●大日本国建国
驚天動地の変化が訪れたが、日本人は意外に冷静だった。十五年前の「白船来航」の時から変化が始まっていると感じていたし、日本中に溢れた新しい知識と技術が時代の変化を教えていたからだ。 そして変化の象徴として、日本中で選挙が始まる。 この選挙は、行われた時期から「戊申選挙」と呼ばれた。 選挙権は、一定以上の石高の武士か一定以上の冥加金、運上金、年貢を納めている元服から十年を経た男子とされた。立候補の権利は、年齢制限だけが選挙権より高く30才以上とされた。納税による差別や女性には権利が認められず完全に民主的とは言えなかったが、日本のしきたりと世界の趨勢的には十分に民主的なものだった。 ただし、制度を十分に理解しているのは一部の知識人だけであり、多くの日本人にとっては何だか分からない祭りのようなものだった。実際立候補者の選挙運動は、人目を集めるためにチンドン屋、大道芸人を使うなど祭りと変わりないものも多かった。選挙演説するため、相撲興行を行った立候補者すらいた。 だが今までとは違って、全ての人々の手で新しい将軍なり関白が選べるのだという事が、国を挙げて、いや日の本を挙げての祭りのような雰囲気の大元を作り出していた。そして民衆が新しい為政者を選ぶという点において、日本人の多くに新しい日本を意識させた。また、今までは一部の識者以外にあまり意識されなかった、日本全体の団結も意識させる最初の切っ掛けになった。 一方では、憲法や選挙の話が出た頃から各地で政党が次々に立ち上げられており、下級武士や町民を中心に急速に勢力を拡大した。この中で瑞穂留学したり、瑞穂学校で学んだ若者が活躍し、藩や地方ごとにいくつもの政党が作られた。小さな塾の塾長や道場主が政党の名乗りを上げるなど、あまりの乱立ぶりに当時の日本人の騒ぎ具合を見ることができるだろう。制度自体がよく理解されていなかったので、選挙のために株式会社を作った者もいたほどの混乱だった。
なお議会は二院制で、衆議院と士族院に分かれていた。 衆議院では、これから民主選挙で選ばれる人々がこれまでの身分を問わず議員となり、士族院よりも大きな権限が与えられていた。 一方士族院では、上級身分である武士達の中から武士が自分たちの代表を選ぶのだ。また最初の十年間に限り既得権益を尊重するとして、士族院には特別代議員が設定された。そこには大名の中から選挙なしに議員となる者がいた。対象は15万石以上の大名領主もしくは、領主が選んだ者だった。また士族院には公家枠も設定されており、これは公家の中から公家達が選ぶことになっていた。ただし日本国を治める者(首相=内閣総理大臣)は衆議院の中からだけ選ばれると規定されていたため、首相を目指す武士階級の者はこぞって衆議院議員に立候補した。 そうして第一回総選挙が実施され、翌1868年には第一回大日本国議会を開催。新たな日本がスタートする。 臨時政庁には徳川幕府が退去した後の江戸城が使われることになり、順次近代的な設備を江戸城内外に作ることになっていた。その中で世界最大の木造建築物だった江戸城本丸御殿は、耐震、耐火を目的に大車輪で改装が行われ、瑞穂人の指導によって防火壁の新設や最新型の避雷針なども設置された。最新のポンプ式の吸水と放水装置なども随所に設置された。隣接する大奥なども、迎賓用の施設などに変更された。この中で「追い出される」者の反発が起きたが、既に将軍と幕府がない事、武力に訴えるほどの気力もない事などから、代替え施設に順次移っていった。 一方天皇及び御所は、引き続き京に置かれる事も決められた。故に政府のある江戸が新たな首都として改名されるなどということもなかった。 なお新たな国名は『大日本国』。ヨーロッパ的な帝国や王国、皇国の名は付けられなかった。立憲君主国に君主の称号を冠することは相応しくないと考えられたからだ。ただし頭の『大』の文字は、東洋的伝統に従えば皇帝を君主とする国に対する一種の名誉称号であり、十分に天皇が統べる国が意識されていた事になる。ただし言葉としての「大」の説明がヨーロッパ諸国にうまくできなかったため、最初は英語で言えば「The」や「All」という程度の意味しか持たれなかった。もっとも結局は、ヨーロッパ一般の常識に従い「 Empire of Japan」と表記される事になる。 そして新たな国名、憲法、議会、そして総理大臣が揃うと、新たな国家がスタートした。
しかし国内には依然として既得権益の武士が存在したままで、身分制度も取りあえず武士だけはそのままだった。 無論各所で不満や矛盾は存在していたが、反幕勢力は取りあえず将軍と幕府が消えた事で満足し、幕府派は初代首相に徳川慶喜が選ばれた事で多少は安堵し、日本の改革を進める最大派閥のいわゆる「瑞穂派」は、国民から選ばれた議会さえ機能すれば自然に近代国家に脱皮できると考えていた。 ただし欽定憲法と同時に、最初に改革された点がある。まずは江戸幕府の天領が完全に個々の領主に分けられ、さらに各大名、各武士ごとに所有する資産が定められた点だった。これにより、日本の約四分の一を占めていた天領は消滅した。また、元天領、各大名領とされていた土地資産は、個人として認められるものと公共のものが厳密に定められていった。一つの国家となるのだから当然だろう。 連動して日本国民全ては、所有する土地や資産、得ている所得に対して一定の税金を国もしくは地方行政府に納めなくてはならなくなった。 近代国家となったのだから納税の義務は当然だったが、これにより大きな既得権益を持っている者ほど大きな税負担が生じた。天領を持ったままの徳川家など一瞬で破産してしまうため、最初に天領が命令によって解体されたのであった。そして税負担の大きさが、武士階級の側から武士階級の改革や縮小を急速に求めさせるようになる。 つまり日本の民主化は、近代国家の根幹である新たな税制と共に進んでいった。特権階級は、もはや領地や城、屋敷など後生大事に抱えている場合ではなくなっていった。藩ごとに300ほどあった城などは、ほとんどすべてが国と政府に寄進される事になったし、幕府や各大名の屋敷や庭園の多くも政府買い上げの形で所有権が次々に手放され、順次公共施設へと姿を変えていった。 そして1877年までに、日本という新たな国へと完全な変化に至る。 代表的なものが「廃藩置州」だった。それまでの地方政府組織だった「藩」を規模に応じて「県」もしくは「市」か「町」にあらため、それらは地域ごとにまとめる「州」を置いて地方行政とする制度だった。大封の前田領、島津領、伊達領をはじめ、おおむね20〜30万石以上の広大な大名領がそのまま藩名を「県」として、5万石以上が「市」それ以下のものが「町」となった。また幕府の持っていた小さな領土単位については「村」の設定もしなおされ、様々な街や村々の統廃合も進められた。蝦夷などの外郭地はそのまま政府直轄領となり、権限によって内務省と開発省が管轄した。江戸、大坂、京の三大都市は「府」とされて、最初の特別都市に指定された。 また大名や武士は、新制度により多くの権利を失うことになり、所得差によって国による公債制度により一定の所得を得る救済策が採られた。また武士の中には既に官僚や軍人になる者が多数いたため、大きな混乱もなく事実上の身分解体はソフトランディングしていく。
一方変化は、皇族にも訪れていた。先の孝明天皇が、たいそう瑞穂人好きだった影響だった。 孝明天皇は、その存命中に瑞穂王族と皇族との姻戚関係を強く求めたのだ。これを瑞穂国側も快諾。孝明天皇が崩御する前には、朝廷内での文書も揃えられ、瑞穂国とも約束が交わされた。そして明治天皇即位の翌年に瑞穂王族との婚約を発表され、翌年には日本と瑞穂の間に姻戚関係が結ばれた。天皇家に輿入れした瑞穂王家の姫は、当然とばかりに神々しいまでの見目麗しさで、明治帝とは仲睦まじいとの噂で持ちきりとなった。 また皇后はすぐにも懐妊したが、瑞穂国側の医療技術が高いとして神戸の瑞穂院(後の瑞穂総合病院)が使用された。当然日本人医師から反発はあったが、瑞穂人の方が高い医療技術を持っている事と、瑞穂総合病院自体に日本人医師も多数勤めている事もあり、結局以後皇族に関わる病院に落ち着いてしまう。 そして誕生した第一子は、即位後に日本と瑞穂の同君となり、最終的に日本と瑞穂が一つの国となる大きな架け橋となっていく事が定められていた。 また明治天皇の婚姻に前後して、他の皇族と瑞穂王家の間の婚姻が進み、さらには有力貴族、大名と瑞穂人の婚姻が進められ、ゆくゆくは日本の上流階層全体にまで広がっていくようになる。しかしこの婚儀には一つの特徴があり、瑞穂人が日本に嫁ぐか養子縁組するばかりで、日本人が瑞穂国に嫁ぐことは無かった。瑞穂側は、狭い国なので他国の人を受け入れるほどの余地がないと説明したが、流石の日本人達もこれには疑問を感じたが、何故かけっきょく疑問以上にはならなかった。
日本国内が急速な技術発展を行い、その中で漸進的な社会改革を進めるのと並行して、諸外国との関係も大きく進んでいた。 まずは日本の領土確定だった。 新政府が出来たその年、日本は各国との国境確定を行った。特に国境があいまいだったロシアとの領土確定が重視され、樺太島と千島列島は改めて日本領であることが確認された。一方清朝に対しては、邦人保護を名目とした台湾への出兵と最新鋭の軍艦を用いた威嚇によって、琉球を日本領と認めさせることに成功した。また清朝の属国の一つだった朝鮮王国に対しても、軍艦を用いて即座に開国を行わせた。朝鮮に対しては領土確定もあったが、列強の進出を抑止するためでもあった。 そして十年ほど前から進出を始めたばかりの太平洋だが、こちらでも活発に活動した。ハワイ王国との間には、正式に国交を樹立された。その他、国家のない南洋の島々の日本領編入を諸外国に通達した。そうした中には、江戸幕府のうちに進出が始まっていたニューギニア島東部や近在の多数の島嶼の領有宣言も含まれており、名目上の日本の領土は大きな広がりを見せた。捕鯨船などが赴く先々で、幕府の船が取りあえず標識を立てて回ったことが、国際的に効果を発揮した。 また、相応の軍事力と技術力さらには近代国家として必要な法制度を国内に持つ日本に対して、欧州列強も強く出ることはほとんどなく、日本の海外領土も確定されていった。 もっとも、この過程で日本人の戦闘技術や戦意の面で大きな問題があることが露呈し、軍人には厳しい訓練が課され、観戦武官の派遣が積極的に行われるようになった。瑞穂人を頼りにしてもみたが、瑞穂人は軍事面に関しては武器製造と理論以外まるで素人だったからだ。
一方で、日本にやってくる外国人の数も大きく増加した。 日本人は、多数の技術や知識の多くを瑞穂人から吸収していたため、技術教育のために日本を訪れる外国人は少なかったが、日本の発展に釣られて商業目的で訪れる外国人は増加した。禁教解禁により、キリスト教布教を目的とした宣教師も多く来日した。また日本が急速に近代軍備を整えている事から、各国の軍事関係者も注目するようになった。日本側も、知識や技術として軍備の近代化を急速に行っていたが、実地で軍事を知る必要性があるため、各国への日本人の留学、派遣を行っていた。 そして西洋の文物が数多く日本に持ち込まれたが、日本人達は物珍しさや利便性に優先度を置いて、数々のものを取り入れ始めた。ただしそれは、ヨーロッパ社会への憧れや賛美ではなかった。物珍しさのため、広がりを見せたのだ。特に衣食住に関連するヨーロッパ文明の浸透は大きかった。また一方で幕府及び新政府は、日本文化について保全と輸出に力を入れ、日本人一般も新規なものを取り入れても従来の文物を否定することはなかった。 ほとんどの日本人にとって、相手に憧れ自らを卑下する必要性がなかったからだ。西洋の文物とは、単に珍しく便利なものでしかなかった。 そしてアメリカのぺりー来航から二十年が経過した頃、日本は大きな変貌を遂げていた。 十五年ほど前まで唯一日本に入ることを許されていたオランダ人の話とは、まるで違う日本が広がっていた。
日本に訪れる外国人は、日本との貿易が本格化した1858年から爆発的に増えたのだが、その時既に日の丸を掲げた蒸気軍艦が平然と日本中を行き交っていた。日本人の通訳も、発音がおかしい者が多いながら諸国の言葉を普通に話せるようになっていた。清国から通訳を伴う必要もなかった。幕府の役人は万国公法や諸外国の法律に通じており、中には法律の専門家、専門職まで存在した。このため各種条約を、平等条約として結ばざるを得なかった。近代的な軍事力と知識を持っている相手に、嘘や脅しは通用しないからだ。 今までの日本が、どの国ともまともに接触していない事を考えると不気味ですらあったが、とりあえず諸外国は貿易相手が増えたことを喜ぶ事にした。日本の産業と経済は発展しており、市場としてもなかなか有望だったからだ。特に養蚕業は、欧州の主産地だったフランスとイタリアが蚕の病気のために壊滅し、中華からも内乱のため絹の輸入がまかなりならないとあっては、日本から輸入するしかなかった。そして当時の日本は、絹の大産地だった。 そうして諸外国の商人達が中心となって日本に来るようになったのだが、日本は見る見る変化していった。 1859年に江戸と開港地の横浜の間に鉄道が開通した。同じ年には神戸と大坂の間にも開通した。翌年は京都にまで伸び、新政府のできる前年には江戸から上方地方を経由して下関までが直通で結ばれた。他の路線も急ぎ工事中だった。無論機関車や操車場も自力で作っていた。海をゆく船舶も、年々ジャンクよりも帆船、帆船よりも蒸気船の割合が増えていった。力のある馬が少ないため、篭に代わり人力車というおかしな乗り物が生まれていたが、奴隷や苦力がいない日本では、それはそれで便利なものだった。 しかも日本は海外の海運にも広く乗り出すようになり、新政府が出来る頃には東アジアでの海運の多くを日本の海運会社が行うようになっていた。電信の利用も広まっていて、欧米から北商人達も日本での商取引に何ら不自由を感じることはなかった。 日本での鉱工業の発達も異常な早さで、横浜が開港した年には釜石に近代製鉄所が開設された。そうしなければ、国内での鉄の需要が追いつかないからだ。相応の規模がある日本各地の炭坑も、猛烈に石炭を掘り始めていた。蒸気機関や機関車を作るための機械工業の発展も急速だった。他国から輸入することもあったが、それは知識やバリエーションを簡単に増やすための輸入であり、大量に買い込んだりしなかった。 教育の普及に関してはもはや驚異的であり、日本人一般の識字率の高さや教育への熱意は、世界最先端であるイギリスに匹敵するほどだった。しかも江戸幕府末期の最高学府の学術レベルは、個々の質の差はともかく欧州最先端と同レベルにあった。 日本の諸制度の整備も実に迅速であり、最短距離で何をどうすればよいのか知っているとしか考えられなかった。まともな革命を起こさずに新国家建設をした事も驚異ながら、建国と同時に憲法を制定して総選挙まで実施してしまう事などは驚く以上の事象だった。 まるで何かの実験でもしているかのようだった。 開国以前の状態が清国と同じとするなら、今の日本はすでに未だ統一ならないイタリア以上に発展していた。しかも発展速度がこのまま維持されると想定すれば、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランスなどに追いつくのも時間の問題と考えられた。地下資源や市場などで不足する面も多いし国富もまだまだ少ないが、発展速度を見ている限りどうと言うことはないように感じられた。他の国より先に技術を開発できる力があるのなら、先端工業品を輸出して外貨など幾らでも稼げるようになるし、技術移転料や特許料で稼ぐこともできるからだ。技術と連動する軍事面の不安もない筈だ。恐らくさらに二十年後には、日本という国は世界の最先端に達しているだろう。 そうした発展の裏に、一つのキーワードが浮かんでくる。『瑞穂』という言葉だ。 そしてその言葉が最も使われているのが先端産業と教育の場であり、瑞穂と言う存在は日本人を導く技術者や教師の集団ようなものだという解釈にまで至った。そしてその中心地が、新政府ができてようやく開港された神戸の街の一角にあった。 諸外国は最初、瑞穂という名を持った日本の巨大シンクタンクもしくは国立の総合大学ではないかと考えた。知識を一点に集中して莫大な予算を与え効率的に運用すれば、イノベーションも不可能ではない筈だからだ。 そして神戸を詳しく観察した限りでは、町はずれの広大な一角が一大学術産業センターとなっている事が見て取れた。単に総合大学だけでなく、総合研究所などの学術施設から、近代製鉄所、造船所に始まるありとあらゆる近代工業と産業の最先端が揃っていた。一部は高地や森などで外から偽装されていたが、詳しく調べれば一目瞭然だった。道理で日本が神戸を長らく開港しなかったわけである。神戸の一角は、間違いなく世界最先端のインテリジェンス&プロダクションセンターだった。 瑞穂居留地と言われた区画にはガス灯が灯り、焼き煉瓦造りの立派な建物が石畳の街路の双方に立ち並んでいた。建物などには、青銅や鉄もふんだんに使われていた。しかもその建築様式は西洋一般からは外れ、建材や素材はともかく日本建築の外観に近いものがあった。明らかにヨーロッパとは連続性の薄い近代文明の姿であった。 これを見つけてから日本人を問いつめてみると、渋る日本人は日本の近代化の中心地と言ったが、世界の中心と言っても通りそうな近代施設の数々なのは見た目だけでも十分理解できた。 当然ながら外国人達はこの町へ入ることを望んだが、政府の許可がないと入れない場所であり、街につながる街道には軍や警察の警備の者が立ち、鉄道の駅や港も厳しく軽微されていた。神戸港沖には、常に軍艦も停泊している。こっそり入ろうと試みた者もいたが、異常に敏感な番犬と警備員に追い回され捕まるだけに終わった。 日本最先端の学術研究施設群という事を考えれば当然の警備措置だったかもしれないが、だからこそ外国人達は街や施設の見学だけでもできないかと日本人に何度も願い出た。 そして日本人から信頼を得た一部の外国人が施設内へと足を踏み入れたが、一歩足を踏み入れただけで予想通り世界最先端の技術により作られた街であることが理解できた。あまりに整然とした異国情緒溢れる近代的都市に、まるで別世界に連れてこられたような既視感すら感じられたほどだった。東洋文化の素養がある者は、「桃源郷(シャングリ・ラ)」と表現したほどだった。 そして遂に瑞穂総領事館という聞き慣れない名前を冠した建造物の中で、瑞穂人が日本人以外にもその姿を露わにした。外国人達の反応も、最初に瑞穂人に会った日本人とほとんど同じだった。あまりの美しさに、完全に圧倒されてしまったのだ。 当然瑞穂人について全ての人が知りたがったが、それには瑞穂人との会見を終えた後に日本人達が答えた。 彼らは日本の導き手であり、皇族とも縁のある一族である。大変な賢者達であり、欧米諸国に負けない知識と技術の担い手である。ただし、高貴な人々であり、また大変奥ゆかしい人々なので、一部の日本人以外との接触は日本政府が厳しく規制しているのである。皇族と縁があるという事だけでもその事が理解できるだろう、と。 ただそう話した日本人はどこか自慢げであり、特別に会わせてやったというような優越感すら漂っていた。 その後外国人達は、瑞穂という人々について調査を行い、日本人を籠絡してでも聞き出そうとしたが、得られた情報は少なかった。 瑞穂国という小さな国が、日本列島の南の西太平洋上に存在する事。同国は優れた文明を持った立憲君主国であり、同国の王族と日本の皇族は既に姻戚関係にある事。数百名の瑞穂人が、日本に滞在して様々な仕事に従事している事。分かったのはその程度だった。しかも瑞穂人は少数のため限られた場所にしか存在せず、その全ての場所と人物が日本政府によって厳重に警備され、許可無く会話一つ交わすことも難しかった。 ならばと、その西太平洋上にあるという瑞穂国を探してみたが、いっこうに見つからなかった。日本側が伝えた通り、瑞穂国の近くに来ると磁場や天測の狂いで事故に逢っただけに終わった。その事を日本人に言ってみたが、決められた航路を辿れば難なく行くことができるという答えが返ってきた。しかも問いただした者は、日本と瑞穂の海域に勝手に入ったとして、非難されるだけだった。ならば日本人の案内で瑞穂に行きたいと願い出ても、瑞穂側の許可がないから無理だとしか答えなかった。そこで瑞穂の領事館なりに問い合わせようとしたが、そんなものは日本にしかない。事実上日本人としか接触を持っていない奇妙な国だった。普通に考えれば、日本以外に鎖国した国と言うことになるだろう。 どう考えてもおかしいのだが、日本人たちは瑞穂人を自分たちの先達にして恩師であり、また皇族に連なる高貴な人々という価値観でほとんどが染め上げられていた。実際その瑞穂人とやらにこれだけ導いてもらったのなら、恩義を感じるのは当然かもしれない。しかし白人達はそうは考えなかった。自分たちが数百年の進歩と努力、そして競争と争いの中から生み出した知識と技術などの様々な先端文明を、孤立した連中が持っていることなど合理的、理論的に考えてあり得ないからだ。 このため瑞穂人そのものの拉致や誘拐による情報収集が考えられ、実際一部では実行に移されたが、ことごとく失敗に終わった。企てた者は、酷い場合はその立案者が、それぞれの母国で不慮の死を遂げたりもした。瑞穂本国の調査に赴いた最新鋭の軍艦で編成された艦隊が消息を絶つ事もあった。無論全て極秘の事なので、日本に文句を言うわけにもいかなかった。 いつしか諸外国も、真相を突き止めることに飽きた。日本人のいう瑞穂人とやらは、謎の国家や集団などではなく、日本の古い貴族の末裔であるという結論に落ち着かせる事にした。高い知識や技術を伝えてきている人々だから、今現在でも知識に関する活動をしているのだと。 そして諸外国は、いつしか日本で自分たちよりも進んだ技術や教育、制度が登場したときだけ取り入れるだけとなっていった。
かくして大日本国という異端の国家を中心とした躍進の時代が幕を開ける。