■フェイズ:11 「次世代に向けて:「産業革命」と「権民革命」」

 西暦21世紀初頭、世界はようやく近代の産声を上げようとしていた。今の我々、つまり23世紀初頭の現代人から見ればまだまだ至らないところはあったが、人類史での最も大きな変化の一つであることは間違いなかった。
 そして大きな変化こそが、「産業革命」と「権民革命」だった。
 産業革命は華南帝国で起こり、権民革命は日本の新大陸で起きた。
 では最後に、時代の変革の曙を見て話しの締めとしたい。

 「産業革命」は、工場制機械工業の導入による産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことと定義されている。このため、「工業化」、「工業革命」という言葉を使うこともある。
 そしてどの言葉を用いるにせよ従来より革新的だったのが、蒸気機関を始めとする機械的な装置によって「熱量」を自在に制御することで巨大な生産力を実現し、移動力と量を歴史上革新的と言えるほどに向上させたことだった。大量生産された工業製品は、一部成果に過ぎない。
 そしてこの工業の革新は、華南帝国で起きた。
 華南帝国には、後元帝国との境界線となっているホワイ川近辺に石炭が、揚子江流域に鉄鉱石と銅があった。どの資源も、既に利用されているものだった。他にも、彼らの国土の下にはそれなりの規模と種類の地下資源が眠っていた。さらには、綿花は各地で栽培されていた。この辺りの事情は、日本列島と比べると非常に恵まれていたと言えるだろう。
 そして国内には巨大市場があり、産業の拡大を十分促すだけの国土もあった。また東南アジアの一部には、投資先、市場、消費地としての植民地も開かれていた。
 そして華南帝国は20世紀に入るまでは、海を通じてアジアに広がる完全な商業帝国だった。しかし日本人のように豊富な金銀を産出しなかったため、商業と手工業によって資本を集める経済が発達していた。大清国崩壊後も、揚子江流域の経済が発展した地域を吸収していたため、人口の拡大と共に経済、産業はさらに発展した。
 さらに日本が新大陸から持ち帰った金銀のおかげで、東アジア世界には資本主義を発展させる土壌となる豊富な貨幣が流通していた。
 加えて、東南アジア植民地では、先に日本が始めたようにサトウキビなどの資本集約的な単品農業が行われており、次なる産業の革新に向けての十分な準備運動として機能していた。東南アジアでのサトウキビ栽培は、資本を元手として何もない亜熱帯ジャングルで行われるため、前工業化社会での資本主義活動となるからだ。
 さらに言えば、水力紡績は数百年前に一度中華地域で最初に生まれた技術だった。脱炭(コークス)も、中華地域で森林資源の不足に伴い、主に調理用、暖房用燃料として数世紀も前に発明されたものだ。その他にも多くの技術が発明される素地が、中華世界には本来存在している。火薬、羅針盤、印刷術の大本も、中華世界で発明されたものが、イスラム世界、ヨーロッパ世界で改良発展されたものだった。
 そうした新規技術の発明と開発を華南帝国が国を挙げて奨励し、これに北の騎馬民族国家との対立と圧力、インドとの綿布価格競争、日本との商業競争が加わり、その他の要因が重なった結果、水力紡績機が発明(改良)される。
 同時に、鉱山(炭田)での廃水のための蒸気利用が改良され、蒸気機関として実用化された。この蒸気機関が水力紡績機と結ぶ付くことで、産業の革新が静かに開始される。
 一方、華南帝国は商業帝国であるため、自国での産業振興とアジア世界での国際貿易の拡大に熱心だった。日本との競争、インド世界の反発も、華南帝国にとって有益に働いた。
 なお、鉄道が登場したのは華南帝国においてだったが、汽船が発明されたのは日本においてだった。そして華南の変化と革新を目聡く見付けた日本人達も、積極的に工業の革新へと参画し、華南と日本が競争しつつ次々に新しい技術や道具を発明、開発、そして量産化していくことになる。
 そうした新たな力は、まさに世界を変えていく「力」そのものだった。

 一方「権民革命」だが、歴史上の経緯を見ると、日本人によって起こされる可能性は極めて低かったと言われる。それどころか、東アジア世界の延長で起きたことが奇跡に等しいと言う学者も多い。そもそも「権民」という概念が、「大接触」時代以前の東アジア世界には欠けていたためだ。
 しかし一概にそうとも言えない。
 日本の戦国時代には、商業都市だった堺では商人による自治が行われた。1800年代中頃には、二宮尊徳という農民出身の人物が、日本の地方行政官から植民地総督に抜擢され、日本の近代化を推し進めるという例はあった。1860年代以後の日本では、裕福な人々を中心とした政治の革新が実施され、近代に向けた扉を開いてもいる。
 そして遠隔地への移民による身分階級と封建制の希薄化が、俄に「開拓民」という名の「権民」を日本人の中に形成させることになる。彼らは血統や身分ではなく、農地を開拓することを中心とした自らの力で新大陸で生き、そして新天地の土に帰っていく人々だった。名目上は石山幕府や江戸政府の庇護の統治と支配を受けていたが、それは彼らにしてみれば一方的な搾取に過ぎなかった。しかも、日本から新大陸に渡った人々は、基本的に日本から切り捨てられた人々か、新たな可能性を求めて自ら故郷を旅立った人々と、その末裔達だった。このため自存自立の意識が非常に高く、先住民や狼や灰色隈などの野獣から自らを守るため、自衛という考えも強く持っていた。そして何より、何かを手に入れるには何か犠牲を払わねばならないことを、体感的に知っていた。新天地には自由は多かったが、その自由を手にれるために払った対価も大きかったのだ。
 そして自由と権利を手に入れるために対価を払うと言う形で、日本人社会の間で自然発生的に「権民」という概念が生まれる。
 なお、「権民」は古代ギリシャ、ローマ帝国(共和国)で発展したもので、それ以後のヨーロッパ世界では一部の考え方、概念の誕生を除いて廃れていた。ブリテン島のイングランドのマグナカルタやスコットランド独立戦争などは、本来なら自由や権利の近代化の萌芽となる筈だったとも言われている。20世紀においても都市国家や自由都市に僅かな名残はあったが、一部の富める者による支配が中心で、「権民」とは言い難い存在だった。無論というべきか、書物などでの伝聞以外で日本人社会とヨーロッパ社会の関連や連続性も存在していない。新大陸の日本人達は、体感的に新たな概念を身につけたのだ。
 このため新大陸の農耕地帯で誕生した新たな人々の事を、他と区別して「近代権民」と呼ぶ場合が多い。
 そして新たな価値観を身につけた新大陸の人々は、防衛といって搾取を続ける宗主国に飽きつつあった。

 新大陸での革命の発端となったのは、「日南百年戦争」最盛期となった1950年勃発の「朝鮮戦争」だった。
 朝鮮王国は、約550年という長い間李王朝によって治められた中世的な国家だった。繁栄した時期もあったのだが、大侵攻によって属国化してからは国威は落ちる一方で、自らの国土を開発せず放置した事も重なって、後元帝国の属国として過ごしていた。日本との関係は、日本の側からの貿易品目が少ないため、基本的に小規模な限定的貿易をする以外では希薄なままだった。そして19世紀から20世紀にかけての朝鮮半島は、日本と後元の無害な緩衝国家としての機能を果たすのみとなっていた。政治、産業、国土の開発など全ての面で東アジアで最も遅れ、基本的にはどの国からも積極的に振り向いてもらえない状態だった。
 それ以前の問題として、基本的に朝鮮王国は中華帝国の「属国」であり、この時点でも後元帝国の属国だった。
 しかしその国に、華南帝国が目を付ける。日本と後元の足を引っ張る存在として、朝鮮王国を利用しようとしたのだ。
 そして後元の属国状態から脱却したいと考えていた朝鮮内の改革派が華南と結託し、朝鮮王国で王政打破の革命運動を実施。朝鮮半島は内乱状態に突入する。
 当初内乱は、朝鮮内で処理するとしたため、宗主国の後元帝国も介入はしなかった。日本は、対馬海峡を海軍で厳重に封鎖する以外では、ほぼ完全に無視していた。日本にとっての朝鮮半島とは、朝鮮人参以外価値のないものだったからだ。
 加えて言えば、朝鮮は後元の「所有物」だから、放置状態が一番好ましかった。政治的に無風状態となる場所である事こそが、後元と日本における朝鮮半島の最大の価値だった。
 しかしその放置状態のスキを、華南に突かれてしまう。
 済州島が、援助や支援の見返りとして朝鮮から華南に勝手に租借され、済州島には華南海軍の前線基地が建設される。朝鮮王国軍にも華南の最新兵器が供給され、改革派が反乱軍となって大きな勢力を形成するようになる。この状態に対して、まともな常備軍を有しない貧乏国の朝鮮王国は、事実上何も出来なかった。後は王朝が倒され、新王朝が成立するだけとすら言われたほどだ。しかしそうなっては、宗主国の後元帝国の面目は丸つぶれとなる。このため干渉が実施され、後元と華南の関係も悪化。
 そして「革命軍」となった朝鮮の改革派は、内政干渉を理由にして朝鮮国境を越えた後元軍にも攻撃を加え、なし崩しに戦争状態へと突入する。そして華南の最新兵器で武装した朝鮮革命軍に対して、旧来の武装のままだった後元の朝鮮派遣軍が敗退。さらに顔に泥を塗られた格好の後元帝国は本腰を入れ、朝鮮に対する大規模派兵へと踏み切る。これが「朝鮮戦争」だった。
 また支援する華南との関係も悪化させ、翌年には遂に両者の国境で軍事衝突が発生した。
 後元の大軍が朝鮮に入るのを見計らっていた華南帝国軍主力が、秘密裏に動員した大軍を用いて後元帝国へと侵攻したのだ。このため戦争は何度目かの「中華戦争」へと発展し、中華の真の「皇帝」の座を目指す華南と後元が、中華の大平原を舞台として総力を挙げて戦うことになる。そして今回も、経済面で劣る後元を日本が援助した。朝鮮の事はともかく、後元の勢力が必定以上に衰えることは好ましくないからだ。逆に、華南の勢力が相応に衰えることは日本にとって好ましい状況だったが、滅んでしまっても困るので適度な援助しかしなかった。
 中華の大地での大規模な戦争はその後十年以上も続き、さらに戦争は大陸内では収まらず日本も戦争に本格介入していった。国力に勝る華南は日本とは主に海上や一部の島で激しい戦闘を行い、日本と華南は台湾、呂宋を中心として激しく戦う事になる。

 この戦争は、1963年の「南京条約」によって終戦を見るが、勝者なき戦いと言われた。
 産業革命前の戦争にも関わらず規模が拡大し、どの国も大きく散財したからだ。また中華中央部と朝鮮半島は戦乱によって激しく荒廃し、自力で復興する力のない朝鮮の国威はさらに落ち、後元の属国支配はいよいよ併合に向けた動きへと流れていく事になる。さらに朝鮮半島では、戦争中の戦闘と荒廃で人口が激減し、後元からの中華系住民の移民(流民)がその後急速に進むことになる。
 そして戦後復興の中で華南は復興を特需に利用し、そのままの勢いで産業革命へとなだれ込んだのだが、残る日本、後元は戦後不況に見舞われる。
 不況に対して後元は、裏留(ウラル)山脈にまで広がる広大な国土からの収奪と、ロシアに対する収奪的な侵略戦争によって中華地域での均衡を維持したが、本国規模の限られている日本はそうはいかなかった。
 当時の日本は、総人口こそ4500万人近くいたが、依然として貧富の差が大きいため、常に移民が環太平洋各地の新天地へと旅立つ構図が続いていた。そして19世紀中頃から続く百年以上の移民政策によって、各新天地の人口は大きく膨れあがっていた。
 太平洋と大西洋に挟まれた南北大東大陸の1960年頃の日本人の総人口は、1000万人を越えていた。このうち八割が北大東大陸に住む開拓民だった。黄金祭によって大南大陸の人口の伸びていたが、大東大陸の比ではなかった。そしてこの大人口を、日本本国が見逃す筈もなかった。
 日本は、莫大な戦費によって大穴の空いた国庫を、植民地での増税で穴埋めしようとした。宗主国としては当然の行動だったのだが、既に自立心が育っている地域での無体な増税は、大きな反発を呼び込んでしまう。
 「砂糖税」「印紙税」「茶税」。様々な増税が段階的に行われるたびに、新大陸の人々の怒りも増幅した。
 そして人々の不満と怒りが限界に達した1975年、遂に「独立戦争」が発生する。
 指導者は、裕福ながら下級武士階級出身でしかなかった中曽根康弘。彼は新大陸で実業と政治の双方で既に有名で、新たな時代の指導者として人々に求められた結果、新大陸での指導者となったのだ。また弁舌に優れていた為、戦争翌年に発表された「独立宣言」にも、彼の意見が数多く採用されている。そして建国の父として彼は新国家から称えられ、後に「大勲位」という別名で呼ばれるようになる。
 新国家の名は「大東合邦国」。
 新天地で自立を誓い合った小さな国々の集合体であり、全ての国には皇帝も王も武士もなく、権民が選んだ人が国の指導者となる、全く新しい革新的な国家の誕生だった。独立のための軍隊も、全ての人々が参加した権民軍であり、武士も農民も関係なかった。全ての国民が、義務を果たすことで権利を得る人々だった。
 
 独立戦争では、とにかく日本の足を引っ張りたい華南帝国が武器や資金を提供し、新大陸の他の地域からも独立に賛同する人々からの支援が送られた。また、大東合邦国の動きに突き動かされた日本領各地でも、独立や自治に向けた動きが出た。
 ただし、大東合邦国以外での日本領各地では、日本人人口が少なすぎるため、独立や自立と言った動きにまでは至らず、現地日本軍や増援された日本軍によって鎮圧されている。しかし、各地での独立や自治を求める動きの結果、全ての地域に大きな努力を割かなければ割かなければいけなかったため、大東合邦国では徐々に独立軍が優位となっていった。
 そして戦いが起きるたびに日本軍の敗北する回数が増え、最終的には「新東海町の戦い」によって新大陸での敗退を決定づけられてしまう。
 最終的には、1983年の「南京条約」で日本が大東合邦国の独立を承認。飛鳥(=アステカ)との自然境界線とされていた太陽川以北の地域(摘射など)を大東領として認めることになる。
 その後1987年に大東合邦国憲法が制定され、小泉純一郎などの新進の有力者の支持を受けた中曽根康弘は、二年後の1989年に世界で初めての民主的指導者となる。
 また、敗戦後の日本本国では、国内政治に大きな混乱をもたらしたとして、関白織田家第五代目の織田信幸の権限が大きく弱められて議会政治が進み、以後はいっそう民主化も促進されていく事になる。これは、依然として君主が強い権限を持っている、同じ東アジアの華南、後元にも徐々に波及し、大きな政治的うねりを作っていく事にもなる。また、大東で「民の国」が誕生した事は、ヨーロッパ世界にも大きな衝撃をもって迎えられ、その後のヨーロッパの政治も大きく変えていく切っ掛けとなった。

 こうして二つの革命は達成され、以後世界は二つの新たな流れを中心に大きく揺れ動いていく事になる。そして産業の革新がもともと物質的に豊かだった東アジア地域でなされ、大東洋、新大陸の全てを東アジアが牛耳った事で、東アジア地域の優位は22世紀初頭に絶頂を迎え、23世紀初頭の現代においても強い影響力を持っているのは周知の通りだ。
 元々豊かだった地域が世界を牽引するのは、ある意味当たり前の結果でしかないのだが、最後に歴史上の「もしも」を見て締めたいと思う。
 「もしも」歴史の逆転がありえるとしたら、いったいどこだったのだろうか。一般的には、日本とイングランドによる新大陸進出競争だったとされる。また、インド進出競争で、ブルゴーニュが華南に敗北した時だと言われることもある。そうした中で最も前衛的な意見が、ユーラシア大陸奥地からの最初の東西接触だとされている。つまり、モンゴル帝国が13世紀にヨーロッパ中枢部を一度破壊しなければ、ヨーロッパ世界は数百年早く世界の海に飛び出し、産業革命と市民革命もアジア世界よりも先に成し遂げたというのだ。当然だが、22世紀初頭に成立した「汎日本化」もあり得ず、彼らの論を極端に押し進めれば、ヨーロッパ世界が東アジアすら植民地としていたと言うことになる。
 しかしこの考えは、余りにも仮定が大きすぎる。日本とイングランドによる進出競争の仮定ですら、当時既に封建国家、前近世社会として極限近くにまで発展していた日本が、物質的に勝つ可能性が高いのは当然の事なのだ。また、歴史には革新が早まる可能性があるのと同時に、遅れる可能性も存在する。例えば中華世界では、15世紀の段階で東アフリカにまで大規模な航海を実施し、国内では初期的な水力紡績機を誕生させている。この時の発展を極端に押し進めてしまえば、数百年早く明朝の時代の中華で産業革命が起きたかもしれない、とも仮定できるのだ。

 つまり歴史は「もしも」に満ちあふれており、可能性を論ずる事は歴史を学ぶ上でも適度の刺激になるのではないだろうか。




あとがきのようなもの