■フェイズ2「日露戦争後」

 日露戦争後の日本は、様々な面で恐慌状態に陥った。
 国民意識は、大国ロシアに対する惜敗とはいえ、敗戦によって意気消沈した。十年前に大清国に勝った事すら帳消しになるほどの心理的状況だった。海軍が残り制海権は維持されたが、そんな事は一般国民にとって些事に過ぎなかった。
 そして戦前よりいっそう「恐露」の考えから、一時期恐慌状態となった。何も知らない人々は、いつ何時ロシアが日本列島に攻めてくるのかと、戦々恐々の日々を送った。俄に海外移民が増えたほどで、同情心からアメリカなどでの受け入れが一時的ながら好意的に行われたりもした。
 このため政府は、日本海側や北海道、対馬海峡近辺に、国民に見える状態で軍隊を置いたりして民心安定に努めなければならなかった(※ただし食糧自給問題から、移民が増えることは内心歓迎していた)。
 そして何より、日清戦争の勝利で浮かれていた頃に一部で言われた「一等国日本」などという言葉は、おくびにも出されなくなった。
 国家財政と国内経済も、自ら使った戦費と莫大な賠償金支払い、そしてこれまで無理を重ねていた軍事費を原因とする政府支出によって、事実上の破産寸前の状態に陥ってしまう。政府は、借金返済のために増税を続けざるをえず、国民の負担は大きいままとなった。しかし日本がまだまだ貧乏であったため、増税だけでは足りないなかった。何しろ5億ルーブル、7億5000万円もの借金が上積みされているのだ。英米などへの借金の利子を考えたら、当時の日本では短期間で返済できる金額ではなかった。
 このためイギリスやアメリカなどに、さらに多額の借金、借款、国債購入の依頼をする事にもなった。まさに借金生活の悪循環だった。
 しかも敗戦によって国家の信用が下がったため、利率の低い債権は買ってもらえなかった。さらには一気に大量の借金を借り受けるときには、借金に際して実を伴う担保が必要とすら言われたりもしたが、日本にはめぼしいものが乏しかった。このため国内のなけなしの鉱山や工業施設の一部などが担保とされて、英米の資本が日本国内に入り込みやすくなる環境までが出来てしまう。
 このままでは、最悪日本はイギリスやアメリカの半植民地状態、今の清国と同様の状態に陥るのではないかという危機感が日本人の間に広まった。

 だがロシアとの戦争の結果、日本列島を守るという最低限の目標が達成された形にもなり、長期的視点でものが見える日本の為政者達はごく僅かではあるが安堵した。
 少なくともロシアの突進を鈍らせることは出来たのだから、戦争を行った事に対する成果としては国家戦略上では満足するべきだった。しかもイギリスとは、形だけであっても「同盟国」だった。そしてイギリスとアメリカが、北東アジアより明確にはチャイナ(支那)進出のために日本を必要としており、両者の存在がどこか一つの国に侵されるという事態を回避させる可能性も高かった。さらには、ロシアのアジアでの脅威の増大が、皮肉にも日本の自立を肯定する大きな要素となった。イギリス、アメリカのどちらも、自ら東アジアの僻地でロシア人と直接睨み合いたくはなかったからだ。
 しかも当時の日本は、桂や西園寺といった力強い指導者にも恵まれていた事もあり、政府の適切な指導と政治によって徐々に安定を取り戻していく。国民の多くも、ロシアの敗北により危機感をもって努力を重ねた。
 加えて、敗戦を切っ掛けとした政府主導の国内改革も大きく進展し、連動して政財界及び軍部の人事が刷新された。これにより、非合理的だった薩長閥や一部の華族支配はほぼ一掃された。老人達も、有害な者はほとんど排除された。同時に、既に中央官僚専政の弊害が出始めていた、中央官僚及び軍官僚、軍人の大幅な改革もいち早く実施された。より優れた法改正も積極的に行われた。
 敗北による余裕のなさが、逆に日本の内政改革を断行させる事となった。国内で寄生虫を飼っている余裕、御輿を担いでいる余裕は、当時の日本にはなくなっていたからだ。
 また一方では薩長や公家の権威も大きく下げられたため、板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党、さらには少し後に現れる平民出身の原敬や彼らが率いる政党などが台頭していった。つまり政党政治の道がより大きく開かれる事になった。
 この時日本では、主にイギリス連合王国とアメリカ合衆国の制度が参考とされた。そして民意を反映する傾向を強めた政府によって、さらに法制度、行政改革も進むが、流石にこの時点では民度と社会全体の未熟などもあって徹底はしなかった。しかし、第一次世界大戦を挟んで以後20年以上かけて、日本の二度目の革新と近代化が斬新的に進められていく事になる。これは間違いなく、ロシアへの敗北がもたらした道筋であった。
 何しろ、自分自身の研鑽と変革を続けなければ、生き残れない可能性が高いと考えられていたからだ。

 軍隊は、防衛軍、国防軍としての性格をいっそう強める方向性が強まった。特に壊滅的打撃を受けた陸軍では、師団数も数の上では後備を含め6個師団が廃止され日露戦争前の13個に戻された。だがこれでも充足できるだけの予算も兵隊もないので、各国間の条約が結ばれるごとに削減され、さらに合理化が推し進められた。この象徴として、宮城警護と儀典部隊として以外の近衛隊(近衛師団)が1908年に廃止された。敗戦から以後十年は、師団の半数近くも半数程度の充足状態に置かれた。
 莫大な経費がかかる海軍についても、戦後のロシアとの関係改善と共にむしろ削減する方向に動いた。既に建造中の大型艦艇のうち建造が進んでいた2隻が建造された他は、合わせて4隻の新型戦艦、大型の装甲巡洋艦(巡洋戦艦)は建造される事がなかった。しかもかなりの期間、新規計画は凍結された。旧式艦艇のかなりも処分された。日本海軍が新たな戦艦建造を画策するのは、1912年に入ってからとなった。
 日露戦争前で既に肥大していた日本陸海軍だったが、ロシアと正面から張り合うだけの陸海軍を養うゆとりは、当時の日本にはどこにも存在しなかったからだ。規模としては、日清、日露戦争の間の中間程度に落ち着くことになった。軍事費そのものも、国家予算の三割程度にまで減らされた。
 何しろ国庫から大量の借金を返済しなければならないので、軍備どころでないというのが正直な状況だった。だから軍備を減らしたからと言っても、それが国民に還元されたり経済発展に使われたわけではなかった。
 当時の日本は、どこを向いても借金の山しかなかった。

 外交は、日英同盟が改訂によって強化されロシアとの妥協も協商条約の締結などで図られたため、国際関係自体はむしろ日露戦争前よりも安定した。むろんロシアの脅威が間近にまで迫ったためロシアの現実としての圧力は大きかったが、ロシア自身は陸づたいでは行けない日本列島への興味が低かった。さらには日露双方互いにしばらくは戦争をする気力はないため、ロシアが大きな動きに出る事はなかった。この背景には、日本がロシア海軍の半数を一度破壊した事が影響していた。5億ルーブルの賠償金を得たとは言っても、ロシアは巨体であるだけに使うべき場所がいくらでもあったので、贅沢な玩具である海軍に予算傾注している場合ではなかったのが、日本にとっては幸いしたと言うべきだろう。
 そして以後十年間は、日本にとっての困窮と忍耐の十年間となる。

 一方ロシアは、日露戦争の勝利によって万里の長城以北の影響力を改めて獲得した。戦争自体は完全勝利とは言い難かったが、結果としては十分な成果が得られた。国際外交面で北東ユーラシア大陸の全てが事実上制覇できたし、うるさかった有色人種国家の日本の鼻面をへし折った上で賠償金もある程度得られた事は、今後の北東アジア経営を円滑なものとしていた。しかも日本は、ロシア人が海に出てこない限り音無の構えであるので、ロシア人にとっては当面に限りむしろ今以上に刺激しないことの方が重要ですらあった。
 イギリスやアメリカがそれなりの文句を言ったが、イギリスとの間には日本も入れた協商関係でお茶が濁された。また海の彼方のアメリカの言い分を聞く必要は当面なかった。
 以後マンチュリア及びモンゴル、プリモンゴルは、急速に中華中央の勢力がまったく及ばないロシアの勢力圏となっていった。その速度は既にシベリア鉄道が完全開通しているため日露戦争以前よりも急であり、鉄道沿線はシベリアと同様にロシアの地方領のような有様となった。マンチュリアでは、ロシア人、中央アジア系民族の入植も進められた。
 加えて日本から得たコリア半島全域も、ロシアの勢力圏として急速に組み入れられていった。さっそく、ウラジオストクや遼陽からロシア基準の鉄道も延長された。
 そしてロシア人の血で得た土地として、以後朝鮮半島は他の東アジア地域よりも重視される事になる。かすめ取ったのではなく、戦争によって多数の血であがなった土地というのはロシアにとっても久しぶりの事であり、内政面でも重視せざるをえなかった。
 また朝鮮半島は北部の一部を除いて冬に凍らない港が確保できるという点も、ロシア人にとっては重視すべき要素だった。

 なお、日本は完全に大陸(中華地域)から叩き出され、日本に残された大陸利権は北清事変で得た天津租界の僅かな土地だけとなった。
 しかし日露の関係だけが外交ではなく、ロシア優位の状況を受けてイギリスとアメリカが動いていた。
 イギリスは自国の利益のため、日本との同盟関係を改訂して対日関係を若干強化した。これは日本列島の位置が、イギリスのアーシアン・リングもしくは世界戦略上で非常に好都合な場所に存在していることも影響していた。そして佐世保には、イギリス海軍の艦艇がそれなりの頻度で寄港するよになった。ロシアが不用意に太平洋に出ないように釘を差すためだ。
 アメリカ合衆国は、日本との経済関係を強くする事で、日本が得られなかった満州利権の自分たちの分け前を補完とすると共に、日本列島をアジア進出の橋頭堡とするべく経済的進出を強化する動きに出た。民間主導とはいえ日本に貸し付けた膨大なお金の取り立てのため、アメリカとしては当然の選択だった。ついでに、アメリカ海軍の艦艇が時折日本を訪れるようにもなった。
 そして日本は、戦争債務に加えてロシアへの賠償金や戦後復興のために英米から大量の借金を行っているため、その代わりに日本の市場開放を進めざるを得なくなる。日本には、他に借金に対する見返りとなるものがなかったからだった。海軍はある程度健在だったが、それも動かすお金があってはじめて意味のあるものなのだ。
 ただし、欧米列強の植民地や半植民地になることだけは、断固としてさける方策は懸命に行われた。イギリスやアメリカも、今更近代化、国民国家化の進んだ日本をチャイナのような状態にする気はなかった。安定した橋頭堡と同盟国は、相手が強すぎず相応に弱い方が使い勝手が良かったからだ。


●フェイズ3「ロシア勢力下の北東アジア」