●日の本維新

 1853年の白船来航以来、日本は異常なほどの熱意で先端技術と知識の習得と実用化が進んでいた。白船と共に黒船も訪れ、世界中が日本に押し掛けた恐怖心から逃れるかのように、ある種宗教的なまでに革新的な学問と技術へと逃れた。少なくとも、ただ神仏に祈るよりも現実的対応であることは間違いないからだ。
 白船と共にやってきた瑞穂人によりもたらされた各種技術書や学術書は、最初は緊急措置として写本されいてたが、翌年には早くも木版印刷による本が出回り始めた。そして技術書の中にあった大量印刷技術が1857年に機械ごと実現されると、急速な勢いで様々な先端知識を記した書物が大量生産されるようになった。ほぼ同時に紙の製法も和紙より大量印刷に向いた瑞穂紙(西洋紙)が生産されるようになっており、これが印刷物の大量生産と普及を助けた。そうして普及した瑞穂人の知識に関連する本を、人々は瑞穂本と呼んで有り難がった。ただし有り難がって神棚にはお供えせずに、本棚に入れて勉学と技術実現に励んだ。
 そして瑞穂本の広範な普及にともなって、各地で寺子屋より上位の学校が設立されていった。江戸の昌平坂は実質的に大学の体裁を取るようになり、大坂の適塾などのように、さらに高度な学問を教える場所も増えた。幕府の手により、師範学校と呼ばれる教師を育成する学校までが設立された。若者の学問所の役割を果たしていた日本中の剣道道場でも、我先に瑞穂本を手に入れ勉学にも力を入れるようになった。日本で初めての図書館が、神戸と大坂にも作られ、多数の人々が新しい知識に触れられるようになった。
 ちまたでは、「読み書きそろばん、つぎ見ず本(瑞穂)」とう戯れ歌がはやったりもした。
 そうした中心となったのが、神戸に作られた瑞穂学校(後の瑞穂総合大学)と瑞穂研鑽所(研究所)だった。
 この学校と研究施設では、当初は瑞穂人が直接教鞭をふるって、様々な分野の日本人知識人を輩出していった。学校設立から2年も経過すると日本人教師が授業を行うようになって、規模自体も大きく拡大したが、それは日本人の知識人がある程度育った証拠であり、教育熱の高い各藩ではそうした教師の招聘が瑞穂本の獲得と共に盛んとなった。あまりの日本人の教育熱の高さに、奇妙なほど教育熱心だった瑞穂人たちが驚いたほどだった。

 一方幕府は、1857年の開国と同時に日本人の渡航規制と船舶規制を全面解除した。自らも積極的に最新鋭の艦船を建造して、領土確定と確保のため積極的に調査船を派遣するようになった。この探査や領土確定作業の結果、樺太島、千島列島の日本領有を諸外国に認めさせ、琉球も日本の勢力圏として認知されるようになった。また太平洋広くに散らばった捕鯨船は、早くも1861年にハワイ王国に到着していた。翌年には、同地域への移民も始まった。日本の貧農と琉球からの自主的移民が目的だったが、幕府が求めた砂糖の安定した輸入先獲得も絡んで、以後太平洋各所の島嶼への進出と移民が盛んとなった。
 瑞穂国にも幕府の側から使節を伴った船が派遣され、瑞穂船の先導で瑞穂国に至り、小さな島国ながら高度に発展した様を見た日本人達を驚嘆させた。
 宝玉諸島と名付けられた首都のある諸島(首都は最も大きな翡翠島)には、大英帝国やアメリカを越えるほどの近代文明が、王宮を中心にして整然とそして華麗に広がっていた。島国の瑞穂国だけに、極端に農地が少ないのが疑問点だったが、国民の少なさからまあこんなものだろうと感じられたという。また、土地名称の一部が古代日本神話をモチーフとしていた事は、日本人の多くに親近感を持たせるよりも、むしろ苦笑させたほどだった。イザナギやイザナミ、アマテラスなどの名を地名に付けることは、当時の日本人には縁のないばかりか、気恥ずかしさすら感じる事だった。
 一方、火山のある小さな島一面に広がる幾何学的な工業施設の煙突が無数の煤煙を吹き上げており、瑞穂の力の根元を見せつける力強さを放っていた。まるで要塞のような島で、黒を基調とした重々しい色合いも重なって、ただならぬ気配も同時に放っていた。ただしその島に日本人の上陸は許されず、瑞穂人が無条件なお人好しでない事も実感させた。

 並行して日本国内では、製鉄所、造船所、鉄工所、工作所など様々な工業施設が各地に作られ、早くも1857年には最初の鉄道敷設が開始された。当時先端技術だった電信などは、1856年には商業利用が開始されていた。生糸生産の製糸工場や木綿の紡績工場、缶詰工場などの軽工業分野に至るアリとあらゆる教導工場が建設されていった。また日本各地の鉱山も順次開かれたり改良が行われ、当面必要な資源の確保に入った。
 そうした様々な事業や社会資本整備、工場建設で必要になる資金は、莫大なものだった。本来ならば、既に財政が傾ききっていた幕府がまかないきれるものではなかった。だが基礎的な財政基盤も、瑞穂からもたらされた採掘技術の革新のおかげで、金山、銀山の採掘量が増えて若干改善していた。また新たな鉱山などが次々に瑞穂人の手により発見され、新たな展望も見えるようになった。一方では瑞穂国が低利かつ大規模な借款を申し出て、必要な鉄材やその他の原料資源も驚くほどの安価で購入することができた。小さな島国という瑞穂国のどこにそれだけの資源や原材料があるのかは少しばかり謎だったが、実際目の前に存在するのだから受け入れるしかなかった。一方日本からは、瑞穂国で不足するという材木や穀物などの食料品が輸出された。若干だが、高価な美術品や工芸品も輸出された。
 一方では、異常な教育熱や産業の発展の副産物で、照明油や産業油の需要が高まったことから、捕鯨船が俄に増加した。しかも捕鯨船のほとんどが、時代を反映して最新鋭のクリッパー型帆船となった。この捕鯨船は瞬く間に日本近海に広まり、捕鯨を一大産業としていたアメリカ船を日本近海からすぐにも駆逐してしまう。数と密度が違いすぎるため、競争にもならなかったのだ。また1861年からは、アメリカが南北戦争に突入していたため、より一層日本の勢力拡大を助長した。加えて南方島嶼の探索と開発は、日本独自による砂糖生産地の確保という目的に従って進められていった。
 このように産業や経済の発展は、急速という以上の速度で進んでいった。何しろ当時世界最先端の技術が全部手に入ったうえに、瑞穂人が何から行って何から作れば良いかをすべて知っていたからだ。
 瑞穂人は見た目が異常なほど美しく体つきは白人に比べると華奢で手足が長いが、意外なほど身体能力が高く頑健で忍耐強かった。また揃って博識で教養に溢れていた。むろんそのような人材しか日本に来ていないのだろうが、それでもすごいことは確かだった。人ならざる者と考えるのも無理からぬと、直に教えを請い交流した人々ですら思ったほどだった。人によっては、本当に神や天狗、はたまた海の底の竜宮の住人だと信じる者もいた。
 しかし幕府にとって、瑞穂学校での教育には文句もあった。
 最先端の考え方の一つとして、政治や思想、哲学などを教える学科があったのだが、幕藩体制に相容れない進歩的なものが沢山存在したからだ。
 ただ瑞穂学校に文句を言うことなど、出来るはずもなかった。設立から半年もすると本当に孝明天皇が行幸してしまい、ますます盛んにするようになどと言われては、どうにもならなかった。しかも孝明天皇は自らの子息(皇子)を学校に学ばせると言い出してしまい、結局次期天皇となる皇子には瑞穂人が御所近在に住まいを借りて家庭教師となることで落ち着いた。孝明天皇自身も、その瑞穂人の家庭教師から熱心に教えを請うようになった。しかもこれで、公家や大名の間にも瑞穂学校へ学ぶ向きがでてしまい、神戸に開かれた学校の規模は拡大の一途を辿った。学校の権威面では、たった数年で不動の地位を得ていた。
 そうした中で、瑞穂国の優れた技術や知識を直接知りたいという機運が日本人知識人の間で盛り上がり、瑞穂側も大規模な受け入れを表明。1860年から、瑞穂側が用意した白船による瑞穂留学が開始された。
 留学期間はおおよそ半年。一回で500名ほどが選抜されて、白船の船団で瑞穂国に赴いた。この瑞穂留学から帰ってきた者は、驚くほどの知識を蓄えて戻ってきた。複数の外国語や万国公法を暗記するなど朝飯前であったり、最新の物理方程式を難なく解いてしまうなど驚異的な知識や学力を身につけて帰国してきた。まるで別世界の住人、もしくは中身が瑞穂人になったようだった。赴いた日本人達は、瑞穂国そのものの印象については小さい島国だが素晴らしく発展していたという曖昧な印象しかなかったのだが、それもあまりに勉強ばかりしたためだろうと、他の日本人ばかりか留学した者自身も考えた。それぐらい膨大な知識と技術を得て、留学者達は日本に戻ってきた。またかなり長い間滞在していたつもりだったという証言する人が多いことから、いつしか「逆浦島」とも言われるようになっていた。
 そしてこれは都合7年間続けられ、約7000名の日本人が「再教育」されて順次日本の発展の為に尽くすようになった。丁度日本人5000人に1人の割合で、最先端の知識を身につけた専門家、専門技術者になっていたのだ。

 だが、その頃になると日本は新たな時代を迎えるべきではないかという考えが、知識階層を中心に大きなうねりを見せるようになっていた。
 もはや徳川将軍家と武士を中心にした幕藩体制は脱ぎ捨て、国民国家を作るべきだというのだ。
 既に幕府の手により(武士による)常備軍の設置、海軍の建設、新貨幣の整備(金本位制による銀行制度整備)、官僚制度の刷新が漸次行われつつあった。武士以外の登用も、猟官制度と試験制度の双方を設けることで実現され、日本人の教育熱をさらに上昇させていた。何もしない特権階級(武士)の没落も始まっていた。町人の間では、経済や商業の刷新も起きており、急速に拡大した株式会社に対応するため、大坂証券取引所が1864年には開設された。すでに身分制度の事実上の有名無実化は始まっており、日本人全体の間にも新たな制度や国家に対する機運が大きく上昇していた。日本人の全てが、波に乗り遅れることを恐れるかのように改革と革新に向かっていた。
 しかし幕府は、憲法の制定や議会の設置には至らず、抜本的な政治を改革をするべきだという人々をやきもきさせていた。将軍親政を改め雄藩賢者を顕職に付けたり、参勤交代を事実上中止してその予算を新事業や国防に投じさせるのが精一杯だった。いかに技術革新が訪れようとも、江戸幕府と幕藩体制そのものが、天下太平の中で組織として疲弊しきっていたのだ。
 そして当時最先端の知識を身につけた人々が一番に唱えた新国家論が、立憲君主国家論だった。
 古来から存在する天皇家が君臨すれど統治せずという形式をもって国家の最高権威となり、天皇の下で国民広くから選ばれた者が実際の政治を行うというものだ。
 この場合近代憲法が為政者を含めた全ての人々と組織の規範となり、それは瑞穂国の憲法が大いに参考になるだろうと考えられた。瑞穂国も、国王を権威君主とする立憲君主国家だからだ。また近代憲法は、日本中の賢者を結集して作成するが欽定憲法として発布し、全ての日本人に受け入れやすい形にするべきだとされた。
 そして憲法に従って、天皇の下に行政府(内閣)と立法府(議会)を設置。さらには法度(法律)司る部署も設けて、これで行政、司法、立法を分立した優れた政治制度を一気に作り出そうというものだった。
 当然ながら、将軍家や大名、武士はどうなるのだという論が噴出した。立憲君主国家論に従えば、自分たちの場所が存在しないからだ。
 これに対しては、新たな身分制度と身分に伴う特権を設けて、新政府が最低限保障する事が提案された。他にも、世襲ではなく試験による役人として再出発すれば良いという論が出た。この場合、現在役人の地位の者はある程度優遇措置を取ればよいのだとした。しかも知識を学びやすい立場に武士がいるのだから、官僚や高級軍人にもなりやすいと説明された。
 他にも様々な意見が出たが、なかなか出口には至らなかった。日本のそれまでの制度どころか社会そのものを根本から変えてしまおうというものなのだから当然だった。
 ただし新しい知識を得た人々の間では、国民国家を作るために武士中心の身分制度のある世の中が変化すべきだという考えが大勢を占めつつあった。

 なお、日本の様々な変革の中で、外国の扱いや外国の脅威は、いつしか重視されなくなっていた。
 尊皇の考えは、瑞穂人の来航以後一部の尊皇派と何より孝明天皇が引っかき回したおかげで高まったが、攘夷という考えはペリー(アメリカ艦隊)が最初に来たときに武士を中心にかなりの高まりを見せたが、5年もするとすっかり沈静化していた。
 西洋に十分以上に立ち向かえる技術や知識、そして軍事力を得ていた事が効いていた。そして冷静に諸外国の人々と接すれば、相手が普通の人間であることはすぐに分かるし、無闇に恐れたり嫌うのが愚かな事ぐらいすぐに理解された。むしろ知識が広まってからは、広く交流と貿易を行うべきだという考えの方が主流となっていた。
 孝明天皇も当初は攘夷を唱えていたが、すぐにも瑞穂人がいれば安泰だとして特に気にしなくなっていた。それに瑞穂人から、天皇家こそが国外への窓口になるのが古来よりの伝統なのではないかと諭されては、孝明天皇も改心する他なかった。なお、孝明天皇は新しい時代を見る前にこの世を去ることになったが、晩年に至るまで心安らかに過ごしたと記録に残されている。

 一方で、二百年以上の長きに渡って天下太平だった日本が、開国して先端技術を急速に取り入れた事は、日本人社会に大きなうねりとなって変革を求めさせていた。
 幕府の権威も、尊皇の考えが日本中に広まり、最先端の知識が広まるにつれて薄れていった。しかも征夷する必要もないのに、将軍が天下(日本)を治めるのはおかしいという論法が主流となりつつあった。しかも瑞穂人の施設が上方に存在するため人々の流れが自然と上方へ集まり、幕府の権威は日一日と薄れていった。これを「尊皇無将」と人々は言った。
 当然幕府勢力から強い反発があった。中には瑞穂人が来たから悪いという論法までがまかり通り、保守過激派による瑞穂人への襲撃事件までが起きた。幸い様々な人々の尽力などにより瑞穂人の死傷者が出ることはなかったが、幕府保守派や権威派への風当たりは一層強まった。
 そして1866年、将軍が十五代徳川慶喜に代わり孝明天皇がこの世を去ると、俄に情勢が変化する。徳川慶喜は早くから優秀な人材だと誉れも高く、将軍になるべくしてなった人物だと言われた。瑞穂の学問も十分修得していた。一方では利口すぎて先が見えすぎ、さらには水戸家出身のため尊皇の人間でもあった。
 そうした中で、欽定憲法を制定する事により日本を根底から変るという案が、孝明天皇のご遺言として朝廷の側から出されてしまうと、尊皇である慶喜に否という言葉は存在しなかった。
 また新国家論で、徳川家は将軍家から大領主に落ちるが、同時に新たに宰相なり大統領なりになる機会も持っている事を慶喜自身が気に入っていた。自分が足利尊氏になる事も無く、そのまま徳川は新しい幕府(政府)を率いることができるのだ。
 かくして徳川慶喜は大政奉還を実施。
 合わせて天皇から大日本国憲法の発布と、大日本国議会開催のための議員選挙が行われることが勅命により下された。
 新たな日本の為政者は、天皇の親任を受ける形で第一党による党首が握るのであり、それは元将軍でも大名でもはたまた町民や農民でもよいと規定されていた。


●大日本国建国