■フェイズ:10 「連鎖する世界」

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、中華世界は三つから二つへと変化した。後元と華南の台頭だ。
 後元はその名の通りモンゴル帝国の末裔を自認する騎馬民族国家で、華南帝国は明朝の末裔が発展させた南方系漢民族の国だった。状況としては13世紀中頃と似ているが、双方に中華世界の統合という考えが希薄なところに、世界の国際化を見て取ることが出来る。双方の国が中華統一をあからさまに目指さないのは、中華以外の世界を見るようになった何よりの証だった。いずれ双方の国は中華での覇権を狙うかも知れないが、この時期が中華世界で争って消耗する時期でないと理解していたのだ。

 華南帝国は、明朝の残り滓としての200年近くを大清国の属国として過ごし、1860年にようやく大清国からの完全な独立を勝ち取った。そして1911年の大清国崩壊に伴って、広大な版図と大人口を本国として持つようになった。1911年以後の総人口2億3000万人程度という数字は、全ヨーロッパの約2倍もある。とはいえ、黄河流域より北には後元帝国が控えており、後元は陸軍力で華南より勝っていた。中華世界での華南帝国の優位は、総人口と経済力と技術力、そして海洋進出能力にあった。そして総人口が中華世界の半分で済んでいるため、中華的帝国としては統治の手間が減り、ある程度海外に目を向ける事が可能だった。
 東アジアの海には日本という強力な競争相手がいたが、明朝時代から続く華僑を利用する形で日本人を出し抜き、東南アジアの一角を占めると、その後も断続的な戦争、「日南百年戦争」を戦いつつ、日本を押しのける形でインドへの道を確実に切り開いていった。
 インド世界は、ガンジス川流域を中心にして巨大な人口を抱える、巨大な市場だった。また世界的な綿花の大産地であり、インド洋を通じてイスラム、ヨーロッパ世界へとつながってもいる。近世世界で世界国家を目指すのなら、出来る限り進出して拠点を確保して置かねばならない地域だった。そして華南帝国の行動は首尾一貫しており、巨大な人口と国力に裏打ちされた軍事力と経済力を、惜しみなくインド洋とその周辺部に注ぎ込んだ。
 この結果、最初の四半世紀でマラッカ海峡を日本人から奪い取り、ヨーロッパ勢力からセイロン島を奪い取った。さらにその後は大西洋とインド洋の境目に当たる南アフリカ(ケープ)へも進出し、そこでもヨーロッパ勢力を駆逐した。
 これが20世紀が幕開けした頃の、華南帝国の状況だった。
 そして南アフリカを得たことでヨーロッパ勢力をインド洋から追い出し、日本人の横槍をかわし、インド商人、イスラム商人を押しのけつつ、インド交易の独占と、さらにはインドでの植民地獲得へと傾いた。

 しかしインドでは、ヒンズー教国家の合従連合だったマラーター同盟が、徐々に地域全体としてのインド勢力の糾合へと緩やかに動いており、モザイク状に点在するイスラム勢力と対立しつつも力を蓄えた。技術や武力についても、簡単に海外勢力の進出を許さないまでになりつつあった。その証拠というべきか、ヨーロッパ各勢力が19世紀初期に作り上げた拠点、植民地とした都市の全てが、現地勢力により奪回され、ヨーロッパ人が追い出されている。
 強引な進出を計った華南帝国も、商人は嫌われる傾向が強まり、軍隊を用いた強引な進出はガンジス川河口部の「コルタカの戦い」で敗北すると以後しばらくは行われなくなった。当然と言うべきか、セイロン島以外で華南帝国がインドに足場を築くことも叶っていない。華南帝国のインド進出も、基本的には商業進出に止まっていた。
 ただしインドでは、ムガール帝国の統治の間に広がったイスラム教徒と圧倒的多数派のヒンズー教徒との間の対立と反目が存在しており、それをインドにやって来る諸外国に利用されていた。一方では、ヒンズー教、イスラム教、さらにはシーク教や仏教それぞれの居住地域に国家が成立し、国家間での連携によって取りあえず遠方からやって来る諸外国に対向する動きも本格化しつつもあった。19世紀末から20世紀初頭にかけては、インド情勢は予断を許さないと言うのが現状だった。

 ユーラシア大陸奥地を目指した後元帝国は、黄河流域を支配下に置いたが、それ以外の面では大モンゴル帝国の後継者たらんとして、ユーラシア世界に視野を向けていた。より明確に言えば、ユーラシア大陸北部、中央アジア、そしてロシア地域の併呑を目指していたのだ。そして後元の行動を、ラマ教とユーラシアの交易商人達が支持していた。また本来なら後元の敵となるイスラム世界も、近年勢力を拡大しつつあるヨーロッパ世界に対向するべく、後元の西方進出を支持していた。同地域のイスラム世界としては、少しずつ勢力を拡大しつつあったロシア人を後元に押さえてもらえればという思惑があった。またイスラム世界としては、後元に一定の国力を付けさせて、中華世界からインド洋への進出著しい華南を牽制もしくは、戦争でもしてくれないか、という思惑もあった。
 そしてそのイスラム世界では、1923年にケマル朝トルコが勃興し、イスラム世界の勢力巻き返しを開始する。これは政治体制の刷新や改革に止まらず、今までも世界をリードし続けていた科学技術、商業の分野での巻き返しも意味していた。しかしオスマン朝と違って、今度はインド洋に漢族(華南)商人がうろつき、ヨーロッパが力を付けつつあるという状況が並んでいた。このため、今までのように、ヨーロッパ世界を圧倒し続けてたようにはいかないし、インド洋東部での優位も大きく減少していた。そうした外圧が強まったからこそ、イスラム世界自体が巻き返しのため自ら変化しようとしたのだった。
 そうした中でケマル朝にとって価値があったのが、中華世界内での争いであり、日本とヨーロッパの新世界での争いであり、そして日本と華南の海外進出競争だった。
 ケマル朝は、王朝成立すぐにも日本に使者を乗せた艦隊を送り、両者の連携で華南帝国の進出を押さえ付けることを約束し合っている。そしてケマル朝が接触してきた日本だが、日本としてはケマル朝の連携申し込みは、外交上願ってもないことだった。ケマル朝を利用することで、華南とヨーロッパ双方を一定程度押さえ付ける事が出来るからだ。このため以後日本とトルコは、アジアの両極端に存在しながらも、長い友好関係と協力関係を維持していく事になる。
 また日本は、華南帝国を抑え付けてヨーロッパ世界に圧力を加えるため、後元との関係を重視していた。技術輸出、武器輸出、資金援助も行われ、華南に対して手工業が不足する後元への経済進出も兼ねた支援を強めていた。
 こうした日本行動は、大陸近在の島嶼国家らしいと言うべきだろう。

 そして世界から孤立しているヨーロッパ世界と華南帝国だが、華南帝国は自らの巨大な国力と自らの歴史的伝統に自信を持っているので、間接的な戦略包囲下にあることを極端に気にしてはいなかった。
 一方のヨーロッパ世界は、東アジアの巨大国家の関係と外交を詳しく知る状況になかった。国際外交の中心となっている東アジアは、基本的にヨーロッパから遠すぎた。ヨーロッパから見て最も近くにまで来ている後元についてですら、ロシアから伝えられる断片的情報しかなく、タタールの再来として感情的に恐れられる以上にはならなかった。その上東アジア各国がヨーロッパの進出を嫌っているため、商船の派遣すらまともに出来ないでいた。その上、ケープは華南に奪われ、新たなイスラム帝国となったケマル朝トルコも新国家建設によって国威を上昇させつつ、再びヨーロッパ世界に立ちふさがろうとしていた。
 もっとも、この時代の海外進出のほとんどが商業的進出であり、植民地として統治を行うことは珍しいのが現状だった。国境ごと押し広げる後元帝国のような行動が例外といえば例外だが、これとて古代から続く国家の膨張の一例でしかない。そうした中での例外は、やはり大東洋と新大陸へと進出する日本の動きだった。

 日本は20世紀に入る頃になると、ようやく本国の安定を見るようになっていた。約半世紀続いた政治改革の結果、国の制度も整い、世界初の近代憲法、議会、そして司法を独立権力とした世界に先駆ける新たな国家制度の確立に成功していた。君主の形も、この時代のユーラシア世界で一般的だった絶対王政や封建制度から、間接君主、後の立憲君主へと世界に先駆けて変化しつつあった。こうした飛躍は、先の石山幕府が封建制度の皮を被った官僚国家だったからに他ならない。
 そして新たな日本においては、国を動かすのは君主である織田家(関白家)ではなく、議会と大臣、そしてそれらを支持する多くの人々へと移行しつつあった。そして議会と大臣を支持するのが、再編成された特権階級と中産階級以上の富裕層や商人達だった。このため日本の海外進出は、人々の利益を求める行動が強く出ていた。逆を言えば、日本人による海外進出が、富裕層や商人達を台頭させて、日本の制度を近代に向けて歩ませたといる。
 また、海外進出によって必然的に生まれた貧富の差に対して、広大な新大陸の開拓地を提供することで、日本は内政的混乱を最小限としていた。
 南北大東大陸、大南大陸、新海諸島が、日本人の主な新天地であり、特に北大東大陸での人口増加が顕著だった。
 20世紀に入る頃には、日本人たちは南北大東大陸からヨーロッパ勢力の多くを駆逐することに成功し、現地でも増え始めた人口を背景として、新大陸の支配拡大を押し進めた。同時に現地及び原住民の「日本化」政策も進められるようになり、経済圏として南北大東大陸のほとんどが日本人のものとなった。そして世界の殆どの金銀を産出する日本の通貨「両」は、ほとんど世界通貨となっていた。
 例外はカリブ海地域だが、現地はジャングルもある熱帯、亜熱帯地域のため、ユーラシア人と共に上陸したマラリアなどの伝染病もあり、白人が恒久的に入植することは無理だった。これは日本人も同様だったが、新大陸そのものを策源地として使えるようになった日本人の方が、自らの勢力拡大と他勢力の排除は年々容易となっていた。
 ちなみに、新大陸での日本人の増加だが、20世紀に入る頃の総数は200万人を越えていた。そして自然増加と移民によって基本的に四半世紀で二倍になる状況で増加したため、一世紀後の21世紀初頭になると3000万人を数えていた。うち2500万人が北大陸に居住し、いよいよ日本本国からの独立を画策するようになっていく。その頃には、既に白人勢力のほとんどは新大陸から完全に叩き出され、新大陸の全てが日本人のものとなっている。つまり日本人の間で好き勝手が出来ることを現しており、だからこそ分離独立という流れも出来たと言えるだろう。
 先のことはともかく、20世紀に入る頃の日本にとっては、ヨーロッパ内での争いも、新大陸での勢力拡大を容易にしていた。

 この頃のヨーロッパは、20世紀初頭にようやく「三十年戦争」が終わったが、スウェーデンはまだバルト海沿岸地域に掛かりきりとなっていた。このためイングランドとブルゴーニュが、ヨーロッパ世界での海外進出を競い合っていた。しかしブルゴーニュは、1898年に華南帝国との間に戦端を開き、1902年に南アフリカのケープ植民地を喪失している。このため、代替地としてカリブ海への進出を強化したが、そこはイングランドが古くから進出している地域で、日本人も大挙押し掛けつつある植民地進出の焦点となっている場所だった。
 そしてブルゴーニュは新大陸では後進のため、強引な進出が目立った。加えてインドでの繋がりがほぼ無くなって、日本人との協力関係も必要なくなったので、ブルゴーニュはまずは異教徒にして有色人種である日本人に対する攻撃を実施した。
 しかし日本人は強力だったので、ブルゴーニュの方が撃退されることが常だった。日本人に対する海賊活動も、失敗することが多かった。主に大東洋を航行する「財宝船団」の襲撃も、採算度外視の大艦隊でも派遣しない限り、余程の幸運がない限り不可能に近かった。このためブルゴーニュ王国は、手っ取り早い勢力拡大のため、同じ白人であるイングランドへの攻撃を行うようになる。それにイングランドとブルゴーニュが同じ白人国家と言っても、イングランドは国教会、ブルゴーニュは新教であり、宗派が異なっていた(※この場合「異教徒」の関係)。イングランドとは、ヨーロッパでの商業的対立も一般的に行われていた。このため両者の戦争と勢力争いも、別に不思議ではなかった。そして基本的にブルゴーニュの方がイングランドよりも国力、経済力、さらには造船能力や(手)工業力が大きいため、ブルゴーニュとしては比較的短期間でイングランドを駆逐できると考えていた。
 しかしイングランドはしぶとかった。
 カリブ海ばかりか、奴隷供給地のアフリカ大陸西岸でも争いが日常化して、日に日に泥沼化していった。そうした情景は、規模こそ違えど「日南百年戦争」に似ていた。

 そしてヨーロッパ同士が勝手に争っている間に、日本人は相手に見えない場所を中心に勢力を拡大して地盤を固め、より一層強大化していった。そしてイングランド、ブルゴーニュが気付いた時には既に遅く、大東織田家(大東総督府)が準備万端整えた日本人の総攻撃を受けることになる。
 これが1941年冬に起きた「第二次カリブ戦争」で、最初の奇襲攻撃でイングランドのカリブ艦隊の根拠地が、大東織田家直率の艦隊によって駐留艦隊ごと壊滅的打撃を受けた。
 なおこの戦争では、現国家元首の系譜である蝦夷織田家を祖とする大東織田家の人間が直接戦闘を指揮しており、これは織田家の人間が自らの血統によって直接戦闘を指揮した最後の事例とされている。しかも敵に対する残虐な行為が多かったとされるため、当時まだ20代だった織田信遙は「第六天魔王」の再来などと世間を賑わせたりした。

 その後も新大陸での日本水軍の電撃的攻撃は続き、圧倒的戦力で白人勢力を一気に駆逐していった。その過程で、主にイングランド人に経営されていたサトウキビ農園も徹底した攻撃を受けることになる。現地で奴隷として働かされていた黒人奴隷も、その殆どが虐殺された。日本人にしてみれば、黒人奴隷も白人組織の末端であり、黒人虐殺も白人勢力駆逐の一環でしかなかった。ごくまれに生き残った黒人もいたが、その後に各地の日本人達が新たに入植しているので、国家や社会を形成するだけの勢力は完全に無くしていた。
 こうしてニューイングランド島を中心としていたカリブ海のイングランド勢力は壊滅し、まだ足場がしっかりしていなかったブルゴーニュも、体制を立て直せないまま日本人に新大陸から追い出されてしまう。
 しかし、その後も日本人とヨーロッパ各国のカリブ海での戦闘は、主にヨーロッパ勢力がカリブ海にやって来ることで断続的に発生した。だが、イングランド、ブルゴーニュなどは全面戦争の最初に足場を失った不利を覆すことが出来ず、その後半世紀近く続いたカリブでの戦いは日本人が押し切ることになる。本国の国力が巨大で、新大陸にも確固とした地盤がある日本が、新大陸で後れをとることはなかったからだ。

 とはいえ、日本も万能では無かった。新大陸の大西洋側の北部(北東部)では、スウェーデンが静かに浸透してきていた。これは、彼らがヴァイキングの末裔であることを考えれば、ある種当然だった。地球全体が温暖化に傾いた1860年以後、アイスランド島を拠点として、再びグリーンランドに進出。その後も日本人の目がとどかない北大陸の北縁へとたどり着いていた。
 そしてカリブでの戦いに決着が付く頃に日本人もスウェーデンの行動に気付いたのだが、この時はスウェーデンの外交が勝利を飾ることになる。スウェーデンは、日本との間に素早く外交交渉を持ち、両者の話し合いの中でスウェーデンがイングランドを押さえ込む代わりに、日本人にとって不毛で価値のない場所の領有承認を求めたのだ。そして五月蠅く執拗なイングランドにいい加減ウンザリしていた日本側も、スウェーデンが本当にイングランドを押さえるのならばと渋々の形で了承。これにより、北東部のノウム・ゴトランド島、マルクランド半島にあるスウェーデンの拠点と入植地が、日本側から了承されることになる。
 しかしスウェーデンの例は例外であり、二つの新大陸のほぼ全てが日本人の新天地として確立されることになる。

 また日本人の新天地としては、大東洋南半球側の大南大陸、新海諸島などがある。
 同地域は、20世紀の最初の四半世紀の頃に、華南帝国が領土的野心を抱いていた。このため「日南百年戦争」の舞台の一つとなり、「南大東洋戦争」が起きている。
 しかし遠洋、海洋での行動には日本に一日の長があり、5年近く続いた戦争は華南帝国にとって浪費と徒労に終わった。
 華南海軍も、日本水軍によって大打撃を受けてしまう。華南海軍は、一時は日本本土近海の海上封鎖まで行いそうな勢いだったのだが、その後危機感を持った日本に巻き返され、かえって自分たちの沿岸が海上封鎖されてしまい、華南帝国自身が日本との間に不利な講和を結ばざるを得なかった。そして、日本は自らが島国のため、海での戦いとなった今回の戦争に酷く敏感になってしまう。
 そして戦争により危機感を募らせた日本は、その後大南大陸、新海諸島、及びその周辺部の植民地化、入植地建設をより精力的に進めるようになった。

 これまで大南大陸での入植事業は、1894年以後の最初の入植以後もあまり進んでいなかった。しかしこれが移民拡大の契機となり、20世紀半ばまでには一定規模の日本人社会が大南大陸にも出現することになる。そして1955年に大規模な金鉱が発見されると、大南の人口は爆発的な伸びを示すようになる。
 なお大南大陸で発見された金鉱は二カ所で、うち一カ所は砂金だったがもう一つは大規模な鉱脈があり、半世紀の間に500トンもの金を日本にもたらすことになる。さらに半世紀ほど後には、巨大で良質な鉄鉱石鉱山地帯、炭田地帯の双方が相次いで発見されたため、開発に拍車がかかることになる。
 また新海諸島でも、大南大陸より四半世紀ほど遅れて同様の行動が見られ、主に温暖な北島での入植が行われ、以後日本人社会として少しずつ発展していく。
 そうして20世紀の中頃までに、日本は大東洋全域と三つの新大陸の覇権を確立するに至る。断続的に続いた「日南百年戦争」も、日本が大東洋の覇権を完全に確立することで、一応の終息を見ることになった。
 「日本人は世界の半分を支配している」といわれるようになるのも、20世紀中頃から以後の話しだ。
 しかしそれは、あくまで近世国家としての勢力拡大であり、広がったという事象から出ることはなかった。だが世界は次なる時代に向けて着実に進んでおり、それは巨大な富を集積した東アジアと東アジアを根元とする世界で始まろうとしていた。


フェイズ:11 
「次世代に向けて:「産業革命」と「権民革命」」