●日本開国

 瑞穂国の白船は、幕府との交渉と天皇への拝謁を終えると、一ヶ月後の1854年7月に去っていった。その間来訪者達は、さらなる技術書を進呈して、一部最新技術の現物を扱い方を教え、海外の最新情報も幕府側に伝えていた。この時は、瑞穂人と日本人の間に交流も行われ、日本人の間には瑞穂人は恐れるべき人々ではなく善意の人々で、尊敬に値する恩師や恩人のような存在だという認識が芽生えた。それは瑞穂人が余りにも美しいので錯覚したのかもしれないし、何か騙されていたのかもしれないが、とにかく日本人はさらに計り知れない知識と技術を得ることができた。
 白船が来る前とは、既に雲泥の違いだった。
 なお、次に瑞穂人来るのはさらに一年後で、幕府側との協議の末に領事館と商館、学問所や研鑽所(研究所)の設置が予定されていた。
 そして瑞穂の情報通り、その年の10月ロシア艦隊が今度は函館へとやって来た。そして翌月には大坂湾に来航。そこで幕府側の指示で、ロシア艦隊は下田へと至る。
 ここで幕府は、先に交渉に当たっていた外交担当の川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣して、ロシア艦隊を率いていたプチャーチンとの交渉を行わせた。 しかし、交渉開始直後の1854年12月23日に安政の大地震が発生して下田一帯も大きな被害を受け、交渉も一時中断してしまう。ここでロシア艦艇のうち1隻が津波により大破し、しかも回航中に運悪く沈没してしまう。
 仕方なくロシアは、日本で代船の建造許可を幕府から得たのだが、幕府から派遣された造船技師(船大工)は、オランダの技術者のように優れていた。船の設計図も日本人自ら携えており、ロシア人全員が乗り込める規模の船の建造が戸田で開始された。無論代金はロシア人持ちとされての事である。
 そうして数ヶ月後に完成したのは中型で最新鋭のクリッパー船(帆船)であり、ロシア人を大いに驚かせた。むろんロシア人達は大いに喜び、その間再開された交渉において、友好なまま日露和親条約が締結された。
 ロシア側にとって日本が十分な国際知識を持っていることは意外だったが、世界に先駆けてロシアが日本の開国に成功したことは大きな名誉となった。そして交渉をまとめたロシア人達は、日本人が作った優秀な船に乗って急ぎ帰国していった。何しろ当時はまだクリミア戦争が続いていたからだった。
 そしてそのクリミア戦争の余波で、イギリスとフランスの軍艦が日本に来航する。3月にフランス艦隊が下田に、イギリス艦隊が長崎に来航した。
 両国の目的は、交戦国であるロシアが日本に来ていないかを確認するためだったが、日本側は厄介ごとをこれ以上抱えたくないためまだ動けないロシア人を庇い、交渉が出来ないと知ると英仏艦隊も立ち去っていった。
 ただし英仏両国は、上海で聞いた日本も高度な帆船や蒸気船を保有しているという事実を掴み実際目撃もしたので、以後の行動が慎重なものとなった。日本と交渉を行うならば、ロシア人が行おうとした友好的なものが得策だと考えるようになった。日本という国は、チャイナほど後進国ではないらしいと考えるようになっていた。一部の者の間では、本当に「黄金の国」なのではないかと言われたりもした。特別な国でなければ、ヨーロッパ最先端に匹敵する文明の力を自力を持っている筈がないからだ。
 またクリミア戦争の影響で、日本がロシアに対して開国したという情報が世界に広まるまでには少しばかり時間がかなることになる。そして日本と交わりを持つための競争が緩やかなため、あえて日本との交渉を急ごうという国も当面現れなかった。当面は、日本の事よりも自分たちの争いの方が重要だった。

 1855年6月、三度瑞穂国の白船がやって来た。幕府は彼らが立ち去ってから一年後の7月に来るものと思っていたが、先の来航から一年後なのだと思い直し、特に疑問には思わなかった。
 なお今度の船団は、かなりの数の船舶を伴っていた。白船は相変わらず3隻なのだが、それ以外に5隻の輸送用の船を含んでいた。輸送船らしい5隻の船は、3隻とは違って平凡な見かけの船だった。
 そして交渉のすぐ後にも瑞穂人は下田への荷揚げを行おうとしたのだが、それに幕府側が待ったをかけた。断るのではなく、下田以外の場所を指定してきたからだ。
 場所は摂津の兵庫浜、後の神戸であった。
 この背景には、孝明天皇がなるべく京に近い場所に瑞穂人がいることをかなり強く望んだからだった。それならば、自分も気軽に行幸できるかもしれないからだ。そして瑞穂人に対する警戒感を完全に解いていない幕府側も、江戸より遠い場所に瑞穂人の施設を置く事に賛成し、領事館ともども神戸の地が瑞穂人の居留地に指定された。大坂奉行書の規模も拡大されて、京、大坂には各藩から拠出させた兵が警護するようにもなった。
 幕府はまだ完全に瑞穂を信用したわけではなかった。200年以上続いた鎖国を思えば当然だろう。
 一方の瑞穂側だが、これ幸いと話に乗ってきた。加えて、出来る限りの間でよいので、自分たちの事は諸外国には伝えないで欲しいと改めて幕府に申し入れた。また諸外国に伝える場合は、事前通達する事を約束させた。自らの目的のため、港以外の居留地は、なるべく海から遮蔽できるように作ったほどだった。目的のため新たに人工の林や森が作られたりもした。
 居留地建設のために日本中から優秀な大工や人足が集められたが、彼らは瑞穂の設計技術者が示した図面や指示に舌を巻きつつ突貫工事で仕事に当たった。
 そして瑞穂人の居留地が、神戸と名付けられていた場所で建設される。「神の戸」という名称は、どことなく瑞穂人が滞在するには相応しい場所に思えた。
 神戸には、港湾施設、居住地、領事館、商館、学問所、病院など様々なものが、当時の世界最先端技術に匹敵するレベルで設置されていった。そこには、当面200人ほどの瑞穂人が常時滞在する事になった。7割ほどが彼らの使用人階級もしくは下級労働者で、さらにうち半数が、ゲルマン系の白人よりも大柄で屈強な護衛と見られた。瑞穂は平等な国だと思われていたが、絶対的という以上の格差が存在する事に日本人は困惑したが、深くは追求されなかった。
 また瑞穂の手により多数の家畜(乳牛、肉牛、豚、羊、鶏、鴨など)が持ち込まれ、人手不足なのでこの管理を日本人に任せたいと願い出た。無論第一の目的は自分たちが食べるためだ。このために、神戸のすぐ側の六甲山に牧場が開かれ、年内にも本格的な飼育が開始された。移動手段としての、日本にはいない大柄な馬もかなりの数が持ち込まれた。また家畜と同じく幾つかの商品作物が種籾の状態で多数渡され、いくつかは日本人にもお馴染みなものだった。それらの栽培も、特別な農地を指定して早速始められた。野菜や果物の多くは日本人たちが初めて見るもので、豊富な肥料を与えて手間暇かけて育てると、驚くほど美味しかった。甘味を持つ作物も多かった。
 また瑞穂人は、これらの作物や家畜は数が増えれば日本人にも種籾や種畜として売却すると伝えた。耕作や育成、食品加工の知識や技術も伝えると約束した。本国からの輸入も請け負うとも言った。また各種乳製品と加工肉の工場も、屠殺場共々農場と牧場もしくは居留地に建設され、ここでの技術も日本人に伝えられ急速に広まっていった。
 渡された米(ジャポニカ米)などは、冷害や病気に異常なほど強く、しかも美味しい上に高い収穫率が得られるなど、それまでの作物とは比較にならないほど優れた品種だった。美味しくするためには多数の肥料が必要な場合も多かったが、それを補ってあまりある優れた品種だった。
 これらの作物は、数年もすると瑞穂米もしくは錦米や光米などという名を与えられ、爆発的に日本中に広まる事になる。寒冷地用で長期保存が可能なジャガイモ品種も、荒れ地栽培などで活躍するようになった。幕府も蝦夷開発や、人口増大に対応する食糧増産のために普及を奨励した。
 他にも、瑞穂人の食べ物がすぐにも日本人の間に伝わり、商業の中心地大坂では、「食い倒れ」の名に相応しく早くも翌年には瑞穂料理店が開店して、長蛇の行列となった。また瑞穂人がもたらした農作物や畜産品も商店で見られるようになり、こちらも爆発的な人気となった。
 一方で瑞穂人は、居留地の外れに日本人向けの病院も開設し、世界最先端の医療を極めて安価で施し、たちまち大評判となった。医者や看護専門の瑞穂人も一定数来訪しており、そこには医学を実地で学ぶための日本人達も集まり、日本の医療技術を革新的に向上させていった。やっている事は蘭学や蘭方医とほぼ同じなのだが、当時の最先端を既に若干越えていた事に日本人達はほとんど気付くことはなかった。気付いたところで、瑞穂の最新技術と言われてしまえばそれまでだった。瑞穂の民間療法という脚気の特効薬だと言うビタミンB1を豊富に含んだ食べ物の普及も熱心に行われたが、それが当時の文明を越えた知識によるものである事に気付く由もなかった。瑞穂人が美しい理由の一つとされた種痘も、半ば流行のように日本人の間で行われるようになった。
 日本での離乳食の不備による乳幼児死亡率についても、現状の食材で作れる離乳食の紹介により大きな低下が見られた。他にも、簡単な医療や生活に関する知恵と言えるレベルでの技術で大きな改善があった。瑞穂人はよき教師であり、日本人一般も概ねよき生徒だった。
 しかし瑞穂人にとって、少し困った事もあった。日本人の自分たちに対する関心度が異常なほど高く、神戸の居留地近辺は遠目でも瑞穂人を見たいという人々の欲求によって、瞬く間に一大観光地と化していた事だ。
 関心が低いよりは良いのだが、瑞穂人の知識に従うとこの時代の文明で、これほど観光が行われるのは完全な想定外だった。それだけ当時の日本列島が平和で近世的な繁栄の頂点を迎え、尚かつ鎖国という状況により人々が娯楽や珍しい文物に飢えていた証だった。
 そうした事を知った瑞穂人達も、少しずつ教育や医療以外で日本人と接触を持つようになり、それがさらに日本人の間での瑞穂人への関心を高めさせていった。

 そうして諸外国に知られることもなく日本人が瑞穂人との交流を行っている間にも、続々と各国の艦隊が日本に来航するようになった。
 7月にはアメリカ艦隊が再び訪れ、ようやく日本との間に和親条約を締結した。続いて同月イギリスからはスターリング提督率いる4隻の艦隊が長崎に来航した。フランス、オランダとの間にも年内に開国に応じた。
 この間日本側は、特に交渉をしぶったりしなかった。
 幕府も朝廷も、瑞穂から得る知識と技術さえあれば何とかなると考えるようになっていたからだ。実際、既に自前の蒸気軍艦を浮かべていたので、安心感もひとしおだった。
 そしてその後1856年から57年にかけて、日本と各国の間で通商修好条約が締結される。
 一番手は瑞穂国を例外とすればアメリカとなったが、アメリカの代表ハリスは他国に先駆けることを優先したため、日本側が強く改訂を要求した領事裁判権と協定関税を引き下げざるを得なかった。その後続いた国々も同様で、日本側が十分な国際知識、特に国際法の知識を持っていることに歯がみすることになる。
 しかも日本人は、列強が訪れるたびに帆船や蒸気船の数を増やしており、通商条約を結ぶ頃にはとてもではないが安易に武力による威嚇やハッタリが通じる相手ではなくなっていた。
 スクリュー駆動で鋼鉄の装甲すら備えた軍艦など見せられては、世界各地で好き放題していた英仏なども態度を改めざるを得なかった。
 しかも外洋で見かける日本人の船は、年を経るごとにドンドン増えていた。特に捕鯨船が日本の南方海上で頻繁に目撃されるようになり、アメリカの捕鯨船と競い合う姿は1856年頃から一般的なものとなって、アメリカ南北戦争以後は太平洋漁場を独占するほどになった。
 また1857年には、日本国内で日本人に対する渡航規制が撤廃されたため、日本の国旗である日の丸を掲げた船が東アジアで見かけられるようになった。早くもアロー戦争中の上海に、日の丸を掲げた幕府の軍船が情報収集のためにやって来たほどだった。日本人達が自力で砂糖を得るための太平洋探索も、熱心に行われるようになった。

 なおこの時期、一つ奇妙な噂がでた。幽霊島だ。アメリカの捕鯨船が、日本の南方にある筈の島嶼が消えてなくなったというのだ。また恐らくその島々があった辺りでは羅針盤や方位磁石が狂うことが常となり、とても危なくて近寄れなくなったというものだった。天測すら狂うという事で、いつしか幽霊島と呼ばれるようになっていた。
 この噂には実際難破したり消息を絶った船が多数存在した事から信憑性が高いとされ、以後アメリカの捕鯨船を始め多くの船が長らく西太平洋のとある一角には近寄らなくなった。
 この噂に対して日本は、瑞穂国の近くには磁場が狂う危険な海があるのだと考えたが、特に諸外国に伝えることはなかった。むしろ瑞穂国が、今まで外敵から守られていた理由を知って納得したほどだった。
 


●日の本維新