●飛翔期1

 ・1940年代後半

 概要
 先の「戦乱期2」と時代的には続くため、概要については割愛したい。
 なお、ここで段落を分けたのは、ヨーロッパでの戦いが終わる頃に行われた日本の行動が、表題の通り飛翔と呼ぶに相応しいからである。

 

「天之浮船」(1946年)
 日本は驚天動地の宇宙開発計画を実施した。
 全高約250メートル、最大直径500メートル、総重量約300万トンもの巨大な宇宙基地兼用の円盤型(日本は円墳型と言った)巨大有人宇宙船を、小型のプルトニウム爆弾約50発を用いた乱暴な核(爆発)推進によって地球低軌道(地上約500キロメートル上空)にまで打ち上げてしまったのだ。
 なお核(爆発)推進の事は、専門用語的には核分裂衝撃推進と言う呼称が付けられたのだが、核推進と報道各社は呼んでいた。

 同宇宙船の建造には、様々な最先端技術と共にかつての巨大戦艦、最新兵器の原子力空母、原子力潜水艦、対核重防空壕などの最先端と既存双方の技術が応用して使われ、日本以外がなしえる技術的産物ではなかった。そして移動する人工物として「天之浮船」は人類の歴史上最大規模であり、当面は抜かれることはないというほどの破格の規模と重量を誇っていた。
 ヨーロッパ連合などは、日本が秘密裏に進めていた計画が判明した時点で「宇宙戦艦」や「宇宙要塞」と言って非難したが、少なくとも「防御力」に関する限りは人類史上最強クラスの能力を持っていた事は間違いない。衛星軌道で微細隕石や宇宙線などに有人宇宙船が対抗するには、当時はそれだけの能力が必要だと判断されていたからだ。しかも最も巨大なパーツである宇宙船底面は、60メートルの距離で5キロトンのプルトニウム爆弾が爆発する際の爆圧を何度でも受け止めることができる強度と構造を持っていた。
 機動力に関しても、搭載された原子炉の高温蒸気を利用した大規模な姿勢制御及び高度維持のためのスラスターが各所に設置されているため、一見高度な移動が可能な機動性能を備えているようにも見えた。
 そして超巨大な鉄板の上に載せられた船内には、様々なものが無造作とばかりに搭載された。主動力用の大出力の原子炉(艦船用軽水炉の改良型が2基)に始まり、様々な研究施設、小さな街ほどの床面積がある遠心力を利用して疑似重力は発生させる居住区、完全循環型の空気清浄化装置や濾過浄水装置、緑地公園、水耕農場までが設置されていた。共に打ち上げられた百名近い人間が暮らすための大量の水や空気、保存食の保管庫も、超大型貨物船並に揃えられていた。被服、様々な消費財も無数に積載された。巨大な電算装置や各種実験施設については言うまでもない。さらには地球との往復と帰還用の宇宙船も、多数搭載されたまま打ち上げられた。1万トンや2万トンの積載物が増えても、今更負担にもならなかった。
 なお、船体がこれほど巨大化したのは、推進力として使用する小型原爆に耐えうる船体の大きさを求めたら、ここに行き着いただけにすぎない。そして図らずも巨体となったので、様々なものを載せられるだけ載せた結果でもあった。(※本来はより小さい超小型原爆が「推進剤」として望ましかったが、当時は非常に高価だった。)

 打ち上げの模様は、新設されたマリアナ宇宙基地群から総天然色の鮮烈な映像が生中継で放映され(※総天然色映像の受像者の数は限られていたが)、日本の宇宙における優位、科学技術面での優位を見せつけた。同時に、日本の国家、民族としてのエネルギーがどこを目指していたのかを世界は知る事になる。
 日本人のすべてが熱狂し、打ち上げの前後は国を挙げてのお祭り騒ぎとなった。百名近い「宇宙英雄」達は、数が多いにも関わらず俳優や歌手、競技選手よりも有名人となった。船長にして初代基地司令となる人物には、打ち上げ成功と同時に様々な勲章が贈られた。しかも「天之浮船」建造と打ち上げに関連する事業で巨大な需要が発生したため、当時の好景気は「浮船景気」と呼ばれた。
 また巨大な宇宙船の打ち上げ成功によって、天文学、宇宙物理学、理論物理学、各種無重力実験、無重力製品などの分野においても日本の独占が決定的となり、他国との科学技術格差もさらに開く事になる。まさに、「天と地の差」であった。
 そうして日本は、「天之浮船」を足がかりに地球軌道全域及び月面の開発及び探査に一人向かっていく。
 それを現すかのように、衛星軌道に至った「天之浮船」は大量に積み込んだ建築資材を使ってキロ単位にも達する巨大な宇宙基地を形成した。大きく展開した太陽電池板兼用の放熱装置などは、単独で1キロメートル四方にも達した。そうして完成した外観を捉えた映像は、まさに宇宙要塞だった。もちろん、地上から光点以外で肉眼で見ることができる世界初の人工構造物となった。
 また、打ち上げられると、大量に積み込んでいた様々な種類の人工衛星を放出した。しかも静止衛星軌道には、別の通常ロケットと共に積載していた別の有人宇宙基地までが射出され、静止衛星軌道で行う方が良い観測や実験を行うための任務へと向かった。加えて静止衛星軌道には、気象衛星や通信衛星、一部の軍事衛星などそこでの活躍が最も有効な衛星も多く放たれている。宇宙探査のための巨大な電波望遠鏡も放出された。
 つまり一時期、浮船そのものが低高度軌道での打ち上げ基地そのものとして運用されていた事になる。日本の宇宙開発関係者も、十年分の打ち上げを一度に行ったようなものだと語ったりもした。打ち上げのためだけに浮船に乗った打ち上げ技術者が多数いたほどだった。
 かくして地球衛星軌道空間は、完全に日本の新たなフロンティアとなった。
 また「天之浮船」からは、月に向けての無人探査衛星も多数放たれ、中には無人ながら月面に降下した探査衛星もあった。多少の贅沢をして火星、金星に向かった探査衛星もあったが、浮船にとっては片手間以下の仕事でしかなかった。

 「天之浮船」打ち上げ成功は、当然ながらヨーロッパ連合の驚きと落胆、焦り、そして恐怖は非常に大きなものだった。
 特に日本独占状態の宇宙の軍事利用と、衛星軌道から自分たちが丸見えとなる事に恐怖した。
 そこでヨーロッパ連合は、「天之浮船」を巨大な軍事衛星にして宇宙基地であると非難した。核爆弾を推進力に使っているので、いまだ船内には多数の核爆弾が保持されているとしたからだ。
 しかし日本側は、平和利用の施設であると譲らず、話は平行線を辿ることになる。そしてヨーロッパ連合は、自分たちの考えが間違いではなかったが焦点がずれていた事を、かなり後になって知る事になる。

 

「中華分裂」(1945年)
 『十五年戦争』の発端となった中華分裂戦争は、その後自然休止期間を挟んで第二次世界大戦中も延々と続けられていた。政治的に未熟な民族国家同士の争いのため止まる気配がなく、しかもロシアとヨーロッパの代理戦争となったため戦争は拡大した。
 戦争は「国家」としての結束が堅かった北亜連邦の有利で進み、華北、青海地域を占領支配した。ただし北亜連邦の占領地域では、漢族の再教育という名の凄惨な民族浄化戦争となった。占領地域では、追放、強制移住は勿論、強制労働による死者も大量に出た。また農作物の持ち出し、虐殺、村落単位での根こそぎの掃討などで、無数の死者がでている。これは当然漢族の反発を呼び込んだが、一度完全に殲滅する気の北亜側は容赦と殲滅以外の選択肢を持たないため、かなりの地域が抵抗運動以前に無人地帯と化していったほどだった。また戦争による流通や農作業自体の停滞により、飢饉や餓死は日常となった。
 しかし1944年以後ロシアが不利になると、援助を受けていた北亜連邦の勢力も衰退した。各地で占領地を増やしていた中華共産党の力もあって、中華民国が戦線をジリジリと押し上げた。
 そして第二次ヨーロッパ大戦終了に連動して、双方の間でも停戦が成立。いったん戦争は終息した。
 北亜連邦は、ロシアの後ろ盾がほとんどなくなった事もあり、国防以外しばらく何かができる力はなかった。だが、中華民国は内紛を抱えていたため勢力は拮抗した。青海地区は、既成事実として北亜連邦の領有となった。
 しかし北亜連邦は、国教の一つであるチベット仏教(ラマ教)の保護をうたってチベット地区の領有に意欲を燃やし、チベット側も漢族の全体主義国家に支配されるよりはと、北亜連邦の姿勢を容認。交通の接点となる青海が新たなホットゾーンになるかに見えた。

 

「中華内戦」(1946年〜)
 中華地域が大きく二つの国家に分裂して、ロシアの敗退に伴い北の北亜連邦が国威、国力を大きく低下させると、今度は中華地域内での内部争いが激化した。国民党と共産党による内戦の発生だった。
 内戦は、基本的に誰からも援助を受けない共産党の不利で進んだのだが、国民党は戦費調達のための理不尽な徴税や紙幣乱造による国内経済破壊など悪政が祟って民心を失っているため、当初は五分五分と見られた。各地の軍閥も勝手に動き回った。しかも近在の日本が、人道面以外での中立と不干渉をうたっているため、他の列強もあからさまな支援を出来ず、内戦は出口のないままそのまま泥沼化していった。
 この状況が解決するのは、どちらかの陣営が短期間で勝利するか、北亜連邦が力を取り戻す十年以上先を待たねばならず、それまでは中華中央部は内戦の闇に沈む事になる。
 なお1931年から以後20年間で、中華地域では約1億人が自然死以外の理由で死亡したと考えられており、産業の停滞と戦乱で出生率も大きく低下した。域内の総人口も、推定値で4億5000万人から4億人近くに減少している。特に北亜連邦との戦争地帯となった華北での人口減少は大きく、人口は三分の一以下にまで低下した地域もあった。
 こうした中華地域での人口減少は、これまでの歴史上で何度も見られた事だったが、死者比率は今までになく低いにも関わらず、絶対数の増加が悲劇を大きくしていた。

 

「王家復活」(1948年)
 ヨーロッパから事実上追い出されたロシア共和国は、ボルガ川以東、実質的にはウラル山脈地帯から東を治めることになった。しかも中央アジア地域は既に独立しており、国家の運営には多くの困難が横たわっていた。加えて敗戦と分断、本来の領土の占領統治によって国家も国民も非常に失意にあったし、拠り所となるものが国家として必要だと感じられた。
 そこで、ロシア民族のアイデンティティー復活を目的として、スウェーデンに亡命していたロマノフ王家を再び迎え入れ、立憲ロシア国家の建設を宣言した。国家名は単にロシア王国とされ、王家も国家の権威君主とした上で、首相と憲法が国家を治める形となっていた。
 そしてロシアの復活はロシア人に一筋の光を見いださせ、コサック、教会、亡命貴族など多数がロシア王国へと急速に流れた。ヨーロッパ影響下のヨーロッパロシア地域でも、大きな動揺が見られた。
 またロシア政府は、最終的にはヨーロッパロシアの占領地での民意による王家のもとへの復帰を画策しており、多くの宣伝工作と外交が行われた。
 一方では、かつてロシアに支配されていた国々や民族はロシアの膨張主義の復活だと強く非難し、占領地での反発を恐れたヨーロッパ連合も強硬姿勢を強め、実際、各地で小競り合い程度の紛争やテロが多発した。またロシアの支配地域である一部の中央アジア地域では、イスラム教徒を中心にして反発も強まった。
 このままロシアの分裂戦争になるのかと思われたが、ロシア王国はすでに日米が後ろ盾となっているため、全面的に武力を用いるなどはでなかった。中央アジア地域も、既に独立を果たしているという事と、ロシア王国と外交交渉を行って相互不可侵と友好について約束されたことで反発も若干沈静化した。
 そして急に立憲君主国へと路線変更した事で、本来なら対外的な不安定を伴いそうだが、後ろ盾として日本が立った事で外交面、安全保障面が大きく補完された。
 ヨーロッパ陣営にすれば、全面戦争になれば日本がどんな新兵器を持ち出してくるか分かったものではなかったという事が、紛争や戦争抑止の大きな要因となった。それにヨーロッパは戦乱の疲弊から立ち直っていないので、そもそも全面戦争をする気がなかった。
 このためヨーロッパ諸国は、対抗外交として占領地側にロシア連邦共和国を急いで建国する。ロシア共和国(王国)にとっては予想外の事態だったが、戦争を選択できない以上、まずは自らが自力で立つことが出来るようになった事で満足するしかなかった。
 そして以後のロシアは、ロシア人の国であるロシア王国(東ロシア)と、ヨーロッパの傀儡であるロシア連邦共和国(西ロシア)の対立で固定化するようになる。

 

「中東戦争」(1948年)
 第一次、第二次ヨーロッパ大戦でのイギリスの二枚舌により、地中海に面した中東のパレスチナ地域にユダヤ人が激増していた。そして1948年、ついにユダヤ人の国イスラエルの独立を宣言する。当然ながら近隣のアラブ諸国が強く反発して、中東戦争が勃発した。
 しかし独立当初、イスラエルを支援する国家は皆無だった。ヨーロッパ諸国は、基本的に民意の点でユダヤ人に対して冷淡だった。ユダヤ人の多いロシアは分裂国家状態、ポーランドなど東欧地域に支援する力もその気もなかった。アメリカは、ユダヤ人が多数居住していた都市部、特にニューヨーク(正確にはマンハッタン島)が日本軍の大型原爆により一度壊滅しているためか、アメリカが支援する動きも人道面以外では小さかった。
 しかし第二次ヨーロッパ大戦前後にヨーロッパとロシアの双方でユダヤ人差別が横行した事から、その頃から日本が人種差別と人道面から苦言を言うようになっていた。このため戦争勃発からすぐにイスラエルの苦境が伝えられると、日本が両者の調停を申し出た。
 しかしアラブ国家側は拒否。日本と中東諸国の関係は大きく悪化した。海上交通路もヨーロッパ諸国が押さえているため、日本が支援することもできずにイスラエルは戦争に敗北する。
 この時点でイスラエルの国家組織解体と共に追放や民族浄化が始まったため、ようやくヨーロッパも最低限の人道支援を認めた。そして日米の船舶が、生き残ったユダヤ人を乗せてパレスチナの地を後にした。
 こうして中東地域は安定したかに見えたが、今度は第二次世界大戦でのヨーロッパ、ロシア双方の勢力争いの影響もあって現地での民族抗争が激化し、それがユダヤ人消滅と共に再発するようになっていく。



●飛翔期2