●飛翔期2
 ・1950年代

 概要

 日本本土の総人口は、1億人の大台を突破した。日本本土の人口増加率は、0.5%程度で安定した。また、台湾、海南島、アラスカ、東部ニューギニア、太平洋島嶼群など全ての海外領土を含めると、日本の総人口は1億40000万人に達していた。全ての地域で日本語が公用語とされ、アラスカ、東部ニューギニア、太平洋島嶼群では移民による日本人比率も高かった。また日米戦争後は、アメリカと日本の間で相互移民が急増していた。
 この時期世界総人口は、20世紀初頭の予測を裏切って、ようやく20億人を突破したに止まっていた。度重なる大規模な戦争とアメリカの一時的後背、欧州列強による過酷な植民地支配が、アジア、アフリカで急増し始めていた人口増加率をジリジリと押し下げていた。また列強間の新たな対立構造も、アジア、アフリカ地域での人口を押し下げる大きな要因のまま横たわっていた。中華地域の混乱も、人口増加率を順調と言える速度で押し下げていた。
 逆に高度な医療や社会資本が実現された日本とアメリカでは、政府の保護政策もあって人口の自然増加率がむしろ上昇した。平均寿命の延長もあって、先進国とは思えないほどの増加率を示していた。ただし、日本と日本の影響が直接及ぶのは、日本と親密な関係を結んだ環太平洋地域にほぼ限られていた。しかも日本を基準とすると、日本影響圏の先進国(ほぼアメリカのみ)で最低10年、それ以外の先進国では20年以上の文明の開きがあると言われていた。ごく一部の新興国はともかく、途上国、植民地との格差は比較することすら愚かなほど絶望的だった。しかも最先端を独走する日本は、大きな国力を持ちながら必要以上に世界の警察官や覇権国家として振る舞うことを行わなかった。日本の影響力は、国力に反して常に最低限で維持されていた。それでも日本の国力が常に上昇しているのは、基本的に内需主導経済で進んでいる上で必要十分なだけの市場と影響圏を持っているからであり、また国内では異常な速度で様々な「革新」が行われていたからだった。
 世界中の国が日本の発展を常に疑ったが、調べたところで特に不正は見つからなかった。日本人は、科学、化学、物理、医療の分野、電子など科学、技術、医療面ではノーベル賞の常連だった。そうした人間や日本のエリート層は、一般の日本人から比べると妙にあか抜けた外見の者が多かったが、だからといって日本人以外の何者でもなかった。たまに茶色の瞳や髪の毛を持っていても、基本的にはアジア辺境の民族の出で立ちだった。
 故に事実は事実として受け入れ、日本に打ち勝つべく努力が続けられた。しかし日本の力は圧倒的すぎた。日本と日本の影響国に対する産業スパイ、技術スパイなどは横行したのだが、仮に先端技術や理論の一部を持ち帰っても、結局実現できるだけの基礎からの技術力がなければ絵に描いた餅でしかなかったからだ。また仮に技術を手に入れても、実現するために必要な研究開発費を考えると、気が遠くなることがほとんどだった。日本が輸出禁止しているような高度技術製品の現物を持ち帰っても、素材を作るところから始めないといけない場合も多く、徒労感の方が多かった。しかもせっかく実現しても、日本がさらにその先に行く場合が殆どだったので徒労感は尚更となった。
 日本単独でのGDPは、常に世界の約三分の一に達していた。一般的に流布する高度技術品の占有率は、どの分野でも過半数以上のパーセンテージを示していた。技術特許に関しては、19世紀半ば以後のものは全て日本が関わっているとすら言われるほどだった。当然と言うべきか、高度技術基準といえばほとんど全て日本のものだ。日本が設定した工業規格の「JIS」は、既にヨーロッパ勢力圏以外では常識以前の事だった。アメリカが日本の軍門に降った事とヨーロッパ陣営内で長期間の戦争を行った事が、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の決定打となっていた。日本の通貨「円」も、ドルを飲み込んだ事で押しも押されぬ世界の基軸通貨へと成長していた。日本は、実力でアメリカの単位系をメートル・センチに変えさせた程だった。
 また、日米戦争とその後の占領統治の結果、日本の最良の同盟国へと変化したアメリカのGDPも、ヨーロッパ大戦での特需と日本の手厚い援助もあって世界比率の20%にまで復活していた。二度目の大戦中の搾取からイギリスを事実上見限ったオセアニア地域、ヨーロピアンへの深い恨みを持ったロシア王国などを加えた日本圏のGDPは世界全体の60%以上を示していた。
 そして世界経済の三分の一を持つヨーロッパ世界は、戦争の疲弊から立ち直るのに十年以上を要した。ロシアと中華は分裂と内紛状態で、アメリカは日本の衛星国化し、他の地域は植民地と停滞によって発展が遅れ、日本の当面の覇権を揺るがすものは存在しなくなっていた。
 このため以後の世界を「パックス・ニッポニーナ」と呼ぶ事もある。

 

「技術と産業」(1950年〜)
 日本の機械工業で、大規模に自動工作機械(ロボット)の導入が本格化。自動車産業などを始まりとして多くの分野で大いに活用されるようになる。一方では安価な労働力の需要が高まり、簡単な加工製品産業のアメリカへの移転が続出。後に環太平洋諸国やロシア王国などにも広がる。
 一方では、国内電力の三割は原子力発電が占めるようになったが、消費エネルギー量に対して石油供給地が不足し始めた事などから、太陽光発電など新規技術の開発にも力が入れられ始めた。
(※産油地帯である中東の多くが、維持のための費用対効果などの問題から結局はヨーロッパ連合の影響圏に再編入されていた。日本の自力では、樺太とアラスカにしか油田はない。アメリカからの輸入も、近い内に出来なくなると予測された。ロシア王国のシベリア各地の油田は、開発がまだ途上だった。)
 また軍事面を中心に情報のデジタル化が本格的に始まり、デジタル化の中心となる集積回路や電算機(※この頃から「電脳」と呼ばれるようになる)の発展が加速した。電脳空間の元祖もこの年代に登場。

 

「列島改造終了」(1950年〜)
 日本国内での公共投資による社会資本建設が、日本経済全体に有益となる限界に達しつつあるため、日本政府はさらなる技術革新のための研究立国を宣言。新産業への研究投資、人的資源の流動化促進を目指す。理系教育、大学の研究費に対しても、さらなる投資が行われるようになった。
 このため日本国内の土建業は海外進出を強め、アメリカとロシア王国の改造にかかり始める。また国内では、建築技術の向上を受けて高層建築基準が緩められ、都市部での超高層建築が以後急速に増えるようになる。
 一方では農林水産業全体の再編成が進められ、食糧自給率確保と国土保全のために、企業化と効率化が推し進められるようになった。

 

「行政改革」(1950年〜)
 政府は国民の声を反映するため、大規模に政治制度を改革することを決意。これまでの中央官僚統制型の政府を改めるため、大幅な憲法改定と省庁再編成が実施された。
 同時に公務員改革も断行され、中央政府の合理化、スリム化と地方分権、官僚数の大幅な縮小が進められた。官僚制度の疲弊と停滞と地方分権は、日本が多くの海外領土を抱えていることも重なって、古くは1920年代から言われていた事だった。
 また各種公団や外郭団体の民営化や不要なものの廃止や合理化が大規模に実施され、公務員の再就職のための制度を新たに設けることでその補完とされた。
 無駄を無くす政策が推し進められた背景は、国が莫大な社会保障予算を必要とし始めていた事も強く影響していた。
 そしてこの時の改革により省庁が大きく合理化され、特に肥大化が問題となっていた内務省の改革は顕著となった。また同時に、専売公社、国鉄、道路公団、郵政事業などが次々と民営化した。外郭団体も多くが整理され、公務員の数も大きく削減された。民営化と効率化に対しては、組織の徹底した再編成と並行して電算機(電脳機)の徹底した活用が図られた。
 また一方では、政治や国際情勢の調査研究のための頭脳集団(シンクタンク)がさらに整備され、中央官僚に変わりうる組織として急速な台頭が始まった。この集団を、幕末から明治初期に存在した「ミズホ」と言うようになっていく。

 

「社会保障」(1950年〜)
 1930年代より言われていた少子高齢化に対しての政府の制度がほぼ完成した。手厚い出産及び育児政策により、1940年代から大きな低下を続けていた日本人の出生率は何とか安定した。一方では、平均寿命延長に伴う高齢者の増加に対して、医療関連予算が急増していた。どちらも30年以内の解消が求められ、様々な分野での医療研究に対する莫大な投資を促した。
 またこうした予算を獲得するために、増税としての商品税(消費税)が急激に上昇して国民生活を心理的に圧迫している。
 一方で、医療に対する各企業や国の投資が爆発的に増大したのもこの頃で、日本は医療分野での躍進も他国を置き去りにして大きく進むことになる。医療分野が、電子産業と並んで大規模な雇用を創出する新規産業と位置づけての事でもあった。

 

「和米社会」(1950年〜)
 アメリカ経済の復活と日米交流の活発化により、今までにないほど海外文化が日本に流れ込むようになっていた。
 いまだ武士(士族・華族)など伝統階級が名誉の面を中心にして残っていた日本だったが、国民生活の中に新規なもの便利なものへの転向が急速に進んでいった。
 こうした中で、逆に官民挙げての日本文化復興と海外文化の日本化が推し進められた。
 一方ではアメリカでも、戦争の勝利者の文化であった日本文化が急速な広まりを見せていた。分野は文化や工芸品ばかりでなく衣服や食生活、生活の面でも日本風、和風なものが持てはやされ、便利なものは幅広く取り入れられるようになっていった。こうした変化は、沢山食べることを一種のステータスとしていたアメリカの食生活にも大きな変化が見られたほどとなった。
 アメリカでのこうした変化は、日米戦争の徹底的というより一方的な敗北でアメリカ式の文化や生活様式、価値観の多くが一度否定された事への反発と、古代文化すら内包する日本文化へのあこがれ、ある種の懐古趣味がもたらしたものだった。
 そうした中で、日本人は複雑な文字形態を自然に持ちハシを使いこなす手先の器用な民族だからこそ、簡単に高度文明を築いて欧米を圧倒したのだという風潮がアメリカで言われるようにもなった。
 また、日本とアメリカの交流促進に従い、アメリカでは西海岸地域の開発と発展が大きく進展し、西海岸地域の方が文化の発信拠点となった。

 

「軍事開発」(1950年〜)
 日本は1940年の時点で、大陸間弾道弾、戦略原子力潜水艦、攻撃原子力潜水艦、原子力空母、噴進重爆撃機、各種噴進機、電探、電算機(電脳)を実用化し、世界の先端軍事技術を独走していた。この時期にはそれらの兵器の熟成された次世代型が登場して、主に環太平洋各地の安全保障とヨーロッパ陣営への抑止戦力として活用されていた。
 ただし日本は直接的な軍事に対する投資額が他国に比べて少ない比率のため、軍事面における他との格差と革新は最も鈍いと言われていた。それでも多くの兵器は、ヨーロッパ列強ですら保有できない高度兵器ばかりだった。
 しかも宇宙技術への投資は正反対に高く、その副産物として衛星軌道に大量の偵察衛星を配置して、世界中の偵察及び監視体制を強化。高度な衛星通信網もあって、効率的な防衛と軍事力の展開を実現していた。
 そして衛星技術に関連した衛星通信や自動位置特定装置の技術が大きく進展し、日本の友好国家群がその恩恵を受けるようになっていた。同時に、民間での衛星放送の普及に伴って、影響圏での日本文化の浸透いわゆる「日本化」が急速な勢いで進むようになる。

 

「中華紛争」(1958年)
 旧清朝領域である中華地域では、少数民族の居住圏だった辺境部の全てを北亜連邦(北アジア連邦共和国)が覆い尽くし、中心部の中華民国内では国民党と共産党の内戦が続いていた。
 北亜連邦も中華民国が独裁傾向の強い国家のため、民族主義と漢族への反発を全面に出す事で国の一致団結を図っていた。また北亜連邦は、日本やロシア王国からの援助と中華中央部から逃れてくる流民を使い捨ての安価な労働力として活用して、国力及び軍事力の増大を遂げた。このため中華民国に対して、国力、軍事力面でアドバンテージを持つようになっていた。
 そして中央部が内乱中の今こそ中華殲滅の好機として、マンチュリア地域とチンハイ地域から突然の武力侵攻を突如開始する。当然というべきか、日本など関係国との調整や通達は一切なく、突然の全面的な軍事行動だった。
 当初北亜軍は順調に進撃したが、共産党軍のねばり強いゲリラ戦にはまり進撃は停滞した。外交でも、日本などが援助停止や貿易自粛などの厳しい措置を取ったため困窮した。もちろんの事だが、国際非難の対象ともなった。
 結局北亜軍は、数ヶ月で撤退に追いやられてしまう。
 しかしこの短期間の戦闘で、華北全域がまたも荒廃した。特に北亜連邦は鉄道、道路、発電など自らとの境界線近い地域の社会資本破壊もしくは持ち出しを撤退時に徹底して行ったため、近代的なものはほとんど皆無となった。北京などの街では、ほとんどの歴史的遺跡までが破壊と掠奪の対象とされ、後に大きな国際問題にまでなった。また相変わらずの民族間戦争のため、戦場となった地域の人口も激減した。様々な要因による死者の数は、中華民国内だけで数千万人に及ぶと言われている。
 なお、日本の態度が冷淡となった時期にヨーロッパ連合が北亜連邦に接近したが、日本、ロシア共にそれを許さず、北亜に対する交流や貿易を条件付きで再開。以後日本などは、北亜を厳しい監視下に置くようになる。

 

「月面基地」(1959年)
 日本は、二度目の核(爆弾)推進宇宙船「つくよみ」を打ち上げた。
 総重量150万トンの巨体は、「天之浮船」よりも効率化された核(爆弾)推進によって、まずは難なく地球低軌道に至る。そこで「天之浮船」との世紀のランデブーを実施した。そしてまずは「天之浮船」に、膨大な量の補給物資と更新機械やモジュールなど20万トンもの物資が供給された。大量の交替要員も送り込まれ、それまでの滞在者の多くが運び込まれたより安全な降下艇で地球に帰投した(※無論それまでにも、小型艇で多くの人間が行き来している。)。さらに「つくよみ」は、無数の人工衛星を各軌道に解き放った。静止衛星軌道には、新たに別の有人宇宙基地も放出された。
 そして「つくよみ」は、地球低軌道で二度目の核(爆発)推進を開始して加速をつけ直すと、今度は月軌道を目指した。この間、地球軌道から月軌道に至る加速の間には、多数の惑星探査衛星が各惑星へと放たれた。
 そうして呆気なく月軌道に至ると、同じく核推進によって減速を実施。無事月軌道に乗った。
 月衛星軌道で安定した軌道を得て孫衛星になると、今度は上層部分を切り離して巨大な本体が月面に降下。降下した約120万トンの物体は、打ち上げられた時と同じ核爆発で減速して無事月面着陸に成功。人類は月面に最初の一歩を記した。
 その後直径350メートルの巨体を誇る着陸船は「かぐや基地」と命名され、持ち込んだ大量の資材と工作機械、設備を使って月面基地建設を開始した。建設されたのは居住区や観測施設、研究施設ばかりでなく、原子力発電所や月面資源を用いる精錬工場や工業施設までも備えていた。無論、月面各所に鉱山も多数開かれ、月面用に作られた無数の工作機械が月面をほじくり返し始めた。
 月軌道に残された「つくよみ」も、そのまま月軌道基地として展開を行った。
 そしてこれで、日本の宇宙基地、衛星軌道の既存の軌道基地「天之浮船」と月軌道上の「つくよみ」基地、月面の「かぐや」基地によって地球から月面までが結ばれることになる。「つくよみ」には、多数の宇宙空間用の連絡船や月面と月軌道用の往還船も燃料と共に積載されていた。
 また1946年の「天之浮船」以後日本中心の宇宙開発は大きく進み、この時期にはアメリカ人やロシア王国人なども日本からの打ち上げロケットで多数が宇宙滞在するようになっていた。無論、滞在するための莫大な対価が、日本の懐に落ちた。

 一方ヨーロッパ連合も、日本に対抗するために、世界大戦後すぐにも戦災を無視して宇宙開発を大規模に開始した。そして日本と同じく、核(爆弾)推進宇宙船を終戦から十年後に送り届ける事を計画した。
 前段階として、1952年に化学燃料ロケットによって無人宇宙機の打ち上げに成功した。1955年には人類を宇宙に送り届け、「つくよみ」打ち上げの前の年の1958年には日本の「天之浮船」とほぼ同じ規模の核(爆発)推進宇宙船「ヴィレ・ヌーヴォー」の打ち上げに成功した。ほとんどの技術が、日本から何らかの方法で得られたものだった。ただし「ヴィレ・ヌーヴォー」は「天之浮船」より完成度や使用されている技術が低く、耐用年数も日本側の暫定30年に対して20年以下と見られていた。
 そして、ようやく近づいたと思った段階での日本の行動だったため、ヨーロッパ連合の落胆は大きかった。
 しかしヨーロッパ連合では、かえって日本からの技術奪取と宇宙開発への傾倒はさらに進み、先進国間の争いは軍事ではなく宇宙開発や技術開発に重点が置かれるようになる。
 この背景には、先端技術力特に軍事技術で日本が懸絶しすぎているという背景もあった。
 自らはようやく水爆と大陸間弾道弾が手に入ったばかりなのに、日本は高性能な戦略原子力潜水艦や多弾頭型弾道弾、巡航誘導弾と、より小型で効率的、加えて破壊が難しい核兵器体系に移行していたのだ。



●革新期1