●革新期2
 ・1970年代
 概要

 日本本土の総人口が、一気に1億3000万人台を突破した。
 革新的な技術変化を最大の原因として人口が激増し、小学校以下の教育施設は久しぶりに子供で溢れかえった。中学校以上の教育施設も、十年以内に満員御礼となる事が確定的だった。その上、自然死の当面の消滅によって、死者の数が激減という表現すら不足するほど減少したため、出生率=人口増加率となり、人口増加率は毎年2%近くを示した。政府も老人対策の費用が削減された分のかなりを出産と育児、養育、教育に回したため、なおさら人口拡大を助長した。何しろ寿命が約二倍に延びたので、次の自然死が出るのは、科学技術レベルがこのままだったと想定した場合でも2050年ぐらいの事だった。
 しかも老人病、成人病、各種障害者の95%以上が健常者や健康者となって活発に活動するようになり、町中に溢れる日本人の数は異常なほど増えた。一方で、老人達が若返って第一線に復帰したが、新規産業群は幾らでも労働力と人材を必要としていた。公共交通機関は、街に溢れかえった日本人を移送するためてんてこ舞いとなっていた。
 また日本経済全体が大幅に拡大したため、従来から存在する業種であっても就労者数は大きな増大を示した。かつての職場に戻るのも、たいていは容易いことだった。ありとあらゆる建設業種関連などは、向こう20年は活況を示し続けると予測された。新たに作ったり作り替えたりするものが、あまりにも目白押しだったからだ。ほとんど無駄となる道路やダムなど、造っている場合ですらなかった。

 連動して、GDPも税収も各個人の収入も、急激な右肩上がりとなった。円の価値もさらに上昇して、日本の対世界GDP比率を押し上げた。日本は明らかに高度成長期に突入していた。未曾有の好景気が、出生数をさらに増加させた。政府も、多産を奨励し援助した。
 困ったのは葬儀業者と坊主、老人産業関係者ぐらいだろうと言われた。寺社に対しては、寺そのものや日本文化の保全という目的で、政府からの補助金が出るようになったほどだった。老人医療から解放された医者など医療関係者たちも、新しい仕事と知識・技術の吸収でてんてこ舞い状態だった。医薬品業者も似たようなもので、さらには海外への膨大な輸出で業績を伸ばしていた。また教育、再教育そのものの簡略化により転職の苦労も大きく改善されたため、それまで老人医療に携わっていた者も、他の業種、多くは教育産業へと転向していった。老人ホームが、一夜にして保育所に転向した例すらあった。無職や部分労働状態だった若者の多くも、強力な政府支援による再教育の後に新規産業に吸い込まれていった。まるで総力戦状態のような労働需要と人材不足の前には、無職者(ニート)は完全な社会悪で、再就学や社会復帰事業も地域ぐるみで積極的に行われた。
 日本人の全てが、技術革新の担い手とならなければならない時代の到来だった。
 日本で1960年代後半から始まった技術革新は『技術爆発』と呼ばれるようになり、専門家たちの試算によると1世代20年で従来の速度から比較して約100年分の科学技術の向上が見られると測定された。人手がいるのは当たり前だった。これは、産業革命以来の革新的な出来事だった。日本史上でいえば、幕末から明治初期の発展に匹敵もしくは凌駕する出来事だった。
 また、新規産業に対する労働需要が爆発的に増加したため、大量の労働人口が増えたにも関わらず日本中が人手不足と言われるようになった。このため、高価値労働者として主にアメリカ、東ロシア、オセアニア地域からの移民と一時労働者が激増した。アメリカなども自身のイノベーションの準備運動と考え、日本での一時労働や留学を奨励するようになった。語学教育の激変と安価で高性能な携帯型自動翻訳装置の登場によって、日本での外国人労働者の壁もほとんど取り払われていた。
 それでも全然労働力が足りないので、高度化した自動機械、ロボットの類が大量に開発、生産され、主に単純生産の面を多く担い初め、ロボットが重要な労働の担い手となっていった。
 なお、1940年代からくすぶっていた、日本列島外郭地の独立に向けた動きは軒並み停止もしくは停滞した。理由は言うまでもなく、日本本土が獲得した革新的な技術の恩恵が受けられなくなると考えられたからだった。
 
「独立の年」(1970年)
 アジア、アフリカ各地で、多くの植民地が独立を達成した。主にイギリス、フランスからの独立が多く、フランスは日本と対立した過去など忘れたかのように日本への外交接近を画策した。またイギリスとヨーロッパの穏健中小国が同時期に日本へ接近したため、外交として植民地独立を進めていった。なおイギリスは、気が付いたらほぼ全ての地域を英連邦の中で自立させていた。
 また逆を言えば、自らの革新(イノベーション)のためには、遅れた植民地を抱えることが大きな足かせとなっていたのだ。つまりアフリカは、ヨーロッパから切り捨てられたと言えるだろう。
 何しろ日本で開発されつつある技術が実用化され世界中に広まれば、従来の地下資源も単純労働もほぼ不要になり、資源のリサイクルも遙かに低コストになる。つまり経済的に遅れた植民地は維持経費という負の経費ばかりがかかり、植民地としての価値がなくなるのだ。すぐに新規技術は得られないだろうが、準備として余計なものを切り離すことは最重要課題だった。足りなくなるものは、当面は赤字覚悟で貿易によって得ればよかった。
 これを見抜いた一部の植民地は宗主国に残ることを言い始めたが、これまでの抑圧に対する反動を原動力とする国内の民族自決の声を無視することができず、数多くの国が次々と独立していった。
 近代化以前の植民地にとっては、まずは自立することが重要であり、日本の異常な技術発展を論じる以前の問題だったのだ。
 そして独立後のアフリカ地域は、ヨーロッパに近く日本から遠いという地理条件、日本が資源を欲しないと言う状態から、ヨーロッパ連合、とりわけかつての宗主国よりはドイツなど対日強硬派の国々との関係を強めるようになった。日本との関係が深まった国は、東南アジア、南アジアの一部の国を除けば、ほとんどなかった。またインドは、アメリカだけでなくイギリスなど西欧国家が日本との関係を深めたため、対抗外交として日本との関係を疎遠とせざるを得なくなっていた。

「中華人民共和国の成立と崩壊」(1971年〜76年)
 1971年、古くは60年も前の辛亥革命から長らく内戦が続いていた中華中央で、ついに中華民国が崩壊した。十年以上前に独立宣言だけしていた中華人民共和国が、中華中央部を完全支配したのだ。
 しかし中華地域の外郭地にあたる北亜連邦(北アジア連邦共和国)は、1958年の戦争以後中華中央部への戦争行為もせずに落ち着いていた。その後は日本やロシア王国と連携する事で比較的順調な発展を遂げており、中華人民共和国が北亜連邦を併合や合併する可能性は当面あり得なかった。
 また余りにも長く続いた内戦で、中華中央部は荒廃して産業も壊滅していた。食料生産力の停滞と流通の鈍化、医療や衛生の遅れに並行して人口増加率も世界比率に比べて停滞を続け、中華人民共和国成立時の人口もようやく5億人程度と、半世紀前とあまり変化がなかった。
 また中華人民共和国は共産主義、社会主義国家のため、ほんとどの国が様々な理由で無視し続けた。
 そして中華統合を実現した中華人民共和国は、独自経済構築のために無理な経済政策と多産政策を実行して、建国すぐにも自らの経済を徹底的に破壊してしまう。文字通りの自滅だった。あまりの惨状に、誰もが呆れかえってしまった。
 しかも1976年に独裁的な指導者だった毛沢東が死亡すると、指導者不在から共産党内で武力を伴った権力争いが発生した。既に闇ルートで日本の長寿化技術の恩恵を受けて、思考以外が若返っていた毛沢東の死因は暗殺だった。当面死なないのに悪政と政争という二つの老害をまき散らすため、たまりかねた権力者達が徒党を組んで事実上の粛正を行ったのだった。しかし当面死ななくなったのは他の者達も似たようなものであり、権力闘争はむしろ加熱し、醜い争いが各地で展開された。毛沢東が居なくなれば朱徳が新たな権力者になると見られていたが、彼はその毛沢東に先に粛正の対象とされていたからだ。しかも、これを唯一治めることができると言われた周恩来は、長寿化処置を毛沢東に禁じられ既にこの世を去っていた。
 その後は武力を用いた大規模な内乱に入り、再び混沌へと突入することになる。
 最終的に中華中央部は一度は5つの地域に分裂し、長い時間をかけて連邦国家への道を歩むようになる。そして互いの反目が発生して、中華という「民族的」アイデンティティーは埋もれていった。その間人口増加と産業発展はほぼ停滞を続けた。周辺国も、援助や人道支援よりも流民や難民防止のため国境封鎖を優先するのが一般的行動となった。日本も各国と連携して、海上封鎖などを行った。
 中華地域は、再建と発展に至るまでの長い暗黒の時代を経験しなければならなかった。

「ヨーロッパ共同体発足」(1972年)
 「革新戦争」戦争後、ヨーロッパ連合内での反目が表面化した。特に戦争に全く参加しなかったイギリスと、ドイツ、西ロシアの関係は極度に悪化していた。これが進んで、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、ベネルクスを中心にした国々がヨーロッパ連合から離脱して、新たにヨーロッパ共同体を形成する。必然的にヨーロッパ連合は、ドイツ、西ロシアを中心とした組織に大幅縮小した。また古くから中立的だった北欧諸国の多くがヨーロッパ共同体に同調して、ヨーロッパ共同体と共に日本への本格的接近を開始する。スカンディナビア半島を中心とする北欧諸国は、ヨーロッパ共同体成立と共にヨーロッパ連合を見限ったのだ。永世中立を謳っていたスイスも、素知らぬ顔で日本との関係を強め始めた。ただしドイツと西ロシアに挟まれた東欧諸国のほとんどには、選択権すらなかった。
 これに前後して、ヨーロッパ内で戦争の危機が言われた。だが、ヨーロッパ各国の多くが切り札だった筈の核兵器のほとんどを打ち尽くすか破壊されていた。また戦災による軍事施設を中心とする被害も大きかった事もあって、戦争に発展する事はなかった。西ロシア以外が互いに多くの地上戦力を持っていなかった事も、皮肉にも戦争抑止に影響していた。有力な地上兵力を持つ西ロシアも、まずはロシア王国(東ロシア)に対抗しなければならなかった。
 また前後して、アメリカ東部から北大西洋に展開する日本の空母機動部隊などが抑止力となったことも忘れるべきではないだろう。
 当然というべきか、ヨーロッパ連合残余の日本などへの反発はより一層強まった。中には、日本などでのテロ行為に走る者まで出るようになっていく。

「エネルギー・ショック」(1971年)
 1971年、日本は実用核融合発電施設第一号を完成した。年内に行われた稼働実験は完全な成功で、発電力は大型の原子力発電所(原発)とほぼ同じ約105万kWの電力を発電できた。核融合自体の出力は300万kWを発揮した。原子力を大きく凌駕する力で、しかも安全で効率的な力でもあった。原発を越える建設費用などを加えても、発電料金は将来的に計数的に低下する見込みとなった。燃料となる水素系燃料は海に幾らでもあって採掘が容易いという事と、既に日本全体でそれだけの技術革新が行われていたからだった。
 なお、もっと高出力の発電施設を作ることも十分に可能だったが、既存の送電、変電設備全てを一気に更新する事が難しいため、最初は比較的低出力の施設が建設された。
 そして電気料金の大幅な低コスト化実現の目処が付くと、日本政府は5年以内に商業用核融合発電所を日本各所に建設し、10年以内に日本の電力の50%を核融合発電で供給すると宣言した。これだけで電気料金は従来の数分の一に落ちることになる。経済的利益も計り知れなかった。建設には莫大な資金が必要だが、費用そのものは従来の原子力発電所より何割か高い程度に過ぎない。発電のための燃料代、建設のための地域補償など含めて考えれば、コスト差は歴然だった。
 当然ながら、今後二十年ほどで日本中の発電システムの中心が核融合発電に代わる予定だった。それ以外では水力発電が災害対策と予備発電を兼ねて維持され、太陽光発電、風力発電もある程度促進される事になるが、最終的には90%以上が核融合発電に置き換わる予定だった。電気料金も、四半世紀以内に従来の5%程度にまで発電コストが下落するだろうという試算が出た。ただし発電施設建設や送電、変電設備の更新、各種インフラの整備・維持費用を含めるので、電気料金自体は2割程度になると試算された。仮に今まで10円だったものが、2円になるという事だ。このことは、特に産業分野での低コスト化が期待できた。その上で、発電量そのものは従来の数倍が目指されるところに、この時期の日本の躍進を見ることが出来るだろう。
 不要となる一部の火力発電所は、予備として当面は保管状態に置かれることになったが、設備の耐用年数の過ぎる三十年以内に全て解体されると予測された。あまりの革新に、発電会社が主業務の転向を迫られ、発電方式が移行する期間がそのための時間だと言われたほどだった。
 また常温(高温)超伝導技術の革新的な向上によって、電導装置、蓄電装置も大幅に能力向上した。あらゆる動力が安価な電気に置き換えられるようになることも確実視された。時速500km/h程度で走る電磁超特急(リニアモーター・スーパーエクスプレス)など、もはや技術上は朝飯前だった。鉄道輸送力の強化が急務となっていた事もあり、さっそく工事も開始されていた。

 そして膨大な電力が安定して極めて安価に生産できるようになると、石油価格が大暴落を起こして中東を中心に混乱が拡大する事が予測された。また既存の原子力発電所は、短期間のうちに核融合発電所に改築されるという噂が広まってウラン市場も暴落。世界中の資源市場と資源国が混乱した。
 これに対して日本は、発電以外の燃料や石油生成物製品などで石油はまだまだ必要で、天然ガスの需要も必要だとして、自分たちがあまり関係ない中東の産油国までなだめた。また全ての電力を核融合でまかなうにはまだ多くの時間がかかり、また原子炉の小型化技術と再利用、低価格化の技術も大きく進展したためウラン燃料も必要だとした。しかし四半世紀後には核融合発電など新規エネルギー獲得技術が進展するので、それまでに資源国は産業転換するべきで、その援助や支援も行うと日本は言ってまわった。
 そうした日本の行動は、燃料資源国にとっては感謝よりも怨嗟の声の方がはるかに強く、同時期にくすぶり始めた「原理主義」が加わる事で、急速に大きな国際問題となっていく事になる。

「教育革新」(1971年〜)
 日本では、遺伝子設計されて誕生した革新世代の成長に並行する形で、教育制度の抜本的な見直しと初等教育の短縮化が始まった。
 これは遺伝子設計された世代の平均知能が、従来よりも20%程度高くなることが確実だったためと、技術革新により教育の中でも「記憶」する教育が大きく簡略化されたためだった。
 教育カリキュラムも、記憶型の教育よりも応用教育や実用教育が重視され、また身体鍛錬や道徳教育の時間も大きく増やされるようになった。教師の再教育と増加も急ぎ行われた。
 なお義務教育は1972年度から小学校が5年、中学校が2年へと1年ずつ短縮されることになった。従来の特進生と同じだ。そして以後14才で高等学校に進学し、20才で大学を卒業して社会に出るようになる。成績優秀者(高知能者)に対する特進制度もより強化され、日本の制度上ですら最短で16才で大学を卒業できるようになった。また高校及び大学進学率は、国が教育全般にわたって全面的に支援したため、非常に高い数字を示すようになる。加えて知識ばかりでなく、運動能力、芸術性、創造性、職人性などそれぞれに優れた人材を育てる教育も飛躍的に強化されるようになった。
 また既存の全学生に対しても、再教育の実施や新規教育プログラムの導入を行ったため、革新世代の社会進出を待つまでもなく、多くの成果と結果がもたらされるようになった。
 教育全般に対してもより多くの国費が投じられ、学校や企業への研究支援や奨学金制度などもより充実した。
 これらの変化により、1980年代以後は日本の科学研究や理論研究、技術開発の速度はさらに加速するようになる。一方で金融や法律の分野は当面国があまり重視しないため、他国とはそれほど大きな開きは発生しなかった。法曹界の職種などは、今までとは違って知識や記憶力よりも、交渉力と心理面や人間性が重視されるようになっていた。他にも、翻訳や通訳という職業が完全に廃れてしまい、再就職や再教育への優遇措置が取られたり、外国語学分野は抜本的な再編成を強いられることになっていた。
 一方、就労者の教育、再教育、教育転換にも学生と同様の教育システムが大幅に導入された。これにより「記憶」するタイプの職業の価値が大きく下がった。同時に知識習得が極めて簡単となり、転職も楽になった。そして一番の恩恵は、労働需要の存在する方向への人の移動が極めて容易くなった事であり、ストレスなく労働人口の移動が行えるようになった。
 なお、楽に勉強や知識習得できるようになった事で「怠け」が強く心配されたため、道徳や倫理、精神面、心理面での教育や訓練は、社会全般において大きく強化されるようになった。日本伝統の武道や習い事が再び重視されるようになったのも、この時期からとなる。寺院などでの精神修行や鍛錬も、今までの葬儀事業に取って代わるほどの活況を示すようになった。

「宇宙産業」(1975年〜)
 日本は、飛行機型の軌道往還機、俗に言う「軌道機(オービタル・プレーン)」を就役させる。これで比較的簡単かつ低価格で宇宙へ行けるようになると宇宙の一般化が促進して、地球・月面間の交通網の革新も始まった。大規模な飛行場からなら、今までの旅行とほとんど同じ状態で低軌道の各施設に行けるようになった。
 連動して巨大な軌道施設が建造され、新たな開拓地としての拡張を続けた。
 加えて、地球低軌道は一般的な観光地となり、月面ですら一気に高級観光地へと変化した。宇宙各地の観光施設が拡大され、サービス業に従事するべく宇宙就労者も一気に増加した。
 また軌道往還機と同じ機体は、地球の各地を結ぶ一般的な旅客機、貨物機、さらには軍用機としても使用されるようになる。これで地球各地を最大マッハ20近くで行き来出来るようになり、東京=ワシントン間が約2時間となった。国際関係さえ考慮しなければ、地球のどこにでも3時間以内で行ける時代が到来したのだった。
 そして物流と人の流れの増大と共に、宇宙開発規模も爆発的に増大した。
 宇宙開発で必要な鉱物資源の多くは月面での採掘に変更され、様々な巨大開発を行う事が発表された。日本は宇宙産業をさらに巨大化して、着実に国家産業としていった。
 その象徴として、巨大なラグランジュポイントの宇宙基地と月面都市の建設を開始した。また月面は、核融合動力に使うためのヘリウム3の鉱山としての価値から、十年後を目処に開発が急ピッチで進むようになる。
 一方では、火星有人探査計画が始動した。さらに十年後には、小惑星帯と木星の有人探査も行う事を発表した。どちらも宇宙の真理の探求などではく、あくまで資源や新天地としての価値を調査するためのものだった。
 日本人は、徐々に地球上を見なくなりつつあった。
 それはまるで、何かに急かされているかのようでもあった。

「桃源郷」(1970年〜)
 日本での革新が本格的に始まると、世界中の一部で人の流れが劇的に変わった。特に人道面から日本国民以外の新規医療受け入れを順次行うと発表されると、希望にすがった世界中の人々が申し込みに殺到した。日本に対抗しなければならない国家とは違い、病や障害を持つ人々にとって日本での技術革新は天からの恵みに間違いなかった。北欧や西欧諸国を動かした一因には、こうした人々とその支持母体からの強い声があったことは間違いない。
 しかし、まず日本にやって来た世界中の人々は、重い病や障害を持つ人々ではなかった。
 日本での医療革新、より正確には人工的長寿の恩恵を何としても受けるべく、国や地域を問わず世界中から権力者と富裕層が殺到したのだ。特に世界中の権力者と金持ち老人達が、当面の不老と持病からの解放を求めて目の色を変えてやって来た。中には、ヨーロッパ連合の有力者や各宗教関係者、マフィアの幹部なども多数含まれていた。テロ組織の指導者までがいたほどだった。皮肉な事に、ここには経済面以外での差はなかった。
 また人工的長寿では身体の若年化も行われるため、寿命に当面の不安がなくとも不老と若さを求める人々が同時に押し寄せてきた。特に世界中の俳優やモデル、スポーツ選手が続々とやってきた。
 しかし、長寿措置を受けるべく日本を訪れた人々が、非正規の方法を採ったのには訳があった。長寿処置は、日本政府が当面は日本人以外には特例を除いて対象としないと発表していたからだ。各民族各国家の倫理面の問題と、日本での医療体制の許容量の限界、日本以外でのアフターケアの不備、各国との調整や許可などが理由だった。しかも特例とされる人も、希少な知識や技術、伝統を受け継ぐ人が主で、しかも当人が望んだ場合に限っていた。
 だが水面下から押し寄せる人々は、不正規だからこそ溢れるように流れてきた。1年もすると、それがまるで正規ルートのような状況になりかねなかった。権力と金の力が、そうさせてしまったのだ。そうした人たちが落とす莫大お金で、俄に特需が発生したほどだった。日本の医療関係企業の株価は天井知らずだった。数年間の間、世界のGDPの約5%が、どこからともなく日本に注がれたと言われている。
 そしていつしか日本国民の多くにまで混乱が広まったため、日本政府も長寿措置についても可能な限り早い時期に有料かつ許可制での受け入れを発表せざるを得なくなった。これが正式に始まったのが、1972年のクリスマスの事だった。
 そして日本側は、長寿処置に関してごく限られた例外(※一部の技術者や無形文化保持者、芸術家、学者、絶滅寸前の少数民族文化の保持者など)以外の外国人には、制度通り許可制かつ全額自己負担の有料制とした。だが、それでも機密情報を持ってきたり裏金を積み上げるなどして、自身の順番を早めようとする者は後を絶たなかった。中には国家級の財宝や美形の男女を手みやげに来た者まであった。
 一方の日本人側も、不当な利益をせしめるために金に糸目を付けない者に早めの順番を回したり、日本人の一部の者のための「特別施設」の利用を許したりもした。政府の強力な指導によって平等に恩恵を受けるはずの日本人の中にも、それなりの不平等は存在していた。
 また裕福でないが恩恵を受けたい人々の間では、日本国民との結婚が大流行した。日本国民と結婚すれば、ほぼ自動的に自らも日本国民となって、様々な恩恵を日本で受けることができるからだ。このため短期間で、百万人単位の日本国民が新たに誕生した。日本人の側でも、優秀な外国人との結婚が一種の流行となった。不法や不正も数多く、日本政府は対処に追われる事となった。
 そして何時になっても混乱が収まらないため、日本政府は混乱回避のため早急な対策を急ぎ実施した。
 その一つが、受け入れ枠を広げて外国人専用の巨大施設を建設してしまった事だった。
 日本政府は、後に「出島」と呼ばれる外国人専門の巨大な医療専門施設を急ぎ東京湾上の利用が始まっていなかった埋め立て地に建設し、そこで可能な限り一元管理しようとした。また同地は治外法権、タックスフリーな経済特区とされ、日本と国交がない国の者でも無理なく来られるようになっていた。そしてそこは、いつしか日本以外で「シャングリ・ラ(桃源郷)」と呼ばれるようになった。

 一方では、外国人の難病者、障害者に対して可能な限り日本人と同等で処置が行える法整備を行って、国や団体の交流のあるなしに関わらず多数の人々を受け入れた。日本の税金で基金制度まで設けて、資金のない者の支援も積極的に行った。
 長寿処置や人の誕生の遺伝子操作を強く非難したバチカンなど多数の宗教組織も、この点だけは日本の行いを評価せざるを得なかった。バチカンでは神の奇跡を広く実現したとして、第一人者に対して聖人指定を行うのかの議論が水面下で行われたと言われた。
 さらに一方では、バチカンなどが強く非難した生命を弄ぶとした新生児の遺伝子設計に関しても、掃いて捨てるほどの権力者と金持ち達が殺到した。彼らの母国が強い規制を設けても、日本に明に暗にアプローチをかけてきていた。遺伝子設計された日本人の子供を、法外な金額で得ることで目的を達成する者もいた。国外脱出する者や、日本の制度の恩恵を受けられやすいアメリカなどに移民する者も後を絶たなかった。自らの宗教を捨ててしまう者も続出した。逆に、一部の宗教や人権団体からのテロリズムの標的ともされるようになった。おかげで日本の関連施設は、極めて厳重に警備されるようにもなった。

 日本では国民全てが処置の対象とされ、半ば強制的に実施された数々の医療制度だったが、日本とつながりのない一部の国では、日本での医療革新の恩恵を受けることは一時期エリートのステイタスとされるようになった。
 また貧富の差の象徴の一つともされ、一部では日本に対する怨嗟の声を高める結果にもなった。
 一方では、日本に行けば半ば無料で「不老長寿」が手に入るという噂が広まり、金のない者の日本への不法移民が激増した。酷いものでは、日本人を食べれば「不老不死」になるという噂が出た国や地域まであった。
 しかし日本政府から正式に日本国民と認定されなければ、無料で恩恵を受けることは決してできなかった。しかもマイクロマシンによる健康管理で国民全ての管理も簡単になったため、日本国民と「それ以外」を選別することは極めて容易となっていた。既に処置を受けた人間から強引に技術を抽出しようとしても、複製や量産ができる技術がなければ魔法の物体でしかなかった。関連技術やマイクロマシンなどは他国での複製がまず無理だし、遺伝子登録されている人間各個体の偽装も、一卵性双生児でもない限り不可能だった。
 また指名手配された犯罪者やテロリストなどは、税関の通過と空路での入国は不可能となっていた。そして日本国内では各種サービスでも遺伝子認証が一般的となりつつあり、他人になりすますのが事実上不可能な社会が、極めて短期間のうちに日本には成立していたのだった。この時、日本が維持し続けていた戸籍制度が、科学技術共々威力を発揮した。逆に日本国民との結婚による日本国民化の激増という問題が、ながらく日本政府を地味に苦しめることにもなった。
 ただし日本政府も、手をこまねいていたわけではない。特に違法者に対しては、容赦しなくなった。
 日本政府は、今までより比較にならないぐらいの規模と密度そして強い態度で、不法移民の規制と国内に存在する不法滞在者の国外退去を実施した。日本国内での不法移民によるデモや運動も事実上の武力弾圧を行い、各国からの非難も一切聞くことはなくこれを断行した。また国境警備、領海監視も非常に厳しくなり、高度な技術を用いた監視網と撃退装置の数々により、日本に入ることは不正規ルートではほとんど不可能となっていた。
 また日本からの新規技術持ち出しの違法行為でも、特にこの分野での持ち出しの試みが多かったため、徹底した取り締まりが行われると共に刑法の法改正すら行われた。この場合、日本人でも長寿処置の対象から外された上での終身刑と、さらに悪質な場合は最高刑の死刑が適用された。
 さらに遮断と排除は徹底しており、密航の手引きと重犯罪が絶えない国内系及び主に近隣のチャイナ系やコリア系、ロシア系のマフィア殲滅のため、政府を挙げて取り組んで軍の精鋭部隊すら投入された。不法移民船の中には、不法侵入として撃沈されるものもまで出た。この影響で、日本政府から目を付けられたら、衛星軌道上からレーザー砲で人一人の単位で狙撃されるという噂が世界中を飛び交った。
 また、国内のごく一部の危険な宗教及び思想団体も、破防法の改正によって徹底的に骨抜きにされた。副産物として、悪質な新興宗教も一時的ではあったが根こそぎ殲滅されていた。
 「桃源郷」は、ごく限られた者のものでしかなかったのだ。



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