■フェイズ:09 「日本人の大東洋と新大陸」
織田家によって石山幕府が成立してから一世紀ほどしてからの時代、つまり18世紀に入って以後、大東洋は基本的に日本人の海だった。
「大接触」までの進出範囲は、東南アジア沿岸部と北太平洋沿岸部に限られていたが、「大接触」以後は一気に広まった。新たに得た航海術と帆船によって精力的に新大陸に進出しつつ、平行して各地への探検、探索が精力的に行われた。19世紀の最初の四半世紀が終わる頃には、日本人達は大東洋のほぼ全域を把握及び掌握するまでになっていた。 インド洋方面では、後発の華南帝国と漢族商人の勢いに押し出されてしまったが、その分大東洋、新大陸への努力が行われ、密度も増す結果となった。 もっとも日本人は、島国出身の海洋民族と言われるも、もともと海外移民や移住にはあまり縁のない民族だし、石山時代中頃までは出ていく事すらほとんど考えたこともなかった。島国で海には慣れていたし、沿岸部での船の運航も慣れていたが、基本的にはそれだけだった。 それでも東南アジア方面での進出はあったが、18世紀で見ても総人口比でいえばせいぜい1〜2%程度でしかなかった。だが、日本史上始まって以来となる日本列島やその近辺での人口飽和状態が、日本人に日本列島だけに住み続ける贅沢な状況を許さなくなっていた。 日本列島に住むところの無くなった日本人の選択肢は、大きく3つ。内乱で人口を減らすか、出産調整で増えないようにするか、移民するかだ。そして17世紀末からの日本人は、世界のどこにでも出かけて行くことの出来る手段が手に入れていた。 「大東大陸」といわれた新大陸で、日本人の移民が当時のヨーロッパ世界より先に進んだ背景には、国内での人口圧力と帆船という手段の入手という二つが重なっていたからだ。 対するヨーロッパのうち最初に海外に出た国は、新大陸にまで行ける手段こそ最初に発明しているが、国内に極端な人口圧力が無かった。加えて言えば、アジアに比べてヨーロッパ世界自体が人口希薄だった。18世紀末頃の日本の総人口は、約4000万人。単純にこの数字は、ヨーロッパ主要部の約半分に当たる。最も多いフランス王国の約二倍。最初に外洋に出た、イングランド、スウェーデン、ブルゴーニュの三国を足した総人口と比べても2倍半にもなる。 そして日本人には、新大陸に赴く理由があった。 1820年代に、最初に飛鳥(旧アステカ)で巨大な「坂捨銀山(銀鉱)」が見つかった。続く1830年代には、今度は印可で「歩徒士銀山」が見つかった。そして1836年には、日本列島で大規模な飢饉が発生し、人々は飢え死を避けるために新天地へと活路を見いだした。さらに1848年に、北大陸の加州で巨大な金鉱が見つかり、人々が殺到した。 続く1860年代は、日本列島にとって混乱と変化の年代だった。 日本では「幕末」と呼ばれる政権交代期に入り、1868年に新たな王朝(=大日本国)が成立した。しかし、今までとは違った武士だけを政治の中心としない斬新な政策を進めようとした新王朝の安定にはかなりの時間がかかり、多くの努力を国内政治に割かなくてはならなかった。その上華南帝国との間の断続的に続く戦争もあって、植民地統治は疎かになっていた。そして日本列島内が不安定になると、必然的に外に出ていく日本人の数は増えた。 また外からの要因として、1860年に華南帝国が成立して、突然のように南部の漢族(総じて小柄)が海外へと出ていくようになった。その中で日本人が、東南アジアの半分とインドを実質的に失うと、日本人の足はより新大陸へと向くようになった。その象徴的事件の一つが、1894年に新政府の船団が南半球にある大南大陸に入植を開始したことだろう。 大南大陸での最初の入植は、遠流(流刑地)としての入植だった。多くの罪人と看守が最初の入植者で、罪人達を日本列島から引き離すと同時に、彼らに幾らかの恩赦と引き替えに開拓を行わせるというのが思惑だっだ。また看守達は新大陸の守備兵も兼ねており、主に海外進出を強化する華南帝国を警戒しての配置でもあった。しかし日本の王朝交代期にあるため、体制反対派などで送り込まれる者はかなりの数に上り、10年もすると本格的な移民について日本の新政府に考えさせなくてはならなかった。 また同時期には、大南大陸の南東部に見つかった温暖な気候の大きな諸島、新海諸島に対する調査と入植も真剣に考えられるようになっていた。主な目的は、入植よりも他国に牛耳られない為だが、だからこそ真剣に考えられた。 とはいえ、日本の当面の移民拠点は、東にある大東大陸だった。
大東大陸に、継続した記録として残せる最初の一歩を示したのは日本人だった。氷河期の人類移動、中世ヨーロッパのバイキングの新大陸到達は、ユーラシア世界との断絶があるため歴史の連続という点で意味がない。故に日本人が最初の「発見者」だった。とはいえ当時の日本人は、旧来の航海方法で新大陸にたどり着いたため、「大接触」までの進出は限られていた。 しかし「大接触」以後の日本は、ヨーロッパ世界を常に上回った。 距離の差でヨーロッパに対してかなり不利だったが、本国の国力、人口密度(人口圧力)、産業発展程度などの要素が、不利な点を補っていた。その上、新大陸の金銀を日本人が手にしてしまうと、新大陸での優位は完全に日本のものとなった。 莫大な金銀により経済力を大きく増し、その力はヨーロッパより遙かに高みへと至った。しかも日本の影響で東アジア全体が「価格革命」へとなだれ込み、華南帝国という第二の東アジアの雄を産み出すことになった。 無論日本人にも欠点はあった。根本的に農耕民族なので、同じ行動を好んで行い、全体として極端な冒険を嫌っていた。加えて、華南帝国が隆盛してからは、日本人社会の中で生産と消費を繰り返す行動が増えており、さらに莫大な金銀の上にあぐらをかくような経済構造にも傾倒していた。健全な経済状態という点では、日本にとってのアジアでの競争相手である華南帝国の方が優れていた。 しかしそれは、日本を東アジア内で見るからこその欠点であり、東アジアよりも総体として劣るヨーロッパから見た場合、日本の力はあまりにも強大だった。本国の(利用できる)国土は狭いが、本国人口は約40%、経済力は全ヨーロッパに匹敵。貨幣流通量に至っては、全ヨーロッパ世界の約二倍にも達していた。ヨーロッパ世界と日本の経済格差は、新大陸進出競争の過程で決定的に開いていた。 そして日本の植民地としては三つの新大陸全てが含まれ、環大東洋のほぼ全域を勢力圏としていた。19世紀中頃の時点で、既に全世界(地球全土)の約3分の1を支配しているに等しい。それに比例して軍事力も大きく、日本の正反対の位置になる南大東大陸東端に建設されたスウェーデン植民地にすら攻撃を行っているほどだった。 そして日本人達は、新大陸への入植にも積極的だった。永遠の生活の延長という「漸進」こそが、日本人の行動の基本だったからだ。
日本人が新大陸に最初の農業入植地を開いたのは、1827年の北大東大陸西岸の加州においてだと言われている。1805年の「大接触」開始から、僅か22年の出来事だった。 加州は北新大陸西海岸中部にある広大な平野を構える土地で、雨量がやや少ないながらも治水と灌漑設備を整えれば、十分に稲作のできる土地だった。土地の肥沃度合いも、新大陸屈指だった。地震は起きたが、日本人にとっては特に問題ではなかった。その事を調査や単作で知った日本人達が、新大陸で日本とほぼ同じ農業を行うために移民したのだった。 その後、1836年に日本本土で大飢饉が起きると、新大陸への移民が爆発的に伸びた。また、新大陸各地での金鉱、銀鉱の開発など各種植民地事業のため、数多くの日本人が新大陸へとやって来ていた。 そして年々、新大陸に住む日本人の数は増加していた。1848年の加州での黄金祭の期間には、年平均1万人、合わせて10万人もの人々が殺到し、その殆どがそのまま新大陸の住人となった。これ以後新大陸への移民にも拍車がかかり、新しい人口重心の誕生に伴って、商人と商品、船の流れも生まれていった。1856年には、大山脈を越えてミシシッピ川中流域にも入植地が開かれた。さらに米が栽培できる土地以外にも入植地は広がり、1858年には地球の反対側に当たる南大東大陸の銀江周辺の大平原にも入植地が開かれた。交易のため、原住民の多くも日本語を用いるようになっていた。 イングランドが、北大陸東海岸北東部に新たな入植地を開いた1870年には、新大陸での日本人総数は50万人を越えていたと考えられている。既に加州を中心に新大陸での自然増加が大きな上昇曲線を描き始めており、加州中央部は新大陸での日本人の策源地へと変化しつつあった。無論、古くから進出している中部高原地帯の飛鳥、南大陸の山岳部にある印可も策源地として順調な発展を遂げており、この三カ所で得られる膨大な量の金銀もあって、日本人の新大陸での勢力拡大を担うことになる。 そうして20世紀に入る頃、現地日本人の総数は200万人を越えていた。最も人口密度の高い加州では、100万を数えるようになっていた。移民の数も1848年の黄金祭までは年間2000〜3000人程度だったが、半世紀後の20世紀に入る頃には往来の頻繁化と船の技術改良によって4万人を数えるようになっていた。毎年、日本列島の総人口の0.1%が流れ込んでいた事になる。日本本土の総人口から考えると極めて限られた数だが、日本人移民全体の約8割が南北大東大陸を目指していた。また当時の日本列島では、政権交代に伴う社会的混乱と海外進出の活性化に伴い、再び少しずつ人口が上昇し始めていた。つまり、余分に増えた分に比例して海外移民が発生していたことになる。
そして各地に進出することで、新大陸の全てが自分たちのものだと考えるようになっていた日本人達は、原住民を含めて自分たちにとって全ての邪魔者の排除、駆逐に熱心となっていた。主な原因は、ヨーロッパ諸国による「財宝船団」への海賊行為にあると言われているが、力を持つ異なる勢力が衝突した際の典型例とも言えるだろう。 「大接触」とは、異なる文明同士の衝突の時代だった。 新大陸での日本人の対白人攻撃は、日本国内での政権交代、「日南百年戦争」の中でも新大陸に対する攻撃的な行動は継続して行われ、20世紀に入るまでに北大東大陸のほとんど全てから白人を殲滅することに成功していた。艦隊を組んでの港湾部での焼き討ち、軍勢を送り込んでの入植地に対する蹂躙など、場合によっては非常に残忍な行動も行われたと記録されている。 白人、主に攻撃対象とされたイングランドも黙ってやられていた訳ではないが、国力、人口の差は、距離の優位だけでは如何ともし難く、1870年に開かれた入植地も1000人の人口が定着する頃に日本軍艦隊の襲撃を受けて壊滅していた。
また19世紀後半は、カリブ海が互いの進出競争の焦点だった。 日本人は大東洋を押し渡り、さらにパナマ地峡を越えなければならないため距離の不利があり続けた。これに対してヨーロッパ諸国は、距離と風と海流の優位があるため、カリブ海では初期の頃からかなりの成功を収めていた。 自国で手工業品を作り、それをアフリカ大陸西海岸に持っていって売り払い、そこで代金として受け取った黒人奴隷を乗せ、そしてカリブ海の島嶼や南内陸の一部で、奴隷を使ったサトウキビ栽培を実施した。 砂糖が換金作物として非常に価値が高いため、19世紀末頃になると活発な商業活動としてのカリブ海進出が、ヨーロッパ各国の間で盛んとなった。 しかし新大陸の金銀は日本人が牛耳り、大東洋に出ていかなければ奪うことすら叶わない状況に変化はなかった。そして巨大な富と本国の人口と産業を組み合わせた日本人達は、パナマ地峡を強引に越えてカリブ海での活動を年々活発化させた。 しかも北大陸中原のミシシッピ川流域の開発が始まると、中流域で木材を切り出して沿岸部近くで組み上げて軍船を作るという産業すら作り上げ、カリブ海の制覇を目指した行動を加速させた。ミシシッピ河口部の低湿地にある新尾張の町は、20世紀に入る頃には人口3万を抱える北大陸大西洋側最大級の都市となっていた(※大東洋側の加州にある中心都市の高坂の街は、5万を越えていた。)。 なお、この時期の新大陸に住んでいた先住民族だが、「大接触」以前に約8000万人程度いたと現代では考えられている。だが、そのうち95%がユーラシア大陸から波状的に襲いかかってくる疫病によって失われ、20世紀初頭は人口激減の終末段階にあった。あの広大な南大陸の大密林にも多数の原住民がいた筈だが、その姿は殆ど見かけられないまでに激減していた事が、当時の文献などから知ることができる。 このため20世紀初頭の先住民族の総人口は、南北双方合わせても約400万人程度と考えられている。しかもこれは南大陸の密林奥地、北部の大森林地帯など、ユーラシア人が未踏破の土地の人口も含まれているため、土地が豊かな地域の多くで日本人が多数派となりつつあった。この時点で日本人とされていない先住民族と日本人の混血の数も、20万から30万人程度いたのではないかと考えられている。さらに言えば、旧アステカ、旧インカは社会ごと日本人社会に組み込まれているので、残存した先住民族の存在が日本人の優位を強化することになっていた。 これは、日本人、ヨーロッパ人種共に侵略者なのだが、宗教問題が影響していた。
当時のヨーロピアンは、キリスト教一般の倫理と価値観、さらにいえば一部の聖職者達は崇高な使命感を持っていた。対する日本人は、織田言家が支配した石山時代の神仏習合や仏教の「葬式仏教化」にともなって、宗教に対する信仰心が曖昧かつ薄くなっていた。少なくとも他者に強要するという面でその意志が低い場合が多く、新大陸に作られた神社仏閣もほとんどは現地日本人のためのものだった。さらに言えば、日本では古代から続く神道という古い自然崇拝の宗教が残っているため、自然物を何でも「神様」にしてしまうし、現地の宗教も次々と自分たちの宗教的価値観の中に取り込む性質を持っていた。新大陸でもその傾向は続き、現地の神をまつった「飛蛇神社」、「山猫神社」などがごく一般的に作られた。また現地の文化や習慣も、むしろ現地での生活のために自分たちに取りれる傾向が強く、気が付くと日本人社会の中に取り込んでしまっていた。 人種差別についても同様で、白人、特にアングロ・ゲルマン系民族は差別意識が強いため、先住民族は欲望か気晴らしに強姦するのが関の山で、多くは駆逐、つまり殺戮するのが一般的だった。これに対して日本人は、一度征服した後は取りあえず自分たちの社会に取り込んでいく傾向を持っていた。日本人一般は排他性の強い島国民族だと言われるし、日本史上での戦乱の歴史から異民族とのつき合い方を知らないとされる。だが、石山時代全般を通じて東南アジアなどに進出する人々もあったし、宗教や人種に伴う極端な排他性はあまり持ち合わせていなかった。日本列島の外に出た日本人なら尚更だ。このため、自分たちの下層階級として先住民族を取り込み、言語、文化などの面から自分たちの社会に取り込んでいった。 以上のような状況から先住民族にしてみれば、日本人は嫌いだが、ヨーロピアンはもっと嫌い、という事になる。 ヨーロピアンは、自らの精神的拠り所であるキリスト教や他民族に対する価値観が、裏目に出た形だった。日本のような競争相手がいなければ、彼らだけによる新大陸経営も、武力を背景として円滑に進んだかも知れない。しかしそれは仮定に過ぎず、20世紀初頭の大東大陸は日本人に覆われつつあった。
その日本人が、北大陸北東部沿岸に最初の恒久的な拠点を構えたのは、1902年のことだった。場所は、ブルゴーニュ王国が新アムステルダムと名付けた所で、日本人入植者によって新たに「柔沃」と名付けられた。最初の拠点は日本水軍の拠点であり、入植地ではなかった。現地に進出したのも、臥船(ガレオン)戦列艦を含む数隻の艦隊で、非常に攻撃的なものだった。実際の行動も、拠点を作りつつも現地の探索が中心で、ヨーロピアンを発見して自らな有利の場合、躊躇無く攻撃が行われた。 その後も柔沃の拠点は強化され、続いて開かれた近隣の鷲屯と共に北大陸北東部の重要拠点となっていった。そして軍事力の進出が行われた通り、日本人の目的は新大陸の独占にあった。地形の関係から北東部に有望な金銀はないと考えられていたが、相手に拠点を作らせない事こそが今後百年の安定をもたらすと考えられた末だった。そしてそうした行動をとれるほど、日本本国の政治的安定性は増しており、同時に国力、軍事力も強大化していた。 この状態は、カリブ海での日本人勢力の拡大と平行して行われ、新大陸大西洋側でも年々日本人の勢力は拡大した。 ヨーロッパ勢力も黙っていた訳ではないが、個々の国では基礎的な国力、経済力、そして軍事力では歯が立たなかった。しかもヨーロッパ内でのいざこざのため各国が連合しようと言う動きも、一時的、場当たり的なものを除いてはほとんど行えなかった。それでも大西洋側では、日本人とヨーロッパ各国との戦闘や勢力争いは断続的に行われ、20世紀中頃まで両者の勢力が入り乱れる状況が続く事になる。 この争いでは、最終的に日本人が押し切ることになるが、それは新大陸での爆発的な人口増加と、本国の基礎的な国力経済力の差がもたらしたものだった。 そして新大陸以外でも、ヨーロッパの劣勢は続いた。