■フェイズ2「戦乱再開」

 1568年の今川義元上洛と第15代将軍就任により、日本列島は多少なりとも平穏となった。
 しかし、現状では根本的な解決がされていないに等しく、問題が先送りされたに過ぎなかった。また日本各地での戦乱が消えた訳ではなかった。京から離れれれば離れるほど将軍の威光は小さくなり、各地の戦国大名は何らかの理由を付け、地域の有力大名に賄賂を送るなどして戦い続けた。剛胆な者は、将軍の威光や大大名を全く無視してかかった。また近畿や北陸では、一向宗と室町幕府や各大名との反目と争いも続いていた。戦国時代の中で現世権力を拡大した一向宗にとっては、大きな政治的権威は邪魔だったからだ。
 しかしそれでも、近畿、東海を中心に一定の平穏が訪れた事も間違いなかった。東海から近畿中心部を支配した今川義元の国力を背景とした平穏に近かったのだが、各地の大名達も足利義昭の命令にある程度服従するようになった。大義名分を手に入れた有力大名達を恐れたが故の行動だったが、それでも平穏は平穏だった。
 そして長い休戦期間を得た各大名は、領国経営と国力増大に力を入れる毎日を過ごすことになる。中でも、東海道をほぼ全て押さえた今川氏が、最もこの時の経済的利益を享受した。
 なお、このかりそめの平穏の中で頭角を現した人物が二人いた。今川義元の養子である今川元康と北近江の大名浅井長政だった。
 今川元康は今川義元と共に上洛し、その才覚を義元に認められて京を動けない義元に代わって、稲葉山城を中心に美濃、尾張、三河の実質的な領国経営を任された。また義元のいる京に赴く事も多く、領国経営と京での外交活動双方で大きな手腕を発揮した。また争いを続ける大名に対する討伐の際には今川氏の代表として前線に立つことも多く、戦闘でも高い才能を示し、野戦に強い人物としても知られるようになった。今川元康は、間違いなく傑物だった。
 一方、浅井家の新たな当主となったばかりの浅井長政だが、見た目の秀麗さもさることながら、器量の高さ、高潔さなどが当初から知れ渡っていた。京に出入りする諸大名からも人気が高く、越後の上杉謙信などは長政を絶賛したほどだった。またいち早く上洛に応じたことも、浅井氏の地位を高めていた。
 浅井長政自身は外交達者なわけではなかったのだが、彼の名は全国に知れ渡るようになった。
 なお浅井氏には、桶狭間の合戦で事実上滅亡した織田の生き残りが斉藤氏からさらには浅井氏に落ち延びて庇護され、そのうち一人がそのまま浅井長政の妻となっていた。こうしたエピソードも、浅井長政という人物の高評価につながったほどだった。
 そして足利義昭も足利将軍家に忠勤する浅井長政の事を非常に気に入り、彼に将軍領として今川氏から寄進されていた旧三好領のうち和泉・摂津の守護までが任されるようになっていた(※山城は今川が守護に任じられたし、摂津の実質的支配者は石山本願寺だった。)。今川氏としては気に入らなかったが、浅井長政が今川氏との関係も重視したため対立にまでは発展せずに済んだ。

 そうして足利義昭の将軍就任から十数年間は、近畿、東海、北陸、さらには中国を中心に比較的安定した状態が保たれた。九州、四国を中心に他の地域では争いは結局絶えなかったが、それでも戦乱ばかりが続いた時代よりは平穏となった。無論日本の中心近くでも争いが皆無だった訳ではない。将軍の命に逆らう者も多く、そうした場合は今川氏などが中心となって討伐した。
 そして足利義昭の命令で最大規模の戦いとなったのが、一向宗との戦いだった。一向宗が、将軍の権威を蔑ろにしているとされたのだ。特に加賀一国を支配していることは、幕府の権威上で許し難いとされ、北陸の各大名に討伐が命令された。ここで上杉氏、朝倉氏、そして浅井氏も加わって北陸各地の討伐が行われ、上杉氏が制圧後の越中、能登の守護を、朝倉氏が加賀の守護を新たに命じられた。
 また伊勢の一揆制圧は今川氏が担当し、戦闘よりも懐柔でこれを鎮圧。伊勢半国を支配しただけだが守護職を手に入れた。
 ただし摂津の石山本願寺だけは、浅井長政の尽力と今川義元、元康の政治工作の結果、争いが本格化する事もなく手討ちとされ、「寺領」という形で摂津半国の領有が認められることになった。
 そして、かりそめの平和の中で十数年の歳月が流れる。
 その頃になるとポルトガルに続いてスペインの船も日本に来航するようになっていたが、彼らの多くは京の安定によって近畿に足を運ぶようになり、堺の町を中心に活動して足利将軍に謁見する宣教師もいたりした。しかし世界各地で行ったような掠奪や戦闘は行わなかった。日本人は、ヨーロピアンが見た限り、異常なほど好戦的で凶暴な民族であり、しかも鉄の武器ばかりか鉄砲などで重武装していたからだ。「悪魔の島」と報告書に書いた宣教師がいたほどだった。
 その証拠とばかりに、かりそめの平和は長くは続かなかった。

 新たな戦乱の狼煙は、戦国時代に取りあえずの幕を引いた今川義元の病没だった。没年は1582年6月。
 没後すぐに行われた一族会議で今川氏の後継とされたのは、虚け(うつけ)と言われた嫡子の氏真ではなく養子の今川元康だった。義元の強い遺言だったとされたため、実子よりも養子が選ばれることになったのだ。
 この頃今川氏は、従来からの駿河、遠江、三河に加えて後年得た尾張、美濃、伊勢南部とその周辺部を得ていた。また近畿の中心部の多くが影響下であり、京のある山城の国も将軍領とされたが実質的には今川領のようなものだった。
 総石高は250万石を越えており、この時点で戦国最強の大名だった。しかも東海道を押さえ、京、堺の街などの商人と連携した事もあって、最も大きな経済力も手にしていた。ここでも尾張の商人中村屋藤吉郎は活躍し、今川氏の御用商人としてポルトガル商人との取引も一手に引き受けるほどの不動の地位を築いていた。また彼は、近江、上方のこれはという人材を今川氏に次々に紹介して、今川氏の領国経営に大きく貢献すると共に影響力を強めていった。
 ただし今川氏全体は領国が広がりすぎていたため、駿河に今川義元本人(隠居後は今川氏真)を置いた上で、美濃を本拠に京・上方の監視のために養子の今川元康が稲葉山城にあった。今川元康が西に居たのは、彼が今川義元と共に上洛した事が影響し続けており、また彼が優秀だったからに他ならなかった。
 そうして今川義元晩年の頃は、美濃今川家と駿河本家に分かれたかのような対立が水面下で行われていた。
 またこの頃には、甲斐・信濃を有する武田氏の勢力が大きく減退し始めていた。1573年の武田信玄病没後に跡目争いで内紛が発生し、今川氏が押した武田義信が家督を継ぐも、諏訪の武田勝頼派が強く反発して事実上の内乱となったのだ。このため一族を二つに割った争いとなり、国力を大きく疲弊させていた。北信濃の多くの地域も、籠絡・内応という形で実質的には上杉氏に奪われていた。このため少なくとも巨大な経済力を手にしていた今川氏との差は、もはや埋めがたいほど広がっていた。
 そして武田氏は、武田義信が今川義元の系譜に連なることもあって、徐々に今川氏の影響が強まっていた。今川義元没年頃には、武田氏そのものが今川氏の有力譜代に近い扱いを受けるまでになっており、逆に今川氏の跡目争いにも大きな発言権を持つようになっていた。ただし、年々今川への従属が強まっている武田氏では、今川元康への反感が募っていた。上杉への盾として使われたという反感も強かった。
 また今川氏は、上方での戦い無き勢力拡大に積極的で、足利将軍家、公家集に対する影響力を強めていった。こうした中で、公家の系譜である細川氏との関係が強まり、今川氏の京での覇権は確固たるものになっていた。
 ここで頭角を現したのが足利将軍家に仕えた明智光秀で、将軍の威を背景にして、今川氏、細川氏、将軍家、朝廷の間の関係を取り持つ京での有力者となっていた。
 そして上方商人を代表するまでになった中村屋、京のパイプ役の明智光秀を事実上の配下に収めた今川元康の権勢は確固たるものになった。
 しかし当然ながら、今川氏に対する各地の大名の反発は強まった。同時に脅威に感じる大名の数も増していった。権力と国力を笠に着た行いに恨みを募らせる大名も多かった。いつしか水面下で反今川の連合のようなものが形成されつつあり、それが一気に跡目争いで吹き出た形となったのだ。
 世に言う「今川騒乱」の始まりだった。

 今川元康側には、三河以西の今川氏と上方大名の多くがついた。勢力的には今川氏の三分の二が付いていた事になる。対する今川氏真側は駿河、遠江という先祖伝来の地域に加えて、武田氏が全面的に協力していた。武田氏の元康への反発と、武田義信が血縁上での義兄弟を優先した結果だった。しかも義信陣営には、北条氏が全面的支援を約束した。また武田氏の宿敵上杉氏との間には、将軍を蔑ろにするという一点で武田氏との間に不戦協定が成立した。必然的に、上杉氏と関係の深い浅井氏、朝倉氏らも、今川元康に対して敵対的、最低でも中立的となった。この動きに、今川元康の専横を快く思わない近畿の大名達も、氏真に味方するという名目で上方の今川勢力を勝手に攻撃し始めた。
 事実上の対今川元康包囲網であった。
 西国の大勢力となった毛利氏や長宗我部氏の上方への動きは今のところなかったが、今川元康が包囲体制に置かれたのは間違いなかった。しかし、大きな勢力同士が争いはじめてタガが緩んだため、各地の小中大名も勝手に動き始めていた。
 元康陣営は、氏真陣営に対するばかりでなく、各地に敵を抱えたため当初身動きが取れなかった。
 特に北近江を持ち摂津・河内の守護職にある浅井氏(浅井長政)の存在はやっかいであり、武田氏の裏切りも意外だった。そして武田氏が裏切ったため、上杉氏は安心して浅井氏に援軍を派遣できる事になった。そして将軍の裁定により家督争いを避けることに成功した上杉氏は足利将軍家への忠誠度が高く、いち早く足利将軍のための軍を動かし始める。そしていまだ戦国最強を謳われていた上杉氏と、浅井氏、朝倉氏が連合した破壊力は絶大だった。特に北陸兵は強いとの評判が高く、経済の中枢を押さえていた今川元康の兵士と比べた場合、元康陣営が大きく不利な要素だと考えられた。
 そして喉元を押さえられた事を見透かした氏真陣営は、武田氏、北条氏の援軍を加えて大軍を編成し、三河へとなだれ込んできた。
 元康陣営は、完全に挟み撃ちにされた事になる。
 しかし元康陣営に不利な要素ばかりがあったわけではない。
 今川元康は日本の経済、産業の中枢を事実上押さえていたため、豊富な財力と最新兵器の鉄砲及び火薬を得やすかった。また、各地から攻められているということは、内線防御を行いやすい事も意味していた。しかも当面の敵は大きく二分されている上に、それぞれの考え方も違っていた。氏真のバックにいる武田氏、北条氏は、内乱の「ついで」に今川氏の勢力そのものが減少することを目論んでいた。これに対して上杉・浅井・朝倉の北陸勢は、将軍を蔑ろにした今川氏そのものを一気に叩いてしまう事を考えていた。
 両者に共通しているのは、今川元康を討つというただ一点だった。
 この時点で今川元康の取りうる策は、美濃、三河での内線防御が最も有力だった。しかし今川元康は、彼にとっての本領といえる三河になだれ込んできた氏真陣営に対する全力攻撃を決意。北陸勢に対しては、関ヶ原近辺で1万程度の抑えの兵力を置いて対処した。
 元康がこれほど大胆となった背景は、様々な理由があった。朝倉義景が死去したばかりの朝倉家は、全く主体的、能動的に行動がとれなかった。浅井長政は、将軍の名代として上方での戦乱抑止と鎮圧に奔走しているのが実状で、とても自分にまで手が回らないと考えられた。そして最も恐ろしい上杉謙信が北陸を経て近江に現れるまで数ヶ月が必要だった。さらに近江を浅井氏と分ける六角氏は、浅井長政の勢力拡大を快く思っていなかったため、彼を抑えに置くことができた。

 かくして今川両軍は、長篠・設楽ヶ原で対陣。1582年8月に「長篠の合戦」が行われる。
 戦いは、豊富な財力で新兵器鉄砲の整備に力を入れていた今川元康の圧倒的勝利で幕を閉じた。戦いの後の追撃戦でも多数の武将を討ち取り、その中で今川氏真を討ち取ることにも成功した。合力していた北条氏、武田氏の軍勢にも壊滅的打撃を与えた。完全勝利と言っても間違いないだろう。
 そして一気に今川領の平定にかかろうとしたのだが、遠江まで進撃したところで元康のもとに凶報が舞い込む。
 予測よりはるかに早く移動した上杉氏が合流した北陸勢が、北近江から進撃を開始したというのだ。その報告では浅井の居城側の近江の姉川付近での対陣となっているが、至急応援を要するとされていた。このため今川元康は、遠江まで進んだところで反転を余儀なくされる。
 そして主力部隊を率いて稲葉山城まで進んだところで、北陸勢が接近中との報告を受けた。北陸勢は、総勢3万5000の大軍だった。北陸勢を抑えるための元康側の戦力は劣勢なところに襲いかかられ、敢えなく敗退していた。
 そして元康勢が反転した頃は六角氏が交通の要衝である関ヶ原に布陣していたため、急ぎ元康勢も関ヶ原へと軍を進めた。
 かくして元康勢は、関ヶ原近辺で氏真勢の降将や六角氏などを加えて2万8000程度の兵力を揃えることができた。しかし兵力が劣勢な上に主力部隊は先の戦いと移動で疲れており、元康は後手の一撃を採用することとした。
 これは先の戦いの焼き直しに近いものだったが、大量の鉄砲と野戦築城さえあれば十分劣勢を覆しうる有効な戦法だった。
 そして関ヶ原の合戦が始まるが、桃配山に布陣する元康勢に不吉な天候が訪れた。雨だ。
 しかも激しい雨のため、鉄砲は全く役立たずとなった。
 これを両軍の将兵達は、既に死去した「軍神」がこの雨をもたらしたのだと噂し合った。人ならざる者の仕業でなければ、これほどのタイミングで豪雨などあり得ないと思えたからだ。
 そこを突撃してきた北陸の強兵に強襲され、力技での殴り合いへと発展した。殴り合いとなれば北陸勢の方が個々においても数に置いても優勢で、しかも魚鱗から鶴翼へと巧みに陣形を変更した北陸勢は、一気に半包囲体制を取って攻め寄せた。突然の豪雨といい、軍神謙信の魂が乗り移ったかのような戦いだったと後世語り付かれるほどであった。
 そして雨の中での力戦2時間。元康勢はほぼ包囲され、退却するにもできなくなった。しかも決定的瞬間に、北陸勢に上方からの増援1万3000が戦場に姿を現した。これは浅井長政が守護を務める和泉・河内の兵達であり、また浅井長政の説得に応じた近畿各地の大名の軍勢が加わったものだった。その指揮は、将軍家山城守護職の明智光秀が取っていた。増援も名分も、全てが一気に現れたような形であった。
 戦いはこれで決し、士気が萎えた今川元康勢は一気に崩れ、敗走の中で多くの武将が討ち取られていった。元康自身も敗走の中で浅井長政の配下に討ち取られ、ここに今川氏は有力な後継者を全て失うことになった。
 また六角氏の軍勢もこの時の戦いで壊滅し、その後の追撃で居城も陥落。六角氏は呆気なく滅亡し、旧領は浅井氏に併合された。


フェイズ3「新時代到来」