元に是非参集してほしい。共に一人の日本人として、自由と尊厳の為に戦おう」。

 この宣言は織田の「平民宣言」や「自由宣言」とも言われ、以後さらに多くの者、多くの勢力が織田信輝に味方するようになる。幕府はもとより藩、さらには多くの武士など保守層から反発を受けたが、武士でも海外に出ていった武士、出たことのある武士からの共感は強く、日本国内でも下級武士からの賛同は多かった。
 「日本人」、「自由」、「尊厳」という当時の日本語では斬新な言葉が、人々の心を掴んだのだった。
 蝦夷には続々と人と物、さらには軍も集まってきた。総動員された蝦夷内では、武士以外の人々による軍隊が広く編成され、厳しい訓練が続いた。そうして集まってきた者には、新たな時代の到来に相応しい人物が数多くいた。そうした中で急速に台頭してきたのが、坂本龍馬だった。
 坂本龍馬は、若い頃の海外貿易や漫遊での経験を通じて、今の日本を何とかするべきだという考えを強く持っていた。また当時の土佐藩(長曽我部藩)は海外進出にも成功して裕福で、彼の実家も武士でありながら半分は商人であり、しかも大成功を納めた一人でもあった。要するに坂本龍馬は、新興財閥の御曹司にして経営者と言うことにもなる。このため彼の財力は豊富で、しかも他の大商人達との強い繋がりを持つことで、混乱期の日本において大きな影響力を行使するようになる。その上、彼は交渉に秀でており、織田信輝の片腕となって反幕府勢力を急速に糾合していく原動力の一人となっていった。

 日本国内での戦いは、実質的に1862年に開始された。
 石山幕府から蝦夷討伐が実施され、同年「函館の戦い」が発生。これに幕府軍は、一般兵によって編成された「蝦夷衆軍」に散々にうち破られた。信輝の軍は、単に民の軍であるばかりでなく、蝦夷特有の騎兵を多数抱え、民の多くが銃に習熟していた。しかも商人達から大砲を多数入手しており、いわゆる「歩兵、騎兵、砲兵」による「三兵戦術」を完全に備えていた為だった。「三兵戦術」は、東アジアでも日清戦争以後急速に発展したものだったが、これまで日本軍は陸での兵力整備で他国に劣る事が多く、国内の戦いでもそれが如実に現れた形となったのだった。
 そして武士が民の軍隊に敗れた事で、幕府の権威はさらに失墜。水夫として武士以外の多くの志願者(半ば無理矢理集められた民)を抱える水軍は、一気に機能不全に陥ってしまう。武士や侍大将達を拘束して、軍船ごと蝦夷へとやって来た者達まで出現した。このため幕府は、蝦夷に攻め込むことが出来なくなり、あっと言う間に「蝦夷の乱」は泥沼化してしまう。
 そして幕府の弱体を前に、雄藩連合も動き出した。
 この時点で、それぞれの勢力は「幕府軍」、「反乱軍」と呼ばれ、各地で小競り合いや強い反発状態を作り上げ、日本列島が急速に二色に分けられていく。どちらの勢力も各地の中立を嫌ったためで、日本の中心部から遠い地域が主に「反乱軍」となった。
 織田信輝らを「賊軍」ではなく「反乱軍」としなければならないところに、当時の石山幕府の弱体があった。争いは、あくまで幕府内もしくは織田家内の争いというわけなのだ。
 しかし幕府の本拠地、つまり日本の首都は石山にあって、帝と朝廷のある京とは目と鼻の距離だった。このため「反乱軍」は、相手を「賊軍」、「朝敵」とする勅令をもらう事も極めて難しく、実力によって権力を握る必要性に迫られたのだ。

 しかも単純な国力と軍事力は依然として「幕府軍」方がはるかに大きく、「反乱軍」もなかなか日本中央部に手が出せない状態が続いた。一方の「幕府軍」も、海軍がまともに使えなくなっていたため、蝦夷は当然として各地の反乱鎮圧にもなかなか動けなかった。
 「幕府軍」は、京の帝と朝廷を脅して事態を好転させようとしたが、日本で最も裕福な人々である京、石山の町民の目が厳しいため、軍事を用いるというところまでは出来ずにいた。特に石山、京の大商人、初期的な近代資本家へと変化しつつある人々の言葉を無視することはもはや不可能だった。彼らは、日本列島以外にも巨大な財を作り上げつつあり、幕府が簡単に処罰することが物理的に難しくなっていた。しかも、自分たちの利益のために大同団結しているとなれば、尚更だった。それに石山、京は日本中の富が集まる場所であり、そこを戦場としたり破壊することは日本全体の大きな損失であり、現政権である「幕府軍」が選択できる行動ではなかった。
 仮に石山、京を戦場として勝利したとしても、その後の幕府もしくは次なる政府の命脈が酷く短くなる可能性は極めて高くなる。敗北した場合、幕府と幕府を支えてきた武士に対する、他の日本人の態度については想像するまでもない事だった。
 故に「幕府軍」は、朝廷を半ば無視して、「反乱軍」に荷担した西国遠征による事態解決を図ろうとする。
 これが1864年に起きた「長州征伐」だった。

 「長州征伐」は、「蝦夷の乱」と続く織田信輝の「自由宣言」に応じて決起したとされる長州藩(小早川藩)に「幕府軍」の遠征だった。関門海峡に面し海外との交流と接触の機会の多い長州は、織田信輝の言葉に同調する向きが強く、また吉田松陰などの事実上の革命指導者を抱えるため、乱の鎮圧の為に「幕府軍」が格好の相手と判断したのだ。
 しかし討伐軍が備前まで進んだ時、蝦夷から奥州伊達藩に織田信輝率いる大軍が上陸。即座に伊達など奥州との同盟関係を結ぶと共に現地軍と合流。その数5万以上の大軍を用いて、まずは関東への進軍を開始する。
 奥州での戦いは殆ど起きなかった。というよりも、石山に幕府を置くため、今まで石山幕府の東国統治はあまり厳しいものではなく、また外様大名がもともと多かった為だった。関東には幕府の譜代や一族も封じられていたが、奥州はこうした混乱に対してほとんど無防備だった。
 かくして織田信輝率いる「反乱軍」は、幕府譜代で江戸を拠点にする武蔵藩を中心とする「幕府軍」との戦闘に突入。そしてほとんど鎧袖一触でこれを撃破してしまう。
 「幕府軍」は長州征伐ところではなくなり、しかも急ぎ軍を石山に戻そうとしたところを長州軍の追撃を受け、「播磨の戦い」で大敗を喫してしまう。なお、長州の軍の中にも、「奇兵隊」という民衆を含んだ軍隊が属しており、こちらでも武士と民の戦いとなっていた。
 海軍の機能不全に伴う事実上の傍観によって石山湾の制海権すら失った「幕府軍」は「反乱軍」に対して和議を提案。日本中枢での市街戦を避けたかった「反乱軍」は、一度は無血開城を突きつけるも、結局は受け入れた。
 これで二つの勢力が石山に揃うことになり、当面は両者の合議によって中央行政を執り行うという約束が交わされた。これが「摂津の和議」である。反乱軍を率いた織田信輝も、まだ20代前半という若年ながら、新たに設けられた参議(大臣級)という要職に就く事になった。

 しかし呉越同舟な状況が長続きするわけもなく、1867年に征夷大将軍(将軍)の織田信茂が死去し、「反乱軍」勢力の働きかけで朝廷が新たな将軍を任命しないことで、自動的に「織田幕府」が形式上滅亡する。「幕府軍」は、自らの起死回生として織田信輝を新たな将軍の座に就けようとしたが、信輝自身がこれを断固として拒絶。
 一方では「反乱軍」に荷担した一部の者と公家の一部が、織田信輝すら排除し、「帝」を中心とする新たな権力の画策を図る。
 これら全ての勢力に対して、織田信輝は次なる軍事革命を実行。自らが掌握する軍事力によって石山、京を掌握して新政府を発足させて、自らは「筆頭統領」に就任。そして民衆も織田信輝を支持したため、織田信輝による政府が日本の新たな中央政府となる。
 織田信輝は、自らの元で全ての勢力、人々が集う「議会」によって中央行政を行う体制が正式に発足する。これは、実質的には旧織田幕府の官僚制度を踏襲した、新たな政府を作り出すための作業でもあった。流石に、何もないところから、既に肥大化していた日本という国家は運営出来ないからだ。また同時に、「飴と鞭」を用いることで、旧政府の「膿」を出してしまわないと新しい強力な政府を作ることが難しいため、事実上の絶対権力を握った織田信輝は急速な改革を断行していく。
 だが、信輝による急進的な改革は既得権益や保守派から多くの反発を呼び込み、これに反発した「反乱軍」が一気に「幕府軍」や「帝」を押し立てようとした人々の追放と粛正を開始、これに反発した勢力の一部がその後二年間に渡り日本各地で中小規模の戦闘を行う事になる。
 そうして1868年、織田幕府(石山幕府または織田朝)に変わる新たな中央政府である、「大日本国」が発足する。
 とはいえ、織田信輝が新たな統治者の座に就いたので、名目上では「織田第二王朝」と言われる事もある。
 しかし織田信輝は「武家の頭領」として自らを考えず、全ての日本人の君主としてより相応しい「関白」の位を朝廷に対して要求。形式上五摂関家の一つ近衛家の養子となることで、関白の位を獲得した。
 その後彼は、反乱半ばに拠点とした江戸を、新たな日本の中心、大東洋に広がる国家として相応しい場所として遷都を実施する。この結果日本の首都は江戸となり、江戸府、江戸政府、関白の政治組織なので江戸御所などと呼ばれるようになる。

 「大日本国」は、織田信輝こそ「絶対王政」的な君主となるも、彼自身が議会や宰相、大臣に権限を持たせる制度を作った。彼以後の子孫は、君主であっても絶対者ではなくなり、「帝」の代理人である「関白」に仕える各大臣と議会が政治を動かす形とされた。
 つまり日本の政治制度は、瞬間的な絶対王政を経験して、一気に次の段階へと移行したことになる。こうした形ができたのは、巨大な経済力を握った大商人達と都市部の富裕層が、武士に代わり政治を動かそうと言う意図のもとで動いた結果だった。
 見た目の形そのものは平安時代の朝廷に少し近いが、「議会」という多くの身分の者が参加する立法機構が存在する点が大きな違いだった。この「議会」の中で、国家の法律の基本となる「憲法」が徐々に形成され、それが近代憲法の萌芽へとつながっていく。そして「関白」の下に行政と立法の二つの権力が並び立つことで、世界史上今までにない斬新な政治を行うというものだ。しかし、近代政治に必要な「司法」というもう一つの権力を分散させることはこの時行われず、日本での政治的熟成はさらに半世紀近くを要することになる。
 しかし、日本が新しい国家として、さらに躍進していくための最初の一歩を記したことは疑いなく、巨大な経済力と政治力が結合した巨大勢力が再び誕生したことになる。

 なお現代の我々は、織田幕府のあった17世紀初頭から以後二世紀半ほどの時代を「石山時代」と呼び、織田信輝以後の時代を「江戸時代」と呼ぶことになる。
 そしてしばらく、日本列島は世界に先駆けて近世から近代の萌芽を迎えるための混乱を経験しつつ、さらなる前進と拡大を続けなくてはいけなかった。


フェイズ:07 「欧州勢力の動き」