■フェイズ1「今川義元上洛」

 日本人の住む日本列島という小さな世界では、15世紀後半から日本人の視点から見た場合での大規模な戦乱の時代が続いていた。俗に言う「戦国時代」であり、群雄割拠と下克上の時代であり、また同時に地方の時代でもあった。
 何しろ争乱の元凶は、当時の首都であった京の町を戦場として始まったのであり、中央の権威はただ地方有力者に利用される価値しかなくなっていた。
 しかも一世紀もの長きに渡って続いた戦乱は、徐々に各地方を代表する戦国大名の出現を促しつつあった。
 そうした中で最も天下統一、つまり日本再統一に近い一人と見られていたのが、東海地方を大きな地盤に持つ今川義元であった。
 そして今川義元は、次なる行動を開始する。

 16世紀中頃、日本の東海地方は今川氏が最も大きな勢力を誇ったが、西暦1560年の「桶狭間の合戦」で織田氏を破って滅ぼした事で今川義元はさらに大きな勢力拡大に成功した。
 「桶狭間の合戦」は、圧倒的大軍で全方位的に攻める今川義元軍に対して当主織田信長率いる主力部隊による一点集中の攻撃という形で行われたが、事前に情報が漏れたためか奇襲どころか強襲にも失敗。織田信長と中核となっていた織田家の武士団は壊滅的打撃を受けて織田氏は敗北。
 この戦いは、織田信長があまりにも投機的な作戦を採りすぎた事が後世でも強く批判されている。
 合戦後の今川氏と織田氏の戦いは、当主と主力部隊を失った織田氏に対して今川氏の残敵掃討でしかなかった。当時としては最も統制の取れた3万の軍勢を擁した今川元康の前に、尾張一国を領有しただけ織田氏はほぼ完全に滅亡した。一族の一部が美濃の斉藤氏を頼って落ち延びたりもしたが、落ち延びたという以上のものではなかった。また幸運な織田氏の家臣の中には、今川氏に取り入れた者もいた。だが織田氏の系譜はほぼ全滅し、その系譜の多くも他国に嫁いだり人質だった僅かな者以外は途絶えてしまった。
 一方、勝利に乗るはずの今川義元は、織田氏を滅ぼしただけでその年の行動を止めた。一部では上洛のための行動だと見られていたが、実際の目的は上洛ではなかったからだ。
 今川義元は、当面は尾張を征服し伊勢湾を通じて近畿と東海との交易路を独占したことで満足して、さらなる領国経営に傾倒した。これこそが、今川義元の目的だったからだ。また尾張という穀倉地帯を得ることも大きな目的であった。そして二つを十分に達成した以上、自らの経済基盤が安定するまで行動を起こすことはむしろマイナスであった。
 また新たに征服した尾張からも人材の登用を積極的に行い、占領地の安定化と国力増強に余念がなかった。
 不安定要素だった三河の一向一揆も、行政の妙と義元本人が還俗していた事からほどなく和解が成立した。尾張も短期間で安定し、織田氏と姻戚関係にあった美濃の斉藤氏に付け入るスキを与えなかった。その中で今川氏に養子に出されていた事もあった三河の松平元康が活躍し、その後今川義元は彼を再び自らの養子へと組み入れる松平元康は今川の姓をもらい今川元康と改名する。
(※なお松平元康は、家康とも名乗っている時期でもあったが、元康の方が有名なため以後もこちらを使うものとする。)

 戦闘後、尾張を組み込んだ今川氏の勢力は、近隣では最大規模となった。領国は150万石以上に達し(※実際は120万石程度だった可能性が高い。)、近隣で単独で立ち向かおうという大名はほぼいなくなっていた。加えて、武田氏、北条氏共に尾張を得て勢力を大きく拡大した今川氏への警戒もあって三国同盟の基本外交を崩すことはなかった。おかげで今川氏はさらなる商業の拡大と、そして当面の最終目標でもある上洛(上京)のために、西に向けて勢力を傾けることができた。

 一方、桶狭間の合戦頃、甲斐、信濃半国を領有していた武田氏は、今川氏、北条氏との三国同盟を堅持して、上杉氏との戦いにのめり込んでいた。有名な「川中島の合戦(第四次川中島の合戦)」も桶狭間の合戦のすぐ後の事だった。
 そして武田氏は、川中島の戦いでの損害よる後遺症もあって、短期間で強大化が進んでいた今川氏、関東の北条氏との手前、同盟堅持と北進政策を重視せざるを得なかった。また今川との関係を、さらに強めざるを得なかった。このため武田氏の家督は、今川の流れを汲む武田義信に引き継がれる事になり、武田信玄は甲斐、信濃という山の中から海へと出ることがいっそう難しくなった。そして家督のことは、武田氏内での火種を残すことにもなった。
 それでも武田氏は、その後の努力によって信濃の平定にはほぼ成功した。その後も領土を拡大して130万石を抱える大大名となり、今川氏、北条氏、そして上杉氏に対抗できる力を保持する事が出来るよになった。ただ後継者だった武田義信は、無能ではないが凡庸であり、信玄亡き後の武田氏は緩やかに衰退していく事になる。
 関東の雄である後北条氏とも言われた北条氏は、中央(京)への進出にあまり興味を持たなかったため、領国の経営と関東での覇権確立を地道に進んでいた。また毛利氏と同様に一族の結束が非常に堅くさらには家中及び家臣の結束も堅く、そうした要因が関東征服に大きな力を発揮した。領国も徐々に大きくなり、関東一帯を「北条王国」と言えるほどに拡大していくが、保守性の高さから今川氏に徐々に後れを取るようになっていく事になる。

 一方、尾張征服で150万石以上の領土を持った今川氏は、当面は領国経営に専念して国力を蓄えつつも上洛の機会を伺っていた。そして商業の振興によって国力を付け、他者との競争で一歩抜きん出る事に成功する。
 そうした所に、足利義昭が今川氏を頼って落ち延びてくる。これで上洛の大義名分と将軍一族を奉じるという権威を得た今川義元は、本格的な上洛に強い意欲を見せるようになった。
 以後義元は、上洛の最大の障害となる美濃への工作を強化した。ここで活躍したのが、元武士というが出自がはっきりしない中村屋藤吉郎という尾張出身の商人だった。中村屋は、巧みな弁舌と人たらしの才能を存分に発揮して、美濃の商工業者や農民達、さらには土豪達を次々に今川の味方に付けていった。また美濃の国人に対しては、伝統ある今川氏の名がものをいった。そして斉藤氏に対しては、土岐氏を国主に戻すという名分を立てて攻撃を開始する。
 この戦いでも中村屋は活躍し、莫大な富と今川氏からの高い信頼を得るようになった。そしてこの戦いで活躍した武将が、三河の松平家から再度養子縁組みを行った今川元康だった。また活躍した武将の中には、元は織田氏に仕えて一時は浪人となっていた前田利家などの姿もあった。そうした尾張、三河での人材活用こそが、成功の原動力となった。
 斉藤氏は激しく抵抗したが、結局は国力差と政治力の差で短期間で勢力を失い滅んでいった。1567年には美濃のほぼ全土が今川領に編入され、今川氏は総石高200万石近い大勢力となった。

 そして美濃の稲葉山城に入った今川義元は、いよいよ上洛を本格化させる。
 足利義昭がいたこともあって、13代将軍を亡き者にした三好三人衆、松永久秀の討伐という大義名分もあり、まずは京都の進路上と近畿一円の諸大名に様々な形で上洛への協力を呼びかけた。
 そしてここで、名家今川氏という点が大きな効果を発揮した。名家今川の名を最大限に活用した義元は、事前に数多くの賛同と協力を得ることが出来たのだ。
 翌1568年に今川義元が5万の大軍を率いて足利義昭を奉じて上洛のため美濃の稲葉山を出発した時、北近江の浅井氏は通過を認めるばかりか上洛への同行を願い出た。また三好三人衆と結んでいた南近江の六角氏も、今川義元を前にして領内通過を認めた。
 しかし討伐対象となる三好三人衆は抵抗せざるを得ず、今川義元とそれに随行した浅井長政などの軍勢と戦闘に発展した。そして京都近辺での戦闘にほぼ一方的に勝利した今川義元らは、呆気なく畿内中枢の平定にも成功する。また上洛の途上で、伊勢の南部をさらに併合した。今川氏の勢力がさらに拡大したことは言うまでもない。
 そして足利義昭は今川義元を後見人として悲願の将軍職に就任し、足利第15代将軍となった。
 この時、日本中の諸大名に、新たな将軍である足利義昭へのお目通りのため上洛を促す書状が使わされた。そして足利義昭を名家今川氏、今川義元が後ろ盾となっているという事もあり、多くの大名が今川氏により修復されつつあった京の御所に参集する。
 この時は、今川氏と同盟している武田氏、北条氏ばかりでなく、上杉氏、朝倉氏、浅井氏、毛利氏など多くの有力戦国大名が集い、足利将軍のもとで精勤に励む旨を誓い合った。
 そしてここで、無用の戦闘を止めるようお触れが日本全国の大名に発せられた。このお触れには上洛した諸大名が連名しており、違反した場合は将軍の命により「討伐」すると記されていた。むろん討伐するのは連名した諸大名であり、彼らにとって有利な話であった。上洛に応じなかった大名は、非常に悔しがったと言われている。
 そして将軍という権威と有力大名の存在がつながった事で、取りあえずという形であったが日本中の戦いの多くが停止していった。
 それは日本列島に約100年ぶりに訪れた平穏であった。


フェイズ2「戦乱再開」